二十八 慎治からの手紙
初夏のある静かな夕暮れ時に、蒼馬氏は開け放たれた窓際に椅子を置き、その日、慎治から届いた手紙を読んでいた。それは珍しく彼自身に宛てられた手紙だったのだ。
『先生、ご無沙汰しております。あれからお変わりございませんか。お元気でおられますか。ぼくは、今フィレンツェの学舎で勉強しております。毎日を夢のような興奮状態で過ごしています。何もかもが新鮮で、荘厳で、素晴らしい限りです。日々の生活も亨さんのお陰で何の苦労も心配もなく、その日その日が充実した気分のまま過ぎて行きます。亨さんには、本当に感謝しているのです。実際去年の今頃のことを思えば、このような充実した生活を送っていようとは想像すら出来なかったのですから。何という変わりようでしょう。人生の不思議を感じます。亨さんには、すでにお礼の手紙を書いておきました。それに姉からさっそく手紙が来たんです。それによると、今まで住んでいたあの家を売ることになったそうで、今度からは私への手紙は、先生と一緒の住所に出すようにと言って寄越しました。何でも新居が決まるまで、しばらくは一緒に暮らすことになったというのです。
先生、ぼくは姉にはとても恩を感じているのです。それにどれほど姉の幸せを願っていることか。ですから、どうか本当のことをお聞かせ下さいませんか。ぼくは姉からの手紙で何かとても辛いことが起こったのだという、ある感触を持ったのです。それと言うのも、最初の手紙で、ぼくが結婚のことでこういうことがしたいのだと言っても、なぜかぼくの言うことに反対するのです。例えば、ぼくの留学中に結婚式を挙げることになったとしても、その時は、飛んで帰りますから、とまあ、冗談のつもりで書いたのですが、あなたの勉強を邪魔してはいけないので、留学中は結婚しないことにします、と書いて寄越しました。これを冗談として取るべきなのか、もちろん、そう取るのが普通でしょうが、しかし、次のような話しになると、どうも首を傾げてしまいます。ぼくが、お二人の晴れの姿を絵に描きたいと言ったところ、そんな余計なことを考えてはいけません、ただ、あなたは自分の勉強にもっとエネルギーを使わなければいけない、と言って来ました。果たして、これはそんなに余計なことでしょうか。もちろん、どうにでも取れる話しではありますが、先生、ひょっとして姉に何かあったのではないでしょうか。実を言うと、ぼくは、あの先生の言葉が、いま無性に気になりだしているのです。あの時、先生が仰った祈りの意味です。あの祈りの意味が、何かとんでもない結果を引き起こしているのではないかと、そんなふうに思えるのです。どうか先生、本当のことを聞かせてはくれませんか。心配しないで下さい。たとえどんなことを聞かされても、今のぼくなら大丈夫ですよ。いきなり飛んで帰って、姉を困らせるような真似はしませんから』
蒼馬氏は、これを読んで考え込んでしまった。それは、蒼依の心情を思ってのことで、たとえ愛すべき弟のためとは言え、嘘をつくのは、さぞかし辛いことであろうと思うのだった。それに、こんなことはそう続けられるものではないだろう、と秘かに思うのだった。いずれ、この嘘も露見せざるを得ないと考えるべきだ。それに慎治は、もう大方気づいていると思われるし、そうであれば、もはや隠すことは却って問題をこじらせるだけではないだろうか。ここは、蒼依自身にもう一度よく考えてもらう必要があるのではないかと考えた。彼は、次の日、沙織に慎治の手紙を見せ、自分の考えを蒼依に伝えてくれるようお願いするのだった。
さっそく、沙織は先生の危惧を蒼依に伝えるために出掛けていった。蒼依はしばらく考えていたが、どうやら納得したらしく、彼女にとっては、きっと辛い告白になるだろうとは思うものの、彼を余計な心配で大事な勉強を疎かにさせてはいけないと思い、自分が今どういう状態でいるのかを手紙に記すのだった。それから、二週間ほどして慎治からの手紙が先生のもとに届いた。
『先生、ご無沙汰しております。あれから、しばらくして姉から手紙が届きました。先生の計らいで、このように早く姉の本当の言葉が聞けたことは、先生のご尽力の賜物と思い、とても感謝しております。それにしても、これほど辛いことが姉の身に実際起こっていたということは驚きではあったものの、ある意味、仕方のないことではなかったかと今のぼくは思っているのです。しかし、はっきり言って、ぼくにはよく分かりませんでした。姉がなぜ、このような決断をしたのか、それはいつか先生が話してくれました、あの祈りのことにも関係してくるのですが、この手紙からはそれを読み取るのはかなり難しいです。おそらく、それは決して人には伝えられないものなのでしょう。そう考えるのが一番いいのかも知れません。と言いますのも、人は肝心なところで、孤独にならざるを得ないからです。それは秘密にしておきたいからではなく、どうやっても言葉にならず、やむなく沈黙するしか方法がないからです。しかし、いくら言葉にならないと言っても、彼女と身近に接していれば、何となく感じるものがあるのです。もっとも、それはやはりはっきりとした言葉にはならないものなんですがね。でも感じるのです。ですから亨さんも、そのあたりのことはきっと分かっていらっしゃるのではないかと思うのです。ところで、亨さんは、婚約を事実上破棄され、そのことでさぞかし落胆されているのではないでしょうか。ああ、どうか姉を恨まないで下さいと、先生からも言ってはくれないでしょうか。どうか、どうか、今の姉を静かに見守っていてほしいのです。それだけでいいのです。それだけで姉は救われるのです。時間がすべてを解決してくれるでしょう。そして新しい姿でまた蘇るのです。ぼくはそのことを信じます』




