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曇天の娘

作者: 甲斐桂

 十六歳の誕生日、ラシは側近の目を盗んで、城壁の上に立った。

 見慣れた雲の下、少女は湖水の輝きとうたわれる青い眼を布で覆い、吹きすさぶ風にかまうことなく一歩踏みだした。

 一歩、また一歩と城壁の上を進み、両手をのばす。

 両手はむなしく空ぶって、少女の唇から乾いた笑い声がほとばしった。

 悲鳴があがる。

 次いで、規則正しい足音が近づいてきた。笑いとも嘆息ともつかぬ息を吐き、ラシは足もとの城壁を蹴った。

 ……直後、あたたかいものに受けとめられ、期待したほどの落下はない。

「お外ししますか。それともこのままおいでになりますか」

 少女を抱きとめた男の、静かな声。

「外して、トラーイル」

 男は少女を立たせて、目隠しの布に手をかけた。

 ほどなくして、無感情な黒い眼が、少女のまえに現れる。

 少女は男の腕をすり抜けた。姫さま、おぐしが、と女たちが追いすがってくる。

 風になぶられた亜麻色の髪は、つい先ほど女たちがまとめあげたものを、今は無惨なありさまだった。


 曇天の王国シセラの王女ベララシは、十六歳の誕生日を迎えた。

 その日、王宮の門には求婚者が列をなし、王女の成人を祝うべく集まった。

 シセラは、かつてその始祖が、禁忌のわざを用いて子孫へと受け継がれる美貌を手に入れたのだと噂されていた。夭折した国王夫妻が残した一人娘ベララシも、噂にたがわぬ容姿と、湖水の輝きとうたわれる深い青の眼で知られていた。

 一年を通して雲に包まれるシセラ、多くの者が黒い髪と眼をもって生まれてくるシセラにおいて、王女はあたかもひと粒の宝石のようだった。

「第一王女ベララシ殿下、ならびに摂政閣下」

 先触れのトランペットが鳴り響く。

 真紅の絨毯を夫婦のように歩く若き王女と摂政は、歓呼の声に迎えられ、するりと別れた。

 次々に腰を折る王侯貴族の群れを、青い眼が見渡した。

「姫君。お祝い申し上げます」

「ウィダーリア伯、今宵の目付役はあなたにお任せしますわ。教えてくださらない? いったいどの殿方が、わが王国の後継者にふさわしいか」

「そして、地上と天上の宝石たる貴女を獲得するにふさわしいかですな。身に余る光栄、老体が震えます。元々かもしれませんが」

 巻き起こる笑いのなかで、王女は白い手を老伯爵に委ねる。

 花嫁の父に任命された老人は、恭しく手を引いて、列をなす貴公子たち一人ひとりに引きあわせた。公爵、侯爵、花咲ける王国の王子、氷の王国の王弟。いずれ劣らぬ美丈夫たちが引きだされてきたが、王女は銀の扇のかげに青い眼を隠してほほえむばかり。

 誰が王女のめがねに叶うのか、あるいは密かに側近の心は決まっているのかと、腹を探り目配せしあう男たちは、やがて壁ぎわの男のもとに詰めかけた。

「摂政閣下のご存念を、お聞かせ願いましょうや」

「私の使命は、姫君が優れた王女となって立たれること。姫君のお心はご自身でお決めになる。

 みなさまはいずれも立派な貴公子であらせられるが、見知らぬ顔と名前をいたずらに陳列されたところでお心は動きますまい。ひとつ、姫君がみなさまを知るよすがとして、みなさまが姫君を知るよすがとして、ご一緒に踊られてはいかがですか」

 摂政たる青年が合図すると、ワルツが流れはじめた。

 さあ、と手をさしだしながら、青年は貴公子の一群に近づく。人垣の中心、老伯爵に手を委ねていた娘は、皺だらけの手からその手を抜きとり、

「トラーイル」

 群れのなかから、青年を手招いた。

 見る者はとっさに道を譲った。のばされた手をとり、青年は少女の腰を引き寄せる。

 静かな黒い眼が、少女をとらえた。

「髪飾りはどうしました。せっかく結いなおしたものを」

 女たちによって再度まとめあげられた亜麻色の髪は、何の装飾品もまとっていない。青年はそれを見咎めた。

「青い宝石はいや。わざとらしいもの」

「祝宴にしてはいささか装いが地味ですね」

 トラーイルは従僕に合図を出し、広間のそこここを飾る花の一本を持ってこさせる。茎を折り捨て、赤い花弁のそれを少女の髪に挿した。そして、右から左から少女の容貌をあらためた。あたかも宝石を愛でる商人のようだった。

「いいでしょう」

 それでは、と言うと、青年はラシとともに回った。

 少女の青いドレスの裾が、石造りの床に鮮やかな弧を描いた。鳥の声を思わせる笛の音が、少女のステップを誘い、少女の靴は軽やかに旋律を追いかけていく。

 青年の手は少女の自由を損ねない。彼女の望むように跳ねさせ、駆けさせ、回転させる。

 回り、回る、回り、回る。

 王侯貴族が見守るなか、王国唯一無二の王女たる少女と、その両親から彼女を託された青年は、回りつづけた。

 永遠かのように思われたひととき、

「準備運動はここまで」

 まずはリンデン侯、いかがですか。息も切らさず、青年は彼女を求婚者のひとりに引きあわせた。

 名指しされた貴公子は驚いたものの、なめらかな動きで相手を乞う。王女は摂政を目で追いかけたあと、すぐに目の前の正しく資格ある求婚者に礼を尽くした。摂政たる青年は足早にその場を離れると、元いた壁ぎわにおさまった。

 リンデン侯とラシは広間の中央に出ていった。

「わたしは踊りが大好き。貴方は?」

「殿下がお望みであれば、いくらでも」

「本当に?」

「これほどの観衆の前で、偽りは申し上げかねます。目付役殿や摂政閣下に見抜かれてしまいますし、すぐに馬脚をあらわすことになるでしょう」

「貴方はそうではないと?」

「そう願います」

「では、ご一緒してくださいます?」

 喜んで、と貴公子が答えるが早いか、ラシは手を離した。

 呆気にとられるリンデン侯のまえで、ドレスの裾をたくしあげ、きゃしゃな両足首を衆目にさらす。目を剥いたのは、今宵の目付役たる老ウィダーリア伯だ。

「ごめんあそばせ」

 言い放つと、王女は靴を床に叩きつけた。この場に流れる優雅な音楽とは似ても似つかぬ、加速するステップ。

 楽隊は自然な流れでワルツを締めくくると、王女の足どりに合わせて、新たな曲を演奏しはじめた。配偶者探しの宴にふさわしいとも思われないが、軽快な舞踊曲だ。

 拍に合わせて楽隊が足踏みする。列席者はそれに誘われて手を叩いた。足踏みと拍手とで囃し立てられる中心に、湖水の輝きをもつ少女と、彼女の今宵最初の——摂政を除いてだが——相手であるところのリンデン侯がいる。

 貴公子はためらったが、逃げるわけにもいかない。拍を数えて、なんとか踊りの中に飛びこんでいく。

 ステップとステップが掛けあう。一方が誘い、一方が追う。しかし誘っておいて逃げる。観衆から笑いが起こった。

 リンデン侯は焦ってそのまま拍を見失い、転倒した。少女は高く笑った。

「失礼。どなたかお助けしてさしあげて。他のみなさまは続けましょう。バルバロッサ公、貴方はいかが?」

「わっ……私ですか?」

 動揺する若者を、いいから行け、と父親がたきつける。

 あわてて転がり出てきた若きバルバロッサ公の手を、待ちかねたようにラシがとった。これもまた、目付役の老伯爵には信じがたい「姫君らしからぬ」行為であり、今にも卒中を起こしかねない顔色になったが、ラシは見ていない。バルバロッサ公を引っぱりだすと、そのままの速度で踊りつづける。

 青年も踊りはじめたものの、あまり得手ではないらしく、速さについていけていない。必死に追いつこうとしたが、着地すらおぼつかぬありさまで、見かねた父親によって王女から引き離された。

 では次、とばかり青い眼が見渡すと、すかさず飛びこんできた者がいたが、本人が思うほどの実力はないらしく、ややあって踊りの輪を追われてしまった。

 しばし、貴公子の誰かが飛びこんでは、踊りが拙いために追われるか、我こそはという他の者にとって代わられるかという攻防が続いた。

 一人の手をとり、また次の一人の手をとりしているあいだ、ラシは絶えずステップを踏みつづけていたが、やがて繰り返される戦いに飽きた。

 手をあげ、楽隊に合図を出すと、音楽を加速させた。そしてそれは、周囲が疲労困憊した若者ばかりになるまで繰り返された。唖然と見守るのは、年老いた男たちと、女たちである。

 ラシは笑い声を放ち、高速の舞踊曲でひとり回転する。

 回り、回る、回り、回る。

 両手は勝利を宣言するかのように天井にむかって掲げられ、足は小刻みにステップを踏みつづける。

 これで最後とばかり彼女が回ったとき、その手をとった者がいた。

 ラシは彼を見た。疲労困憊した求婚者たちも、その人物を見やった。見守る者たちも、また。

「どこに隠れていらしたの? 初めてお目にかかる方ね」

「まだ宴はお開きではないかと。お相手願いましょう」

「どなた?」

「私が貴女に勝利することができたとき、この名を覚えていただきたく」

「無欲なのね。わたしの王国を賭けてもいいのよ」

「そのようなことはとても」

 型どおりに答えながらも、青年の態度は不遜だった。

 ラシを何とも思っていないことは、明白だった。ラシの禁忌のわざによる美貌も、どうでもよいことにちがいなかった。

 ただ、結果のみを求めて、この場にいる男だった。会話を続けつつも、男は乱れのないステップを踏む。

 ラシを引き寄せ、男はささやいた。

「賭けをする必要はない。そうではありませんか? 貴女と王国は、この場の勝利者のもの。なぜなら、貴女は王国の娘なのですから。

 ひとりの娘である以前に、王国の娘。貴女はそのように育てられた」

「わたしのことをよくご存じなのね。わたしよりもご存じなの?」

「おそらくは」

「なぜそう言えるの?」

「私は貴女と同じものですから。しかし貴女とちがって、自分を知っている」

 青年は、最後まで踊りきった。

 数多の求婚者たちの嘆息とともに、祝宴の夜は果てた。


 天空の王国マタンジュの若き王クリーヴァは、はるかな大地の途切れるところ、奈落へと注ぎこむ滝のむこうからやってきた。

 呼び名のとおり、かの王国は大地ごと宙に浮かんでおり、地上の呪縛から離れられない他の国々を見下ろしていた。かつてその始祖が、いくさを嫌った末に禁忌のわざを用いて大地を切り離したのだと噂され、古来、地上の国々との関わりを絶ってきた。

 ところが近年、若き王クリーヴァが即位すると、再びマタンジュの人々は大地に降り立った。その大地は天空に浮かんだまま、あたかも天使が降臨するかのように。

「必要なのだ、マタンジュのために。新しい血が」

 若き王は、やわらかな寝台に沈みながら言った。

「それは王族の使命ね。わたしも同じ」

 かたわらには、湖水の輝きとうたわれる青い眼の少女がいた。その両眼で、自身と王国の所有者となる男を見据えていた。

 少女は、はだしのまま寝台から下りた。肩に寝衣をかけ、両手をひろげてくるりと回る。薬指には、真新しい銀の指輪が光っていた。

「でも、貴方の王国はその使命を放棄してまで、いくさから逃げたのだと思っていたけれど」

 少女はくるくる回りながら、戯れ言めいた。けれど、

「そのとおりだ」

 と、若き王は答える。

「? 噂でしょう」

 少女は、思わず寝台を振り返った。口もとには、侮るような笑み。

「あれは伝説よ。眉唾ものの。まさか貴方、信じているの?」

 クリーヴァは笑わなかった。ラシの口もとから、笑みが消えた。

「まさか本当に?」

「現に、禁忌のわざの代償をマタンジュは支払った。今も支払いつづけている。大地を宙に浮かせるほどの禁忌のわざとは、そういうものだ。失ったものは、決して戻らない。

 そうまでしていくさを忌避することで、却ってマタンジュは滅びの道に近づいた。新しい血が入らないということは、そういうことだ」

「いったい何を失ったというの?」

 ラシの問いに、男は答えなかった。

「……それではわたしは? わたしのシセラは?」

「美しい」

 男は、少女の腰を抱き寄せた。

 ラシは小さく悲鳴をあげたが、夫となる男の冷たいまなざしは変わらない。男は、ラシの顎を指でもちあげた。

「少なくとも、美しいということはわかる。それだけは言える」

 色のない眼が、少女の目の前にあった。その眼の中に、少女自身の青い眼が映っていた。

「貴方には、わからないみたい」

「人の心が安らう広大な湖の色、晴れた日の空を映す湖水の色。この曇天の国にはないものだ。だからこそ、ひと粒の宝石には価値がある」

「貴方にとって価値がなくても、貴方はわたしをほしがるの?」

「ほしい」

 男は一切、笑わなかった。

 情熱もなく、執着もなく、愛情もなく。男の言葉は、底知れぬ空洞だった。

「この大地で価値があるとされるものをこそ、王者は求める」

「そんなことのために?」

「ひとりの娘として、これほどの不幸はないだろう。しかし、おまえは王国の娘。おまえの王国もまた、禁忌のわざの代償を支払いつづけている。曇天の王国の娘ベララシ、わが妻よ」

 少女の青い眼が、きらめいた。

 夫になる男の眼に、光はない。男の眼は、光を映すだろう。けれど男にはきっと、光を光とわからない。

「貴方のいうとおり、わたしは王国の娘。王国の娘としてしか、生きられない」

 ラシは、男をまっすぐに見た。

「その代わり、教えて——わたしはわたしを知りたいの」


 ずっと、ラシは自分の青い眼が気に入らなかった。

 曇天の王国におけるひと粒の宝石とたたえられることも、湖水の輝きとうたわれることも、ラシにはどうでもよいことだった。

 禁忌のわざにせよ、単なる家系上の特徴にせよ、偶然与えられたものにすぎない。そんな少女を褒めそやし、少女の夫の座と王国という持参金をめぐって争う人々は、滑稽だった。

 彼もまた、ラシに与えられた多くのもののひとつだった。

 トラーイルは、亡き両親がラシのために連れてきた。そのころも彼は変わらず無感情な黒い眼をして、幼いラシのまえにいた。

 得体のしれない青年をラシのもとに残して、国王夫妻は姿を消した。ラシは、王宮の中で両親のおもかげを探して、探して、探しまわった。しかし、懐かしいふたりの姿はどこにもなく、あるのはあたたかみのない黒い眼だけだった。

 青年は言った。ラシの両親は死んだのだと。代わりに青年が、ラシをあらゆる苦難から守ると。ラシがいつか立派にシセラの王女となり、王国という持参金とともに伴侶に嫁ぐその日まで。それが、ラシの両親と交わした契約だった。

 もちろん、突然現れてわけのわからないことを言う青年を、ラシは信用しなかった。青年は、お世辞にも愛想がよいとはいえず、小さな娘の歓心を買うことに長けてもいなかった。

 しかし、国王夫妻の遺言ゆえ、王宮はトラーイルという青年を受け入れざるをえなかった。青年の示した契約書が期限つきのものであったことも、野心ある宮廷の人々をかろうじて納得させた。青年は王女が婚礼を挙げるその日に王宮を去る、というのが契約書の最後の一文だった。

 だが、幼いラシにとって、いちばん身近にいる人物を信用できるかどうかは、王国の運命よりもはるかに重大な問題だった。

 ラシは、ありとあらゆる方法で青年を試した。食事を拒否する。調度品を壊す。家庭教師に対する悪質ないたずら。トラーイルは、たいていのことには顔色を変えなかった。

 ただ一度、城壁の上を歩いたときを除いては。

 報告を受けた青年は、色をなして駆けつけた。城壁の上のラシを抱きおろすと、そのまま放さなかった。

 女たちが彼をたしなめるまで、青年は娘を抱きしめていた。ラシは、青年の腕のあたたかさを、そのとき知った。

 なんの感情も宿していないかのような黒い眼が、ときに揺らぐということも。

 次の日、ラシは目隠しをして城壁の上を歩こうとした。もはや、青年は表情を動かすことはなかった。けれど、娘ののばした両手を、青年はとり、そのまま城壁の上を導いていった。

 どこまでも、城壁の続く限り、手を引かれるまま、幼いラシは歩いていった。

「おろして、トラーイル。これとって」

 気がすむと、ラシは手短に命じた。摂政たる青年は従う。目隠しの布を外すと、静かな黒い眼が彼女の目の前にあった。


「トラーイル?」

 ラシは、扉をあけた。

 そこには、誰もいなかった。王国の摂政の自室とは思えない、小ぢんまりとした質素なしつらえの部屋である。調度品もごく最低限のものしか揃えておらず、王侯貴族であれば牢獄と思ってもおかしくない殺風景さだった。

 ラシは幼いころ、この牢獄で寝起きしていた。どんなに見事な調度品が揃っていようとも、両親を失ったばかりの小さな娘はひとりで眠ることができなかった。

 一緒に寝て、という命令を、幼い王女は下し、摂政たる青年は拝命した。

 命を落とした国王夫妻に代わり王国の運営を一手に担った青年は、自室に戻るのが深夜になることも多かった。どんなに遅くなっても、ラシはトラーイルの寝台で青年を待った。ときおり先に眠ってしまうこともあったけれど、懸命に目覚めていようとしたものだった。

 十歳の誕生日を迎えた朝、青年は今後は自室で眠るようラシに指示した。誕生日を迎えるたび、ラシにはうれしくないことばかり起こる。

 何も知らずにこの部屋で眠っていたころが、いちばん幸福だった。知ったとき、傷のない幸福の時代は去った。

 少女は、トラーイルの寝台に身を投げる。子どものように丸くなって目を閉じた。


 旅立ちの日の朝、曇天の王国シセラは変わらぬ曇り空の下にあった。

 城門に、花嫁衣装の王女が立つ。

 これから、大地の果て、天空へと、王女は旅立つ。その唇はほほえみをのせ、しかし、湖水の輝きとうたわれる青い眼は布で隠されていた。何も知らない見送りの人々は、王女の姿に首をかしげた。

「お外ししますか。それとも、このままおいでになりますか」

 摂政たる青年は、いつもどおり淡々とした口調で尋ねる。

「このまま行くわ」

「承知しました。ではお手を」

 さしだされた白い手を、青年は引いた。

 少女が石畳に足をとられることのないよう、ゆっくりと、青年は導いていく。少女はすべてを青年に委ね、何も恐れることなく歩いていく。

 王女を迎える馬車に花婿の姿はない。花婿は天空の王国で待っている。ともに旅立つ女たちが、馬車の扉をあけて王女を迎え入れた。

 目隠ししたままの王女を、女たちに引き渡すと、青年はするりと馬車を離れた。

 扉は閉ざされ、王女と王国を讃える声が響いた。


 ***


 トラーイルは自室に戻った。

 王女が昨夜ここで眠りについたことも、彼は知っていた。知っていて帰らなかった。それは、契約の外のことだったからだ。

 だが、もしも、それが契約に含まれていたなら——。埒もない想像に、青年は口の端をあげる。

 それは、絶対にありえない「もしも」だった。最初から、青年はこの旅立ちの日のためだけにつくられたのだから。王女はこの日のために生まれ、青年はそれを助けるためだけに生まれてきた。

 曇天の王国シセラを襲った未曾有の危機に、若き国王夫妻はその身を賭して王国を守った。

 ほどなくして奪われる運命にあった自らの命を、夫妻は禁忌のわざの代償として使った。自分たちが守ることのできなかったひとり娘を、代わりに守り抜くための存在をつくりだしたのである。

 国王夫妻の死によって王国は守られ、ラシを守るためにトラーイルがつくりだされた。

 ひとり残されたラシが成長し、王国という持参金つきの花嫁となって王宮を去るとき、トラーイルの使命は終わる。最後に決定的に機嫌を損ねたのだろう王女は、臣民の目もはばからず、その湖水の眼を覆い隠したまま去っていった。

 トラーイルは、記憶の奥底にあるラシの眼を、思い起こそうとした。禁忌のわざによってつくりだされた眼が語るものを、つかみとろうとした。

 今日のためにつくりだされた存在であるトラーイルにとっては、次の瞬間、消えてなくなってしまう記憶だったとしても。

「——ラシ」

 少女のおもかげを、探そうとした。あの青く美しい眼を。

 寝台の天幕のかげで、トラーイルが帰ってくるのを待っていた、小さな少女の眼。

 待ちくたびれて、寝台で無邪気な寝息をたてる少女の眼は、安らかなまぶたの下に隠されていた。

 卓上の書類という書類にインクを塗り、ばつの悪そうな顔でトラーイルを見ていた少女の眼は、それでも青く澄んでいた。

 十六歳の誕生日の祝宴で抱き寄せた王女は、すでに小さな少女ではなかった。手ずから赤い花を挿してやった少女の青い眼の鮮やかさが、トラーイルの脳裏に焼きついていた。

 トラーイルには、王女の背を押すことしかできなかった。

 娘は毅然と、踊りを競って負けた男のもとに、飛びこんでいった。

 彼女が飛びこんだのは、正当な婚約者のもとだけではない。昨夜、この部屋で眠っていたのだろう、美しく成長した王女——。

 トラーイルは、寝台の天幕をひらく。


 そのとき、彼の眼前にひろがったのは、青だった。


 湖水の輝きとうたわれた、シセラ王家の眼の青。

 それと同じ青色をうつした、青い花の群生である。群生は、トラーイルの寝床の上を、覆い尽くしていた。

 それは、かつてそこにいた少女の記憶を吸いあげて生長したかのような。青い、あまりにも青い、花の群れだった。

 それはあたかも、契約に縛られ、動くこともできない青年に、挑みかかるかのように咲き誇る。

 ありえない未来。

 ありえない「もしも」。

 彼女が彼に見せたものは、それともまた別のものだった。


 曇天の王国シセラの摂政たる青年が、かねてからの契約にのっとり王城から姿を消したころ、王女の馬車は大地の果てにたどりついた。

 そこで待っていたクリーヴァの側近いわく、禁忌のわざによって宙に浮かんだ天空の王国マタンジュに入国するには、やはり禁忌のわざを用いる必要があるのだという。ラシは茫漠たる滝のまえで、その代償を支払う旨宣誓し、供の女たちともども、宙に浮かぶ大地へと一歩踏みだした。

 天高くそびえる王城、王妃の部屋の扉を開け、そして閉めたとき、初めて女たちは、

「その目隠しは何でしたでしょうか?」

 と、尋ねた。

「?」

 布で目を隠していたことすら忘れたかのように、王女は首をかしげる。

「おとりしましょうか?」

「そうね。外して」

 女たちのひとりが進みでて布を外すと——王女の黒い眼が、あらわになった。

 明るい亜麻色の髪に似合わぬ、曇り空のまなざしである。

 けれど、女たちのなかで、それを見て声をあげた者は、誰ひとりとしていなかった。

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