二十六 蒼依の失踪
さて、この物語も主人公の旅立ちとともに終わりを迎えるのだが、それと同時に、突然ではあるが、蒼依の失踪事件について、どうしても話す必要が出来てしまったのである。このことは妹たちを、ひどく困惑させ心配させた事件ではあったが、亨にとっては、決して晴天の霹靂といった、わけの分からない発作的なものではなかったのである。というのも、この行動は、もう大分前から彼女の心の中で用意周到に計画されもし、亨に知られることなく秘かに進められていたものであったからだ。しかし、たとえそうであったとしても完璧に事を運ぶことなど、そうそう出来るものではない。ましてや相手は彼女の婚約者であり、どんなに微かな表情の動きにも自然と反応してしまい、そこに何らかの理由を探してしまうような精神状態でもある、そういう時期に、どうして彼女の不審な行動などを見逃すはずがあろうか。確かに、彼はそういうおかしな行動に気づいていなかったわけではないのだが、どこかに怖い気持ちもあって直接聞くこともなかったのである。それというのも、何かそこに彼女にとって、とんでもない理由が潜んでいるように感じて、とても聞き出せないでいたからだ。もちろん、これは彼の臆病さから来る一種のためらいに原因があったのだが、しかし、それだけが原因とも言えなかったのである。彼は蒼依と身近に接するようになって、次第にはっきりと感じるようになってきたのだ。彼女には何か特異なと言ってもいいくらいな心の傾向があって、それがここに来て急にあからさまになって来ていたということである。それは彼と一緒に居るときによく起こったのだ。彼女は婚約してからというのもの、どこか鬱ぎ込むようになって、ちょっとしたことでも涙を流したからだ。困ったことに、その理由を聞いても答えることはなかったのである。これには彼も、かなり落ち込んでしまい、そんなに自分と結婚するのが嫌なのかと、実際のところそんなことは考えたくもないのだが、そうとっても仕方のないところまで追い詰められてしまったこともあったのである。しかし、そうは言っても、原因が何であれ、どうして彼女をいたずらに咎め立てることなど出来ようか。今考えるべき事は、そんなことではなく、こういうことが起こった以上、何としても彼女を守らねばならないということであった。というのも実際のところ、こういう失踪事件が起こったことで、それが世間に知られ彼女に良からぬ影響を与えかねないからである。
そういうわけで、自分の婚約者でもある大事な女性の心情を思えば、それは決して表沙汰にして騒ぎ立てるべきものでないことだけははっきりしている。彼は、そう思い、このことはごく限られた信頼出来る人にだけ打ち明け、決して世間に漏れないよう細心の注意を払ったのだ。それにこれは失踪と言っても、あくまでも彼女の心の中での出来事で、それは決して世間的な物差しで測れるようなものではないし、ましてや好奇の目で見られるべきものでもないからだ。亨は彼女の今回の行動を、どこまでも内面的な動機から考えていかなければいけないと思っていたので、こちらが世間並みの思慮で勝手に動いてはいけないと主張し、警察への捜索願いなど断固拒否したのだ。
そういう彼の考えは、その後、蒼依からの手紙である意味裏付けられることになった。その手紙が、彼の手元に届いたのは、彼女が失踪してから三日ほど経った頃だった。彼は、その達筆な手紙を手に取ると、読まずとも自ずからその心情に迫って来るような不思議な感覚を持つのだった。その手紙にはこう記されていた。
『亨さん、あなたに、このようなお手紙を書かねばならなくなったことを、まず始めに深くお詫び致します。すべては私のわがままから起こった、許されぬ行為だとはよく分かっているつもりです。また、あなたや、妹たちに心配を掛けていることも重々承知しています。とくに、あなたには許しを請う、どんな言葉も見つかりません。私は、唯々あなたのその寛容なお心にお縋りするしかないのです。どうか、私の身勝手な振る舞いを、ご容赦下さるようお願いいたします。
私は、今ある所に身を寄せています。詳しい場所は申せませんが、それはどうか許して下さいね。でも、決して心配されるような所ではありません。ただ、そこは私の心にとっては無くてはならない神聖な場所なんです。ああ、どうか、私の勝手な心情を語ることをお許し下さい。決して、あなたの心を蔑ろにしているわけではないのです。でも、私のどんな言葉も、あなたにとっては虚しく聞こえるかもしれません。もし、そうであるなら、とても辛いことです。しかし、たとえそうであったとしても、やはり、私にはあなたの誤解を恐れずに、お話しせねばならない義務があるのです。
今回のことは、あなたと出会う前から、すでに決めていたことなのです。それは、私の心の闇から出た変えようのない帰結でした。きっと、あなたはこのような私の話しに失望されるでしょう。あなたの窺い知れないところで、秘かに進められていた話しなど聞きたくもないでしょう。許して下さいね。
私は、あの時、あなたの強い思いに押されて、プロポーズを受け入れてしまいました。あなたはきっと思うでしょう。それを受け入れておきながら、なぜ逃げるのかと。しかし、それが私にとって、どれくらい嬉しくもあり、辛くもあったか、あなたには理解出来ないものであったろうと思うのです。あなたはいつでしたか、そうあの最初にお食事をしたときに、こう仰いましたね。たしか、人を理解するには忍耐が必要だと。だからあなたにもそうして欲しいと言いたいわけではありません。ただ、とても難しい要求だとは思うのです。人は誰でも人を理解するより先に自分の思いの方を優先するからです。
今この手紙を書きながら、あなたとの思い出が色々と蘇って来ます。とくに、最後になって、あなたをひどく困らせてしまったことだけは、本当に申し訳なかったと今になりとても悔やんでいます。ああ、どうしてなんでしょう。どうして人はこのようにしてまで、生きて行かなければならないのでしょう。この世に生まれてきたという意味は一体何なんでしょうか。人はこの世に生まれた以上、幸せに生きたいというのは真実でしょう。でも、なぜかそれが出来ないという現実があります。それは一体なぜでしょう。なぜ、人はこうも混乱した人生を送らなければならないのでしょう。それも、あえて自分からそれを望んででもいるかのようにです。こんな生き方はやはり笑うべきことでしょうか。神様ならきっとお笑いになるでしょう。でも神様ならぬ私からすれば、その魂は、どこまでもどこまでも深い嘆きの中で、引き裂かれるくらいの思いで泣いているのです。
それでも、すべては、私の責任において決めたことなのです。私のこのような嘆きを、あなたならどうお考えになるか、私はいろいろと考えてきました。ああ、あの時、あの素晴らしい夜景を見ながら、楽しくお話ししましたね。その時、私はここにひょっとして私を唯一理解してくれるかも知れない人がいると思ったのです。本当にそう思いました。あなたは世間の人とは、ちょっと違ったものの考え方をされる人に思われるのです。それに、人を理解するにも独特のやり方があるのではないでしょうか。まるで相手に乗り移ったかのように、ご自分の身に引き受けて考えることが出来る才能です。人の痛みがご自分の痛みでもあるかのように感じられるのかも知れません。でも、そこには一切感傷的なものは見られません。あなたはどうやら、人に同情すると言うよりも、何かもっと違った感情に支配されているのかも知れません。あの時、弟の慎治と言い争ったときもそうです。あなたには彼の苦しみがよく理解できたのでしょう。だからこそ、それがどんなに子供じみた苦しみでも、あなたにはそれが尊重できたのです。でも子供の苦しみだからこそ、それはとても純粋で痛々しくもあり、何としても労ってあげなければならないのです。それでなければ、その苦しみは何の報いも受けずに、ただ恨みへと変わるだけでしょう。
弟のことでは、あなたには感謝してもしきれないという思いがあります。今回の留学のことばかりではなく、彼の突飛な考えにお付き合いしてくれたその思いにも、私は深く感謝しているのです。それに、あの決断には私も驚いてしまいましたが、慎治はもっと驚いていたようですね。きっと信じられなかったのでしょう。あの子は、以前に私のところに来て、あなたにあっさりと断られたことを話しました。私の承諾が必要だと言われたらしいのです。でも、その子供のような思いつきを、どうして笑うことが出来るでしょうか。これには彼の思いが、彼にとって、とても大事な思いが秘められていたのです。そこには彼のこれからの生きて行かなければならない人生に対して、どれほど自分が弱い人間であるかを知る大事な胚珠となるべき秘かな思いが隠されていたからです。もちろん、そんなことは彼自身は知りもしないでしょうけど、どうしても、そうなることが彼には必要だったのです。それに、それは決して彼の弱点にはならないでしょう。それをそれとして受け入れて行けば、きっと一面的でない幅の広い人間に成長していくはずです。
どうか亨さん、私の勝手な決断を、あなたのその類い希なる洞察で見抜いて下さい。それが私にとって、どれほど必要なことであったかを、あなただけに理解してほいしからです。そうしていただければ、私はきっとこれから先、ずっとあなたと繋がっていくことができると思うのです。あなたの心が幸せであらんことを永遠にお祈り申し上げております』
亨には、この手紙が彼に対する言い訳などではなく、彼女の切羽詰まった嘆きのようにも思えるのだった。そうせざるを得ないという嘆きの中で、この決断はなされたのだ。彼女は手紙の中で、自分は泣いているのだと言ってはいるが、恐らく自分の幸せなど、それほど望んではいないのかも知れない。これは恐らくだが、慎治が、いい人生を送れれば、それが自分の喜びでもあり幸せでもあったのだ。亨に対しては、正直なところ、それほど未練があるわけでもないのである。もちろん、これは変に誤解されやすい意見だし、亨を拒否したその答えにもならないことは承知している。ああ、しかし、どんな意見にしろ、決して合理的な説明など出来るはずもないのだ。ところが、彼には分かっていたのである。
亨は、この手紙を読んだ後、しばらくは心の隠れ処に引きこもるごとく、蒼馬氏の家の一室に閉じこもっていた。蒼依の失踪は、彼女の信念から出た行為とはいえ、彼にはとても痛手であったことだけは間違いないのだ。なるべく彼女の意に添うように考えてはみても、その失われた思いの取り返しのつかない失望感とともに、やはり生身の人間として耐えがたい苦痛となって彼を襲ってくるのだった。ただ、ひとつ言えることは、そうした苦痛は決して彼の人生を腐食させるようなものではなかったということである。それはどういうことかと言うと、彼には分かったのだ。彼女はもう自分の中でしか生きないだろうことを。それが彼女の信念であり決意なのだと。それに、これは大事なことではあるが、亨は決して惨めに見捨てられたわけではないのだ。その証拠に、彼女は言っているではないか、自分の真意を見抜いてほしいと。そうすれば自分の魂と繋がることが出来るだろうとまで言い残して。




