二十一 奇矯な提案
その時、玄関の呼び鈴が勢いよく鳴った。蒼馬氏は立ち上がり部屋から出て行き、しばらくすると、いかにも寒そうな顔をした、防寒具で身を固めた亨が入ってきた。彼は慎治の顔を見ると急に笑顔になり、それがまるで取って付けたようなものに慎治には感じられるのだった。
「いや、急に雪が降って来たもんでね。明日が心配なんですよ。なんせ、この普段は快適な都会生活も、ちょっと多めに雪が降っただけで、その脆弱さがもろに出てしまうんですからね。そういう意味では、われわれの生活というのは、便利さの影にどこか脆いものを隠し持っていると言っていいのかも知れませんね」彼はこう言って、上着を脱ぎ、紅茶を蒼馬氏から受け取ると、慎治の真向かいのソファーに腰を下ろし、まるで我が家のように気軽に振る舞うのだった。
慎治はそれを見て、なるほどこの男にとって、この家は我が家も同然で、まったくこの老人もさながら執事か何かのつもりでいるのだろうと訝るのだった。とはいえ、もはや、この男の存在は自分にとって、以前とはまるで違ったものになっていたことだけははっきりしていた。それゆえ、甚だ気まずい立場に居たことも分かっていたし、自分の取った行動を今更悔やんだところで仕方がないことなのだが、それでいて何かが心の中で引っ掛かっていて、それがこの男に向かうとなぜか知らぬが自然と感情的になってしまうのだった。しかし正直な話し、これから話さねばならない自分の奇矯な提案を、この逆風に晒された心理状態の中でどのように話せばいいのか、慎治はそれを思うと気が重くなって、ほとんど絶望的な気持ちになってくるのだった。確かに彼にとって、これは実に難題ではあったのだ。しかし、人間はどうすればいいのか分からず絶望的になり、意識が何も出来ず音を上げていると、何かが助けてくれるときがある。たとえばふっとある言葉が浮かび、それが突破口となって、思いも及ばなかった解決へと向かうことだってあるのだ。
「確かに、あなたのおっしゃることは、現代の都会の弱点かも知れませんね」慎治は何の意図も企みもなく、彼の話しに何かを感じ取って、こう言うのだった。「しかし、それは結局は人間のもたらした当然の帰結なのかも知れません。今の都会そのものが、どこまでも合理的で機能的な考えを極端に追求し造られたものだからです。われわれは自然の中に居ることをすっかり忘れているのです。だからこそ自然は時々人間にそのことを強烈に知らしめるのです。すっかり傲慢になった人間は、そのたびに感ずるのだが、しばらくするとそんなことは訳もなく忘れてしまいます。結局はその繰り返しです。現代人は都会生活を満喫してはいるが、とても自然と調和しているとは言えません。人間は利口になったのか馬鹿になったのか、いずれにせよ、われわれはその自然を排除することなどとても出来ませんから、あなたのご心配は、残念ながらこれから先もずっと続くのではないかと思われるのです」
「確かに、自然を人間の手によって排除することなど出来ませんが、しかし、何とかコントロール出来ないものでしょうかね。これはまったく現代的な発想かも知れません。昔だったら、神をも恐れぬといったところでしょうか」亨は、笑いながらこう言って、いかにも好意に満ちた眼差しで慎治を見るのだった。どうやら今の彼は何を言われても楽しいらしく、まるで浮かれたような精神状態になっているようなのだ。それもそのはず、目の前に座っている、気短でやたらにプライドの高いこの男は、顔も見たくないような恋敵なんかではなく何と愛する人の弟でもあったからだ。
「それはつまり、人間の生活を自然の猛威から何とか守りたいという意味でおっしゃっているのでしょうか?」慎治は亨の意見にそれほど関心を持ったわけでもないのに、まるで引き込まれるようにしてこう言うのだった。「確かにそれは、誰しも願うところです。しかし、余りにも快適になった生活というものを、ちょっと想像して見て下さい。自然の脅威がまったくなくなり、生活の心配も考えなくてすむようになった。果たして、そんな天国のような生活に人間はどこまで耐えられるでしょうか?いづれ人間は自分の命を実感するためにも、きっと信じられないような無茶な生き方を求めるようになるかも知れません。人間にとって、快適な生活など何ほどのものでもないのです。それは単に人間の気紛れな願望の一つに過ぎません。願望が叶えば、あとはもう退屈するだけで顧みることもなくなるのです。考えても見て下さい。その快適な生活からいかにして不快な生活が生まれて来るか。いや、それは生活の法則と言ってもいいくらいです。人間ぐらい我が儘で、わけの分からない生き物はいませんからね。ところが、ここに来て人間の最大の武器である技術的な進歩という、ある意味宿命的なとても厄介な問題が立ち上がって来ました。もっとも、それをどこまで信頼していいのかはさておき、それは有無を言わせぬ勢いで、洪水のようにわれわれの生活の中に入り込んで来ています。まったく生身の人間が、それにどうやって対処していくのかほとんど見通せない有様です。ぼくは時々思うんです。果たしてこんな生き方で、われわれは本当に満足することが出来るのかと。きっとどこかで人間の精神が叛旗を翻して、こんな魂のない機械染みた生き方などひと思いにぶち壊してしまえという、悪魔の声に唆された物好きな人間が出てくるんじゃないかと……」
慎治は、いつのまにか熱くなって思いつくままに喋ってしまったが、話しながらもなぜか、こんな話しをしている自分がやたらに恥ずかしく思えて来るのだった。それというのも、自分が本当に話そうと思っていることは、こういったこととは、およそ似ても似つかない代物だったからだ。彼はそれを感じて急に黙ってしまったのだ。
「いや、あなたのお話しは、実に的を射ています。感心しました。確かに、われわれはもっと自分が生身の人間であることを自覚すべきなのかも知れません。あなたのご指摘通り、われわれの肉体とはどこかかけ離れたところで、何か得体の知れない脅威が沸き上がっているのかも知れません。しかし、われわれは余りに生きることに忙しくて、そんなことを気にしている余裕もないのです。皮肉なことに世の中がどんどん便利になるに反して、われわれの肉体は精神ともども疲弊していくばかりです。それが証拠に、足があるにもかかわらず、歩くことを怠り、頭があるにもかかわらず、考えなくなっているからです。ただ楽に生きたいという思いがあるばかりなんです。ところが、どういうわけか面倒なことは極力避けているのにもかかわらず毎日が意味もなくしんどいのです。働くことは、確かに生き甲斐ではあるのですが、それが時々無意味に思われてくるときがあるのは一体なぜでしょう?なぜ、こんな便利な世の中で暮らしているのに、生きていることがこうも苦しいのでしょう?何かが間違っているのでしょうか?どう思われます?」亨は、いつのまにか真剣になって、慎治にこう問うのだった。きっと彼も日頃の疑問が積もりに積もっていたのだろう。それが、この薄暗い妙な雰囲気の中、慎治と面と向かって話していると、心の中に、まるで幽霊のように何かが顕現して来たのかも知れない。もっとも、そう問われても、慎治にはどう答えていいのか分からなかったので、ただ、じっと亨の顔を見るしかなかった。妙な沈黙がしばらく続いたが、亨は別にそれが間の悪い時間とも思わず、慎治のことなど忘れたかのようにじっと何かを考えていた。どうも、彼の性格を見ていると時より不思議な面が、ひょっこり顔を出すときがある。それは彼をよく知る人からも指摘されたことなのだが、たとえば仲間同士で楽しく食事をしているときに突然そういう状態になって、黙り込んだままじっとしていることもあったのだ。それは、普段見慣れている彼とはあまりにも違っていたので、友人にすら不気味がられ、さっそく変人という名誉あるレッテルを貼られることにもなったわけである。確かに人間には社会的な人格とは違う本人さえ知らないような謎めいた面が隠れているものだし、それが彼の思いとは裏腹に心そのものを支配するときだってあるのだ。要するに、妙な気分に支配されることが。
「ああ、それは現代では人間の生活そのものが一面的になってしまったからです」今まで黙っていた蒼馬氏がこう口を開いた。
「それはまたどういうことでしょうか?」亨は我に返るとこう聞いた。
「つまり、昼間ばかりで夜が消えてしまったのです。要するに人間は意識の傲慢に陥っているわけですよ。それがどういう状態を引き起こしているか。なるべく計算通りに動くことを求められているわけです。なぜかと言えば、すべてのことに数字が絡んでいるからです。それがないと生活が一歩も前へ進みませんし、数字くらい客観的に見ても意識にとって信頼できて扱いやすいものはありませんからね。みんな数字を見て安心するのです。銀行の預金残高にしろ、血圧がちょっと高すぎるとか、偏差値がどうかとか、日々の仕事上のノルマにしたってそうです。おまけに自分の存在証明に至るまですべて数字で表現されて、人々はそれを見て安心したり不安になったりしているわけです。そこにあるのはすべて計算できて誰にでも分かりやすいものでなければならないのです。しかしよく考えて見ると、それは意識にとっては極めて不都合な状態を作り出していると言ってもいいのかも知れません。というのは、そういう状態こそ、そこに数字の魔術的な作用が働いていると考えてもいいからです。昔から数字には不思議な力がありましたからね。現代でもそれは確実に作用していると言ってもいいのです。もちろんそれは現代的な形をとってはいますが。そういうわけで人間も知らないうちに嫌でもそれに縛られて生きるしかなくなるのです。良い悪いは別にしてね。意識はそういうことにはまるで無力です。それにまたわれわれは生身の人間でもあるわけです。それは何十万年も前からほとんど変わることのない肉体を持っているわけです。ところが人間の意識はここ数百年間で大きく変わりました。意識だけはね。そこに問題があるわけですよ。われわれは何か大事なことを忘れてしまったのではないだろうか?そう問うことすら忘れているのです。当たり前なことに誰も驚かなくなっていますし、いや、驚かないだけならまだしもわけもなく馬鹿にするわけです。生きることに意味を感じないというのも、そういう計算することの出来ない微妙なことに無関心になっているからかも知れません」蒼馬氏はこう言って紅茶を一口飲み亨を見るのだった。
「先生、当たり前なこととは何でしょうか?」亨は自分に向けられた話しのように感じてこう聞いた。
「当たり前なことというのは、要するに人間の日々の生活のことです。われわれはなぜ日々ここで生活しているのでしょう?まるで夢のような話しではありませんか。信じられないことです。当たり前に考えればね。しかし、これはただわれわれの物の見方次第なのかも知れません。ええ、そうですよ。視点を変えれば、当たり前が決して当たり前などではなく、驚くべき貴重なことかも知れないからです」
「なぜ、そう言えるのでしょう?」今度は慎治がこう聞いた。
「ああ、慎治さん。あなたはすでに経験されているではありませんか。当たり前のように思っていたことが、驚くべき事実に変わったわけですから。あなたの心がひっくり返ってしまうような貴重な体験をしたのです。実際あなたは、今日、ここに来たのも、その経験の結果なのではありませんか?」蒼馬氏は、こう言ってなかなか切り出せないでいる慎治を思い、それとなく促してやるのだった。
「ああ、そうですよ。慎治さん。あなたから電話をいただいたとき、ぼくは思ったのです。これは何かとても大事なことかも知れないぞとね。ですから、ぼくもそのつもりでここに来ました。もっとも、何でこんなところに呼び出したんだと、きっとあなたも思っておられるでしょう。ぼくはもうだいぶ前から、こちらに居候として置かせてもらっているんです。そういうこともあって、街中で会うよりもここの方が落ち着いて聞けるのではないかと思ったものですから」亨は本来の自分に戻ったかのように、こう言って改めて慎治を穏やかな目で見るのだった。
「ぼくは、あなたが来るまでの間、先生からいろんなことを伺いました。あなたとのご関係についても、蒼依さんのことも伺いました。今のぼくの立場は、もう以前のそれとは違います。ですから、あなたには、知らぬこととは言え、自分のしてしまった行為をとても後悔しているのです」
「いや、それは以前にも言ったと思いますが、あなたには何の責任もありません。ただ、そこにあるのは、あなた方お二人の特異な運命だけです。誰がそのことであなたを責めることができるでしょうか?むしろ、ぼくの方こそ、あなたに対してとても失礼な態度を取ったことに今でも忸怩たる思いがあるのです。まったく大人の対応とはひどくかけ離れたものと思ってすごく反省しています」
「ぼくが、今日、亨さんにお話ししようと思いましたのは他でもありません。例の留学の件です」慎治は、ようやく今まで心に重くのしかかっていた考えを口にしたのだった。「今になって虫がよすぎるだろうと思うのはもっともです。恥ずかしいことですが、あのときはひどく興奮してしまって、もう後先のことなど考えずに自分の思いをぶちまけてしまったのです。ところが、あれから色々ありまして、ぼくの思いにもかなりの変化が起きてしまったのです。それで、今ではなぜか取り返しのつかないことを自分はしでかしてしまったのではないかと考えるようになったのです。いや、それは何もこの好機を逃すことを恐れたからではありません。いろいろと思い悩んでいることがあるのです」
「お姉さんのことですね?」
「え?……まあ、そうです。ぼくは、あの人に多くの借りがあるのです。あの人に最初に会ったときからの積もりに積もった借りが。ぼくは今でも忘れません。あの人が、どれほど親身になって心配してくれたか。それに、ぼくがこんな体たらくな状態で生活しているのを見かねたあげく、この留学の件であなたのお手を煩わすことになったことも、ぼくは知っています。ですから、ぼくはあの人の恩に報いなければならないのです。あの人の悲しむ顔など作ってはいけないのです。そう思ったものですから恥を顧みず、ここにこうしてお願いに上がったわけなんです」彼の顔はいくぶん紅潮してその眼差しも真剣そのものだった。それは以前ではまったく考えられないような態度でもあったのだ。
「あなたのお気持ちはよく分かりました。ぼくは今でもあなたの留学には反対していません。むしろ、あの絵を見てからというものは、ぜひ外国に留学して多くの刺激を受けるべきだと思うようになりました。あなたの才能は一段の進化を遂げるだろうと思われるのです」
「ええ、そうです。その絵のことなんです。できればあの絵をあなたに買っていただけないかと思っているんです」慎治は、これこそが自分にとって一番肝心なことだということを、何とか彼に分かってもらいたいと願うのだった。
「それはまたどういうことでしょうか?」亨は、この奇矯な慎治の提案に戸惑いながらも、その訳が知りたいと思った。
「あなたの直接な援助に頼ることは、ぼくとしてもどこか心苦しいところがありまして、もちろんあなたのご好意から出た援助を無下に否定するということではありません。そこはどうか勘違いなさらないで下さい。ぼくは思ったのです。この留学がぼくにとって、これからの人生の分岐点になるかも知れないと、そう思ったものですから、なおさらここはぼくの力で乗り切りたいと思ったのです。分かっていただけますでしょうか?」
「正直なところ、あなたのおっしゃりたいことがよく分かりません。いや、あなたが自力で留学したいというその心情はよく分かります。しかし、それは無理だから、彼女もぼくに頼ったわけでしょうしね」
「ですから、ぼくの絵を買っていただきたいのです」
「しかし、買うと言っても、そもそも幾らで買えばいいのでしょう?それにあの絵は、蒼依さんの所有物ではありませんか?蒼依さんはこのことはご存じなんですか?」
慎治は、まるで理解されないだろうとは薄々分かってはいたが、このままあっさりと諦めるわけにはいかなかった。何としても、このことを承知して貰わなければならなかったのだ。しかし、亨は亨で、このことは蒼依の了解を得なければ、とても承諾できないという蓋しもっともな意見を言って譲らなかった。




