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蒼依の肖像  作者: 吉田和司


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二十二 子供の涙

 慎治が、なぜこのような事を思いついたのかは、彼の心の奥底での秘密に関わることで、はっきりとしたことは分からないが、とにかく他人から見て、それがどういうことなのかを見定めることは、正直言ってなかなか難しいことには違いない。ただ一つ言えることは、彼の空想をいい加減に軽んじたり、取るに足らない馬鹿げたことと言って無視することは、むしろ彼の心を理解する道筋を自ら絶つということにもなりかねないと言うことだ。しかし、こう言ったからといって、何も心理学的な見地に立って、彼の心を理解しようなどとは思ってはいない。そこはどうか誤解しないでほしい。とかく現代人は科学的という言葉に絶大なる信仰心を持っているわけで、それはもうどんな信仰の篤い人に比べても何の遜色もないくらいだ。それゆえ、心理学もその例に漏れず、その線に沿って、どこに目的があるのかも分からずにただひたすら突き進む。つまり、その心理学ですら、人間を物として扱い、その行動から何とかして心の痕跡を見つけようとしているわけである。そういう人達から見れば、彼の空想など、ほとんど児戯に類する哀れな戯言に思われることだろう。逆説的に聞こえるかも知れないが、今日心理学がこれほど幅を利かし、人間を知る道具になっていながら、われわれは現代心理学の深き真理を聞かされて、心が豊かになるどころか何故そこに不気味なほどの空虚感を持つのだろう。早い話、個人個人の掛け替えのない心は見事に対象から外されているのだ。個人などは統計を取るための一種の単位にすぎないと言わんばかりに。もっとも科学者でなくとも心そのものなど、この実人生では反省の対象にすらならないのかも知れない。そのくせ心はしっくりいかないまま、われわれに何かを訴えかけてきて、果たしてそれでいいのかと疑問を投げかけてくる。そこに葛藤が起こり、挙げ句の果てに不安となってわれわれを苦しめることになるのだ。するとそこに精神科医が登場して、それはこれこれで何とか不安神経症ですという有難い呪文のような言葉を意味ありげに唱えて、われわれを何とか落ち着かせてくれるわけである。おかげで分かったような分からぬような複雑な心持ちになって家に帰ると、さっそく医者の指示通りに薬を飲んで、どうにか熟睡することもできるのだ。要するに、われわれは自分の心を科学的精神とやらに預けて、それで何かが解決するだろうとわけもなく信じているのである。

 われわれの獲得した科学的精神などというものは、実際のところその程度のことなのかも知れないのだ。穿うがった見方をすれば、それは一種不合理な、いわば魔術的な威力と化して現代人の心を隠然と操っていると言ってもいいくらいである。確かにこの科学的という言葉には現代における象徴的な、われわれの心を惹きつけてやまない魔法のような力が秘められているからである。つまり、それは人間がどれだけ科学的な精神を獲得したとしても、やはり未知な力に支配されていることには変わりはないということである。

         *

 慎治はその後、亨とは分かり合えぬまま別れたものの、最後の望みを蒼依に賭けるのだった。要するに、何とか彼女の承諾を得ることが、彼との交渉の条件となったわけである。とはいえ、彼に何らかの勝算があったわけではない。おそらく彼女ならきっと自分の空想を理解してくれるだろうという甚だ曖昧で独りよがりの淡い期待があっただけである。そうは言っても、彼は蒼依という人間にどこか賭けていた節がある。つまり彼女のある意味いちばんくみしやすいその心情に訴えれば何とか自分の空想を理解してくれるのではないかと考えたわけである。

 彼のどことなく狡猾的といってもいいような計算と、あまりの無邪気さが一見相容れないように思われるかも知れないが、よく考えてみれば、子供の無邪気さの中にこそ、本能の狡猾さが露わに見て取れるのではないだろうか。その点で彼は蒼依の一番の弱点と思われるところに付け入る隙を本能的に見つけたのかも知れない。

 慎治は、蒼依に面会を求めるために電話をした。もっとも彼女と無理やり別れたあの時のことを思い出すと、何となく胸がドキドキしてきて、その声も少し上ずってしまうのだった。彼はこの時、自分にとってとても大事なことが、なぜかちっとも解決できていないという思いにさいなまれていたのである。もっとも、そういうどこか苦痛を伴う漠然とした苛立いらだちが何なのかは、はっきり言って本人にも分かっていなかったのだ。

 蒼依はあの時、止めるのも聞かずに出て行った慎治を見送ったあと、ひどい不安に陥っていたのだ。それは、あの時の慎治の顔にある種の恐れを感じ取っていたからだった。二人の間にある一種の闇が、一挙に露わになり、それがお互いに影響しているのかも知れないと思うのだった。それで昨夜も、ろくに眠られず展転としていたわけである。それが突然彼から改まった電話があったので、いささか面食らってしまい、一体何だろうと不安に思いつつも、どこか安堵する気持ちも心のどこかにはあったのだ。

 慎治は、蒼依の家に着くと、言われたわけでもないのに、何かに引っ張られるように二階の部屋に上がっていった。なぜかあの部屋が急に見たくなったのだ。すべての始まりであるあの部屋が、大切な何かを思い出させてくれるのではないかという願いすら持って。彼はドアを開け中に入った。すべてはあの時とまったく変わらずそのままの状態だった。ソファーの位置から、棚に立て掛けてある二枚のスケッチ画、窓から差し込む光線の具合、『あの時も同じように淡い光が差し込んでいたっけ』それらが一体となって、この部屋全体を一種言いようのない神秘的で、あたかも生き物のように彼を暖かく出迎えてくれているように感じられるのだった。ああ、やはりそうだったんだと。彼は何かに目覚めたかのように顔を輝かすのだった。それは、あのもやもやとして解決のつかなかった苦しみの正体がはっきりと見えたように思えたからだ。つまり、あの幻影はやはり本物だったんだと。あの黒いドレスを着た蒼依の姿が、実際の蒼依とは別物のように感じられようと、それが何だと言うのだ。それがこうして何時までも自分の魂を震わせている限りは、自分にとってそれは真実なのだと。『ああ、あのまばゆいほどの蒼依の姿を、今もう一度、味わえることが出来るなら、この命さえ失ってもいい』とさえ思われるのだった。彼は深い物思いに落ちて行き、自分にとって一体何が大事なのか、もはや考えることさえ出来ないように感じるのだった。

 また、こんな考えも浮かんできて、彼を一層の苦痛と混乱の中に突き落とすのだった。

『あの人がこれほどまでに、おれのことなど気にも掛けないでいてくれたら、何もこんなに苦しむこともなかっただろうに。おれは、これからどれだけ嘘をつき、どれだけあの人の顔色を窺い機嫌を取ればいいというのだろう。なぜ、そんなことが必要なのか。すべては、自分の……』

 その時、蒼依が部屋に入って来た。普段着のままではあったが、清楚な出で立ちで、少しやつれたところも感じられたが、それでも、いつもの蒼依がそこには居たのだ。ところが、慎治は見るなり、まるで違うものを感じたのだ。あの時の蒼依とはまったく違う何とも言いようのない物を。それは、もはやその姿に何の感動も覚えないという信じがたい感覚でもあったのだ。まるで大事なベールが剥がされ、その秘密がすっかり露わになったかのような、実に味気ない気持ちに陥ったとでも言えようか。しかし、彼は何とか自分の気持ちを整え、何かの商談でもするかのような実務的な調子でこう言うのだった。

「きょう、お邪魔したのは外でもありません。亨さんから連絡は行っているとは思いますが、あなたの肖像画のことでちょっとお話しがあるんです」

 蒼依はそれを聞くと、目を丸くして、まるで何のことかと言ったふうな表情をした。慎治は、てっきり連絡は行っているものと思っていたので、いきなり出鼻を挫かれたように思い鼻白んでしまった。それでも、こんなことで思い悩んでいても仕方がないので、気を取り直して話しを続けるのだった。

「亨さんから、連絡は行っているとばかり思っていたものですから。そうですか。いや、それでは最初からお話ししましょう。ぼくが描いた肖像画のことなんですが、もともとはあなたに頼まれて描いたわけですが、それを亨さんに買ってもらえないかとぼくは考えたわけなんです。そうしましたら、亨さんのおっしゃるには、あの絵は蒼依さんの物ではないかという尤もな話しが出て、あなたの承諾がなければとても絵は買えないと言うのです。確かに、それはそうには違いないと思って、今こうしてあなたの承諾を得るためにやって来たというわけです」

 さすがに蒼依もこれには驚いたのだが、よくよく彼の話しを注意して聞かなければならないと思うのだった。しかし、それにしてもこの時、蒼依ははっきりと感じたのだ。この慎治の応対ぶりや話しの内容に、今までとは何か違った心の動きのようなものをはっきりと感じたのだ。一体何が起こったのだろう?蒼依は真顔で慎治を見つめ、こう言うのだった。

「あなたのおっしゃりたいことは一応分かりました。でも、もう少し詳しいお話しを聞かせてもらえれば嬉しいのですが。あまりにも唐突なお話しで、わたしとしてもどう答えていいのか分からないのです……」

 慎治は、彼女の優しい態度で受け答えてくれるその様子が自分の思惑通りだと感じ、内心これならうまくいくかも知れないと秘かに思うのだった。

「そうですか、分かりました。それなら一部始終をお話ししましょう。その前に、お互い座りませんか?」と慎治はいかにも結果が見えたかのように自信ありげな余裕の態度でこう言うと、彼女はソファーに、自分は別の椅子に腰掛けるのだった。

「ぼくは思ったのです。あの時、亨さんにひどいことを言われた腹いせに留学の援助を断ったことを大いに後悔したのです。まったく自分の弱さから出た事とは言え、あまりにも軽率な行為でした。そう思ったものですから、あなたと別れたあと、彼に電話をしたのです。そうしたらなぜか蒼馬先生の家に呼び出され、そこで亨さんとお会いしたわけです。なぜ、気が変わったのか。ええ、そこなんです。なぜぼくが後悔したのか。簡潔に言えば、単にあなたを悲しませたくなかったからです。あの時のあなたの動揺ぶりを見て、そう思ったのです。もちろん、事情を知るまでは、なぜぼくのことをそれ程まで思ってくれるのか不思議でなりませんでした。でも、そういうことだったのかと。正直に言って、あの時は、妙に恥ずかしかったのです。まさか、あなたがぼくの姉だなんて思えるわけもなかったのです。なぜ、そうなんだと。そんな馬鹿なことがあってもいいのかと。自分のこの思いが笑いものにされたように感じて、自分の心がひどい侮辱を受けたようで怒りさえ感じました。いや、それは何もあなたを恨んだわけではないのです。ええ、まったくそんなんではありません。まったく、いや、ぼくは何を言ってるんだろう。ほんとに、どうかしてますね。あなたには沢山の恩義があるというのに。自分の道化ぶりを棚に上げて、何をいい加減なことを言ってるんだろう。笑っちゃいますよ、まったく。いや、話しはそんなことではないのです。ぜんぜん違います……」と言ったところで彼は急に黙り込んでしまって、蒼依のその静かな眼差しで、どこまでも真面目に聞いてくれている顔をまじまじと見るのだった。すると、なぜだか急に意味もなく蒼依が憎らしく思えて来たのだ。そういう感情が突然どこからともなくやって来たのである。それは慎治からすれば、話しをしているうちに、いかにも聞いてあげますよといったふうにも取れなくもない蒼依の真摯な態度が気に食わなくなって来たというのではなく(いや、それも若干あるにはあったのだが)彼女の何もかも受け入れてしまいそうな底の知れない愛情に、その性格に、何か得体の知れない異様なものを感じ、それが彼の中で本能的に反発させるような憎悪に近い何かを呼び起こしたのだ。こんなことは今までになかったことで、それは、まさに、地の底から湧き上がって来るような感覚で、とても不気味なものに感じられたのだが、彼には理解されないまま、その感覚はなぜか消えてしまった。彼はすっかり混乱してしまい、自分の子供じみた計略が頓挫したのか、それすらはっきりとしないまま、それでも何とか言葉を続けようともがくのだった。

「ええと、ところで話しは何でしたっけ。ああ、そうそう、なぜあの絵を亨さんに買ってもらおうとしたのか。そうです。ぼくはこう思ったのです。あなたの絵を彼に買ってもらうことによって、ぼくのプライドが少しでも保てるのではないかと、そう思ったものですから。いや、それは何も自分のことだけを考えて決めたことではないのです。そこには、あなたに対しての、その、つまりですね……あなたに対しての恩返しを、そう、恩返しのつもりで考えたことでもあるのです。そうなんです。ですから、この話は、それほど馬鹿げた提案ではないとぼくは考えているんです……その証拠が……」彼は、自分がすっかり混乱していて、しどろもどろの中もうこれ以上、嘘を続けることなど不可能だと分かっていたのだが、何か地団駄を踏みたくなるような怒りが突然込み上げて来て、まるで蒼依を呪うかのような剣幕で、断ち切るように自らの言葉を否定するのだった。「そんな証拠など、どこを探したって見つかるわけないんだ!ああ、もうこれ以上ぼくには嘘などつけません。あなたはそうやって、やさしい目でぼくのいい加減な話しを笑いもせず聞いてくれてます。それが、なぜだかもうたまらなく辛いんです。どうして、そうまでして、ぼくのことをやさしく気に掛けてくれるんでしょうか?なぜなんですか?どうしてなんでしょう?言って下さい!」彼はもう当初の計画などすっかり忘れたかのように、自分でもはっきりとしない苛立ちをぶちまけるのだった。すると、また、先程の憎しみの感情が蘇って来たのである。それも今度は、はっきりと、彼女が実の姉であるという事実そのものを、今この瞬間、これほど憎いと感じたことはなかったのだ。そう思ったとたん、なぜか分からないけれど、子供のように涙が嗚咽と共に込み上げてくるのだった。それは、まったく予期せぬことだったので、実際本人も呆れたのだが、でも、それは今まで解決されぬままにもつれてしまった心の不満が、とうとう抑え切れなくなって、そのまま自然とほとばしり出た魂の痙攣だったのだ。

 蒼依は、その涙に一瞬おどろいたものの、ためらうことなく、すっと立ち上がり、泣く子に引きつけられる母親のように側までやって来て、その震える頭にそっと手を触れ静かに撫でるのだった。まるで、ぐずる幼子をあやすかのように。そして優しく言うのだった。

「あなたは、わたしの大切な弟です。なんで気に掛けないでいられるでしょうか?ですから、あなたも遠慮などせず、どんどん何でもわたしに相談してくれていいのですよ。分かりましたか?だったら、もう泣かないの。一人前の男がそれでは、あなたの姉としてちょっと恥ずかしいわ。さあ、気を取り直して。いいですね。じゃあ、先を聞かせて下さい」蒼依は、駄目な弟をまるでさとすかのようにこう言って、自分の席に戻った。慎治は、彼女の話しを、放心状態のまま聞くに任せていたが、それがまた彼の折れた心を異様な響きで包み込むのだった。『何でも相談してもいいのか?』とはいえ、もはや彼の野望もついえたのだ。今さら、何を相談すればいいのだろう。しかし、このまま黙っているわけにも実際のところいかなかった。そこで、何か言わなければと、思いつくままに話し出すのだったが、それが意外にも彼の本心をさらけ出すことになり、思ってもいない結果をもたらしたのだ。

「ぼくが、なぜあの絵を亨さんに買ってもらおうとしたのか。それは……それは、他ならぬぼくのつまらぬプライドや嫉妬から出たことなんです。ええ、実際そうなんです。あの人に援助されるのが堪らなく嫌だったんです。あなたを奪ったあの人の援助を、なぜぼくが受けなければならないのだ。こんな屈辱はないと思ったからです。この留学を出来れば自分の力で行きたいと、つまり、あの絵を彼に買ってもらってそれで行きたいと思ったものですから。何としてもあの人の直接の援助は気が進まなかったんです。どういうわけか、あの人のせせら笑う顔が脳裏に浮かんで消えないんです。こんな妄想をあなたはきっと笑うでしょうね。何とちっぽけな人間だと言って笑うでしょうね。でも、まったくその通りなんです。それで、自分のこの思いつきをあなたはどう受け取るか色々と考えて見ました。きっと、あなたはぼくのこの空想を受け入れるだろうと踏んだんです。あの人の優しい心情を思えば、どうして受け入れないはずがあろうかと。ましてや自分の弟じゃありませんか。ええ、そうなんです。ぼくは卑劣にも、そういうあなたの心情につけ込んで訴えれば、きっと聞いてくれるだろうと思って、こうしてのこのことやって来たんです。それがこのざまです。もはや言うべき言葉もありません。恥ずかしいです」

 静かに聞いていた蒼依は、彼が決していい加減なことを言っているわけではないと思うのだった。確かにその通りなんだろうと。彼の空想もまったくその通りなんだろうと。それに、どうして彼のそういう空想を笑うことが出来ようか。自分はむしろ進んで、そういう彼の心を信じてやらなければいけないのだ。そうも思うのだった。

「よく分かりました。あなたの心の内が聞けて本当によかったと思います。わたしはあなたを信じますから、どうぞご自分の思うとおりにやって下さい。でも、あまりあの方のご迷惑にならないように、そこはどうかよろしくお願いしますね」彼女はこう言って、愛すべき弟の真剣な思いを受け入れるのだった。

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