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田舎町

作者: 旬過愁到

 大粒の雨に占拠された夜の帳に、田舎町にしては騒がしい駅前のロータリーから出てきた一台のタクシーがあった。助手席には、疲れ果てた様子の男が一人乗っていた。大丈夫かと運転手の方から聞こえた声に返事する気力もなく、何が起こったかもまるで思い出せないでいて、ただ気を失っていたような、誰かに激しく揺さぶられていたような気がした男は、ゆっくりと動き出した車内から、窓ガラス越しに見慣れた景色が雨に流されていくのをぼんやりと眺めていた。


 駅のすぐ横にある今まさに遮断棒が降りている踏切を運転手が渡ろうとしている;踏切の信号が点滅しているのにサイレンも何もきこえない;いつもならこの田舎町の駅をこれみよがしに通過する快速列車が駅から進行方向にあるこの踏切の手前で止まっている。全てが不思議で非日常な光景に見とれながら、少し眠気がさし始めたが、雨にかき消されて車内には全く届かない声で何かを叫びながら外側から一生懸命窓を叩く女性のぼやけた姿にハッとさせられた。運転手がすかさずうしろのドアをあけてあげた。乗り込んできた女性にも、頭や両手両足をだらりと垂らしながら彼女に抱かれている隣町の中学校の制服を着た中学一二年生と見える子供にも、その子の耳につけてある補聴器にも、男には見覚えがあるが、はっきりとは思い出せないし、思い出せるほどの体力ももはや今は残っていない男の耳に、助けてください!と息を切らしながらの女性の悲鳴が、さっきまで雨に遮断された映像に遅れて、微かに掠めた。


 早く病院へ行かないと、相変わらず自分が置かれた状況を把握できないまま、とりあえず急を要する事態であることはかろうじで飲み込もうとしながらも、口に出せなかった男の言葉に、ただ横で押し黙ったままの運転手は、おぞましい敵の罠から逃げ出そうとしているかのような勢いで、車を再び発進させた。今さしかかろとしている交差点の信号が赤なのか青なのかも見えないぐらい、燃え盛っていようが消え入りそうであろうがどんな命の炎も消し去ろうとするような大雨の中で、車が町中を縦横無尽に走りながら、男は、最後の力を振り絞るように、窓ガラス越しの世界に想いを馳せた。


 自分の通っていた小学校、中学校、最初で最後の就職先である見掛け倒しの市役所、数年前十数年の闘病生活の末がんでなくなった妻の葬式が行われたおそらくのこの町では一番立派な建物と誇るシティホール、次から次へと目に入り、いつかは出ていってやると中学校の時から誓ったが、四十年間の冴えない日々がただ見慣れた証明書に日付だけ変わっていくハンコを押しているだけの名ばかりの秘書職務を全うして過ぎゆき、妻の闘病生活の励みと思って続けていた年一回の二人だけの家族旅行以外は、つい離れたことのなかった、この憎い故郷がいつになく懐かしく感じた。


 違法のバーベキューでの不注意で廃校寸前といいながらも自分の少年時代の数少ない思い出の場所の一つである小学校の校舎を跡形もなく燃やし尽くした上に、消火活動に加わった両親や隣の親戚のおばさんをも帰らぬ人にしてしまった、かの大都会からやってきた少年たちの名前はついに公表されないと知った中学校三年生の夏に味わった悔しさ;いくら地元の有志者たちが抗議しても、結局鈍行列車が一時間一本しか止まらないのに早朝から深夜までほぼ十五分間隔で列車が通過するたび鳴り喚く踏切を両端にもつ駅と、両隣にある大きさや人口の多さにおいてはここよりややましな街を結ぶ電車が最短距離で走れるように、町の中心部をまっすぐに貫通する形の鉄道を建設するため、当時の役所の人間の怠慢で歴史建造物になり損ねた中学校の校舎が木っ端微塵に取り壊されている日に思い知った高校三年生のやるせなさ;近年人口がやっと増えつつあって、なくなった中学校の代わりに隣町のへ通う子供が増える中、老朽化した駅を改修するため、一時といいながらもう三年も続いた工事のせいでホームが狭くなり、早くなんとかしないといつかは通学中に乗り降りするはしゃぎ盛りの子供が誤って線路に転落し、後続の快速列車に接触しかねないと幾度市を代表して鉄道会社に声をあげては、返ってくる「係員を増員します」「増員しています」「増員しました」と語尾だけ変化に富んだ一本調子な回答を前に、定年退職して地元に残ったOB達などとボランティアチームを組み、一日二回の通学時間帯に駅のホームと踏切の近くで見守ること以外はなすすべもない不安と、余命三ヶ月と宣告された肺がんを患ってももう失うものはないと覚悟を決め、頑に通院も休職も拒否する定年間近のひら公務員が四ヶ月弱闘い続けてきた哀れみ;そして、今やっと後部座席にいる女性と子供が親子であり、5、6年前までに生活していたかの大都会では、この子が難聴のせいで学校でいじめにあい、お母さんがあらゆる行政機関に相談しても、普通の小学校と違う施設に紹介されるばかりで、嫌気が差して、どうせ母子家庭で身軽だし、受け入れてくれる小学校があれば、どの街でもすぐ引っ越していくと意気込んで、鉄道沿線の市町村を順番に訪ねているところ、この街の市役所へやってきたときに受付したのは自分であり、再開したばかりの小学校への入学手続きをいち早く済ませたのも自分であって、引っ越してきた日に同僚たちと手伝いに行って帰り際に「必ず守って見せます」と大風呂敷を広げたのもまさに自分自身であることと、今年の春に小学校を卒業し、中学校に上がれば、一駅だけでも電車通学ができることは電車が大好きなこの子にはすでに楽しみで待ち遠しい日々だと親子揃って役所へお礼を言いきにたときの二人の晴れやかな笑顔を思い出したこの瞬間の悲しみ。


 これらの感情に押しつぶされつつ、再び体を強く揺さぶられているのを感じながら、男はルームミラー越しに安らかに眠りに落ちた親子を、自分の目を永遠に閉じ切る最後の瞬間まで眺め続けた。


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