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蒼依の肖像  作者: 吉田 和司
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九 謎の人物

 ちょうどいい機会なので、ここでちょっと、この人物について簡単にその人となりを話しておこうと思う。彼は蒼馬龍彦そうまたつひこと言って、すでに六十も半ばを過ぎていたのだが、そこには世間によく見られるありふれた老いというものではなく、何かもっと違うものがくっきりとその表情に刻まれていたのだ。もっとも、彼とて世間並みの老人として、その頭髪や形のよい口髭には白い物が混じり、顔だってやはり年相応の皺やたるみがないわけではなかった。しかし、この老人の特異さは、そんな肉体に刻まれた皺やたるみからは決して窺い知ることなど出来ないもので、それは彼の謎めいた過去から来る、ある種の生き方そのものにあるのではないかと想像されるのである。それがそのまま自然と彼の身のこなしにも現れ、どこか用心深くもあり世間と距離でも取っているのか、そこから何となく突き放した冷たそうな印象も感じられるのであった。それはひょっとしてこの世間に何か恨みでもあるのかと言ったことも考えられるのだが、どうもそうではないらしいのだ。もちろん彼とてこの世間で生きる以上どこかで妥協し、恨みではないにしろ、それに近い例えば憤り、不信、疑惑といったような如何にも否定的な考えにからみつかれながら、この世を渡り歩いてきたことだけは、その厳めしい真面目そうな相貌からも無理なく想像出来るのである。

 彼は、もともと医者であったことは、以前にちょっと触れたことがあったが、もう少し詳しく述べると、何年か前に、自分が直接の原因ではないのだが、ある医療事故を起こしてしまったのだ。それは裁判にもなって、一応無罪は勝ち取ったが、医者としての道義的責任を感じて、その職を辞してしまった。彼は、それ以来、何か心に決したことでもあったのか、まったく世間から身を引き、隠遁生活みたいな状態に自らを追い込んでしまっていたのだ。それがなぜ今回蒼依の件に関わったのかには、それ相応の理由があった。

 蒼馬氏は、芝原、樫山の両家とは古くから公私ともに付き合いがあったことは、すでに話したが、とくに樫山家とは主治医でもあった関係で、家庭内のことにも色々と関与していて、蒼依自身についても、ある秘密のことで人知れず心を痛めていたこともあったのだ。また芝原家とは、ある種の援助を受けていたこともあって、彼の隠遁生活が滞りなく出来るというのも、それがあるからかも知れない。それが、ここに来て、彼をその隠遁生活から引きずり出して、世間と関わりを持つようになったのは他でもない、この一件で亨から、是非彼女との橋渡しをしてくれないかということだったのだ。恩義のある身としては断ることも出来ず、かといって彼の性格上いい加減な仲立ちも出来ないので、何とか実現させたいという願いでこの話しを引き受けたのであった。

 彼は、この日、蒼依に会うために来ていたのだが、あいにく彼女は外出していて、たまたま莉子が居たので、その後、その絵はどうなったのかと言ったことを、根掘り葉掘り聞き出していたのだ。その若い画家のことも、頻りにあれこれ聞いていた。莉子も、自分の知っていることを、それこそ最初に彼がこの家にやって来たときのことから話し始めて、そのとき沙織との間で起こったちょっとしたエピソードも面白おかしく交えながら、まるで物語のように語って聞かせるのだった。彼は、よほどその話しが気に入ったらしく、一点を見つめたままじっと耳を傾けていたが、なぜか忽然と遠い日の忌まわしい記憶が蘇ってくるのだった。

 そんなわけで、この日、自分の前に、その慎治がやって来たのには、それがたとえ偶然であるにせよ、色々な意味で、そこに一種の驚きを感じていたのである。彼は部屋に入るなり、慎治を見て『これがあの男の息子か』と思うと、なる程どこかその上品な顔立ちといい、何となく心ここに在らずといったような不思議な雰囲気といい、父親と確かに似ているところがあった。

「失礼ですが、画家の当麻慎治さんでいらっしゃいますか?」

「ええ、まあ、そうですが」彼は見ず知らずの人にいきなり名指しされたことに、ひどく驚いたようだった。いや、それよりも、自分が画家であると、たとえそれがどんな理由からであろうと、人からそう呼ばれたことは、今まで孤独な生活にどっぷりと漬かっていた身としては、やはりどこか嬉しいような恥ずかしいような何ともいえない奇妙な気持ちになるのだった。彼は不審の念を持ちながら、(半ば好奇心も手伝ってはいたが)当然こう聞き返した。

「失礼ですが、どちら様でしょうか?」

「申し遅れました。私は蒼馬龍彦と申しまして、以前に、この家の主治医をしておりました者です。今日はわけあってこの家にお邪魔していますが、今莉子さんから、貴方のことをいろいろとお伺いしていましたところなんです。いえ、それはほかの事ではありません。今あなたの制作中である絵のことなんです。実は、私も絵は好きな方でして、小さなやつですが三点ほど部屋に飾ってあります。もっとも、自分には鑑識眼など少しもありませんので、果たしてその絵が、世間的に価値があるのかないのか一向に分かりません。でも、なんとなく自分にとってはいいのですよ。見ていて心安らぐのです。どうなんでしょうか。貴方のような才能にあふれたお方に一度お聞きしたかったのですが、絵という物には、その作者の心の中のものが現れざるをえないと言うのは本当なんでしょうか?」

「そうですね。絵という物は、それがたとえ風景画でも、やはりそれを描いた人の、ある意味、自画像と言ってもいいものなんですよ。その点で、あなたのおっしゃることはそうかもしれませんね」

「なるほど、それでようやく合点がいきました。貴方のお父様の絵は、確かにあの人独特の人間性が現れているように見えますからね」

「えっ!あなたは父をご存じなんですか?」彼は、窓際から離れ、今にも彼に飛びかかるんじゃないかと思われるくらいびっくりしてこう言った。

「知ってるも何も、当麻画伯とは、昔からの友人でしたからね。貴方についても、一度お会いしていますよ。もっとも、その頃は、貴方もまだ小さく、私のような者には興味もなかったでしょうがね。画伯は、才能豊かなお人でした。ああいう最期を遂げたと言うのは、とても残念ではありましたが、いかにもあの人らしい、と言っては語弊がありますが、それがあの人の意思だと思えば、私としましてもなる程そうかも知れませんと、思わざるをえないのです」

「ぼくは、父をとても恨んでいます。それは今になっても変わりません。そのお陰で、母がどれくらい苦しんで死んでいったか、ぼくは、それを思うと、絶対父を許せないんです」

「確かに芸術家という人種は、自分本位という人が多いですからね。自分の芸術のためなら、たとえ周りの人間が傷つこうがどうしようが、平気でそれに殉ずるんですからね。まあ、実際に困ったもんです」こう言うと、一つ大きな溜息をつき、疲れたのか、そばにあったソファーに腰を下ろした。すると、彼はおもむろに眼鏡を外し、眼鏡ふきで、丁寧に拭き始めた。拭き終わるとそれを眼前にかざし、何事にも完璧を求める人にありがちな癖として、レンズの隅々まで曇りのないことを確認し終えてから、ゆっくりとまたかけ直すのだった。その一連の動作が、初対面でありながら、いかにも馴れ馴れしく思えて、慎治にはこの人物が、どこか胡散臭い人間に見えてくるのを如何ともしがたかったのだ。とはいえ、彼の口から漏れた父親との関係もあるので、いろいろ疑いはあるものの、まあ、今は黙ってこの男の真意を探ることにした。

 彼は、しばらく何事かを考えていたが、静かに慎治の方を向いて、どこかしみじみとした口調で語り出した。

「そうは言っても、肉親である貴方にも、やはり知らないこともあろうかとは思うのですが。いかがでしょうか。いや、実際そうですよ。お父様にはお父様のご苦労があったでしょうしね。それに、息子と父親というのは時に微妙な関係になることは往々にしてありますからね」

「ええ、ええ、確かにそれはそうです。息子にとって父親の自殺は微妙で深刻な出来事以外のなにものでもありませんからね」彼はぶっきらぼうにいくぶん皮肉っぽい調子を込めてこう言い放った。ところが、老紳士は彼のその言い方に苦しげなあるものを感じながらも変に媚びるわけでもなく淡々と続けるのだった。

「まったく言葉に詰まるくらい微妙で深刻な問題です。というのは、親子関係とくに息子と父親というのは、なかなか理解し合えないのが普通だからです。実際、私がそうだったんですよ。私の父親は医者でした。その関係でか自分が医者になることを、もう既定の事実であるかのごとく心づもりでいたのです。自分は全然そんな気などなかったのですがね。私は高校のころ、本当を言えば画家になりたかったのです。笑いましたね。かまいませんとも。当然、誰でも笑うところですからね。気になさらんでください。まったく今思えば、恐れを知らないといいますか、傍若無人といいますか。まあ、それが若さというものかも知れませんね。私は父親に反発して、医者になる勉強などまったくしないで、絵ばかり描いていました。いやはやまったく。ところが、突然、父親が病に倒れ、家の土台が傾くなか、絵という夢を放棄せざるを得なくなってしまいました。要するに、父親の復讐が始まったのです。私はそう思いましたね。まあ、そうは思ったものの、現実問題として、まず生活していかなければなりませんでしたからね。私は夢を諦め勉学に励みましたよ。その甲斐あって医者にはなりましたが、果たしてどうなんでしょう……」彼はまた急に黙り込んで、じっと床を見つめていたが、「いや、私は貴方をとても羨ましいと思っているんですよ。ご自分の才能を信じ、どこまでも一つの道を突き進むその姿勢をですね」慎治に顔を向けると、なぜか謎めいた笑みを浮かべ、彼を意味ありげに見つめるのだった。

 実際のところ、慎治はこの老人の一種取り留めのない身の上話を聞いているうちに、自分がイライラしてくるのを、はっきりと感じるようになった。そこで慎治はイライラの原因であるこの老人が、何故自分に会いに来たのか、その探りを入れるために質問をしてみようと思いついた。

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