童話:風のハープ
昔々、あるところにとっても腕のいいハープ職人のおじいさんがいました。町から町へ旅をしながら歌を唄って聞かせる吟遊詩人たちは、みんなおじいさんのハープを欲しがりました。楽しいときには楽しい音色を、悲しいときには悲しい音色を思いのままに奏でることができたからです。
でも、おじいさんはもう年を取りすぎていました。木を削りながら、これが最後の子どもになるって思っていました。ハープ作りに熱中しすぎて、おじいさんは結婚もせず、子どももいなかったので、ハープを子どもだと思うようになっていたんですね。手が震えて、目もかすむことが多くなっていましたが、なんとかしてこれだけは完成させたいって思っていました。
「これが完成できるなら、命などくれてやる。……神様お願いです。これを完成させてください。もししてくるんなら、たとえ悪魔でもかまわんぞ」
「本当かい?」
かわいい声が聞えました。おじいさんは空耳なのかなって思いました。だって、小さな工房兼住まいの家には誰も見当たらなかったんですから。また、のみを持って仕事を始めようとすると、また声が聞えました。
「こっちだよ。……さっきの本当かい?」
目を上げると、いろんな道具が置いてある天井近くの棚に小さな男の子がちょこんと座って、足をぶらぶらさせていました。
「どこから入って来たんだ?」
「ぼくは悪魔だから、どこからでも入れるんだよ」
「……ほう、そうなんだ。じゃあ、翼やしっぽはどうした? 忘れたのかい?」
「今は人間の子どもの格好だから、ないんだよ」
「悪魔にしてはずいぶんかわいいね。だが、悪いな坊や、今は忙しいんだ」
「かわいい? 忙しい?」
からかわれているのがわかって、ほっぺたをふくらませました。男の子になっているので魔術も使えず、それしかできなかったんですね。
「でも、明日の朝には死神が迎えに来るんだよ。おじいさん、それを仕上げたいんだろ?」
「そうだよ。……明日の朝じゃ間に合わん」
「だったら、ぼくと取り引きしないか?」
「悪魔と取り引きか。それもいいかもしれんな」
「じゃあ、決まりだ。朝が来るまでは、おじいさんが若いときのような体にしてあげる。その代わり……」
「わかっとる。これが完成できるんなら、魂なんぞ、おまえにくれてやるさ」
おじいさんはその子の言うことを信じたわけでもないんですが、これ以上、仕事の邪魔をされたくないので、そう言いました。すると、男の子はにっこり笑いました。
「どんなハープにしたいんだい?」
「わしはこれまで数えきれんほどハープを作ってきた。いつも思っていたのは、ハープを奏でる者の心がそのまま表われるようなものにしたいってことだ」
「そのまま表われるもの?」
「子どもにはむずかしいか。……心にはいろんな風が吹いている。その風が聴く人の心にも吹くようにってことだ」
男の子はこくんとうなずくと、すうっと消えました。すると手の震えも止まり、目の前のヴェールのようなものも消え、節々の痛みもなくなりました。おじいさんは作りかけのハープにかがみ込むと、のみを素早く動かし始めました。……
完成したハープに朝の陽射しが当たったときには、おじいさんは眠るように死んでいました。微笑みを浮かべながら。
そのハープはおじいさんの望みどおりのものになりました。
最初に持ち主になった吟遊詩人は春のような心を持っていました。だから、冬でもその音色を聴いた人たちは、花を咲かせる春の風が吹いてきたと思いました。あたたかい気持ちになり、ほっとしてこっくり、こっくり眠ってしまうのでした。
次の持ち主は夏のような心を持っていました。そのハープを聴く人には木陰に誘うような夏の風が吹きました。みんな外套を脱ぎ捨て、陽気に踊り出してしまうのでした。
そのまた次の持ち主は秋のような心を持っていました。だから、昔のことを思い出させるような風が吹きました。もの思いにふけった人たちはなつかしい人のことを想って、涙を流しました。
四番目の持ち主は冬のような心を持っていましたから、すべてのものを凍りつかせるような風が吹きました。その音色を聴いた人たちは体を丸くして、歯をガタガタさせてしまうのでした。
その次の持ち主には心がありませんでした。だから、なんの風も吹きませんでした。とても上手なハープ奏者だったんですが、聴いた人たちは何も感じなかったので、地面に置かれた帽子におカネを入れる人はいませんでした。
いつも貧乏で、そのため奥さんに愛想をつかされ、逃げられてしまっていました。残された小さい男の子を連れて、町から町へとさまよっていました。わずかなおカネをお酒に変えて、愚痴ばかり言うようなすさんだ毎日を送っていました。そのおカネも男の子が酒場のお使いをしたり、お菓子を町の広場で売ったりして稼いだものでした。
「おれはこんなことをしている人間じゃないんだ。そうさ、お城で宮廷楽長さまになって楽団を指揮してたっておかしかないんだ。それがあいつとくっついて、おまえができちまったから、こんな目に。……いや、今だって立派なもんなんだ。おれと、このハープならな。だのにこんな田舎じゃ誰も音楽がわかっちゃいない」
いっしょに安くて強いお酒を飲んでいた行商人は、繰り言に聞き飽きて居眠りを始めてしまっていました。固いパンと薄いスープだけの夕食をすませた男の子は申し訳なさそうにうつむいて座っていました。酔いつぶれた父親を抱きかかえて、今夜の宿をどうやって探そうかと考えながら。
ある日のことです。小さな町で、いつものようにハープを奏でながら歌を唄っていましたが、集る人も少なく、帽子の中には初めから入れてあるコインしかありませんでした。男の子もお店からお店へと何か手伝わせてくださいとお願いして回りましたが、どこからも相手にしてもらえませんでした。これではお酒どころか食事もできません。もう春が近いとは言え、野宿するにはまだ寒いでしょう。
「おまえ、さっき通ったパン屋でちょっと失敬して来い」
男の子は心臓が飛び出しそうになるほど驚きました。
「おれの外套を貸してやるから、それに隠して、知らんぷりして出てくりゃいいんだ。だいじょうぶだ。うまくやりゃあいいんだ」
息子に外套を着せ掛けると小さな背中をぽんぽんと叩きました。仕方なくとぼとぼと通りを歩いていく男の子は大きな外套を着せられて、よけい心細そうに見えました。……
父親が駆けつけたときには、もう男の子は息を引き取る寸前でした。パン屋を出るときに丸いパンを落としてしまい、通りでパン屋のご主人にさんざん殴られたあげく、腹を蹴られて転がっていって、向かいのおもちゃ屋の石の壁に頭をぶつけてしまったのでした。
「お父さん。ごめんね……」
父親の腕の中でそう言って、男の子は死んでいきました。これからは自分一人かと思いましたが、それほど悲しいとは思いませんでした。だって、その吟遊詩人には心がなかったんですから。
それから何週間かして、別の町で昼間から教会前の広場で酒を飲んでいました。厚い雲の合間から陽が差してきました。
「おい。酒がもうないぞ」
息子がいるつもりで言ってしまったことに気づき、苦笑いをしながら首を振ると、ハープにあたたかい陽が当たってきらきらと輝いているのが目に入りました。なぜだか自分でもわからないのですが、何十年ぶりかで涙があふれて来ました。
悲しくもなく、息子がかわいそうだとも思っていないのに、涙が止まりません。落ちた涙がハープの弦をかすかに鳴らしました。ぽん、ぽん。その音に誘われて、続きの音を探すように奏で始めました。誰に聞かせようということもなく。……
広場を行き交う人が集ってきました。なんて楽しい曲なんだろう。春のやわらかな陽射し。心を浮き立たせるような春の風。窓を開けて二階や三階から聴き惚れている人もいます。なんて幸せな気持ちにさせる音楽なんだろう。この音が春風を呼んだんだ。恋人たちが肩を抱き合って、微笑みを交わします。老夫婦がうやうやしいお辞儀をし、手を取って踊ります。
しかし、吟遊詩人は周りのことなどおかまいなしにハープを奏で続けます。音が次の音を求めます。いくら飲んでも喉の渇きがいえないように。弦が一本、また一本と切れて、音がしなくなっても心の中で音楽は続いていました。……
夕陽が沈み、もう誰もいなくなった広場で、たった一人になっても音のない演奏は終わりませんでした。
次の朝、冷たくなった男を早起きの老人が見つけました。
「昨日の吟遊詩人じゃないか。……まるで眠っているようだ。微笑みまで浮かべている」
老人はそうつぶやいて周りを見回しましたが、どこにもハープは見つかりませんでした。そう、どこにも。