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蒼依の肖像  作者: 吉田和司


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二十四 土壇場の決断

 ところで、その後の慎治であるが、まるで憤怒のごとき気概で、その試練にも耐え、ようやく目的地にたどり着くことが出来たのだった。しかし、頑張ったとは言え、その代償は残念ながら、あまりにも高くついたのだ。もはや身嗜みなど気にしているそんな段階などとっくに通り越していた上に、その表情は痛ましくも寒さで強ばり、髪の毛は鳥の巣のごとく乱れに乱れていたからである。とはいえ、見るからにその悲惨な姿は、決して哀れを誘うようなものではなく、却って何となくそこから気高い雰囲気すら漂って来ていたのである。それは敢えて形容すれば、あたかもその憤怒さえ凍り付かせた蒼白の貴公子のごとき風貌とでも言えようか。『ああ、それにしても一体何だろう?身体中寒くて震えているくせに、この熱き高揚感は。まるで大事な仕事でも遣りおおせたような気持ちだ』彼は自分の不思議な高揚感になぜか奮い立つようなものを感じるのだった。しかし、自分の足下に意識が行くと、その興奮も一瞬で覚めた。確かに身嗜みもそうなのだが、足先の感覚がまるでなかったのだ。凍傷にでもなるんじゃないかと心配さえするのだった。店内は呆れるくらい暖かいのだが、足下だけが冷え切っているのだ。何とか靴下だけでも履き替えたいものだが、その代わりがあるわけでもないので、それならせめて足先だけでも温めたいと思うのだった。しかし、それもままならぬ以上、なんとか自分の体温だけで、この状態を乗り切るしかなかった。

「遅れてすいませんでした」彼は、なるべく平静を装おうとするのだが、身体は正直で、さっきからずっと小刻みに震える続ける歯の隙間から、弱々しく、その言葉が漏れるのをどうすることも出来なかったのだ。『何という惨めったらしい声だ。これじゃ、先が思いやられる』

「この雪ですからね。実際心配しましたよ。ひょっとしたら来られないのではないかと……」亨は彼のどことなく妙な雰囲気を感じ取りながらも、どこまで突っ込んで聞いていいのか迷うのだった。

「とんでもありません。ぼくはってでも来るつもりでしたよ」彼は、亨の言葉で、ようやく自分を取り戻したのか、力強くこう言うのだった。それはやはり自分がいかに苦労して、ここまで「這うように」歩いて来たか、そこには確かに譬え以上の意味合いがあったのだ。

「雪で滑らなかった?」蒼依がこう聞いてきた。『蒼依の聞きそうなことだ』と慎治は思い「いや、いくらなんでも、そこまで運動神経は鈍くありません」と、さも得意げに言うのだった。

「わたしは、見事に滑りました」と蒼依は笑いながら、慎治にもわざわざそのあざの痕跡を見せるのだった。『なるほど、滑ったんだ』彼はどういうわけか、蒼依の屈託のない笑顔を見ると、一瞬彼女がこの席に出て来たことに対する憤りが不思議と薄らぐのを感じるのだった。とはいえ、その重荷は決して消えたわけではないのだ。彼が乗り越えなければならない山は確かに険しいのだが、彼がこのまま登りきれるのか、それとも途中で滑落するのか、それは偏に彼の覚悟の程に掛かっていたのだ。

「それでは、三人揃ったので始めましょうか」亨はこう言って、店員を呼んでその旨を伝えた。

「このお店の料理はなかなかのもんですからね。決して慎治さんのお口を裏切らないことは、ぼくが保証しますよ」彼は、こう言って笑った。慎治もお追従で笑って見せたが、なにぶん足下の不快さに気持ちの半分は取られていたので、その笑いもどこかひん曲がっていたことだけは正直否めなかったのだ。それでも何とか彼の話しに答えなければと思い「と言うことは、つまり、あなたはよくこのお店に来られるんですね?いや、どうもぼくのような貧乏人とは違って、さぞやグルメな生活を送っていらっしゃるんでしょうね?羨ましいかぎりですよ」

 慎治はちょっとした皮肉のつもりで軽く言ってはみたのだが『これじゃ、まるで酔っ払いの寝言じゃないか』と感じて、あまりの恥ずかしさに耳まで赤くするのだった。

『ああ、何だっておれはここに来たんだろう?あの時、雪で行けないと言っとけば何もこんなに苦しむこともなかったんだ。何でおれは歩いてでも行こうと思ったんだろう?確かに、この雪はおれに味方をしてくれていたのだ。それを、何で!あの時、断っていれば今頃おれはこんな惨めったらしい無様な気持ちにならずに家で静かにお茶でも飲んでいられたものを。それを……この、馬鹿が!』

 彼はすっかり自分の阿呆さ加減に嫌気が差してこう自分を罵るのだった。もはやこれから自分がどうやって交渉をして行くのかと言ったことなどとんと忘れていたのだ。こんな体たらくで先が思いやられるわけではあるが、それでも彼は何とか気持ちを切り替えて、この地獄のような状態のなか冷静にならなければと一応考えるのだった。

『少し落ち着かなければいかん。それでなければ頭だって働いてくれないぞ』

「そう言えば、以前このお店でお食事をしたことがありましたね」亨はこう言って、慎治がやたら赤くなって黙り込んでいるのを思いやってか話題を蒼依に振るのだった。「覚えていらっしゃいますか?もうだいぶ前になりますが」

 蒼依はそれを聞かれるとなぜか赤くなるのだった。その真意はさておき、慎治はその話を聞くと自然と二人の過去に思いを馳せずにはいられなかったのだ。もっとも、そこには以前のような苦しい思いなどあるはずもないのだが、なぜか、あの当時を思い出すことで、今になってもそう言ったことに拘泥している自分が、どこかにまだ残っているのではと怪しむのだった。彼はそれを否定したいと思ってか、こんなことを口にしたのだ。

「蒼依さんも、いい方と出会えて本当に良かったと思います。突然変なことを言うようですが、びっくりしないで下さい」彼はまた変なことを言い始めたぞとは思ったが、もうこの馬鹿は誰にも止められないと観念するのだった。「ぼくは、あなたの身内として、いや、弟として言わせてもらいますが、このような方は、世界広しと言えどもそうそう見つかるものではありません。それに、このような席まで設けていただき何とも言いようがございません。おまけに蒼依さんにまで、ご同席いただき、ぼくとしてはいろんな意味で今回の留学が自分の人生にとって意義あるものになることを願って止みません」彼は、これだけのことを恥ずかしげもなく一息で言い切るのだった。二人は唖然として聞いていたが、それでもやはり、そんな歯の浮くような言葉からも彼の偽らざる思いを読み取ることが出来るのだった。とくに亨は、彼の心の内が手に取るように分かる気がした。しかし、そこは慎重に彼との話しを進めていかねばと思うのだった。その時、店員が料理を運んできた。

「慎治さん、ちょうど料理が来ましたので、その続きはまた後ほどということで、今はこの料理を頂こうではありませんか。料理は出来たてが一番ですから。さあ、蒼依さんも召し上がって下さい」

「なるほど、あなたのおっしゃる通り、この料理は最高ですね」

「ぼくは、ここのイタリア料理が好きでしてね。ところで、慎治さんはイタリアはお好きですか?」亨は何気に言ったこの言葉に、あることがふっと脳裏を掠めたのだった。しかし、それと同時に、この一言が慎治の意外な思い出を披瀝することにもなったのである。

「イタリアですか?そうですね、イタリアには、なぜか今でもぼくのイマジネーションを掻き立てるものがあるんです。実は、ぼくは一度だけですけど、父親に連れられてイタリアに旅行したことがあるんです。中学生のころでしたか、夏休みに行ったのです。最初、この親父と旅行かよって思いました。それも外国だと聞いて、尚更怖じ気づきましたけどね。でも、この機会を逃したら一生後悔するぞって脅されて、迷った挙げ句、しぶしぶ付いて行く羽目になったんです。その父親にイタリアのあちこちを引っ張り回されたんです。しかし、そのうちなぜかこっちの方が夢中になってしまい、しまいには父親のことなどすっかり忘れてしまいました。そのくらい魅了されてしまったのです。お陰で随分といい刺激を受けましたけどね」

「確か、あなたの父上も画家でしたよね?やはり、あなたが画家を目指したと言うのも、お父様の影響があったからでしょうか?」

「ああ、実に微妙なご質問ですね」彼は、蒼依の方をちらっと見て、この話題にずかずかと踏み込んでいっても大丈夫だろうかと言った危惧の念を持つのだった。しかし、何か言わねばと思い「影響というか、小さい頃から手ほどきは受けてましたからね。自然と見よう見まねで父親の絵を模写したりもしてましたよ。とはいっても、ぼくの親父は、あまり褒められた生き方をして来ませんでしたからね。ある時期からひどく父親に反抗するようになったんです。ですから影響と言われましても、何て言いますか実に微妙なんですよ」慎治は、ひょっとして彼はこの「微妙な」という意味に気づいていないのだろうかと、ちょっと心配になってきたのだ。

「ああ、よくある思春期の親に対する反発ですね。確かに微妙ですね」もちろん、亨は、彼の父親が彼女の父親でもあることぐらい百も承知だった。しかし、だからこそ、そういう事も、この際、話題にすべきではないかと秘かに考えていたのだ。『なぜ、その事実に触れてはいけないのだろう。彼女が傷つくからか?ああ、それこそ、彼女をそういう立場の女であることに、いつまでも縛り付けることになるだけではないのか?果たして、それでいいのだろうか?少なくとも自分は嫌だ。彼女と結婚した後も、その事実に一切触れずに、一体どんな生活を送れるというのだ』それは、『きっと二人の間に恐ろしいほどの闇を作り上げてしまうだけだろう。人間は、どこまでも弱い存在だ。そんな闇のような生活にいつまでも耐えられるものではない。彼女だってそのくらいは知っているはずだ』と彼は思うのだった。

「いや、ぼくも自分の父親にはとても反発しましたよ。あなたと一緒です。しかし、だからこそ、今があるのではないでしょうか?そうやって、親の嫌な面を見るからこそ子供は反発して、そんな親から抜け出したいと思うのです」

「確かに、そうかも知れません。しかし、ぼくの場合は、何て言いましょうか、とても反発などという生易しいものではなかったのです。あまり深入りするのは、この場に相応しくもないので止めますが、実を言えば、今でも父親を恨む気持ちは正直なところ消えてはいないのですよ。いや、もうお終い、お終い、こんな話しは止めましょう。食事がまずくなりますよ」

「ああ、慎治さん。ぼくはあなたのお父様については、正直あまり存知上げてはいませんが、とても関心があるのですよ。なぜなら、あなたのお父様は、彼女のお父様でもあるからです。もちろん、あなたのご心配はよく分かります。しかし、なぜ、知ってはいけないのでしょうか?これはとても重要なことに、ぼくには思われるのですよ」

 慎治は、彼がなぜ、そこまで知りたがるのかよく分からなかった。それも彼女の前で。一体何を考えているのだろうと不審に思うのだった。

「慎治さん、亨さんにお話ししてやってくれませんか。これはわたしからのお願いです。亨さんは、わたしのことを思って、そうおっしゃっているのだろうと思うのです。ですから、わたしのことなど気にしなくてもいいのですよ」蒼依は、こう言って慎治に話すよう促すのだった。驚いた慎治は、一体この二人の頭の中はどうなってるんだろうと呆れるのだった。『仕方ない、そこまで言われれば、話すことに何のためらいを持とうか』

「ところで、亨さんは、あの蒼馬先生とはご昵懇でいらっしゃいましたよね。実を言うと、ぼくはあの人からある意味、本当の父親のことを教えてもらったと言ってもいいくらいなんです。それまでは、ぼくは実際の父親のことなど、これっぱかしも知ってはいなかったのです。ただ、家庭を顧みない堕落しきった駄目な父親として見ていただけなんです。ほんの表面的にね。まあ、それも仕方ないことだったのかも知れません。彼と、ぼくの間には修復しきれない裂け目が広がっていたからです。それにぼくもまだ子供でしたし、ただ訳もなく嫌いだったんです。あの男が。でも、今になって思えば、親父も哀れだと言えば言えなくもないと考えるようにはなってきました。身内の恥を晒すようで、とても嫌なんですが、親父は女にはとてもだらしのない男だったのです。それは、もうほとんど病気でした。母親はそれでも辛抱強く、夫の仕事のことを考えてあれこれ口を出さないでいたのです。もちろん彼は家庭のことなどまったく顧みませんでしたからね、母親は、ぼくを育てるために一人で苦労しなければいけなかったのです。それでも物心がつくまでは、ぼくにとっては良き父親でもあったのです。絵のことに関しては、本当によく教えてくれましたからね。それは今になって思えばとても有難いことだったのです。彼は世間的にはそこそこの評価を受けていた画家ではありましたが、何が原因だか今もって分かりませんが、突然自らの命を絶ちました。ぼくたち母子を見捨てて勝手に死んだのです。何という無責任な男でしょう。そりゃ、彼には彼の苦労もあったのでしょうが、それは彼個人の精神的な問題で、ぼくたちは一体その事とどう向き合えばいいのでしょうか。向き合いようがないのです。もっとも、これは初めて口にすることですが、彼が死んでくれて内心ホッとしたという気持ちが、その時ぼくの心の中に生まれていたことは事実なんです。ええ、これで母親と二人で、やっと穏やかな生活が送れると考えたわけですよ。しかし、それは実に甘い考えでした。と言うのは、母親は決してそうは考えていなかったからです。やはり、そこは彼の妻だったからです。ぼくには思いも及ばない何かがそこにはあったのでしょうね。つまり男と女のわけの分からぬ奇妙な関係が。母親はそれ以来、なにか魂が抜けてしまったように生きることに絶望していたようなのです。それでも、ぼくを大事にしてくれてはいましたがね。ぼくを大学に進学させるためにそれは頑張ってくれたのです。しかし、それが達成するやいなや、母親は病に倒れ呆気なく帰らぬ人になってしまいました。そのことは、ぼくにとっては、父親の死よりも深刻でした。母親の死は、もうほとんどぼくの死でもあったからです。まったくのところ、ぼくは蒼依さんと出合うまでは、本当に生きることに何の意味も見い出せないでいたのです。ああ、その点で蒼依さんは、ぼくの人生の恩人と言ってもいいくらいなんです。まったく、実に不思議な巡り合わせですね。いろいろありましたけど、ぼくは本当に今とても感謝しているくらいなんです。蒼依さんを始めすべての事に。すべての……」彼は、なぜか感極まったように涙を流すのだった。その涙は、今まで彼の周りで起きた、すべてのことに対する感謝の涙でもあったのだ。慎治は、この時はっきりと感じたのだ。なぜ自分がここに居るのかを。なぜ生きなければいけないかを。まるでそれは今まですっかりもやが掛かって見えずにいたものが、図らずもこうして語ることによって、心の中が突然晴れ渡り、何かがはっきりと見渡せたという驚きでもあったのだ。

「いや、慎治さん。なんか無理を言ったようで申し訳ありませんでした。しかし、ぼくは、あなたの話にとても感銘を受けました。あなたがどれくらいお姉様に感謝しているかが、よく分かりましたから。確かに不思議なえにしですね。あなた達二人の間に、とても意味深いことが起こったのだと思います。ところで、ぼくは、さっきふと思ったのですが、どうでしょう、あなたの留学先をイタリアに決められたら。先程の旅行の話しから察するに、この選定はあなたにとって決して見当外れなものではないと思われるからです。いかがでしょう?」亨はこう言って、この思いもよらない提案にどう答えたものか、それとも彼が何を言ってるのかはっきりとは理解出来ていないのか、そのいずれとも取れる慎治の放心したような顔を見つめていた。

「もっとも、ご自分ですでに行きたいところでもあれば話しは別ですが」亨は彼が黙っているのに戸惑いながらも、ひょっとしてと思いこう聞くのだった。

「いや、留学先のことなど考えていませんよ。それにそんなことをあれこれ言える立場でもありませんしね」慎治は未だに、それがどういうことなのか分からぬまま、なぜか蒼依を見るのだった。

「亨さんは、あなたの留学先のことで色々と考えてくれているんですよ」蒼依は、彼の問いかけてくるような視線に、こう答えるのだった。慎治はすっかり考え込んでしまい、一体これはどういうことなのかと真剣に考えるのだった。『ひょっとして自分の今まで考えてきたことなど、まったく見当違いも甚だしい馬鹿げた妄想だったのだろうか』と。『もしそうだとすれば自分は、かなりおかしな立場に身を置くことになる。しかし、たとえそうだとしても、やはりここに来た目的は、彼に自分の描いた肖像画を買ってもらうためだということは変わらないのだ』たとえその話しが思ってもいない方向に行っているとしても、やはりその目的を放棄するわけにはいかなかったのだ。そんなことをすれば『この場に来た意味がそもそもないではないか。まさか飯を食うために来たわけでもあるまい』彼は改めて自分の覚悟を、もう一度確認するのだった。そうは言っても、すっかり調子が狂ってしまい、この先一体どうやって話しを進めて行けばいいのか、まるで見当もつかないのだった。

『ああ、もう当たって砕けるしかないのだ。このまま黙っているわけにもいかないではないか。覚悟を決めてぶつかるだけだ』実を言うと、彼はこの時、正直ぞっとしたのだ。自分の置かれている立場が突然手に取るようにまざまざと見えたからだ。変な話しだが、彼は今まで夢の中にでも居るような、そんな気になっていたのかも知れない。いわば、もう一つの現実が別の方向からやって来て、いきなりそれとぶつかりあっと言うまに跳ね飛ばされて目が覚めたという、それくらいの衝撃を受けたのだ。

「亨さん、どうか、ぼくの話しを聞いて下さい。いや、今さら改まって言うのも何なんですが、例の肖像画のことです。あの件のことは、この前あなたとお話しして、お互い分かり合えぬまま別れて仕舞いましたが、今日こうやって席まで設けていただき、改めてあの時の続きをしようと思いまして、ぼくもこうしてやって来たわけです。しかしながら、いきなりあなたから留学先のことを聞かされ、はなはだ戸惑っているわけです。一体それはどういうことなのか。ぼくとしましては、まったくその話しに困惑しているといいますか、どう考えればいいのかも分からないのです」慎治は、もうほとんど自分でも何が言いたいのかもはっきりせず、まさしくその話し方はしどろもどろであった。

「慎治さん。どうか落ち着いて下さい。いや、何もあなたを驚かせようとして言ったわけではないのです。ぼくは、もうずっと前から、あなたの留学のことで、沙織さんといろいろ相談してはいたのです。つまりあなたの留学先が決まった場合の、いろんな手続や現地での住居とかそのほか細々としたことをですね。沙織さんは、何かとそっち方面には詳しい方で、ぼくとしても大いに助かったわけです。そこで、今日あなたにそのことをお知らせしよう思いましてね。蒼依さんにも同席してもらいまして、あなたの同意を得たいと思ったわけなんです」

「そうですか。よく分かりました」とっさにそう言ったものの、慎治はちっとも分かってはいなかったのだ。つまり、それが分かると言うことは、彼のこれからの交渉に計り知れない重圧となって跳ね返って来るのを嫌でも自覚するということでもあったからだ。それを別の言葉で要約すると、交渉どころの話しではないぞ、とそうはっきり告げていたからだ。彼はこの時、今まで自分の中で起こった一切のことが、まるで引き潮のように無限の彼方に引いていくのを感じるのだった。それは、まさしく自分の足下の砂もろともに引っさらっていくような、めまいにも似た気持ちの悪い感覚だった。彼は文字通り、ぐるぐると目の前が回り出して来たような感覚を覚え、何を思ったのか、こんなことを言うのだった。

「その、ぼくの肖像画のことですが、よく考えたのですが、実際のところ、あなたのご理解を得るには、どうお話ししていいのやら今以てよく分からないのです。なぜなら、これはぼくの心の中の問題だからです。それに、ぼくの心情を客観的にお話しすることは、つまりあなたの納得いくようにお話しすることは、とても難しいだろうと、今になってそうはっきりと自覚できました。自覚出来た以上、もうこの話しはお終いにしてもいいのだろうとそう考えたのです。つまり、あなたにぼくの絵を買っていただくことは断念せざるを得ないということです」慎治は、こう言うと、もはや座っていることも辛くなってくるような酷い脱力感を身体中に感じるのだった。ところが、これを聞いて二人とも驚いたのだ。つまり、絵を買ってもらうことを断念したということは、てっきり留学そのものも一緒に断念したという意味にも取れなくはなかったからだ。二人の失望感というか心の動揺は、それは激しいものだったのだ。とくに蒼依はこの期に及んで何を言うのだろうという、彼女にしては珍しいほどの怒りを感じるのだった。その怒りだが、もしそれが本当で時と場所が許すとしたら彼女の怒りの矛先は、きっと慎治の左頰に、気持ちのいい音を伴った愛の鞭となって炸裂していたと想像してもあながち間違ってはいないのである。彼女に限ってそんなことなどあろうはずはないと思っている方は、女の怒りが突然どう変化するかまだ分かっていないだけなのだ。もちろんそれは蒼依本人にも分からないのだが。それはさて置き、彼の真意を聞かなければいけなかった。ひょっとして、そんなことではないのかも知れないからだ。亨は、彼のいかにも動揺しているその態度に注意し、こう聞くのだった。

「それはまた、どういうことでしょうか?あなたが一番願っていたことではないですか。あれほどぼくに買ってくれと迫って来ましたよね。これはとても重要なことに思えるのですが、あなたのその真意は果たしてどこにあるのでしょう?それは、まさか留学そのものも断念すると言うことなんですか?」

 慎治はそれを聞いてびっくりしてしまった。何でそういう話しになるのか自分でも分からなかったからだ。自分はただ絵を買ってもらうことを断念したと言っただけなのに、何でそんなことになるんだろうといぶかるのだった。

「いや、決してそういうことではありません。絵を買ってもらうことだけを断念したのです」彼は二人がひどく動揺しているのを見て取ると、自分の言ったことがいかに誤解されたかを知り、逆に面食らうのだった。とくに蒼依の動揺振りはひどく、その表情にもはっきりと見て取れたのだ。慎治はそれを見て、なぜだろうと思うのだった。なぜ彼女はこうもおれのことを気に掛けてくれるのだろうという、いつか感じたあの苦しい思いが再び蘇るのだった。『ああ、こんなことは結局おれだけの問題ではないのか?それなのに、なぜ、彼女はこうもおれと一緒になって心配してくれるのだろう?おれはそれほどの人間なのだろうか?』彼はなぜか無性にやりきれなくなって彼女の不可解な心情にある種の疑念を持つのだった。

「ならば、どうしてあなたの一番大事なことを断念されたのでしょう?あなたは、あれほどぼくに買えと言って来たではありませんか」亨は、いささか問い詰めるようにこう言うのだった。

「確かに言いました。しかし、今になって思えば、そんなことは詰まらぬ空想だったわけです。こんなことを今さら言うのも亨さんには申し訳ないことなんですが、仕方ありません。ぼくはあなた達お二人の優しい心情など、今の今まで理解などしていなかったからです。自分の恥を晒すようで、とても辛いのですが、しかし、もう言ってしまいます。ぼくが、あなたに絵を買って欲しいと言った一番の理由は、ほかでもありません、あなたに嫉妬していたからです。蒼依さんを奪ったあなたからの直接の援助など、とても受けられないと思ったからです。つまりぼくの絵を買ってもらってそのお金で行きたいと、それが本当の理由なんです。まったく子供じみた呆れた理由です。それに、ぼくはここに来る前にこんなことも考えていました。あの人はあの絵を一体いくらで買うつもりなんだろうかと。どうせ金持ちだから、ぼくがどんなに高く吹っ掛けても、きっと承知するだろうと考えたのです。なんせ蒼依さんの前ですからね。どうして断ることなど出来ようかと。ぼくはこういう人間なんです。人の恩に報いる代わりに、その恩につけ込むような人間なんです。まったく呆れてしまいますよ」慎治は、こんなことを言う自分になぜか驚くのだった。それは、あれほど気にしていたことでもあったからだ。自分の恥をこんなにあからさまに言うなんて、一体どういう心境の変化が起こったのだろうかと。しかし、彼にはもう、そんなことはどうでもいいように思われるのだった。もう何もかもぶちまけてしまいたいという要求が、どこからともなく湧いてきて、それはもはや止めがたいことでもあったからだ。そして、その気持ちは、今度は蒼依に向けられたのである。

「蒼依さんには、今まで本当に良くしてもらって感謝以外の言葉が見つからないほどです。今度の留学のことだって、あなたが居なければ夢にも考えられないことだったからです。もちろん、そればかりではありません。あなたとの出会いから始まって、その、いろいろとありましたが、そのすべての経験がぼくにとっては掛け替えのないものだったのです。ああ、しかし、なぜなんでしょう?ぼくは最近なぜだかよく分からなくなっているんです。なぜ、ぼくのような人間に、それほどまでの気持ちを持ってくれているのかと言うことなんですが、それはあまりにも不可解に思われるのです。そんな必要がどこにあるのかと。いや、もちろん、こんなことは、はっきり言って恩知らずな、人の気持を解さない人でなし以外の何ものでもありません。どうか許して下さい。でも、これは今のぼくの正直な気持ちなんです」

「それでは、お話しいたしましょう」蒼依はこう言って、彼の不審に答えるかのように静かに語り出すのだった。「あなたは、わたしのことで不審の念をお持ちのようですが、そこはどうか、あなたの強い自制心でもってしっかりと考えていただきたいのです。それに、どうやら、あなたはわたしがここに来たということに何かわだかまりがあるようですね。しかし、それにはわたしなりの理由があるのです。何もあなたがこの席で何を言うのか聞くために来たわけではないのですよ。やはり、あなたの行く末にはわたしにもその責任の一端があるからです。わたしの思いつきから起こったこの一件は、あなたの人生を大きく動かそうとしています。その責任は大きいのです。ですから、あなたのそういう心をどうして見過ごすことなど出来るでしょうか。あなたとは父親が同じだったとは言え、環境も違う世界でつい最近まで顔も合わさず暮らし来てた身です。今さら血の繋がりがどうのこうのと言っても、どこかピンと来ないのも仕方がありません。それでも、やはりどこかほっとけない気持ちは残るのです。ですから、お節介だと思わず、どうかわたしの気持ちも少しでもいいから理解してほしいのです」蒼依は、彼の不審を何とか晴らしてやろうと優しい口調でこう言うのだった。

 慎治は、蒼依のこの言葉を聞きながら、そこに今までにない、ある響きを聞き分けるのだった。それは、もはや自分の中に居た、あの蒼依とはまったく違う声の響きだった。まるで大地からの声のようにも聞こえ、そこにはあのキラキラと輝くようなものなど微塵もなく、どこか鈍く、どこまでも重い絆で縛るような、そんな響きすら感じられたのだ。とはいえ、そこには、あの紛れもない蒼依の優しい心が、その声の響きに籠められていたことだけは事実なのだ。それが感じられないほど、彼の心もまったく麻痺していたわけではなかった。だからこそ、慎治はこの言葉を聞き、ある意味、自分の考えの至らなさを強く自覚するのだった。彼は、まるで、嵐の海で難破した人のようにすっかり意気消沈して、自分が今どのような状況にいるのかさえ、まるっきり自覚できていないかのようだった。それでも、これが自分の置かれている現実で、それはあくまでも彼の空想でもなく、紛れもない彼の心の状態なのだ。それは不思議な感覚だった。まるで現実と空想がごっちゃになって、それがそのまま彼を取り囲み、そのままどこかへ連れて行かれてしまうような、そんな感覚だった。

 亨は、慎治のどこか落ち込んでいる状態を心配してか、こんなことを言うのだった。

「慎治さん、ぼくはまだあなたの絵を買うことを断念したわけではありませんよ」この言葉は、慎治を我に返らせ、予想外なと言うか、ある意味彼にとって芳しからぬ結果を招くことにもなったのだ。

「これは、決しておかしな話しでも何でもありません。なぜなら、ぼくが買いたいと思っているだけなんですから。慎治さんが断念しようとどうしようと同じ事です。そうではありませんか?ぼくは、ただ無性にあの絵が気に入っているだけなんです。それだけの話しですよ。ええ、それにあの絵はぼくにとって、とても意味深いものとなるでしょう。ですから、ぼくの方から、どうか買わせて下さいとあなたにお願いしたいくらいなんです。そこで、値段の方ですが、ぼくはあなたの言い値で買ってもいいと思っているのですが、それでは、あなたも言い出し難いでしょうから、どうでしょう、五百万でいかがでしょうか。不足なら遠慮なさらず言って下さい」

 亨は、なぜか興奮してしまい、果たして、その値段が適正な価格なのか、実際のところ心許なかったのだ。それと言うのも、この値段が慎治の自尊心をひょっとして傷つけないとも限らないからだ。何の根拠もなく自分だけの感覚で言ってしまい却って彼を見下しているように取られやしないかと思い、あまりにも軽率な決断だったかも知れないと亨は悔やんだ。

「不足と言われましても、ぼくにはまったく答えられません。それに、なぜそこまでしてくれるのでしょうか?本当にどうしてそこまで……」確かに、これには彼も戸惑うしかなかったのだ。それに果たしてこの値段を受け入れていいものかどうかさえ判断出来ないのだった。しかし、あれほど願っていたことが、実際驚くべき値段で提示されたのだ。それなのに何をためらっているのだろう。彼は内心笑わずにはいられなかったのだ。もちろん自分に対して。自分の子供じみた空想が、こうして現実的な金額となって目の前に提示されたことが一種のアイロニカルな戯画のように感じられ、なぜか忌々しい感情が込み上げて来るのだった。しかし、なぜそんな感情が込み上げて来たのだろう?そもそも、絵を買って欲しいと言ったのは彼ではないか。それがなぜ金額を提示されたとたん、そんなことになるのだろう?それは、どうやらそのことで自分の惨めさを、もうこれ以上ないというくらいに感じたらしいのだ。つまり、彼はそういう感情に突然ぶち当たり、嫌でもそれと対面し、ある意味見たくもないものを突きつけられたのである。しかし、そうは言っても、現実的なこととして、彼は決断しなければいけなかったのだ。断るのか、それとも受け入れるのか、どちらか決めなければならなかった。ところが、彼はまるでうわの空で、決断するどころか、どこかぼんやりとしてまったく違うことを考えていたのだ。『もし、この事を、自分が承諾すれば、すべては丸く収まるだろう。そうなれば蒼依も満足し、亨だって自分のこのような思い切った決断に、決して蒼依の手前悪い気はしないだろう。ところで自分は?肝心な自分はどうなのだろう』それが驚いたことに、まるで実感を伴わない彼の空想以上に空想的なものに思われたことなのだ。すべてが俗悪で嘘くさく、決して受け入れることの出来ぬ心のひだの愚かな部分を見てしまったような実に嫌な気持ちになるのだった。しかし、それは確かにそうなのだ。それが彼の心の中で起こっている偽らざる苦しみだったからである。つまりその金額を受け入れるということは、結局は自分の今まで考えてきたこと、行ってきたこと、要するに呆れるくらいの自分の底の知れない愚かさの集大成としてこれを認め、同じように受け入れなければならないということでもあったからだ。またそれは無残にも彼の愚かさが現実的に決定されることでもあり、あとは彼の決断に任されたわけである。しかし、それ以上に彼を苦しめたのは、たとえ受け入れたとしても、その愚かさはそこで終わるということでもなかったからである。それは彼のこれからの長い人生についてまわり、決して自分は優れた人間でも天才でもなく、正真正銘の愚かな人間であるということもついでに受け入れなければいけなかったからである。それはまるで額の真ん中に「愚か」という刻印を押され、それをさらしながら生きろという宣告に等しいことでもあったのだ。確かに、これはなかなか受け入れ難いことではある。とくに彼のようなプライドの高い青年にとっては難しいことに違いない。しかし、彼はそれを受け入れなければならなかったのだ。なぜなら、それは彼の魂から生まれた、ひとつの苦渋の種であり、彼は自分の良心に誓って人間というものの愚かさと付き合い、それを刈り取らねばならないからだ。いわばそれが彼の生きて行く上での避けることのできぬ運命となったわけである。

 そういうわけで、慎治は、渋々ではあるが亨の提示された金額を受け入れ、同時に自分の愚かさも受け入れたわけである。もっとも、彼がどこまでそれを意識できているか、それは外部の人間には分からないことだが、そこは穏やかな目で見守ってやらねばならない。なぜなら彼の愚かさは、実を言えばわれわれの愚かさでもあるからだ。

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