八 思いもよらぬ苦悶
二人は、夕方四時頃、お互いに、いろいろ気になることを残したまま別れた。慎治は近くの駅まで彼女を送り届けたが、そのまま家には帰らず、またさっきまで居た河川敷の方に向かった。彼は思いの外、衝撃を受けている自分に驚いていた。まるで、それは予想外の出来事で、自分はそれに対して、どういう態度を取ったらいいのか、その対処法すら思いつかないのだった。しかし、こうなった以上、それはそうあるべきだろうと自分に言い聞かせるしか方法はなかっただろう。
彼は、堤を歩きながら、と言うよりも彷徨いながら、彼女が自分を避けるのもあながち無理はないとも思ったりしてはみるのだが、それとこれとは話が違うだろうと思い、すぐさま否定するのだった。要するに、その動揺ぶりは意外と重傷だったのだ。
彼は、それからどのくらいの時間を彷徨ったことだろう。冬の夕暮れは短く、あっという間に暗くなってしまうのだが、そのことすらあまり気にもならないようだった。彼はどこをどう歩いて自分の家にたどり着いたのか、それすらも定かではなく、部屋の明かりもつけずに、まるで転げ落ちるようにベッドに倒れ込んだ。こんな状態の自分を、我ながら情けないとは思うものの、どうすることもできない自分をただ笑うしかなかった。
慎治は、しばらくベッドに死人のように倒れ込んでいたが、おもむろに起き上がると、明かりをつけた。蒼依の絵をイーゼルに立てかけ、ベッドに腰掛けたままじっとその絵を見ていた。すると彼女のそのぞっとするような透明な眼差しが、今まで以上に彼の胸に突き刺さってくるのだった。そのうち不思議なことが起こった。確かにその絵は自分が描いたものには違いないが、それがまるで生きた精神となって一種の謎を投げかけてくるのだった。ここに蒼依という名の一人の女性がいるが、果たしてこの女は何者なんだと。この謎めいた問は、もはや自分の自由になるような物ではなく、まさに魔物のように彼の心を掴んで離さないのだが、彼にはそれが何なのかまるで分からず、ただ身もだえするより仕方がないような、もっと言えば沙織が心配したように何かが取り憑いたとしか他に言いようがないものでもあったのだ。
慎治は、翌朝目を覚ますと、混濁した意識のなかで、昨夜ベッドの中で考えていたことを、もう一度考えて見た。それは決して突拍子もないことには思えないのだが、今の彼の精神状態からすると、それがまともに判断できないでいたのだ。蒼依の話を知った以上、何か不躾なことのように思われて仕方がなかったのだ。それは、単に彼女に直接、家まで会いに行くというだけのことだった。それでも、自分に果たしてそんなことが出来ようとは、色んな意味で考えられないのだ。でも、行かねばならないという強迫観念めいたものがあって、それで益々自分を追い込んで行ってしまうのだった。
それなら、一応彼女の家の近くまで行ってみてはどうか。それからのことは、その時また考えればいいじゃないかと、はなはだ優柔不断で成り行き任せのいい加減な案であるが、すでに自分の心が何かで麻痺している以上、これでも上出来の決意なのかも知れない。そうは言っても、行くにあたり予めその旨を連絡しておくべきかどうかで、また迷ってしまった。彼の下した結論は、いや、しないでいきなり行った方がいい、その方が彼女にいらぬ心配を掛けないですむと思ったのだ。もし不在なら、それはそれで諦めも付くし、却って色んな意味で好都合だという如何にも謎めいた納得のしかたをするのだった。
彼は重い足取りで、彼女の住む最寄りの駅に降りた。彼女の家までは、歩いて十五分位だったが、その間、以前に通い慣れた道ではあったが、その時とはまるで違う面持ちで通りを歩いて行った。こんな気持ちでこの通りを歩こうとは、まったく考えもしなかったし、自分がこれからしなければならないことを考えると、このまま引き返した方がよっぽどましではないかとさえ思うのだった。そうは言っても、もう彼女の家の前だ。なんか久しぶりに見た彼女の家だったが、そこに以前とはまるで趣の違う、不思議な威圧感を感じるのだった。『さあ、いったいおれは、これからどうするつもりなんだ』彼は腹の中で、ここまで来ていながら、まだ決心のついていない自分を嘲笑った。しかし、それでもまだ気後れして、なかなかチャイムを押せないでいた。彼は門の前を二、三回行きつ戻りつしてしまい、あまりの決断力のなさに地団駄を踏み、まったくもってこれでは埒が明かないと、本気になって自分を叱咤し、まるで崖から飛び降りるつもりで、やっとのことチャイムを押した。また、あの家政婦が出てくると思って、彼女がどういう風に自分を見るか、そのことを想像していたら、意外にも莉子が顔をだした。
「あら、慎治さん。久しぶりね。どうしたの?今日は何か姉さんと約束でも?それとも、あっ、分かった。いよいよ絵が完成したのね」と、いかにも彼女らしくニコニコしながら聞いてくるのだった。彼は、まさに地獄に仏と、その無邪気な笑顔にお縋りするかのように、蒼依さんが居るかどうか尋ねた。
「今、ちょっと出かけているんだけど、もうじき戻ってくると思うから、上がって待っていれば。悪いけど、あたしはちょっと明日の授業のことで、いろいろ調べ物をしなければいけないので、お相手は出来ないけど、お部屋で待っていてね」と強引に彼を中に入れた。
蒼依の不在は、予感してはいたが、まさか莉子が出てくるとは思わなかったので、そのまま帰ることもできず、仕方なく上がって待つことにした。
彼は、蒼依としばらく過ごした懐かしい部屋に入った。そこが、あの時のまま、何も変わっていなことに、なぜか感動して、しばらくその部屋の真ん中に突っ立ったまま、じっとしていた。壁に掛かった、親父の風景画も、また棚に立てかけてある蒼依と莉子のスケッチ画もそのままだった。まるで、時間が止まっていたかのようだ。自分はあの時から少しも変わっていないのかもしれない。すると、あの時のあの映像と感覚が見事に蘇って来るのだった。あの驚くべき蒼依の姿の鮮やかすぎる記憶が、彼の想像力をかき立て、もう一度見てみたいという欲求が募って、それが一種不可思議な幻想を引き起こすのだった。彼は、まるで誰かに問うかのようにこう独り言ちたのだ。
―それじゃ、ひょっとして、今またあのドアから黒いドレスを着た蒼依が入ってきても何ら不思議じゃないんだな?
─そう、不思議ではないのだよ。しかし君は、あの時の蒼依を見たがっているようだが、果たしてどうなんだろう。だって、君の心はもはや仕事どころではないらしいからね。その証拠に、何かしたくて君はここに来たんだろう?どうしてもしなければいけないことがあったからじゃないのかね?
─ぼくは蒼依に会いに来ただけだ。それだけだよ。
─ふーん、会うためだけね。でも、それだけにしては君の心はまるでよれよれで、この家の扉を叩くだけでもやっとってところだったね。正直言って、そんな君が果たして蒼依に面と向かって、こんど結婚することになったって本当かい?って聞くことができるだろうか。だって君はそのことを聞くために、わざわざここに来たんだろう?昨夜あんなに悩んでいたじゃないか。ぼくがそれぐらいのこと知らないとでも思ったのかい?ああ、それから、ついでに、これはまあ老婆心ながら聞くんだけどさ、君はそんなことを聞いて一体どうするつもりなんだろう?まさか……
その時、ドアを叩く音がして彼は我に返った。ドアが開いて、そこに姿を現したのは、慎治にとっては、初めてお目にかかる人物だった。それは以前に、蒼依と例の件で交渉したことのある、あの老紳士で、慎治は最初、何でこの部屋を訪ねて来たのか分からなかったし、ひょっとして間違ってドアを開けたのかと思ったくらいだった。それでも、彼の態度を見れば決して間違ったわけでもないことはすぐに分かった。明らかに自分が目当てだということが分かったのだ。