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蒼依の肖像  作者: 吉田 和司
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三 謎めいた過去

「今日は、これまでとしときましょうか。疲れたでしょう」

 実際どのくらい時間が経ったのか、時計を見ると始めてから休憩を入れて三時間ほど経過していた。

「確かにモデルになるのって大変ですね。座っているだけでもお尻が痛くなって」と彼女は立ち上がりながら、いきなり背伸びをした。その貴婦人らしからぬ子供のような仕草は、彼女の別な面を垣間見たように慎治には感じたれた。それはまたある意味、彼にとって新鮮な驚きでもあったのだ。

「慎治さん。今夜は、顔つなぎにぜひ私共とご一緒にお食事をして下さいね。もうすぐご用意できますから。それまで、このお部屋でお待ちになっていてね」

 彼は一瞬断ろうかと思ったが、何となくこの家族に興味を持ち始めていたこともあってか残ることにした。いったい、どんな家族なのか見てやろうといった好奇心も手伝ったに違いない。

 しばらくして慎治は、ダイニングルームに通された。気持ちの良い落ち着いた感じのする、しかし、どことなく女性が好みそうな趣味で彩られた部屋でもあった。大きな長方形のテーブルに所狭しと、いろいろな料理が並べられていた。どちらかというと、今時の家族に有りがちな洋食中心ではなく、いたって伝統的な昔の日本の家庭によく見られた料理が中心だった。

「慎治さん、食事の前に絵具で汚れた手を洗ってきてね。それに、その上着脱いで、こっちに寄越して」とさっそく莉子が彼の世話を焼きだした。

「これ、本当に絵具臭いわ」と言って上着に顔を近付けて鼻をつまむ仕草をした。

「莉子、なんてこと言うの。失礼よ」と蒼依は半分あきれて莉子を睨んだ。

「でも、本当だから。こんな臭くちゃ食事のじゃまよ」

 彼も、ただ苦笑いするだけで、何も言わず彼女の指示に従った。

「さあ、こちらに来て。どこでもお好きなところに座って下さい」蒼依は戸惑っている慎治を見てこう言った。彼は莉子の真向かいに座り、どこか落ち着かない様子だった。それもそのはず彼にとって、こういう状況は生まれて初めてのことで、いくら好奇心があったとは言え、他人の家庭で、それも若い女たちに囲まれて食事をすることなど、今までにないことだったからである。

「実は、もう一人姉がいるんだけど、今は訳あって別のところで一人で住んでるの。でも今日はあなたが蒼依の絵を描くということを知って、なんか急に来るって言い出したんだけど、まだ来ないのよ」こう言って莉子は時計を見た。もうすぐ七時になろうとしていた。すると、玄関の方でチャイムが鳴った。しばらくすると髪を後ろで無造作に束ね、デニム地のパンツに薄手の上着を羽織り、大きな皮の鞄を肩に引っ掛けて、いかにもせわしげにドタドタと、一人の女性が部屋に入ってきた。

「よっ!久しぶり」と、その女性は莉子を見ると、こう言って軽く右手を目の前に挙げた。

「何が久しぶりよ。遅いじゃないの。もう食事始めちゃてるわよ」

「いや、仕事が立て込んじゃってさ、もう大変だったのよ。で、こちらの方は?」彼女は目敏く客人を見て言った。

「当麻慎治さんよ」

「あっ、これはどうも。妹の沙織と言います。よろしくね」

「当麻です。こちらこそよろしく」慎治は手を置き軽く会釈した。

「で、どうなった。蒼依、絵の方は」と沙織は莉子の隣りに座ると、ニヤニヤしながらこう聞いた。

「まだ、始まったばかりよ。そんな一日やそこらで出来るもんじゃないの」

「まあ、まあ、そりゃはそうだけどさ。でも、あんたが自分の肖像画を描こうなんて思うこと自体なんか不思議よね。いったい何があったのかしら。ところで、こちらの若き芸術家にお聞きしたいんですけど、どうですか、このどこかお高くとまったお嬢さんを描くということは、あなたの創作意欲を刺激しましたか?」沙織は何か意味ありげに慎治を見ながらこう聞いた。

「いや、ぼくはただ蒼依さんに雇われただけで、別に……それにぼくはまだ勉強中の身で、そんな芸術家などというほどの者ではありませんよ」彼はどこか戸惑いの表情を見せながらこう言った。

「いやいや、それはどうかしら。あなたの評判はなかなかのものですよ。あたしもそっちの方面にはちょっと詳しいもんですから」

「沙織は、美術関係の出版社に勤めているの」と莉子が口を出した。

「父親に反逆する若き芸術家。なんかそんな題名で書いてみたいという気持ちはあるんだけど、なかなかそう簡単には……」

 すると慎治は、さっそく彼女のどこか癖のある言葉に俗っぽい響きを聞き分け、こう言うのだった。

「あなた方ジャーナリストは、そうやって物事を大袈裟に創作しては、世間の物好きな連中を喜ばせたいのでしょうが、そんなお芝居には興味もないし、それに、たとえそれが、あなたの演出だとしてもぼくは見る気にもなりませんね」慎治は一応笑いを交えながらも、毒の含んだ言葉でこう批判するのだった。

「ああ、そういう事をおっしゃる方なのね。それならもう少し言葉を選ぶべきだったのかもね。それにしても、何がこの若き芸術家の逆鱗に触れたのか、そこが問題よね。でもね、あなたのお父様に関しては、それなりに知ってはいるんですよ……」沙織も負けてはいなかったが、こう言いかけたとき蒼依と目が合い口をつぐんだ。それは沙織の性格をよく知っている蒼依は、この先どうなるかは大方予想が付いていたので、もう止めるようそれとなく目で指示したからだった。しかし、それも虚しく父親云々という言葉に刺激されたのか彼はこう言い返すのだった。

「もうよしましょう。あなたの問題にしようとしているのは、ぼくにとってはもはや過去のことだし、たとえそのことで、この場が盛り上がったとしても、ほとんど無意味な話しですよ。でも、もし続けたいとあなたがおっしゃるなら、失礼ながらぼくはお暇させていただきます……」

 沙織も一瞬、彼の引きつったような顔を見ると、無理やり笑顔を作って、分かりましたという仕草をして黙った。急に部屋の中に重い空気が立ち込め、他の二人もどうしていいのか分からず戸惑っているようだった。

「これだから、沙織はいつも男に嫌われるのよ」すると莉子が突然怒り出し、沙織を非難し始めた。

「何を馬鹿なこと言ってんのよ。そんなこと関係ないでしょう」

「だって、いつも沙織はそうやって人の嫌がることに無理やり切り込んでいっては、反感を買っているだけじゃない。これは、はっきり言って一種の病気ね。そうよ、これはきっと職業病なのよ。自分が女であることにどっか引け目を感じているんだわ。それとも自分の弱さを隠すために、かえって攻撃的になっているのかもね、心理学的に言っても……」

「でた、でましたよ、お嬢様の十八番おはこが。慎治さん、この子はね、大学で心理学を勉強してるのよ。まったく、世間知らずなお嬢さんが持つ興味って、ほんとに底が知れないわ」

「十八番となによ。随分と馬鹿にした言い草ね。わたしは真剣に考えた上で、この学問を選んだの。たんなる趣味でやってるわけじゃないんだからね」

「それじゃ言わせてもらいますが、あんたのような世間知らずが、いっぱしに人の心を知ろうとしたって、およそたかが知れてるのよ。自分のことさえよく分かっていないのに、いったいどれだけ人の心が分かるって言うのかしらね。もう、そこで限界が見えているわけよ。すると、どういうことになるか、あんたはそのうちいろんな心理的な学説を覚え込んでは、人を見下すようになるだけなのよ。分かってるの?可愛いお嬢様!」

「いったい何を言っているんだかよく分からないけど、沙織は何か心理学を誤解しているんじゃないの?」

「もう二人ともよしなさいよ」とさすがに蒼依も見かねて口を挟んだ。

「慎治さんが、呆れていらっしゃるじゃありませんか。本当にごめんなさいね。たまに顔を合わすとこうなんですから。お互い気が強くて、意地っ張りで、ほんとに困ったもんです……」

 蒼依はこう言って、何とかこの場の雰囲気を変えようと、あれこれ思いをめぐらす内にあることが思い浮かび、いきなり立ち上がると部屋から出て行った。いったい何事かと思って他の三人は顔を見合わせたが、ほどなく蒼依は戻ってきた。その手には一冊のアルバムがあった。

「ほら、あった。慎治さんが小さい頃に何度か家に来たことがあったの。そのとき撮った写真よ。見て、こんなに可愛いの!」

 どれどれと言って、二人の妹たちが蒼依を取り囲み、そのアルバムに目を落とした。

「この子が慎治さん?信じられない!」と莉子が横にいる本人と見比べるようにして、こう言って笑った。慎治はいったい何が始まったのだろうと戸惑うのだった。自分の子供の頃の写真とはいったい何なのか?それがまたどうしてこの家のアルバムに?一体全体この奇怪な現象をどう解釈すればいいのか、まったく分からないのだが、ただ一つ悟ったのは、自分の知らない過去が、これからこの女達によって暴露されて行くのだろうということだった。

「この時、何歳ぐらいかしら?」と沙織は、その頃の自分と重ね合わせるかのように思い出の中に入っていった。

「そう、たしか四歳か五歳のころよ。ほら見て、沙織が慎治さんを抱っこしている写真もあるわ。あんたは小学三年生ぐらいで、その時、慎治さんを何かで泣かせてしまったのよ。覚えてる?」

「あたしが?ああ、それはまったく覚えてないけど、別のことで、はっきり覚えてることがあるのよ。原因はよく分からないけど、あたしが蒼依とひどく言い争ってしまい、そのとき彼が怒った顔をしてあたしに向かって来たの。おそらく蒼依をいじめているように見えたのかも知れない。いじめちゃ駄目って顔してさ。そのことは今でもよく覚えてるわ」沙織は、さっきの彼とのやり取りを思い出しながら肩をすくめるのだった。

「でも、この時、一番印象に残っているのは、慎ちゃんと一緒に過ごした時の思い出だわ」と蒼依が何か特別心に残っていることを思い出したかのように目を細めた。

「え?なにそれ」と莉子がさっそく、そのことに興味を示した。

「あの時は、どういう理由でか分からないけど、慎治さんが家に泊まることになったの。慎ちゃんは、わたしにとても懐いてくれて、一日中、わたしのそばを離れようとしないで、どこへ行くにも、わたしのスカートを掴んで離さないの。ある時など、用事があって、どうしてもちびちゃんのそばから離れなければならなくなったの。で、わたしは、すぐ来るから待っててねって、それこそこの子を心配させないようにと思って、そっと忍び足ですぐ戻るからねという顔をして部屋を出ようとしたのよ。そしたら、ちびちゃんの可愛い瞳から、大粒の涙が溢れ出し、今にも大きな声で泣き出さんばかりの表情になったので、わたしは慌てて彼の側に近づいて抱っこすると、わたしの首にその小さな可愛い手がまとわりついて、もう自分を置いて、どこにもいかないで、とでも言っているようにギュッと締めつけてきたの。それにまだあるわ。夜は一緒の部屋で、別々のお布団で寝たんだけどそのうち寂しくなったのか、わたしの寝床の中に潜り込んできて、小っちゃな声で「おかあさん……」って、耳元でつぶやいたのよ。それが寝言なのか何なのかは分からないけど、わたしは幸せな気分になって、一緒に朝まで抱き合って寝たことを今でも覚えているわ。でも、やはり本当の母親には敵わなかったのね。翌日、お母さんが、ちびちゃんを迎えに来たときにそれがよく分かったわ。家の玄関にその姿が現れたとたん、慎ちゃんは、まるで昨日のことなど忘れたかのように満面の笑みで、「おかーさーん」って言って母親に抱きついたの。わたしはそれを見て子供心にも嫉妬を感じたのよ。ええ、そうなの。それは今考えてみても、確かに嫉妬だったわ」蒼依はこう言って沙織の方をチラリと見た。

「要するに、自分の無力さを嫌というほど感じたわけね。そもそも母親に張り合おうなんて無理な話ね。子供にとっては、掛け替えのない命の綱なんだから。それは愛などという観念的なものよりも、もっと根源的なものよ。なぜなら子供には愛などという言葉は存在しないのだから。とくに男の子にとって母親というのは特別なんじゃないかしら。そうでしょう。莉子」沙織はこう言って、莉子からの返事を待っていたが、莉子はそれに対して何も言わず、じっと彼女の顔を見つめるばかりだった。沙織は莉子ならきっと何か言ってくると思ったのだが、いくぶん拍子抜けしてしまい、それならと持論を展開し始めるのだった。

「いったいさ、人間のさまざまな心理を分析して、おまけにそれを順番に分類して一冊の本にしたところで、果たしてそれを読んだ当人は、どういう顔をすればいいのかしら。自分をそのカテゴリーに無理やりめ込んで、なるほど自分はこういう人間なんだと分かったような顔をすればいいのかしら。おまけに人間を平均的なものにしときながら、これが人間だと、さも真理であるかのように言われても、果たして生身の人間としてそれで納得できるのかしらね。え、どうなの莉子。あんたも心理学の勉強をしてるんなら、あたしの疑問に答えて頂戴よ」

「そんなこと言って莉子を困らせないで。あなたの悪い癖よ。そうやって無理なことを言って人を追い詰めるのは」蒼依はこう言って沙織をたしなめた。

「彼女も心理学を学んでいるんだから、このくらいのことは理解してるんじゃないの?追い詰めるなんてことではない気がするんだけど」

「ぼくも、沙織さんのおっしゃることに賛成ですね」と、いきなり慎治が口を挟んできた。一同は、この発言にびっくりして一斉に視線を彼の方に移した。

「今、本屋に行って、心理学の本を一冊でもいいから手に取って見てごらんなさい。そこには本当に今の自分と関係のあることが、果たして書いてあるのか。もっともそれはそれとして学問的に成り立ってはいるんでしょうが、今の自分とは、およそ関係のない事柄で満ちています。自分の人生の困難さや苦しさを、果たして分かち合ってくれているのか。そんな倫理上のことは心理学とは何の関係もないと言ってしまえばそれまでですが、人間の事柄に密着している唯一の学問でありながら、人間の一番知りたいと思うことに何一つ答えてくれない。そんな学問が果たして人間に対して何をしたいというのでしょうか?」

「本当に、これは忘れずに何かに書いておくべきだわ」沙織はすっかり嬉しくなってこう続けた。

「慎治さん、あなたとはこのご縁を機に、いずれゆっくりとお話しをする機会を持ちたいと思ってますよ。これは決して興味半分のことではなく、もっと真面目な意味で言ってるんです。本当に今夜は楽しかったわ。それじゃ、明日仕事があるんで、これで帰るわ。蒼依また来るわね。莉子、もっとしっかりとお勉強しなさいよ。じゃあね、バイバイ」彼女はこう言って、来た時と同じように忙しげに出て行った。

「沙織ったら、なんか嬉しそうに帰って行ったわね。ところで、慎治さんって意外だった。芸術だけに興味があるんだとばっかり思っていたんだけど、そんなことまで考えていたなんて、ほんと意外だったわ」莉子はこう言って微笑んだ。

「いや、たんなる好奇心からですよ」彼はそれ以上多くを語らなかったけれど、今日のことは、彼にとってもその若い心に強い印象を残さずにはいなかったのだ。その後、しばらく談笑が続いたが、九時近くになったので、慎治はお暇することにした。彼は、この家族と近づきになった縁を不思議に思い、なぜか急にこの三姉妹のことを、とても親しみを持って見るようになった。『あっ、そうだ。聞くのを忘れた』と彼は突然思い出すのだった。あの家族と自分との関係は、いったいどういうものなのか、その疑問がずっとあったのだが、すっかり忘れていたのだ。『いや、また、いずれ聞く機会があるだろう。来週の日曜にまた行くから、その時でも』と彼は思い、まだ夜も更けぬ日曜の人々で雑踏する繁華街のイルミネーションを、それこそ親しみを込めた眼差しで眺め、まるで自分の心境がそのまま反映されているのではないかと思われるくらい、なぜか、その足取りは軽く、今までとはどこか違う自分に内心驚きを禁じ得ないのであった。


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