10
教室に入るとそこは暖かかった。
風が吹きっさらしの防波堤にいたからだ。
「くしゅん」
ひとみは急にくしゃみが出た。
「ひとみのくしゃみ、かわいい」
やっぱりお嬢だ。
「はくしょん」と、前の席の大男がくしゃみをした。
「おっさんだ」とひとみ。
「おっさんだね」とみゆはひとみと目を合わせ、笑った。
「聞こえてるぞ」と背中を向けたまま男が言った。
男は絶対みゆともひとみとも目をあわそうとしない。
背が大きいからどこにいても目立つのだが、ほとんど男子とつるんでいる。
「木本って名前があるんだ」
木本君か…。
って男子の名前覚えてどうするとみゆは慌てる。
同級生の名前なんかいつも憶えてなかった。
どうせ仲良くならないし、覚えても名前呼ぶことなんかなかったし。
みゆは中学時代、親友と呼べる相手は一人もいなかった。
最初こそ、ピッコロモデルということで話しかけてくる子はいたが、みゆは人見知りで一気に距離を縮めてくる相手には壁をつくってしまう。
だからあっという間にボッチになった。
孤立してしまうことは苦痛ではなかった。
ただクラスで目立つ存在から逃れる術を知らなかった。
目立つとは標的にもなりやすい。
いじめの的になってしまった。
「俺の名は木本知樹って言うんだ」と大男。
誰も聞いてないのに、自己紹介。
距離を縮めようとしてるのかな?
クラスの男子とほとんど口をきいたことがないみゆには男子のことが全く分からなかった。
「きもとともき?」とひとみは首を傾げた。
「きもとともき…、きもとともき?あっ、新聞紙だ」
「新聞紙?」みゆは新聞配達でもしてるのかと思った。
「回文よ。回文。上から呼んでもきもともとき。下から呼んでもきもともとき」
「ああ」とみゆは納得した。
「なんだよ、人の名前で遊ぶな」と木本。
しかしその声は明るかった。
「木本君、おもしろい」とひとみ。
「何も面白いこと言ってないぞ」
「いい名前じゃない。一度気が付くと絶対に忘れないわ」
「バカにしてるだろ」
「被害妄想。そんなに気にしてないよ、木本君の名前なんか。木本君は背も大きいし、そっち方が逆に気になるかな」
本当、ひとみってすごい。
人見知りってしないんだ。
女子でも男子でもおじいさんでも誰とでも仲良くなってしまう。
仲良くなる術を知っている。
みゆはと言えば一人の友達もできず、クラスメイトの顔は覚えてても名前は全然分からない程度がいつも。
むしろ苛めてた子だけ印象に残ってる。
忘れたいのに忘れられないものが一番嫌な記憶でしかない。
それがひとみに木本君。
高校入学から3日目にして二人の名前を覚えてしまった。
みゆは変に嬉しくなった。
ひとみマジックだ。
授業中、またひとみは指揮棒を振るようなしぐさを始めた。
また音楽聞いてる。
そう言えば何が好きなんだろう。
私はそんなに音楽に詳しいわけじゃない。
先輩モデルに勧められた曲はおしゃれなイメージの曲が多くて、いわゆるモデルならこれを聞いておくべき見たいな曲ばかり。
それらの曲くらいしか自ら聴くことはない。
題名も知らないし、アーティストについても深く知らないことの方が多い。
指揮棒を振ってるから、クラシックが好きなのかな?
それはそれでお嬢様って感じする。
みゆの妄想が幕を開けた。
子供の頃からピアノを続けてます。
「ショパンが好きです。でもエチュードは嫌いです」
夢はカーネギーホールで演奏をすることです。
軽トラ執事が声をあげる。
「お嬢様、ピアノの先生が来てますよ」
いかにもピアノの先生という尖がったメガネをかけたドレス姿の中年女性。
楽譜を小脇に抱えている。
執事に伴われてひとみの部屋の扉を開ける。
「練習の時間ですよ」
そこにはピアノ。
しかしひとみの姿はない。
窓が開いていて、カーテンが風になびいてる。
窓の外には太い木が生えており、まるでそこを伝って降りてくださいと言わんばかり。
「お嬢様、また脱走ですか…」
と執事は無線機を手に、「お嬢様を確保しろ。まだ遠くには逃げてないはずだ」と言う。
「ごめんね、私、繰り返し練習には飽きたの。だから釣りに行ってくる」
「お嬢様…」と執事はため息を漏らす。
「もうすぐショパン国際コンクールだというのに…」とピアノの先生は眼鏡をあげる。。
釣りをしているひとみ。
「お嬢様はドレス姿だ」と執事は無線に伝える。
雨合羽のひとみは闇に紛れている。
「いません、どこの釣り場もお嬢様の姿は…」
みゆは捜索隊のすぐ横で、投げ釣りをしている。
「フフフ…」とみゆは勝手な妄想をしながら、ひとみの後姿を眺めていた。
でも可愛かったな、ひとみ。
雨合羽がダサいからの脱いだ時の制服姿。
胸を撃ちぬかれたわ。
キュン死しそうだった。
ギャップ萌えってああいうのね。
わざとダサい格好をしてるのかな。
でも一体誰をキュンキュンさせたいわけ。
まさか、私。
私をときめかせてどうする気。
百合じゃないからね。
ひとみがどんな罠を仕掛けて私をときめかせても、ひとみのモノになってあげないんだから。
そうよ、気が付いてないと思ってるの。
わざとダサダサの格好をしてることなんか、お見通しなんだから。
モデル探偵みゆをなめてもらっては困るわ。
あのくらいの年齢の女子がおしゃれに興味をもたないはずがないもの。
きっと愛読書はポッポティーン。
ゆるきゃらのちえちゃんの隠れファン。
だってどうみても不自然だもの。
いつもココナッツの香り。
あれは香水の匂いよ。
ダサい格好はお嬢様の変装。
と、指揮棒を振るひとみの姿を見て、みゆはあることに気が付いた。
あれれ…。
なんか違う。
あの動き、指揮棒じゃないかも…。
そうだ、あれは釣り。
竿を振って遠くへ、投げた。
みゆはひとみの行動を心の中で実況していた。
あっ、餌に魚が食らいついた。
大物だ。
左右にフラれてる。
今、リールを巻いてる。
巻いてる。何度も何度もまいてる。
引っ張りこまれそう。
堪えた。
また引っ張られた。
間違いない。
あれは指揮棒じゃない。
釣りだ。
釣りのイメトレ?
どんだけ釣り好きなのよ。
いや、もはや釣りは生活のため。
自らの食事を確保するために必死なんだ。
自給自足。
こんなところにスローライフ。
お嬢様がその満たされ過ぎた生活ゆえに始めた自給自足生活。
何、ひとみ、そうだったのね。
あなたって子は…、最高よ。
いいわ。二人で無人島で暮らしましょう。
とチャイムが鳴ると、みゆは現実に戻された。
やばい。
今日もひとみに見とれてしまった。
ひとみ観察日誌。2時間目。
釣りのイメージトレーニング。