寝煙草、危機一髪
休みの日になると昼間になっても眠気が取れず、布団から這い出るのがやっとで、またソファにだらしなく横たわりながら煙草をふかす。
「寝煙草と同じだから止めてよね」
妻は休日の私のだらしなさには文句は言わないが、寝煙草にだけは口うるさい。
目を覚ましてから吸いなさい、と二度程言い残して彼女は買い物に出掛けて行ったようだ。
二度言われようが、三度言われようが、眠いものは眠く、吸いたいものは吸いたいのだよ。わはは……は。
……となると、なるべく寝てしまわないように、寝転んで吸うのが何より効率が良いのだ。
こんな子供の言い訳のような理屈を頭で作り上げ、妻の居ないのをいい事に俺はソファでの一服を満喫していた。
空になった煙草の空き箱をゴミ箱へ投げ入れ……、
まあ、入る入らないは差ほど問題ではないので、取り敢えず投げ飛ばし、最後の一本に火を灯した。
「買い物のついでに煙草を頼めば良かった」
そう思いながらテーブルを見ると、携帯は置いたまま……
致し方ない。
もう一眠りしてから買いに出ようか。
それとも眠気覚ましに出掛けるか……
等と考えながら煙草の煙の不規則な動きを見ていると、やはり睡魔が離れてくれないのだ。
一瞬眠ってしまったかと思うタイミングで開いていた窓から
「ぴうっ……」と風が勢いよく吹き込んで来た。
どきっとして我に帰ると、くわえていたはずの煙草が口下から消えているではないか。
驚いて飛び起きると、いったい体のどこに隠れていたのか……、火のついたままの煙草は起きた反動で窓から飛び出した。
覗き込んだ時には既に真下にいた通行人の頭部にナイスな命中をしているのが見えた。
「とてもまずい……」
すぐに着の身着のまま階下へ降りつつ、なんと云うグッドタイ……バッドタイミングだ。
と、些か自分が嫌になりながらたどり着いたそこには、さっきの通行人の姿は既に無く、頭部の縮れたカツラがぽつりと落ちていた。
これはある種の一大事である。
もしやさっきの罪なき通行人が、ズラのないまま気付かずにズラかったとしたら事だ。
俺は罪なき髪なきズラ行人を探すべく、頭部の一部が焼け縮れたズラを片手に進行方向目指してこの落としも……落としズラを届ける為駆け出した。
しかしこの縮れズラを返却したところでもはや役にたつのだろうか?
人間は夢中な時ですらいらぬ思考を働かすものである。
あわよくば見つかったとしても、頭部頂点に穴が開いているのであれば、雨等が降って来て傘を持たない時等は災難だ。
穴から侵入した水滴がパゲに染み渡り、蒸れとパゲを拡大させてしまう。
兎にも角にも見つけ出してから後の事は考えよう。どう考えても自分に非があるのだ。
必死で追いかけながらも、財布を持って出ていればついでに切らした煙草が買って帰れたのに……、
等とまた余計な思考を働かせつつ私はズラを振り回しながら走りに走った。
その時、前方に明らかにパゲなお方を発見。一先ずラ胸を撫で下ろす。
願わくば、
「いやいや、どうもご親切に……これがないと私の残り少ない無毛無し(なけなし)の人生もどうなっていた事か」
「いやいや、私こそ不可抗力とはいえ、大事な頭部のパートナーに傷を背負わせてしまって……」
「いやいや、もともとウェービーなスタイルを楽しんでいるものですから、憧れの手ぐしですっかりほら、隠れてしまいますよ」
「いやいやなる程、洒落てますね。せっかくなのでどうですか?そこらでコーヒーでも……」
「いやいや、少し先を急ぎますので、有り難いお誘いですが……。それはそうと、折角届けて下さったのにお礼の仕方も思いつきません。お煙草をお吸いになられるのでしたら、私に見事ヒットさせた幸運の煙草とは不釣り合いですが、新しい煙草をプレゼントしたいのですが」
「いやいや、礼なんてとんでもない。……とはいえ実は煙草を切らしてしまってまして。小銭も持たずに追いかけてきてしまったのですよ」
「いやいや、それはちょうどよかった。では好きな銘柄をおっしゃって下さい」
……みたいな事になれば最高だ。
夢見がちな妄想を楽しみつつ、前方のパゲな方の真後ろまで近付き、
「あのっ……!」と意気揚々と声を掛けようとしたその時……、
パゲなお方はこちらを振り返りながら、頭部にハンカチを当てて汗を拭ったじゃないか。
「こ、これは……」一瞬の交錯。
もともとズラをしているズラーな人がズラをしているまま頭部を汗で拭う等の命知らずラな行為をする訳がないズラ。
それともズラを落とした事に気付いていて、もう自分の頭はズラなそれではなく、パゲなそれなのだと知っているのか。
なら、ズリ落とした落としズラを探しに来るはずである。呑気に汗を拭きながらズラズラと……いや、スタスタと歩き続けるものか。
はっ……だとしたら、もしやこのパゲな方はズラを落としたパゲな方とは違うパゲな方なのか?
パゲ違いならこれは大問題である。
いくらパゲ間違いだとしても、ズラを片手にパゲな方に
「ズラを落としませんでしたか?」等と聞くのは無謀中の無謀だ。
いやしかし、既に
「あのっ」と声をかけてしまった。しかも片手にはズラを持っている。
何故確認もしないでいきなり
「あの」なんて言ってしまったんだ!俺めっ!
ああ、振り返ろうとしている。
どうする?どうする?どうする?!
どうすんの?パゲじゃない俺。
「どうするんだあ!」
「何よ、びっくりした。すごい寝言ね」
唖然としながら開いた目の前には、買い物から帰った妻が俺を不思議そうに覗き込んでいる。
一体どれ位眠ったのかはわからないが、妻の買って帰った買い物袋の荷物の量を見る限りではかなりの時間が経過していると思われ……
「いや、ひどい夢を見たよ」
と起き上がる目に映ったのは開いた窓。
刹那、吸っていた最後の一本の行方が気になったが後の祭りであった。
ソファには小さいながらも焦げ穴が開き、煙草は俺の寝返りで消されていた。
まずい……これは非常にまずいぞ。
「どんな夢見てたのよ。そうね、どうするんだあ!って叫ぶ位だから余程の事態ね」
余程の事態だったが、今は今の方が余程の緊急事態である。
妻は機嫌よく夢と寝言の話をしている。
取り敢えずはこのソファの穴が注意を受けたすぐ後の物だと云う事だけでも回避しよう。
そうだ。そうすべきなのだ。
誤魔化そう。
俺は恐る恐る立ち上がり、口笛を噴きながら玄関に向かった。
「ちょっと煙草切らしたから買いに行っ……」
「ちょっと待って。背中……!」
後ろから呼び止められる俺。
背中?何ですか?
まさか背中にも穴が開いている等わかろうはずもない。
「あっ!ソファにもっ!あれ程言ったのに馬鹿っ!火事になったらどうするつもりよ。どうするんだあ、はアナタよ!」
ちゃっかり見つかる位なら、まだ寝そべっていた方がマシだった。
いや、しかし煙草が切れている。いつまでも我慢なんて出来やしない。
それにしても台所から顔も見ずに話しかけていた妻が、どうして急に玄関まで出て来て背中の穴を見抜いたのか……
しかしそんな疑問を口にするよりも先に、俺には迅速にするべき事がある。
「ごめんなさい。もうしません。反省してます」
迅速な俺のごめんなさいを聞くと、妻は黙って机を指差した。
そこには新しい煙草が二箱、買って来て置いてあった。
「もうなかったんでしょ。つ・い・で」
こんな気配りの効く妻を愛している。
やましい事があると口笛を急に噴く癖も妻に見抜かれている事は、当然俺は気付いていない。
開いた窓の下では、笑うように落ちていたズラが風にふわりと舞い上がった。
【完】




