大和ふみか 皐月
自宅と、その最寄り駅との間に、小さな書店がある。どこにでもある、古い二階建ての一軒家に「石上書房」という看板を立てかけた個人経営の店だ。アルバイトとして宣伝させてもらうが、再来年で六十周年を迎える。地元では、古株に部類されている所といえるだろう。
「長いお休みだってのに、どこにも遊びに行かないのかい。毎日出てくれるなんてさ」
布はたきを振りながら、おじいさん店主が不思議そうに訊ねる。そのかたわらで、今日仕入れた本の最後の一束を解き終えた店主の奥さんが、
「もったいないよ、ふみかちゃん。大学生なんだから、こんなちっぽけな店手伝いにいくより、旅行していろいろ経験積んでおかなくちゃあ」
「いや、本当、特にやることないんですよね」
会計台に座らせてもらっていた私は、正直な気持ちを口にした。何も予定が入っていないし、家にいたところで、雑用をやらされそうだし、本がたくさんあるここでなら、手が空けば好きなだけ読ませてもらえる(商品といっても、買われるのは雑誌の最新刊がほとんどだもの)。とても幸せなことだ。
「さて、私はこっちの整理をしますか」
会計台の周りに平積みされた本を、部門ごとに配列する作業を始める。一応、仕事らしいことはしているのだ。老夫婦が営むこの本屋は、大繁盛しているわけではない(昔はひっきりなしにお客さんが来ていたものだと店主談)が、閑古鳥が鳴いているわけでもなく、一日に四、五人入ってきて、うち二人が購入していく、という感じでそこそこつぶれない程度には稼げている。来店する時間がまばらなおかげで、内での作業がはかどっている。
「なんだ、これ?」
先週は置いていなかった文庫本が、私の目に止まった。長いこと日に当てられていたのだろうか、題名が薄れて読めない。頁が破れぬよう優しく中をあらためると、『愛しき人に捧ぐ萬葉集』と記されてあった。作者は……安達太良弓弦。ん? 「安達太良」って……。
「それ、気になるならもらってやっとくれ。売れ残りだからさ」
私の様子に気づいた店主が、声をかけてくれた。
「あ、あの、この本の作者なんですけど」
「安達太良先生だろう」
「はい。たまたま大学に同じ名字の先生に、萬葉集を教わっているんです」
そこに奥さんが、一服、一服、とお茶を運んできた。
「ふみかちゃんの、担任の先生だったかね。安達太良まゆみ先生」
冷めないうちに、と湯呑みをすすめられ、皆で一口いただく。ちょっとぬるいなあと思っていると、「玉露だからね」と奥さんがのんびりした調子で教えてくれた。
「同じ名字なら、親族じゃあないかね。珍しい名前だしな」
店主が、お茶請けの塩昆布を数切れ取って言った。私もつまんで、放り込んでみた。酸っぱさがほんのり混じっただしが、のどを過ぎていく。
「この弓弦先生は、残念な最期だったそうだな。漢学の専門で、萬葉にもお詳しい。当時にしては、新しい考え方の面白い学者さんであったそうな」
「残念な最期?」
店主が、渋そうな顔をつくった。
「まだまだこれからだって年で、心を病んで亡くなったらしい」
「新聞にも載っていましたよ。五十八歳で、精神衰弱で急逝されたって。奥さんとお嬢さんたちを遺してねえ……」
奥さんが、店主の湯呑みに二杯目を注ぎながら、遠い目をして言った。
「ふみかちゃんを教えている先生は、安達太良先生のお子さんかもねえ」
「そうですか……」
安達太良弓弦、安達太良まゆみ。両方の名前が、頭の中で繰り返される。もしも、まゆみ先生と、弓弦さんが親子であるならば、親を突然失う気持ちって、どのようなものだろう。私の親との年の差を基準にしたら、弓弦さんが亡くなった時はまだ、まゆみ先生はまだ大学生ではないだろうか。まだまだ、教えてもらいたいことがあったのに、早くに別れが来てしまうなんて。
「ふみかちゃん、父さん母さんとの時間は、大切にするんだよ。若いと、うっとうしく思うこともあるけれど、いなくなった後に、もっとああしてやれば良かった、と悔やむことになる」
奥さんの言葉に、やっと我に返った。あと一歩で、想像を巡らせすぎて今日明日親と二度と会えなくなってしまうんじゃないかという不安に襲われるところだった。
「はい、大事にしますよ」
帰ったら、久しぶりに私から親にしゃべってみようかな。何でもいいだろう。そうだ、今、勉強している歌について、話してみよう。