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蒼依の肖像  作者: 吉田 和司
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四 慎治の淡き思い

 慎治は、次の日曜日に樫山家に行くにあたって、それまで着ていた絵具で汚れた上着を買い替えることにした。今の自分の財力から考えて、できるだけ安くてデザインのいい服を選んだ。今までは自分で切っていた髪の毛も、何年かぶりの理容店でカットしてもらい、無精髭も綺麗に剃ってさっぱりとなり、すこぶる男前になった自分を見てまんざらでもなさそうだった。これなら彼女たちのような品のある人達とも、なんら遜色もなく対等に接することが出来ると、冗談ではなく本当に思ったりしたのだ。ちなみに、彼はもともと上品で綺麗な顔立ちをしていたが、青年特有の気難しさが、その顔の表情に時折あらわれて、彼と接する人々にある種の取っつきにくそうな印象を与えるのだった。でも、言っておくが、彼は決して、陰気で、ある事を根に持つような人間ではない。本当を言えば、それとは反対で、どこか人懐っこい面を見せることもあるのだ。とはいえ、いつの世でも青年という者は、感受性に富み、神経質で、取っつきにくいというふうに相場が決まっているものだ。

 この時も、出かけて行くにあたって、なぜか、いきなり、こんな空想が浮かんでくるのだった。莉子は先週とは違う自分の改まった服装を見たとたんに、プッと吹き出し、きっとダサいとか何とかケチを付けるに違いないと。『いや、絶対吹き出すね。賭けてもいい』と彼は青年に有りがちな妙な自尊心に思い悩むのだった。すべてがこんな調子で、汚ければ汚いで悩み、新しくすればしたで悩み、まったく際限がなかった。しかし、笑ってはいけないのだ。なぜなら彼は自分の孤独から何とか抜け出て、この社会と繋がりたいと無意識にではあるがそう願っているのだから。

 樫山家に着くと、いい按配に莉子は出かけていて家には居なかった。彼は正直ホッとして、やれやれひと安心と思いきや、例の家政婦が彼を見てちょっと微笑んだのだ。いやはやどうも、彼は最終的に蒼依がどう思うか、気になりながらも部屋に入って画架の準備をするのだった。

 しばらくして、蒼依が部屋に入ってきた。先週と同じ黒のドレスに身を包み、相変わらず、その美しさは見惚れるばかりだった。

 蒼依は彼を見るなり、その変貌ぶりに一瞬驚いたが、それを表情には見せなかった。でも、それは決して彼に無関心だったわけではなく、何となく彼の様子がおかしいと感じて、そのことには敢えて触れてはいけないように思ったからだ。こうなると不思議なもので、彼は彼で、明らかに先週とは違う自分を見て、彼女が何も言わないのが、逆に不自然に思われてきたのだ。いったい彼女は自分に何の関心もないのだろうか。逆にそれが彼にとって不満となり、なんと自分の方から自分がなぜ変わったのかを説明し出した。

「蒼依さん、先週、莉子さんに服のことでいろいろと言われましたので、思い切って替えることにしたんです。と言っても、そんな上等な服など買える身分ではないので、まあ、そこそこの物をね。あまり見苦しくないようにしたつもりですが、どうですか?」彼はこう言って照れたものの、どこか期待を持って彼女を見た。

「とてもお似合いで素敵です。それに、あまりにも、そのご様子が変わってしまったので、本当にびっくりしてしまいました」彼女はこう言って、心の底から彼の変身ぶりに驚いて見せた。

「いや、実際不思議なもんですよ、人間なんて。こんなちょっとしたことで、その人の持つイメージが変わってしまうんですからね。さっき、家政婦さんに変な顔をされました。いや、それはきっと、ぼくが先週とは全然違っていることに驚かれたんだと思います。ぼくは職業柄その人の持つ本質的な魅力とは何なのか、いつも考えています。それは、その人が持つ外見上のことでしょうか?確かに、それも重要なものには違いありません。でも、いくら外見上美しくても、その人の性格まで美しいかどうか分かったもんじゃありませんからね。ぼくは、その性格も知りたいんです。その内面を絵で表現するのは至難のわざですが、でも、ぼくはそれを実現したいんです。あなたの肖像画で。ぼくにとって、あなたに出会えたのは、本当に運命だと思っています。蒼依さん、あなたのお顔は本当にぼくにとっては特別なものです。その表情は例えようがないくらいぼくの琴線を揺さぶり、ただただ、ぼくの胸を締めつけてくるのです。あなたのそのお心も、決してその美に劣らぬものだと、ぼくは信じます」

 この湧き上がるような熱い言葉に、蒼依は驚いたが、慎治はもっと驚いてしまった。まるで愛する人に向かって、その思いを告白しているかのような、そんな自分に呆れて急に恥ずかしくなったのだ。蒼依も何だか、この意外な告白に顔が赤くなったものの、その思いが尋常でないことを感じて、その心情を思い遣るようなやさしい眼差しで、静かに微笑むのだった。それを見てとると慎治は内心秘かに怪しんだ。その微笑みが彼にはまるで何かを暗示しているかのように見えたからだ。

「いや、実際ぼくはなんか馬鹿なことを言ってしまいました。こんなことを言って蒼依さんに変な誤解を与えてしまったのではないかと後悔しています」

「いえ、わたしは誤解なんかしませんわ。あなたのお気持ちがよく分かりましたから。本当言えば嬉しいんです。そんなことをおっしゃって下さる人は今まで誰もいませんでしたから」

 このどうにでも取れる蒼依の言葉は、慎治を悩ませたが、肝心なことは余計な詮索など彼女には無用だということだった。

「ところで、蒼依さん。ちょっとお聞きしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか」

 慎治は絵の制作に取りかかる前に、どうしても聞いておきたいことがあったのだ。それは例の自分と、この家の関係についてだった。

「そもそも、うちの家族とあなた方ご家族の関係ですが、いったいどういう謂われがあるのでしょうか?」

「それは、もう昔のことですから言ってしまいますが、うちの父親は絵がとても好きで、ある画廊であなたのお父様の作品に出会い、とても気に入って、それ以来なにかと援助するようになったのです。そういった関係で、この家にもたびたびお越しになり、親しくさせてもらっていたわけです」

「いわばパトロンだったわけですね。あなたのお父様は」

「まあ、そういう関係だったと思います」

「それで、謎が解けました」

「えっ、謎と言うのは?」蒼依はこう言って怪訝そうに聞き返した。

「いや、この絵のことですよ」と言って、慎治はこの部屋の壁に掛かっている一枚の絵を指さした。それは百号ぐらいの大きさの風景画で、慎治にとっては、とても思い出のある作品だった。彼が子供の頃、父親のアトリエでよく見掛けた絵で、彼も父親が描いている横で実際にその制作を目の当たりにしていた作品でもあったのだ。その絵は、いたって普通の風景画ではあったが、色のタッチが、その風景から受ける情趣にある種の不安な要素を与えていて、色と風景が相争うようにその画面を覆い、見る者に一種の緊張を強いてくるのだった。この絵が父親のお気に入りであったことは彼も知っていた。もう何十年と目にしなかったその絵が、最初この部屋に入って来たときに、真っ先に目に留まったにもかかわらず、それを敢えて無視したのには、それなりの理由があったのだ。

「この絵は、親父にとってとても大事な一枚だったんです。この絵は最後までアトリエの壁に掛かっていたのですが、ぼくが気がついたときにはもうありませんでした。これが、ここに在るということは、それだけで、あなたのお父様との関係が並々ならぬものであったことの証明になります。ぼくはそう思っています」

「わたしも、この絵はとても好きです。まるで、静かに揺れ動く音楽がそこから聞こえてくるような、この風景画に、何かを悟ったようでいて、決してそこに安住できない不安な心を感じて、わたしの胸を締めつけてくるのです」

「あなたは、ご存じかどうかは知りませんが、ぼくの親父は道半ばで、自ら命を絶ちました。ぼくはまだ子供だったせいもあって、酷く親父を恨みました。家庭も顧みず、どんな悩みがあったか知りませんが、残された者の気持ちも考えずに、勝手に死ぬなんて、どう考えても自分勝手な行為としてしか思えませんでした。母親はもともと身体も弱く病気がちでしたが、何とか頑張って、その後のぼくの面倒を見てくれて、美術大学まで行かせてくれました。しかし、その母親も二年程前に亡くなりました。ぼくは一人ぼっちになって、まるで将来の希望など持てないまま、その日その日を何の当てもなく、やけくそ半分で道端に座って似顔絵など描いて生活していました。いや、今もそうですけどね。まったく、これが本当に生きるということなのか、ときどき疑問に思うこともあります」

「でも、あなたには絵の才能があるじゃありませんか」蒼依はこの青年の心が、どんな状態にあるのか察して、何とか励まそうとした。

「あなたが本気を出せば、どんな逆境でも切り開いていける能力があるじゃありませんか。どうして、そんなところで足踏みしてるんですか?」

「そんな……ところですか?まったくその通りですね。でも、ぼくには才能などありませんよ。そんなものは蜃気楼です」

「でも、あなたは、わたしの肖像画でご自分の思いを実現したいのでしょう?さっき、そうおっしゃいましたよね。その実現のために、わたしはトコトンお付き合いしますから、絶対にその思いを遂げて下さいね。これは約束ですよ」

 慎治は、ちょっと苦笑いをして、この美しい雇い主を見るのだった。確かに彼女を見れば見ほど、自分の身体が、一種言いようのない感覚で満たされ、それがどうしても表現を求めて止まないのだ。もっとも彼にしてみれば、それだけで十分だった。それだけで筆を取らせる十分な理由にもなったのである。

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