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蒼依の肖像  作者: 吉田 和司
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六 蒼依の予感

 それから二、三日経った、ある晴れた日の夕方六時頃、蒼依は、前もって指定されていた場所に出かけて行った。実は、その日の昼頃、彼女の携帯に珍しく慎治からメールが届いたのだ。それによると、どうしても蒼依に会って確認したいことがあるとかで自分の家まで来てくれないかという内容だった。今日は大事な用事が出来たので、明日にでも行くからというメールを返した。蒼依はいったい何の確認だろうと思いつつも、自分がこれから会う相手に対しては、緊張はしていたが不思議と冷静で、感情的に高ぶることなどどこにもなく、まるで機械的に歩いているようなそんな感じだった。とはいえ彼女の心情を、ここでいちいち分析しても、それほど面白いことでもないだろう。それよりも、いかに人は人生の迷路に嵌まり、そこから抜け出せなくなるか、生きようともがけばもがくほど、足はよろめき二進も三進もいかなくなるか。まあ、人生とはそんなものかも知れない。そこで人は、それを運命と名付けた。諦めという気持ちが必然に変わるのだ。もとからそうなるべきものであったのだと言うわけである。もっとも現代人はその運命なるものを、科学的精神をもって胡散臭い代物にまで凋落させてしまった。そのくせその言葉は今もってしぶとく存在しているし、決して辞書の中だけに大人しく収まっているわけでもない。それが困るのだ。実際のところ相変わらず人々はそれに引きずり回されているし、生きるということが、どうやら運命という言葉を呼び寄せているらしいからである。それは、どこからともなくやって来ては、ぞっとするような冷たい息を人々の首筋に吹きかけて行く。

 しかし、何も運命は外からやって来るだけのものではない。人間の内部から、そっと忍び寄って来て、いつの間にかその人の心に居座ってしまうことだってあるのだ。人は空想する存在であるということは誰しも認めるところではあるが、(それはまたこうも言えるのだ。人が空想するのではなく、空想が人の意識を捕らえるのだと)この現実がその空想によって出来ていると言ったら果たして人々は納得するだろうか。人は現実というものを空想という糸で織り上げるのである。つまり、その糸が心という現実なのだ。

 未来を夢見る空想こそ、その人にとっての運命だと。実際運命というものは己の中で何ものかが紡ぎ出したものなのだ。そのとき心はもうすでに現実となっているのだ。未来を予見しているのである。

 彼女は自分の道を歩いて行くのに、ある種の強い予感があったのだ。それはある意味、自分の運命を強く感じたがために、そうなるであろうと彼女の心はそれとなく予見していたのである。そのことは、誰しも自分の歩いてきたその道を振り返れば、確かにその道しかなかったのだと納得するはずである。少なくとも、そう信じた方が迷いの中で途方に暮れてるより、ずっと人間らしく生きられるのではないだろうか。

 そこは、ある高層ビルの最上階にあるレストランで、夜景の素晴らしい眺望の楽しめる、すこぶる上品で落ち着ける場所だった。

 蒼依は、店の人に指定されていた席まで案内された。そこにはすでに写真の男性が先に来ていて、彼女を見るなり立ち上がって軽く会釈した。彼も何となく緊張しているようにも見受けられた。

「初めまして、と言っても正確には二度目ですが、覚えておられるでしょうか?確か何かのパーティーだったと思いますが」

「ええ、覚えていますわ。あなたがあのとき助けに来て下さらなければ、どんなことになっていたか、本当にその節はありがとうございました」

「いや、そんなお礼など。ぼくはただあなたが困っておられるのを見て、黙っていられなかっただけですよ。申し遅れました。ぼくは芝原亨しばはらとおると言います」

「樫山蒼依と申します」

「本当に、今日は来ていただきありがとうございました。何か、無理を言って、あなたを呼び出したようで申し訳なく思っております」

「いいえ、そんなことは……こんな素敵な場所にお招きいただき本当にありがとうございます」

「ぼくも、ここはとても好きな場所で、夜景を見ながら静かに食事ができて、とても落ち着くところなんです」

「よく来られるのですか?」

「いえ、たまにですけどね」

二人は席に着くと、どちらも緊張した心持ちが、ありありとその仕草に現れていて、お互いがまだ何となくぎこちなかったが、決してそれが嫌な気分ではなく、むしろなぜかお互いを信頼しているような、そんな雰囲気が二人の間を満たしていた。蒼依は、最初に彼と目を合わせたとき、写真から来るイメージと、ちょっと違ったものを感じ、その全体の雰囲気も決して自分を不安にさせるようなものではないと感じていた。亨はどちらかというと、女性に対してはどこか臆病なところがあり、自分から積極的にアプローチすることは、ほとんどないと言っていいくらいなのだが、今回だけは、どうやらそうでもなく、その点自分でも驚いているくらいで、何やら不思議な気分でこの場に臨んでいたと言ってもいいくらいなのだ。

 とは言うものの、今回の件は何かに突き動かされたとはいえ、自分から行動したことには変わりなく、そこには自分の意思がはっきりと刻まれていたことだけは確かなのだ。それは彼女に対する自分の思いが、どれほど彼女の期待に添うか、それを確かめたいと思っていたからである。

「ところで、蒼依さんは、絵画に興味があるとかで、話しによると、最近なんでもご自分の肖像画を描いてもらっているそうで、いえ、これはあなたもご存じの蒼馬先生からの情報でして、それによると、出来映えがとても素晴らしく、あなたの美しさはさることながら、それ以上にあなたの内面までが見事に表現されていると、もっぱらの評判ですよ。もっとも、これはすべて先生からの受け売りですけどね。ぼくも、いつか、その素晴らしい肖像画を見てみたいですね」

 蒼依は、何て言ったらいいのか少し戸惑ったが、事実は事実なので、まあ、そのうち機会があればと言うしかなかった。でも、よく考えると、あの先生は、まだ一度もあの絵を見ていないはずなのだが。それともあの人のことだから、どこかで目にしたのかもしれない。

 まあ、それはともかくとして、二人の会話はその後、心配されるほど途切れることもなく、それも、だんだんと打ち解けてきた雰囲気の中、時間を気にすることもなくゆっくりと流れて行くのだった。そのうち話しは、蒼依の妹たちのことに移っていった。もう、その頃になると、二人とも多少のお酒が入って、その口振りも次第に軽くなっていて、時には蒼依の可愛らしい笑い声が静かな店内に響くこともあった。ちなみに、彼女は酒に強いわけではなかったが、決して嫌いなわけでもなく、飲むと楽しくなる性格らしく、その屈託のない笑顔が、相手を魅了していくのにそう時間はかからなかった。

 蒼依は、何か不思議な感じがしていた。まだ、ここに来て一時間も経っていないのに、何の違和感もなく、しっくりとこの場所に馴染んでいる自分に驚くのだった。しかし、それはそうではなかった。彼女が何の違和感もなく、しっくりいっていると感じたのは、この場所にではなく、むしろ彼に対してだと言った方が余程正しいのだ。世の中には、会ってしばらく喋っただけで、すっかり打ち解けてしまう相手というのがいるものだ。それを俗に相性が良いというのだろうが、少なくとも蒼依にとって、それは決して感情の戯れと言ったものではなく、心の深いところで何か共感できるようなものが、お互いを引き寄せていると言った方がずっといいのかも知れない。彼女はすっかり気を許したのか、こんなことまで語り始めたのである。

「自分には二人の妹がいるが、一番下の妹は今大学に通っていて心理学の勉強をしてるんです」

 これにしたってまったく仕方のないことなのだ。そもそも、こうした雰囲気のある場所で、おまけに魅惑的な夜景を見ながら、男女がこういう話題に触れることが果たしてふさわしいことなのか、と言ったことに彼女は思い及ぶことすらないのである。というのは彼女の中には自分をよく見せたいとか、自分がどう見られるだろうとか、そういった意味での虚栄心などまるで持ち合わせていなかったからである。もちろん、彼女のそうした、いい意味での無邪気さは許されるべきもので、彼にしたって変な下心などなく、そうした話しを何の違和感もなく受け入れるのだった。それが彼女にとって幸いしたかも知れない。と言うのも、そこに彼のある種の人間性を垣間見たからである。

「亨さんは、心理学には関心はおありですか?」

「そうですね、まったくないというわけでもありませんが、正直それほどでもありませんね。ぼくは、心理学にはちょっと懐疑的なんです。科学的という言葉に呪縛されている今の心理学は、何か大事なことが抜け落ちているのです。ある本によると、心理学は心の学問とは呼ばないそうです。なぜなら、心は目に見えないという理由からです。つまり形が見えるものにしか信憑性が持てないのです。そりゃ、心は目に見えないし形もありませんが、厳然としてあるわけでしょう。だってそれなしには一日たりとも生きていけないではありませんか。これは常識でしょう?しかし現代ではこの常識が通用しないのです。考えてみればおかしなことで、まるで、鏡に映っている自分を見て、これこそ目に見える唯一の実体だと喜んでいるようなもんですよ。生身の人間などどこかに置き忘れているのでしょう。いや、もともと等閑に付されているのだから問題にもならないわけです。虚像の闇は限りなく深いのです。そこから目が覚めるのは至難のわざかもしれません」

「そのお話し、沙織に聞かせてやりたいくらいです。あの子もきっと喜んでその話しに飛びつきますよ」

「妹さんは、お仕事は何を?」

「美術関係の出版社に勤めています。沙織は、一番下の子、莉子と言いますが、彼女が心理学を専攻することにとても反対していたのです。いつでしたか、彼女はわたしにこう言いました。莉子がいくら本を読んで、人の心を知ったところで、そんなものは所詮たんなる知識に過ぎないと。それは本当に知ったことにはならない。それよりも、彼女が同世代の友達と一緒になって恋の話をしているときの方が、どれほど多くのことを感じているか、その顔の表情を見ただけで、まだ心理学などに毒されていない、彼女のピュアな心の中を感じられて、ひどく驚いたということを言ってました。つまり、そういったことの方が彼女にはずっと必要で、大事なんだと言うことらしいのです」

「それは、まったくその通りでしょうね。本当に大事なのは、やはり個々の人間なんですが、心理学の手にかかると、どうしても統計というものに頼らざるをえなくなってきて、結局は一般的なものに変質してしまうのです。それでどうなるかというと、やがてそれが幅を利かし、個人の心を縛っていくのです。こんなことが果たして人間を理解するということなんでしょうか?」

「それでは、相手の人を理解するにはいったいどうすればいいのでしょうか?」彼女は、なぜかとても楽しくなって、いろいろと質問するのだった。

「とても難しいですね。有り体に言ってしまえば、ほとんど絶望的です。しかし、共感はできるかもしれません。つまり、あなたの考えに共感して、それが次第に理解へと繋がるかもしれないのです。もっとも、それには忍耐が必要ですがね。ただ、今の人はそれを嫌がるんです。何でもかんでも手っ取り早く理解したがるんです」

「ああ、わたしも、あなたのそういう考えにとても共感できますわ。なぜか、あなたになら何でもお話しできるんじゃないかと思えるようになりました」

「それは、ひょっとしてぼくのことを信頼してもいいというお言葉と受け取ってもよろしいのでしょうか?」彼はどこか冗談めかしてこう言った。

「ほんとうに、そうかもしれません」彼女はニッコリしてこう言った。

「ところで、亨さんは先程わたしの肖像画を見たいとおっしゃいましたが、絵には興味はおありなんですか?」

「そうですね。……決して興味がないわけではありませんが……」蒼依のこの質問にどう答えるべきか、一瞬戸惑ってしまったわけは、正直に興味などないとも言いにくかったし、まさか、あなたの肖像画に興味があっただけにすぎません、などとはもちろん言えるはずもなかったからだ。

「それなら亨さんは、当麻祐治という画家をご存じありませんか?」蒼依は、ふとある事を思いついたのだ。それは、まるで天啓のように彼女を襲ったかと思うと、もはやその実現を願わずにはいられなかった。

「当麻祐治ですか?絵かきさん。そうですね、ちょっと記憶には……いえ、ちょっと待って下さい。うちの会社の応接室には、昔から一枚の大きな絵が壁に掛かっているんですが、その作家のサインが、確か当麻祐治だと、はっきりとしたことは今言えませんが、そうですね、また会社に戻ったときにも調べてみましょう。で、その画家がどうかされましたか?」

「えっ、ああ、はい、実は今わたしの肖像画を描いて頂いている方が、その当麻祐治の息子さんで、まだ美大の学生なんですが、とても才能がある方なんです。ところが、彼には何のつてもなく、その日その日を路上で似顔絵を描いては、自分の才能を浪費しているんです。そんなことでは、いつまでたっても彼は大成しないでしょう。彼には今の環境を変える必要があるんです。彼もそれは分かっているんですが、その壁を破って進んで行くだけの意欲がまるで起きないのです。そこで、わたしはあることを思いついたんです。彼を外国の美術大学に留学させるという。きっと彼も内心それを望んでいるはずなんです。でも、正直言って、今のわたしには荷が勝ちすぎています。費用だって馬鹿にならないし。出来れば、もちろん出来ればの話しですが、あなたのお力をお借り出来ないでしょうか?初対面で、こんなお願いは非常識でしょうが……」蒼依は、まるで何かに取り憑かれたかのように身を乗り出してこう訴えるのだった。

「そうですね。なんなら一度その彼にお会いして、それからいろいろと検討しても遅くはないと思うのですが、いかがでしょう?」

「そうですね、そうですとも。一度会うべきです、彼に。それじゃ、早速明日にでも連絡します。本当にありがとうございます」

 蒼依は、彼の後ろ楯を得ることで、それだけで慎治の才能もそれに未来も救えるかも知れないと思い、自然と胸が熱くなるのだった。しかし、亨にしてみれば、彼女からの、この唐突で無邪気なお願いが、すっきりと納得できたわけではないのだが、心のどこかで、これで彼女との関わり合いが深くなるのなら、別に大きな問題でもないだろうと軽く考えていたことだけは確かなようだ。

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