Chapter 1 『白瀬 由衣』
Chapter 1 『白瀬 由衣』
白瀬 由衣の朝は七時から始まる。スマートフォンのアラームを十分毎に二度ならし、カーテンを開けて横たわる身体に満遍なく朝日を当てる。それから大きく伸びをして、ヘッドボードに置いた写真に声をかけた。
「おはよう、ちぃ」
『ちぃ』というのは去年まで一緒に暮らしていた猫のことだ。白瀬の家は広いとは言えない一戸建てで、部屋数も限られていたけれど、その中でも『ちぃ』は白瀬の部屋を気に入っているようだった。朝起きれば隣で寝ていることがほとんどだったし、寝る時は同じ枕を使った。だから、彼女が亡くなって一年が経とうとしている今も、朝の「おはよう」と寝る前の「おやすみ」は白瀬の日課——————というよりは癖だった。
リビングに出て、顔を洗う。それからパンを焼き、バターを塗って、テレビの音声を聞き流しながら朝食を済ませる。白瀬が高校に入学してから母は町役場に勤め始め、両親ともに朝からいないことが多くなった。少し寂しい気もするけれど、朝が早いためか帰宅も早いので、さほど気にはしていない。
着替えを済ませ、歯磨きをしながら髪を結い、軽くチークを入れる。高校生になって1年も経てば慣れなかった化粧も様になってくるもので、部活動の後輩にも美容品の紹介を気兼ねなくできるようになっていた。この変化は白瀬自身が一番驚いたし、中学生の頃の自分では想像もつかなかった出来事だろう。
思えばこの一年間でいろいろな変化があったな、と飛び出た寝癖をどうにか伸ばしながら白瀬は考える。何より愛猫を失ったことは大きかったし、朝から母親がいないというのも未だ新鮮だ。学校が変わり、人間関係も大きく変わる中で、自身の変化に戸惑ってさえもいる。好ましい変化もあれば、悲しい変化もあった。やはり一年という単位は膨大だ。
けれど、そんな目まぐるしい一年を経ても変わらないものだっていくつかあった。お気に入りの音楽。春の匂い。そして何より。
不意にインターホンが鳴った。
「はーい」
洗面所から顔を出して直接玄関に声をかけ、そのまま時計を見やる。約束通りの時間だ。鞄とスマホを手に取り、ローファーのつま先を蹴って合わせながら、扉を開けた。
陽が直接顔に当たって軽く目眩く。
「おはよう、白瀬」
見慣れた顔。高校生になっても声変わりはしていないようで、童顔と相俟って幾分かは幼く見える。
「おはよ、日向」
黒縁 日向。小学生からの幼馴染で、同じ高校に通っている。クラスは違うけれど、同じ部活に所属しているから学校でも顔を合わせることが多い。家が近いこともあって、気が向けばこうして一緒に登校していた。
白瀬の暮らしている北湘街は、陸の孤島とも言えるような、盆地に存在する街だ。高く聳える山々は上空から見下ろせば三日月のような形になっており、ちょうど欠けた部分を結ぶように浜辺がある。外とは道路や船で繋がっているけれど、学生が手を出しやすい山岳鉄道という手段でさえ片道三十分以上はかかってしまう。とはいえ、街には中学校が二校、高校が一校あるほどで、集落全体を見れば小さいとは言い難く、買い物はネットショッピングで済ませてしまうことが多いので、山の外に用があること自体少ないのが現状だ。もちろん学校にいれば毎日愚痴の一つは聞くけれど、白瀬はこの街をそこそこ気に入っていた。
そして、その学校というのは、この街の唯一の高等学校であり、白瀬の最も気に入っている場所でもある。名を、北湘高等学校という。
北湘高校は白瀬と黒縁の住むところから歩いて十分あたりのところに位置し、街の北側の小丘の上にある。校舎は四階建てで、屋上はもちろん、教室からでも海が見えるほどには展望がいい。唯一の高校ということもあり、高校に進学するに当たってこの街から出て行く学生も多いけれど、選んで入学する学生もそれなりに多い。白瀬も黒縁もその一人だった。
二人並んで通学路を歩いていく。白瀬は女子の中では比較的身長が高いけれど、それでも黒縁のほうが少し高い。こうして並んで歩いているのは黒縁が歩幅を合わせてくれているからで、それは幼い頃から変わっていなかった。
「莉江さんはお仕事?」
「うん。ママは明日まで連勤だって」
並んで歩く二人をスーツ姿の男性がすれ違う。ビジネスバッグと靴の艶を見るにおそらく新入社員だろう。この時期はどこの職場も忙しくなるものだ。
同じことを考えたのだろう、黒縁が問う。
「そういえば、部活に知り合いは来た?」
「来たよ。三人くらいかな。トランペットは一人だったけどね」
白瀬は吹奏楽部に所属している。四月の初め、体験入部も始まっていない状態の部活動に来る一年生というのは中学校からの顔馴染みくらいだ。
コンクールではなく、定期的にある街の演奏会に向けて練習を行なっているようなこの部活においてそれを咎める者もいなかった。
「日向のほうは?」
「一人だけだったよ」
黒縁は地理研究部———学生からは地研と呼ばれている———に所属している。現状、部員数は三年生と黒縁の二人で、白瀬と黒縁の部活が同じというのは、このままいけば人数不足で廃部というところを白瀬が吹奏楽部と兼任することで回避していたためだ。
「その後輩も知り合いがいるらしいし、とりあえず僕らがいる間は廃部の心配は必要なさそうだよ」と彼が続けた。
地研は地形やその土地の歴史、そこにまつわる伝説や伝承について研究する部活だ。黒縁はこの街の、特に灯台の魔女について調べているらしい。
「そういえば、一年生もあの噂のことを知ってたよ」
「灯台のこと?」
「うん。小さいころに何度か願いを書いて投函したこともあるみたい」
「願いは叶ったのかな」
「どうだろ、そこまでは聞かなかったな」
「なるほど」と黒縁が顎に手を当てた。この癖も小さな頃から変わっていないな、と白瀬は微笑む。
二人の足音はたまに重なり、また外れる。足の長さも歩幅も全く異なるけれど、それでも肩を並べて歩いて行く。小さな頃から変わっていない。小さな頃から変わらないことを、白瀬は変わらずずっと眺めてきた。
そんな彼との関係について問われたとき、白瀬の答えは決まっている。
夢の続きを見ました。もちろんここまでのストーリー性はありませんが、できるだけ近づけられるよう努めました。あの時感じた匂い、音、空気の味。それを全てお伝えすることは叶いませんが、少しでも感じていただければ嬉しいです。
あなたの一言をお待ちしています。




