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蒼依の肖像  作者: 吉田 和司
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七 意外な訪問客

 翌日、蒼依は、ひどい頭痛に襲われて目を覚ました。昨夜、少し多めに飲んだお酒が、容赦なく彼女を苦しめたわけだが、どこか心地よい苦しみでもあったのだ。半分目覚めただけの状態は、夢見心地がまだ抜けきらず、しばらくボーッとしていたが、咽がひどく渇いていたので、そばにあったペットボトルの水をそのまま口にした。すると、彼女はまたベッドに倒れ込み、毛布に包まると、昨夜のことなど、いろいろと思い出されてくるのだった。自分の喋ったことや、彼がいろいろと話してくれたことなどが、ふとした瞬間、思い出し笑いを誘い、それがまたいかにも耐えられないかのように身をよじらすのだった。まるで、乙女がうっかり見せてしまった本心を恥じらうかのように。

 すると、一通のメールが届いた。亨からだった。それは、昨夜は楽しい時間をどうもありがとう。という簡単なものだったが、それは微妙に彼女の心を揺らすほどのものだった。そう言えば、昨夜は二人とも、お酒を飲むということで、車には乗ってこなかったのだが、レストランを出たところに彼の車が、お抱えの運転手付きで出迎えてくれて、一緒にそれに乗り込んで、蒼依の家まで送り届けてくれたのだ。その時、車の中でアドレスを交換したのをおぼろげながらも思い出した。

 それにしても、いったい、自分は彼とお付き合いするつもりなんだろうか?それを第一に考えなければいけないのだ。それに対して、正直なところを言えば、彼女の心の奥底で、黒く光る蛇のようなものが、不気味にも今感じているような心の喜びを嘲笑うかのように、とぐろを巻いていたのである。二人の家族の過去の問題に対しては、彼女にとってはそれほど重大な事とは思えなかったのだ。もっとも向こうのご家族が、自分のことをどう思っているのかは分からないが、それを、今からあれこれ悩んでも始まらないではないか。しかし、問題はそんなことではなかった。そんな漠然としたことではない、もっと恐るべき事実が突然蘇ったのだ。まったく理解できない行為として、彼女をぞっとさせ、血の気が引くほどの衝撃を呼び覚ましたのだ。それは亨に対して行ったあの無遠慮とも言えるくらいの援助の申し出だった。なぜ、あんなことを言ってしまったのだろうと、今となっては悔やんでも悔やみきれない恥ずかしいものに思えたのだ。それも、初対面で、いくらお酒が入って、つい勢いで言ってしまったとはいえ、まるで、物乞いでもしているようで、彼に対しても、慎治に対しても、失礼この上ないもののように思えてきて、どうにもこうにも、いったいどうしたらいいのか、わけが分からなくなってしまったのだ。

『ああ、どうしよう。今さら改めて彼にあのことは取り消してくれとも言えないし、それに慎治にこのことが分かったら、いったいどんな反応が返ってくるだろうか?第一、彼がこの話しに素直に乗ってくるという保証など、どこにもないのだ。あのプライドの高い彼が二つ返事で承知するとも思えないではないか。冷静に考えれば、すぐに分かることなのに、いったい自分は何をやってるんだろう』

 要するに、自分の独りよがりな計画など、所詮は単なる思いつきの自己満足にすぎなかったのだ。彼女はひどい自己嫌悪に落ちてしまい、そのまま、布団の中で昼を過ぎてもじっとしていた。その時、心配して莉子が顔を見せた。

「どうしたの、お姉さん。昨夜のデートの話しでも聞かせてよ。それとも、お酒の飲み過ぎで二日酔いにでもなってるのかしら?そう言えば、昨夜はひどく酔っていたらしく、亨さんに連れられてやっと歩いていたって感じだったわよ」

「えっ!そんなに酔ってた?」蒼依は一瞬驚いて、ベッドから身体を起こし莉子を睨み付けた。

「なに、それ、ぜんぜん覚えてないの?ほんとうに、初対面でそれじゃ、この先思いやられるわ。それにしても彼の対応は紳士的でとても好感が持てたわ。酔った女性の扱い方も堂に入ってたし、かといっていやらしい感じもなかったし……」

 蒼依は、この子ったら、いったい何を言ってるんだろうと内心呆れながらも、自分がそんなに酔っていたとは信じられないまま、ひょっとして何か失礼なことでもしたかも、とそれが急に心配になってくるのだった。ああ、そう言えば車に乗っている間のことは、実のところあまりよく覚えていなかったのだ。その時、慎治から突然メールが来た。今日会いたいのだが、都合はどうか、という内容だったが、どう考えてもこのまま彼と会うことに色んな意味で抵抗があったので、何とか嘘をついて先に延ばしてもらった。この時、彼女が亨との約束をすっかり忘れていたのは仕方がないとしても、たとえ思い出しても、とても言えるはずもなかったのだ。

 慎治は、そのメールを受け取ると、何となく暗い気分になった。それというのも、彼はあれ以来、だいぶ月日は経つが、思い通りに行かない蒼依の肖像画に思い悩んでいたのだ。確かにその絵は、もう完成しているようには見えるのだが、この絵には、何かが足りないのだ。それは自分でもよく分かっていたが、それが具体的に何なのか分からぬまま、ただ不満を感じるだけだったのだ。もしかしたら、自分は本当は何も見ていなかったのかもという考えがふと頭をよぎった。自分の勝手な先入観で彼女を見ていたのかも知れない。それは有り得ることだ。自分の未熟さで、物を見ているつもりでも実際は自分の観念的なものを描いていたのかも知れない。彼はもう一度じっくりと彼女を見なければいけないと思ったのだ。しかし、ここ二日ばかり、彼女の都合で会うことが叶わないでいたので、次第にイライラが募って来て落ち着かない状態のまま日々過ごしていたのである。

 慎治は、仕事をする気分にもなれず、この狭い部屋の中に居るのもたまらなくなって外へ出た。別にどこへ行こうという当てもなく、そのまま歩き出した。外気はヒンヤリして気持ちが良かった。風もなく、よく晴れていて、清々しかったので、さっきまであった頭の中のモヤモヤも、すっかり消えたように思えた。ところで、最近の慎治は、蒼依の肖像画を描き始めてからというもの、もう例の場所に行って、似顔絵を描くことは止めてしまっていた。彼の生活のほとんどを、この肖像画に掛けているようなそんな感じだった。もう寝ても覚めても、蒼依の絵のことばかりで、今までのいい加減な生活ぶりとは打って変わって、何かに取り憑かれたように一心不乱で、ほとんどストイックなといってもいいくらいな生活に変化していたのだ。

 彼は、夕餉ゆうげの買い物客で雑踏する繁華街を通り抜け、大通りから脇道に入り、そのまま人通りの少ない路地を抜け、大きな川の河川敷まで来た。ごみごみとした街の喧騒から解放された慎治は、その土手に座り、対岸の町並みをぼんやりと眺めていた。空気は澄んで、抜けるような青空に、ちょうど飛行機雲が細い線を引いていた。地上では、河川敷で遊んでいる子供達の声がかすかに聞こえるくらいで辺りは静かだった。すると、いきなり座っている彼に影が差した。ふと後ろを振り向くと、夕日を背に人が立っていたのだ。ちょうど逆光で、最初はよく分からなかったが、よく見ると女性のようだった。

「よっ、久しぶり」と言って、その女性は彼の隣りに腰をおろした。慎治は最初は、いったい誰だか分からなかったが、よくよく見ると、なんと沙織が、それも以前会ったときの、あのラフな服装とはまるで別人のように着飾り、より女らしくなって、いきなり彼の前に現れたのだ。

「驚いたな、いったいどうしてここに?」慎治はすっかり度肝を抜かれて、こう言うのが精一杯だった。

「驚いた?ずっと、あなたの跡を追ってきたのよ。気づかなかった?それもそうね、なんかあなたの歩く姿を見てたら、まるでぼんやりして、心はどっかへ置いてきたって感じだったわよ」

 実際のところ、彼女は蒼依から教えてもらった住所を頼りに、彼の家を訪ねてきたのだが、見つからずうろうろしていたら、ちょうど慎治が家から出てくるところに運良くぶつかったのだ。慌てて声を掛けようとしたが、何となくその様子がおかしく、何かあったのかと思い、そのまま声を掛けずに探偵のように跡をつけて来たのだった。

「どうなの、仕事の方は。うまくいってるの?」沙織はいくぶん用心しながら聞いてみた。

「ええ、まあ。でも、どうしてここに?」彼は不審そうにまた聞いた。

「だから、あなたを家からずっとつけて来たんだって。聞いてなかったの?本当に大丈夫?」彼女は本気になって心配し出した。

「いや、そうじゃなくて、何であなたがここにいるんだろうと、そう思って。ひょっとして、ぼくに用事でも?」こう言って彼は笑った。まるで、そんなことが有り得るのかと言った、皮肉っぽい疑いの笑いのように。

「何がおかしいのよ?用事がなけりゃこんなところまで来やしないわよ」自分がここに来たことが、そんなにおかしいかと思って一瞬ムカッとはしたが、思い直し、別に忠告しようなんて気はなかったのだが、なぜか姉のような態度になって落ち着いた真面目な口調でこう言うのだった。

「まあ、あなたも、いつまでもこの仕事に打ち込むのもいいけど、完璧な物など世の中には一つもないのだから、あまり思い詰めるのも考えものよ。とくにあなたのような若い芸術家は、変に取り憑かれて二進も三進もいかなくなるって例はよくあるんだからね。蒼依は逃げやしないから、ゆっくり構えて描けばいいのよ。分かる?」

「いったい、何に取り憑かれるって言うんですかね?しかし、おかしいな、あなたがそんなことをおっしゃるなんて。もっともそのご忠告は真摯に承っておきますがね」と言って、いかにも馬鹿にしたように笑うのだった。

「何がおかしいのよ?」彼の笑い方が、あまりにも気に障ったので、いい加減ばかばかしくなってきて、自分の用事のことなど、もうどうでもよくなり「帰る」と言って立ち上がった。慎治も立ち上がり、後に付いて行くのだった。

「なに、送ってくれるの?」

「いや、わざわざ来てくれたのだから、絵でも見ていきませんか?もう少しで完成なんですがね」

 彼の家は、もともと父親がアトリエとして使っていたもので、洋風のこぢんまりとした雰囲気のある建物だった。

「いい家に住んでるわね」と言いながらも沙織は、見事に散らかった、若い男のそれも絵に取り憑かれた一種の空想家の部屋を、それこそ無遠慮に見回すのだった。

「親父が残してくれた唯一のものですよ」

「そんなことはないでしょう。あなたのお父様は画家としてのお仕事も相当なものですよ」

 慎治は、まったくその話しには無関心を装い、さっそく自分の作品を彼女の前に用意した。沙織はそれを見て驚いた。それはもはや並の画家の仕事ではないことを証明していたからだ。いったいこれのどこが未完成だと言うのだろう。もう完璧に仕上がっているというほかないのだが。確かに自分の知っている蒼依がそこにはあった。いや、この男は蒼依の悲しみをはっきりと感じているのだ。黒を基調とした、この絵の雰囲気は、まさしく彼女の心を象徴したものになっている。その表情には誰も抗することのできない力があり、有無を言わせずに、この女性の内面へと誘うのだった。

「これのどこが未完成なの?あたしには完璧に思われるんだけど」

「まあ、心理的な問題ですよ」

「心理的な問題?いったいどういうことなの?」

「ちょっと、説明に窮しますが、敢えて言えば、ぼくの心の問題です。実際ぼくは一日も早く蒼依さんにお会いしたいんですが、彼女の都合で会ってもらえないんです。なんかぼくのことを避けているようにも思われるんですが、沙織さんは、その辺の事情を何かご存じありませんか?」

「別に避けているわけじゃないのよ。彼女にもいろいろとあってね」

 沙織は話すべきかどうか迷ったが、別に隠すべきことでもないと思い話すことにした。

「蒼依は、今あるところから、結婚とまではいかないけど、それに近い話しが持ち上がってね。それに時間を取られて、なかなか会えないのかもしれないわ」沙織は彼の顔をじっと見ながら話しを続けた。

「だから、そういうことで、避けているなんてことではないのよ」

「なるほど、そうでしたか。ぼくの思い過ごしでしたね。まったく蒼依さんに限って、そんなことなどあるわけがないんだ。ぼくとしたことが間の抜けたことを言ってしまいました」こう言って、彼は気になる笑い方をした。沙織はなんか嫌な感じがしたが、それ以上は何も言わなかった。

「ところで、沙織さんは、ぼくに用事があったんでしたっけ?いや、なんかそんな気がしたもんでね」

「そうなんだけど、また、それは別の機会にということで、今日はあなたの顔を見ただけで満足するわ」

 二人とも、この肝心なことを避けた、ちぐはぐな会話に、お互い違和感を覚えていたものの、このまま何事もなかったかのように別れてしまって、果たしていいものかどうか判断しかねていたのだ。そんなあやふやな空気の中、慎治は何を思ったのか、いきなり沙織のことで思い掛けないことを語り出した。

「ところで、こんなことを言うと、きっと笑うでしょうけど、こうして改めて見ますと、沙織さんも、まったくお姉さんに引けを取らないくらい美人ですよね」

「何を言うかと思ったら、あなたらしくもないことを」

「いや、これは決してお世辞を言っているわけじゃないんです。最初にあなたにお目に掛かった時のことを覚えていますか?あの時のあなたに感じたことは、決して嫌な印象ではなかった。あなたという人がぼくにはしっかりと見えたからです。まがい物ではない本当の人間を。ちょっと言い過ぎですかね?まあ、そんな顔をなさらず、もう少し我慢して聞いて下さい。ぼくは、あなた達お二人の性格のことでちょっと思うところがあったんです。蒼依さんの性格には何かこの世のものとは思えないくらい純粋なところがありますよね。ぼくにはそう感じられるんですが、沙織さんの目にはどう見えますか?ぼくはそれをまず伺いたいんです」

「それは、あなたの思い過ごしよ。蒼依は普通の女よ。でも、あなたはあの絵の作者で、あまりにも蒼依を間近で見過ぎてしまったということがあるのかも知れないわ。そのせいで、あなたがそこに何かとんでもない物を見たとしても決して不思議ではないと思うの」

「ああ、それは実に面白い考えですね。でも、ぼくはあなたにも同じようなものを感じるんですが。もっとも、それは蒼依さんとはぜんぜん性質の違ったものですがね」

「面白いわね。どう違ってるのか聞かせて頂戴」

 慎治は、しばらく彼女の顔をじっと見ていたが、おもむろに近くにあった画用紙と鉛筆を取って、彼女の顔をスケッチし出した。五分ほどで描き上げ、それを彼女に見せた。

「それが、あなたの印象です。あなたの純粋さは、いや、純粋と言うよりも、むしろその率直さにあなたの性格の特徴があると言っていいのかも知れません。あなたのその鋭い批判的な物言いにそれがよく現れていますよね。よく言えばご自分に正直なんだ。これが、蒼依さんとは違うあなたの一面ですよ。どうですか?当たっているでしょう。それともまったく違いますか?」

 実際、彼の言うことはその通りかも知れない、と彼女は思ったが、人に、それもこんな年下の若い男に自分の普段から気になっている性格を言い当てられるのも、どこか癪に障るというものだ。そんなことを思いながら、このスケッチを見ると、確かにその表情に何となく理屈っぽい雰囲気が暗示されているようにも見えてくるから不思議だった。


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