二十七 心にもない言葉
蒼依の失踪から二週間ほど経ったある日、沙織が突然、亨のもとを訪ねてきた。彼は、あれ以来、蒼依から手紙も来ず、まったくの音信不通の状態が続いていたので、沙織の訪問は、彼をある意味有頂天にさせた。というのも、彼女はきっと蒼依の何かしらの情報を持ってきたに違いないと思ったからだ。彼女は居間に通された。そこには蒼馬氏も居て、彼はおもむろにソファーから立ち上がると、軽く会釈して、部屋から出て行こうとした。すると沙織は先生にも聞いてほしいことがあるので、どうか一緒に居てくれと頼むのだった。
「亨さん、先生、あれ以来なんの連絡もせず本当に申し訳ありませんでした。それに蒼依のことでは、亨さんには人一倍のご心配とご迷惑をお掛けして何と申していいやら、その言葉も見つかりません。このことがあってから、私は何かの手掛かりでも残ってやしないかと思って、彼女の部屋を隅々まで調べてみたのですが、何もありませんでした。それこそ立つ鳥跡を濁さずの状態で、完全に自分の手掛かりになるものを消し去っていたのです。ところが失踪して三日ほど経った頃でしょうか、彼女から手紙が届いたのです。それには彼女がどこに居るのかも記されていました。亨さん。あなたには本当に感謝しているのです。あなたが蒼依のことで、どれほど自制されたか、それを思うと本当にお気の毒で、何と言っていいやらその言葉にも窮するくらいです。でもね、彼女は、その手紙で、あなたには自分の居場所は教えてくれるなと、それだけはしてくれるなと、それは見苦しいくらい念を押しているのです。私は、その手紙を受け取ってから、すぐに彼女のもとを訪ねました。彼女は、やはりあなたのことがとても気がかりだったようで、私の顔を見るとすぐに、あなたのことを聞いてきました。私は、彼がどれくらい心配して、あなたのことで苦しんでいたかを、それは懇々と言って聞かせてやりましたよ。彼女は涙を流し、自分の愚かな行為を、確かに彼女は愚かな行為と言いました、今になってはっきりと自覚したと言ったのです。自分のことしか考えていなかったことを、ようやく自覚したのでしょう。それから、彼女は、とても気になることを言ったのです。「あの手紙は、ひょっとして亨さんに、とても悪い影響を与えるかも知れない。あんなことは書くべきではなかった。自分の方から逃げていながら、あれでは、まるで自分のことを、ずっと忘れないでくれと言っているようなものではないか」と言うのです。あいにく私は、その手紙のことは存知上げていませんが、きっと蒼依らしいことが書かれているのでしょうね。でもね、亨さん、この言葉もそうですが、手紙にどんなことが書かれていたとしても、決して蒼依の言うことなど馬鹿正直に取ってはいけませんよ。しょせん女の繰り言に過ぎないんですから。彼女はあなたのことが忘れられないのです。彼女は、自分の取ってしまった行動に、今頃になって戸惑っているんです。それにこんなことまで言うんですよ。「もう、わたしのことなど忘れて下さい。わたしはあなたを裏切った女です。そんな女など、さっさと忘れるべきです。それでも、どうしても忘れられないのなら、どうか、こう思って下さい。あの女はもう死んだのだと。そうです。それが一番です」と、それだけをあなたへ伝えてくれと言うのです。いったい彼女は何が言いたいのでしょう。まったく心にもない言葉とはこのことです。まあ、そういうわけで、あなたにはまったくがっかりな知らせではあったかも知れませんが、これから彼女は自分の取ってしまった行動に、どんなに苦しくても向き合って行かなければならないのです。どんなに辛くとも、もう後戻りはできないのです。どうか亨さん、あなたも辛いでしょうが、そこのところをどうか分かってやって頂きたいのです」
「もちろん、ぼくには蒼依さんの苦しみは、よく分かっているつもりです。ああ、それにしても、この胸の内のやりきれなさは一体何なのだろうか。しかし、ぼくは、もうこれ以上余計なことを言って、彼女を困らせたくはありません。ただ、どうかお伝え下さい。ぼくは、あなたの言った言葉を深く、この胸に刻みつけるつもりです。あなたの苦しみが、たとえぼくの想像を超え、果てしのない思いに誘われたとしても、あなたの魂がそう願うのであれば、喜んであなたのやむにやまれぬ決断の意味を見抜いて見せましょうと。どうか、彼女にそうお伝え下さい」亨は、蒼依の短い言葉の中に含まれているその意味を、その辛い意味を感じて、沙織に自分のその思いを託すのだった。しかし、彼には分かっていた。蒼依は決して自分のことが忘れられないのではない。そんなことなどあるわけがないのだ。今回のことには、そんな未練たらしい話しなど入り込む余地がないほどのまったく別の理由があるはずなのだ。きっと沙織もそんなことは分かっているのではないか。ただそう言うことで自分に気を遣ってくれているのかも知れない、と亨は思うのだった。
沙織は、このあと先生にあることを頼むのだった。それは慎治のことで、今回の蒼依の失踪は、いたずらに彼を心配させることになるだけなので、留学中だけでも秘密にしてほしいと、蒼依から堅く口止めされていたことを打ち明けた。しかし、慎治との約束もあって、手紙だけは二人の間でやり取りすることになっていて、それで困ったのは、蒼依の新居のことだった。おそらく慎治は二人は結婚したものと思っているに違いないからだ。問題は彼女の新しい住所である。まさか今居る蒼依の住所を教えるわけにもいかないではないか。かといって、住所だけ別に作るわけにもいかないし、そこで、「先生のここの住所をお借りできないか」と思いついたわけである。「ここなら亨さんも居るし、新しい新居が決まるまでの仮住まいという口実もつく」仮住まいというのであれば、今まで住んでいたあの家でもいいのではないかと思うのだが、あの家は今度売ることにしたと言うのだ。それと言うのも、あの家は莉子一人では広すぎるし、あまりにも不用心で、とても住んではいけないので手放すことにして、二人でどこかマンションでも借りて住もうということになったらしいのである。そういうわけで、「先生には、ご迷惑なことでしょうが、彼から手紙が来たら、どうかそのまま自分に引き渡してほしい、そうしていただければとても助かる」という、いささか手の込んだ配慮だが、先生も嫌がることもなく快く引き受けてくれるのだった。
老先生は、その夜、深い物思いに沈んで行くのだった。しかし、それにしても、この姉弟はどれほどの運命を、これから先、身に引き受けて行くのだろうか。もちろん、それは決して彼等だけの問題ではなく、人生そのものが、ある途轍もない謎として人間の前に立ちはだかり、ただ苦しめるだけの一種不可解なものであるかのように思えてならないからだ。彼自身としては、もはや自分の沈み行く人生を、まるで他人事のように眺めてはいたが、それでも、決して苦しみが消え去ったというわけでもないのだ。果たして自分の今まで生きて来た人生が意味のあるものであったのかどうか、もちろん結論など出るはずもなく、ただ夢と同じで見る者をいたずらに混乱させるばかりである。それは自分の過去を振り返り、その記憶の闇を明らかにしてやるだけでいいのだ。そこから浮かび上がって来るのは、累々たる失敗と錯誤の山、失望と後悔の念。それらが、いかにも解いてみろと言わんばかりの縺れようで、その不気味さを彼の目の前に突きつけてくるのだ。まったく、それは正視するには耐えられず、目を背けざるをえないのだが、この何とも言えぬ苦痛は、果たして自分に何を訴え掛けようとしているのか。もし、死が単にこの苦しみからの解放だけであったなら、ある意味喜ばしいことであるのかも知れない。しかし、この魂は決してそんな単純な喜びのために、この苦痛があるのではなく、もっと違う何かを自分に訴え掛けようとしいているに違いないのだ。
ああ、それにしても、あの青春の過ちは、もはや取り返しのつかない行為ではあったが、果たして残るのは後悔の念だけなのだろうか。彼女の死を看取ったとき、まだ年端も行かぬ三人の子供を残し、まったく違う人生を生きられたはずの、その短い一生を思うと、もはやどんな言葉もその生気を失い、彼女の骸同様、朽ち果てるしかなのだ。
彼の寝室には、亨が慎治から買い取ったあの蒼依の肖像画が、ちょうど彼のベッドの左側の壁に掛けられているのだった。亨からわけあって譲り受けた、この肖像画は、今となっては、彼の心を映す一種の鏡のようなものになっていたのである。蒼依の今回の失踪にしても、やはりそこに自分という存在の影を見ぬわけにはいかないのだった。蒼依については、子供の時から何かと相談にも乗り面倒を見てきた関係でか、まるで自分の子供のようにも感じられることも正直あったのだ。亨に請われて蒼依との結婚を仲立ちしたが、それが却って心の負担になったのではないか。彼は己の闇の深さを感じつつ、ぼんやりと蒼依の肖像画を見つめるのだった。すると、あの苦痛の意味が、忽然と、この絵の中から浮かび上がってくるように思われたのである。それは決して癒やされることのない彼女の魂を、ただ祈りだけが、そこから救い出してくれると信じた、蒼依の深いその信念を、この絵の謎めいた美の中に、はっきりと感得できたように思われたからだ。それはまた彼女の母親の魂が、この絵を借りて蘇り、蒼依の魂と一緒になって、その嘆きを共に分かち合っているようにも思えてくるのである。ああ、これが自分の苦痛の意味なのだ。彼女たちの苦痛はそのまま自分の苦痛なのだ。
彼は、この絵を、今ではとても大事にして、もはや彼の生活には、なくてはならないものになっていたのである。もっとも、この絵は、亨にとっても大事な絵ではあったのだが、なぜか今となっては、もはや一瞥しただけで、そこに何とも言いようのない苦痛を感じると言うのだ。それはもしかして彼女への未練が、なかなか断ちきれないということなのだろうか。もちろん彼はそのことをはっきり明言したわけではないのだが、彼の心中を思えば、あたらずと雖も遠からずと言っていいのかも知れない。




