表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼依の肖像  作者: 吉田和司


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/28

二十三 亨の思いやり

 慎治はその晩、承諾してくれたことを亨に連絡するのだった。亨にしてみれば、それは意外な結果に思われた。普通に考えて彼女が承諾するだろうとは思えなかったからだ。なぜ自分が彼女の肖像画を買わなければならないのか。確かに慎治の話しも曖昧で、そこに筋の通った理屈があるわけでもないのだが、かといってこのわけの分からぬ提案を頭から拒否する気にもなれなかったのである。と言うのも、この絵については彼もまったく関心がないわけではなかったからだ。実を言えば、あの絵を見て以来、なぜかあの絵が無性に欲しくはなっていたのである。そういうわけで、慎治からこの申し出を受けたとき彼は内心願ってもないことだと正直思いはしたのだ。しかし、そうは言っても、蒼依の了承もなく彼にそんなことが勝手にできるわけでもないし、蒼依の立場だって無視できないので、あの時はああ言うしかなかったわけである。それに慎治の意図がまるで見えないということが彼を戸惑わせてしまい、そこに何か妙な企みでもあるのではないかと勘ぐりもしたのだ。しかし、それは彼女が承諾したことでその心配もなくなったのかも知れない。そういうわけで慎治からこの知らせを受けたとき、まさか承諾などしないだろうと高をくくっていたので、蒼依のこの意外な(ある意味彼女らしい)決断になぜか知らぬがいたく感激したのである。とはいえ、こうなった以上、この交渉に応じなければならなくなったわけだが、果たしてどうすればいいのか迷うのだった。もっとも、彼にとって絵の一枚ぐらい買うことは、それほど難しいことでもないし別に何の問題もなかった。慎治がこの話を持ち掛けてきたとき幾らで買えばいいのかと言ったことを思い出した。実際問題として果たして幾らで買えばいいのか、その辺のことはまるで分からなかった。『しかし、自分がもし彼の満足のいかない金額で買おうとしたら、あの男は一体どうするのだろう。売るのをためらうだろうか?これは色んな意味で面白いやり取りというか駆け引きになるかも知れない』そう思うと、なぜか悪戯っぽい笑いが込み上げてくるのだった。彼はその夜ベッドに入ってからも、この事で秘かに笑みを浮かべ色々と考えていたことを、後になってもはっきりと思い出すのだった。

 亨は、翌日遅くなって慎治にあるメールを送った。それには次のような文面が記されていた。

『自分が今回の件で一番留意したのは外でもありません。ただあなたの意思を尊重したことです。あなたが例の肖像画を買ってほしいと言われたときは正直驚き、あなたの真意を計りかねて、そのときは同意しませんでしたが、さっそく蒼依さんが承諾されたという連絡を受け、約束通りあなたのお話しを伺うことに決めました。しかしながら、ぼくと致しましても、やはり今もって納得いたしかねていることは、あの時と何ら変わっておりません。それにつきまして、あなたからの更なる納得のいくご説明を是非ともお伺いしたいと思いますので、この度お互いの懇親もかねて席を設けました。是非ともあなたとその将来について語り合いたいと切に願っております。なお追記としてお知らせいたしますが、今回は蒼依さんもご同席いたします。何分急な事とは言え、あなたのご同意を得なかったことは、まことに不徳の致すところ、どうかご容赦願いたく思います』

 慎治はこれを読むと、そこにあの男の言い知れぬ悪意を読み取った。『おれの意思を尊重すると言っておきながら、なぜ蒼依の同席を、それもおれの承諾を得ないまま決めるのだろう。なぜ、彼女がこの件で首を突っ込む必要があるのだろう?』彼は疑心暗鬼に陥るのだったが、一番はやはり蒼依の同席だった。彼女が自ら出ると言ってきたのか、それともあの男が出るようにそそのかしたのか、今の慎治にはどちらとも決めることは出来なかったが、いずれにせよ彼にとっては実に厄介な交渉になることだけは間違いなかったのだ。それというのも、何と言っても彼女は慎治の真意を知っているからである。ここに彼の言い知れぬ苦悩があったのだ。あの時、彼女にあの男に対する自分の恥ずかしい様々な心情を話してしまったという事実がどうしても彼の頭にあったからだ。『これでは自分の心の内が彼女には筒抜けになっているも同然ではないか』と彼は思うのだった。彼の自尊心はそれが許せなかったのだ。つまり『そんな中でどんな交渉をやればいいのだ』と言うのが彼の言い分なのだが、しかし、そんなことで悩むより彼女の存在など最初から無視すればいいだけではないか。彼女が居ようと居まいと別に気にしなければいいだけのこと、と一応もっともらしく反論することは出来るのだが、彼にとってどれだけ彼女を意識せず、言うなれば彼女の前で臆面もなく嘘もつき、自分の恥をさらしながら思い通りにこの交渉が出来るかどうか、そこに彼にとっての決してどうでもよくない悩みがあったわけである。これは絶対無視できないことだ。謂わば、彼の魂は自分の良心に誓って重大な決意をさせようとしていると言ってもいいのである。

 とにかく、この事実にどう対処すればいいのか、それがまず第一に考えなければならないことだった。しかし、彼は考えれば考えるほど、亨の胡散臭い奸計に気を取られ、ついついそっちの方面に心が引きずられてしまい肝心なことには触れることすら出来なかったのだ。要するに彼の心は大混乱に落ちて、もはや何をすればいいのか分からず、すっかり迷路に嵌まり込んでしまっていたのである。彼はこう思ったのだ。

『蒼依を同席させたあの男の真意はただ一つ、おれに恥を搔かせたいだけなのだ。彼女の前で、おれが金の交渉をどの面下げて言うのか、それが見たいのだ。何という見下げ果てたやつだ。どうせあいつにとって絵の一枚ぐらい買うのはいとも容易たやすいことだろう。それを踏まえた上で、おれがどのくらい吹っ掛けてくるのか、きっと、あいつは心の中であれこれ想像を巡らしているに違いない。そういうことなら、おれはおれで、あいつの上を行ってやればいいのだ。こんな金額じゃとても買えないという値段を吹っ掛けてやればいいんだ。面白い、どうせこっちは生まれながらの貧乏人だ。どっちみちお里は知れたもの。恥など幾らで搔いてやるさ』

 彼はなぜか心の中でどす黒い憤怒を感じ、まるで横隔膜が興奮して心臓や肺を圧迫するかのようだった。その息苦しさと妙な高揚感は、もはや自分の意志ではどうすることも出来ない一種のあらがいがたい力となって彼を圧倒するのだった。それは、一度は死んだと思っていた、亨に対する、あのきちがい染みた情動が再び蘇り、何もかもあの時と寸分違わぬ形で、彼の心を支配し始めたと言っていいのかも知れない。

 とはいえ、彼のこうした怒りは、以前に比べると、その様子がちょっと違っていたのだ。どういうことかと言うと、もはやそれは、あくまでも興奮の中で起こった一時的な願望でしかなかったからである。本人もそんなことは薄々気づいてはいたのだ。こんな自分の怒りなど彼女の前では何の力にもならないことを。彼女がそこに居るというだけで言い知れぬ圧迫を感じるだろうことを。正直に言って彼は蒼依を恐れていた。そうなのだ。もはや何かが変わってしまったのである。あれ以来、二人の心理的な立場が、決定的に逆転してしまったようにも思えるのだった。それはまるで、自分の弱みをこの憎たらしい姉君に握られてしまった弟のように、すっかり頭が上がらなくなってしまったとでも言えようか。

『ええい、くそ!もはやあれこれ考えても始まらぬことだ。覚悟を決めてその場に臨むしかない』

 そういうわけで、その日、慎治は出掛けるにあたって、なけなしの貯金をはたいて買っておいた洒落たスーツに暖かそうな外套を身にまとい、鏡の前に陣取って、そこまで神経質にならなくてもいいだろうと思うくらい、なぜか身嗜みに気を配るのだった。その場所は、とりわけ上品な高級レストランだったため、見劣りしてはあの男のあざけりを買うだけだと思ったのだ。

『それに蒼依もきっと、おめかしして来るに違いないし、あの男だって、おそらくビシッと決めて来るだろう』ところが、彼はこの時『この交渉を、このまますっぽかしたら、一体どうなるだろう?』という考えが恰も啓示のように閃いて、それが思いのほか誘惑的な気分を誘ったのである。『一層のこと、そうしてしまった方がよくないだろうか?そうすることで、ある意味おれの意思をあの男に断固示すことになるのだ。つまり蒼依を同席させたことに対する無言の抗議を示すことに。ふむ、確かに、それが出来れば、おれの面目も立ち、この苦しみから逃れることも出来る。おまけに恥も晒さなくて済むことになる』彼はこの一見筋の通った理屈に、かなり心が揺れたのだ。しかし、さすがにそれは却下されたのである。いくらなんでも、そんなことは今さら出来ないことだし、色んな意味で許されないことでもあるからだ。とはいえ、何となく捨てがたい考えでもあったのだ。彼は踏ん切りがつかないといった態度を残したまま家を出た。ところが一昨日あたりから降り出していた雪が思いのほか大雪となり、それが予想外の事態を招くことになってしまったのだ。交通機関が完全に麻痺していたのである。『くっそう!前もって確認しておけばよかった』と、彼は悔やんだ。するとなぜかフッとあの時、亨の言った言葉が浮かんで来たのだ。『まったく、あの男の心配が的中したというわけだ。それも選りに選ってこのおれがその当事者になるなんて、一体これは何かの呪いなんだろうか?いやいや、確かにこれは呪いに違いない。それもこの呪いはどう考えても、このおれに使えと言っているようなもんじゃないか。だってそうだろう。たった今おれが望んでいたそのことを、「雪のために……」という完璧な言い訳とともに実行しようと思えば出来るのだから』

 彼は、駅前でいつ来るか分からない電車を待ちながら、この呪いの実行性をそれこそ真剣に検討するのだった。しかし一方で、この時、彼はある種の驚きを感じていたのである。それは彼の閃きが、なぜこの時起き、それが、まるでわざとのように、この交通機関の麻痺ということとうまく重なったのか、何かそこに御神託による不思議な偶然が起こったのではないかと感じたからだ。これは彼のこれからの行動に何かしらの影響を与えるかも知れないのである。ところが、彼はなぜか急に迷い出したのだ。もし、この呪いを使ったとして、果たしてどれだけ満足の行く効果があるのかと考え始めたのだ。『そりゃ、一時的に蒼依から逃れられるかも知れないが、それは単に自分の厄介な問題を先延ばしにするだけではないのか。あの蒼依のことだ。また性懲りもなく出しゃばって来るに違いないからだ』そう考えると『たとえこの呪いを実行しても、自分の面子の回復などまったく考慮されない上に、自分の苦しみだけは、そのまま継続せざるを得ない』ということになるだけなのだ。そうなると、これはもう呪いの実行性云々どころの話しではなくなって来るわけである。『仕方がない、もう行くしかない』と彼はしぶしぶこう結論づけるのだった。これは結局、この呪いの御神託も結局は何の力にもならなかったということである。それはつまり目の前に控えている諸々の現実の方が、彼の御神託より圧倒的に重要だったということになるのかも知れない。実際のところ、彼はやたらに焦っていたし、それに予定の時間も迫っていたのだ。おまけに肝心の電車は来そうもないし、頼みの綱であるタクシーもまったく目の前を通る気配すらなかったのだ。何ということだ、こうなると、これはもう彼の決意を挫くための一種の障碍のようにさえ思えるではないか。確かに彼は色んな意味で試されているのだ。ところが彼は、当然のように『もうこうなったら歩いて行くしか方法がない』と思ったのである。それも、次第に吹雪いてきた中、もう遅刻は確実なのにもかかわらず。それに、あれだけ身嗜みに気をつけたのに、もはやそれもすっかり台無しになっていたのだ。ズボンの裾はビショビショ、下ろし立ての靴も泥混じりの雪で見るも無惨な状態だった。それにその歩きにくいこと。うっかり滑って尻餅でもつこうものなら、それこそ一巻の終わりである。

『こんな目に遭うなんて』と彼は忌々しく思うのだった。『これはまさしく地獄ではないか。何でこうまでして、いや、それは言うまい。おれが決めたことだ。この地獄こそが、おれにとっての現実なのだ。何をもってこの地獄を呪うことが……むしろ感謝しなければならないくらいだ。ふむ、しかし、おれは一体何を言ってるんだろう。おれはこの地獄に何かの教訓でも見つけようとしているのだろうか?それとも、単に自分の行動に酔っている阿呆なのか?最初から負け戦だと分かっているのに、何がなんでも出向いて行く自虐的な英雄気取りの青年のように。ああ、確かに、おれは、さっき、なぜ、こんな目に遭わなければならないのか?って思っていたな。おれだけが、なぜこんな目に遭わなければならないのかと。これは、まったく当然な言い分だ。誰しも思うことではある。むしろ思わない方がどうかしているのだ。この吹雪の悪天候の中、緊急な用事以外、こうして必死になって傘を差して歩いている奴など一人も居ないからだ。果たしておれの場合そんなに緊急なのだろうか?いや、それほど。しかし、おれはこうして出向いている。なぜか。おれは、この行動にそれなりの意味を感じているからではないのか?一体どんな?それは自分の夢を実現させるためだ。ああ、それなら、なぜ、この期に及んで蒼依が、おれの前にしゃしゃり出て来なければならないんだ。おれの夢は彼女の夢ではなかったのか?ならばなぜ、おれの邪魔をするのだろう?しかし、それは言い過ぎだろう。邪魔するために出てくるのかどうかも分かってないのだから。しかし、そんなことより、彼女を前にして、あの男とどんな交渉をすればいいのだろう?一体どう話しを進めて行けばいいのだ?いつだったか、おれは呆れるほどの値段を、あいつに吹っ掛けてやればいい、なんて思ったことがあったな。まったく出来もしないことをよく考えるものだ。結局、この吹雪と一緒で、全然先が見えていないのだ。しかし、いやな予感だけはする……』彼はこの時、突風と共にものすごい勢いで吹き付けて来る吹雪に、一生懸命、頼りにしている大事な傘と共に耐えながら、身体全体で踏ん張るのだった。『なんて、もの凄い吹雪なんだ。危うく傘諸共に吹き飛ばされるところだった。これじゃ、いつ着けるか分かったもんじゃないな。……ふむ、しかし、おれは何のかんの言いながらも、こうして自分の運命と闘っているのかも知れない。この吹雪の渦からどうやって抜ければいいのか、と問いながら。ちくしょう!ふざけている場合か。ああ、誰でもいい、この忌々しい雪を何とかしてくれ。おれには時間がないんだ。あっそうだ。時間がないと言えば、あの二人だって同じだろう。果たして今頃どうしていることやら。おれと一緒でさぞかし苦しんでいるんじゃないだろうか。いや、そうに決まってる。おれと同じ地獄を彷徨い歩いてるに違いないのだ。こりゃ面白いぞ。まさしく人の不幸は蜜の味だ。自分の不幸を棚に上げといて、こんなことを言うのもおかしな話しだが、おれ以上にもし不幸だったら、それで満足するとでも言うのだろうか?面白い。彼等が不幸かどうか確認してみるのも一興かも知れない。ちょっと電話でもしてみようか』

 彼はそう思い、亨に電話するのだった。案の定、彼も困っていたらしいのだ。慎治は、喜び勇んで、真っ先に中止にするかどうか聞いてみた。ところが意外にも予定通り行うという返事だった。よく聞くと、運良くタクシーが捕まり、今そのレストランに向かっている最中だというのだ。一番気になる蒼依はどうなのかも聞いてみた。それによると、彼女はすでに無事に着いているということだった。『なんてこった。おれだけが地獄の中で、のたうち回っているわけか』と言うことで、とても甘い蜜どころの話しではなかったわけである。彼は予定の時間には着けそうもないことだけ知らせ、とにかくこのまま歩くしかなかった。『もうこうなったら意地でも行ってやる。この先何があろうと知ったことか』と、むしろ何かの不幸を願うくらいの、それこそ憤怒にも似た決意がそこにはあったのだ。

 ところで話しは変わるが、なぜ亨は蒼依を同席させたのか。それは彼なりに考えた上でのことだった。決して慎治が思うような悪意で彼女を同席させたわけではないのだ。何よりも将来自分の伴侶になるだろう彼女の前で、自分がいかに彼の将来に期待を掛けているかを知って貰いたかったのだ。それは他でもない、彼の留学先の選定から住居の世話、及びその生活費に至る細々としたことまで、すっかりまとめて面倒を見るということだった。それは沙織とも話して決めたことでもあったのだ。彼女が仕事柄そういう方面にも詳しかったので、その点でとても頼りにもなったし助かったわけである。そういうことを蒼依にも正直に話し、この同席を承諾して貰ったのだ。まあ、慎治には悪いとは思いながらも、これもサプライズの一つと考えて、当日言えばいいかと軽く考えていたというわけである。

 その頃、亨は時間に遅れることなもく、何とかその場所に辿り着くことが出来た。すでに蒼依はテーブルに着いていて、まだ来ない二人のことが心配になり出した矢先のことだったので、亨の顔を見るとホッとして自然とその口元も綻ぶのだった。彼を迎えるために立ち上がった蒼依は、亨がいささか慌てた表情で店に入って来たことに気づき、何かあったのかと咄嗟に思うのだった。

「弟さんのことですが、先程ぼくに連絡がありましてね、少し遅れるそうです。どうやら、タクシーが捕まらないらしく、ひどく困っているようでした。おそらく、ここまで歩いて来るしかなさそうです。まあ、この雪じゃ仕方がありませんね。でも、こんな状態だと却って歩く方が一番確実で安全かも知れませんね。さっき、危うく自動車事故に巻き込まれそうになりましたから」

「本当に?それはご無事で何よりでしたわ。そう言うわたしは、雪で滑って転んでしまいました」と言って、笑いながら袖をまくり上げ、自分の失策で出来たあざの痕跡を彼に見せるのだった。その如何にも無邪気な振る舞いに、一瞬たじろいたものの、自然とこの女神の、その滑った様子を思い浮かべてしまい、さぞかしその転び方も様になっていただろうと彼は秘かに思うのだった。

 実を言えば、このレストランは、二人が初めて会って語り合ったあのレストランだったのだ。蒼依は、それを知ったとき、あの時を思い出し懐かしく思うのだった。その時は、夜景の素晴らしい時間帯だったが、今回は、昼間のそれも雪の降る日であったためか、また違った感興を持つのだった。遙か遠くは、靄が掛かって見えなかったが、目の前の風景は雪が下の方から舞い上がり、渦を巻き、滅多に見られないような一種幻想的な場面が繰り広げられていた。いつもとは違うその光景は、二人にも何かしらの影響を与えていたのかも知れない。

「わたしは、雪の積もった夜が好きなんです」蒼依は、いきなり外の景色を見ながら語り始めるのだった。

「雪の積もった夜は特にそうですが、あの静けさは、何ものにも例えようがありません。雪の結晶が降る音さえ聞こえてくるような、あの静寂さは、もはやこの世の神秘でしかありません。なんとこの世界は、素晴らしい魅力的な所だと、わたしは子供心にも思いました。こんなことは、今まで誰にも話しませんでしたが、あなただけには、こうしてお話しが出来ます。これもまた不思議なことです」彼女は、外を見ながらではあったが、何かその心の中で、とても大事なことが起こっているらしく、その頬は、ほんのり紅潮して、目は遠くを見ていながら、まるで心の奥深くを覗いているかのようだった。

「わたしは、雪のことで、ある思い出があるんです。わたしが、まだ小さい子供のころのことです。今日のような大雪が降った夜に、雪の積もった庭に出て、わたしが一人ではしゃいでいると、母が出て来て、わたしを抱くようにして、こう言ったのです。「ほら、じっとして静かに聞いてごらん。聞こえるでしょう?雪の降る音が」でも、わたしにはそんな音は聞こえませんでした。わたしは笑って「聞こえない」って言うと。「それは、お前の心が騒がしいからです。耳で聞くのではなく、心で聞かなければいけません。世の中には色々な音があります。でも、本当の音は、決して耳からは聞こえて来ないでしょう。おまえは、そのことを忘れないように、いいですね」母は、そう言って、わたしを優しく抱きました。その時の母の温もりと、その夜の静けさが重なって、その印象は今になってもよく覚えています」

 亨は、彼女の話しを聞くと、何か得体の知れない、今まで聞いたことのない異様な響きとなって、心を突き抜けていく不思議な感覚を覚えるのだった。確かに彼女の話しは、とても普通の女性がする話題ではないだろうし、もし相手が亨以外の男性だったら、もちろん、するはずのない話しであったことだけは間違いない。だからこそ彼女は不思議だと言ったのだ。それに、このような話しは世間の話題には決して上らないものだし、孤独な魂の中でしか起こらないことなのだから。『彼女の心の耳は、どれほど多くのことを聞き分け、われわれが聞き漏らしているような微かな音でも、きっと聞き取ることができるのだろう』と、亨は思うのだった。彼は蒼依の出自に関しては、よく承知していたが、そのことが彼女に対する価値判断に結びつくことは決してなかったし、これからもないだろうと思った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ