二十 幽霊の御神託
慎治は、その後心配する蒼依を残して無理やり家を出てしまった。彼は、何としてもやらねばならないことを感じていたからだ。そのことは、すでに昨晩からの混乱した思いの中で、繰り返し脳裏に浮かんでは、一刻も早い解決をと迫って来るのだった。たとえ恥を忍んででもやらねばならないものだったのだ。彼はそれをはっきりと思い出し、それが先程の蒼依とのやり取りをしてからというもの、なぜか強迫的な衝動となって彼を突き動かすのだった。
彼は、ある人物に電話をして会う約束を取り付けた。その人物は仕事を理由に、今すぐ会うことは出来ないが終わりしだい必ず行くからと彼に住所だけ教え、そこで待っていてくれと伝えるのだった。慎治は仕方なく、その住所を訪ねた。しかし、その住所が恐ろしく分かり難くてベテランのタクシーの運ちゃんも呆れて「お客さん、本当にそんな家がこんな所に実際あるんですかい?」とぼやくほどだったのだ。それでも彼は運転手のそれとなく匂わせてくる嫌味にも耐えながら何とかその目的の家に辿り着くことが出来た。彼はやれやれと思い金を払って車を降りた。錆びついた鉄柵の門を開け中に入ると、庭はほとんど手入れもされず雑草が蔓延ったまま放置されていた。辺りの様子も、どこか侘しげで、見た感じ、どことなく廃屋のようにも思えるのだった。それと言うのも、確かにこの家そのものに、ほとんど生活感というものがなかったからだ。
『まったく、こんな所に呼び出して一体あの男は何を考えているんだろう』と慎治は思うのだった。
彼は怪しみながらも玄関の呼び鈴を押した。しばらくすると中から何とあの蒼馬氏が姿を見せたのだ。これにはさすがに慎治も驚いたが、考える暇もなく中に通された。おそらく亨の方から連絡が行っていたのだろう、蒼馬氏は驚きの色さえ見せずに応対したことからもそれが分かった。
慎治は応接室に通され、ゆったりとした革張りのソファーに座るよう指示された。それはまるで身体が、そのまま沈み込んで行くようなふかふかしたものだった。彼にとっては柔らかすぎてあまり座り心地はよく感じられなかったが、次第にそれにも慣れ、部屋の様子にも目が行くようになった。あまり広いとは言えないフローリングのその部屋は、どう見ても普通ではなかった。窓には厚手のカーテンが引かれ、昼間でも外の光は入らなかったのだ。天井が部屋の大きさに比べて不釣り合いに高かったし、その吊された照明の明かりもやけに貧弱で暗かったので、天井の部分がまるで地獄の底のように暗く不気味に見えるのだ。この部屋にはソファーが三つと古びた家具が一つあるだけで、あとは何もなく如何にも殺風景なのだが、暗いお陰で、それがまた異様な雰囲気を醸し出しているのだった。
蒼馬氏は、彼の前に暖かい紅茶を用意した。自分も斜向かいにある一人用の、おそらく彼専用のソファーに腰を下ろし、自分も美味そうに紅茶を啜るのだった。
「どうぞ、召し上がって下さい。暖まりますよ」こう言って、慎治にも飲むよう勧めるのだった。慎治も一口飲んだが、飲みながらも、亨はなぜ蒼馬氏の家に行くように自分に言って寄越したのか不審に思うのだった。彼とはどういった関係にあるんだろう?
「亨さんは、じきにお出でになります」彼は、自分を不審そうに見る、慎治の視線を感じてかこう言った。
「ところで、慎治さん。あれから何か変化はございましたかな?」
「変化ですか?それはまた何の変化のことでしょうか?」彼は、ちょっとその質問の真意が掴めないといった様子で聞き返した。
「いや、私が言いたいのは、あなたの心の中で起きている出来事ですよ。いわば魂の煩悶です」
「あれは何時でしたか、もうだいぶ前になりますが、先生に初めてお目に掛かった時に、ぼくの父親に関しての驚くべき逸話を伺って、はっと目が覚めたおぼえがあります。その意味でなら、確かに魂の煩悶はその時から起こっていると言ってもいいでしょう。おまけに、その変化はますます高じて、この先どうなるか皆目見当もつきません。でも、何とか持ちこたえてはいますけどね」彼は冗談とも取れるような口振りでこう言うのだった。
「慎治さん、私はすでに終わっている人間です」彼はいきなり声を落とし、真面目な顔付きでこう切り出すのだった。「ええ、実際そうなんです。それに私はよく人から冷たい人間だと思われているらしいのです。ある意味当たっていますが、というのも、私の中には実に冷酷で残忍なものが、どうやらあると私自身ときどき思うからです。突然こんなことを言うと、さすがのあなたもびっくりされるでしょうが、もちろん、こんなことは誰にでも言うことではありません。つまり、あなただからこそということもあるのです」
それはまるで、あなたは私がどういう人間か、ある程度はご存じでしょうから、とでも言いたげだった。
「まあ、それはともかく、つまりこれからお話しすることは、ある一人の終わった人間、つまり死人が語ることだということを念頭に置いて聞いて下さるようお願いしたいのです」
彼はこう言って、その眼鏡の奥で蛇のごとく不気味に光る、その怪しげな視線を慎治に向けるのだった。慎治は微動だにしないで、これからどんな御託宣が下るのかと心の中で身構えた。というのも以前彼から聞かされたあの話しが余りにも衝撃的だったことを慮ってのことだった。
「あなたのお姉さんのことです。実際のところ、あなたはまだこの事実に納得されてはいないと私は思ってるんですよ。いや、それは当然と言えば当然なことです。いきなり私はあなたの姉ですと言われたところで、はいそうですかと納得することなど、とても出来ないからです。ですから、あなたの魂は、まだ半信半疑で揺れ動いていると思われるのです。実際のところ、あなたは何か証拠でも見せろと思っているのならば、それは出来ないことではありませんが、甚だそれはあなたの美学からすれば、そこから外れたいわゆる物的証拠というやつに過ぎなくなるのではありませんか?あなたが果たしてそんなことで心から納得するような人間にはとても見えないのです。むしろそんな証拠より幽霊の御神託の方を信じる人間ではないかと、私は秘かに思っているくらいなんですよ」彼はその口の端にかすかな笑みを浮かべこう言うのだった。
「正直なところ、その疑いは確かに今でもあります。でも、ぼくは、あなたからあの父親に関するおぞましい逸話を聞かされ、その後、彼女の態度や行いを見ていた自分にとって、果たしてどのような不審を持てと言うのでしょう。それに、ぼくはあの彼女の目を疑うことなどとても出来ません。そんなことはまったく不可能です!」
「思った通りだ。あなたは物的証拠より幽霊の言葉の方を信じるお方だ。ならばお互い馬が合うかも知れませんよ。なにせ私はもはや死人も同然の人間ですから」彼はこう言うと、もう一杯紅茶を飲むために立ち上がった。慎治にもお代わりを勧め、まるで二人のこれからの友誼を願うかのようにお互いに乾杯するのだった。
「あなたは実際のところ蒼依さんのことは、まだよくはご存じないと思われるのですが、どうでしょうか?もし知りたいと言うのであれば、お話ししてもいいのですよ。ご心配するには及びません。あの時のような差し障りのあるようなことなど、彼女に関しては一つもありませんので。しかし、その前に、あなたの描かれた蒼依さんの肖像画ですが、私はあの時あの絵を見て、ある意味衝撃を受けたのです。そこには私にとって遠い過去の、ある一幕物の劇の記憶を呼び起こすだけのものが描かれていたからです。蒼依の母親については、この前ちょっとお話ししましたが、あの時は名前は伏せておきましたが、まあそういうことだったんですよ。人生には時に甘い誘惑とともに過酷な試練を人に突きつけて来るときがあります。なぜそういうことになるのか誰も知りません。蒼依の母親もそういう運命に翻弄された一人なんです。そういう母親を持った蒼依は、必然的にその運命の影響を受けずにいられません。まったく悲しい限りですが、どうすることもできません。それでも彼女はその運命を受け入れたのです。本人の葛藤は如何ばかりのものでしょう。想像に余りあります。つい最近ですが、私はあなたのことを偶然にも沙織さんから聞かされたのです。彼女はどこであなたのことを知ったのか、よく分かりませんが、私にその青年について話されたのです。当麻慎治という名に聞き覚えはないかと。聞き覚えがないどころではないのです。沙織さんがおっしゃるには、彼の父親と樫山家には、どうも深い関わり合いがあるらしいと言うのです。もちろん彼女には私の方からは何も言っておりません。彼女はどうやらご自分の仕事の関係であなたのことを知ったらしいのです。いや、もともとあなたのことは小さい頃に面識はあったのですが、なぜあなたが樫山家と関係があったのか、本当のことなど知るよしもなかったのです。で、その美大生のあなたを調べていくうちに、あなたの父親を知ることになり、それが切っ掛けである驚くべき事実を知ることになったのです。それはもちろんはっきりとしたことではありませんでした。何しろご自分が生まれる前のことで、両親はすでに亡くなっていて聞くすべもありませんでしたからね。そこで私が何か知っているのではないかと思ったのかも知れません。私は話すべきかどうか迷いましたが、そういう時期が来たのだと思いすべてを彼女に話しました。彼女は驚きを隠しきれないようでした。言っときますが、彼女はとても頭のいい女性です。まあ、頭のいい女性にありがちな批判がましいところがあるにせよ、決して凡庸な女性ではありません。その時彼女はその事実を深く自分の中で吟味したに違いありません。それからしばらくして、あなたが蒼依さんの肖像を描くという話しを沙織さんから聞いてひどく驚いたことを覚えています。それもあの部屋で。実を言うと、あの部屋は私にとってはとても因縁のある場所なんです。あなたのお父様が蒼依の母親の肖像画を描いていたのがあの部屋でした。ええ、実に不思議な巡り合わせです。その母親のことですが、彼女の過酷な運命は、樫山家の土台を揺るがすものでもあったのです。彼女の夫は、果たしてこの事実を知っていたのかどうかということですが、私は確かに知っていたと思っているのですよ。彼はそれがために身を滅ぼしたのです。言っときますが、私は彼の言動を身近で見てきた人間です。妻に対しての彼の言動は、まさに聖者のそれだったのです。それがどういう意味かお分かりですか?ある時、こういう噂が世間に流れたことがありました。どうやら、あそこの夫婦の間にはとんでもないことが起こっているらしいと。つまり夫が妻の不倫に怒って、驚くべき行為に出たというのだ。それはあまりにも冷酷なほどの復讐で、それが為にその妻は発狂したというのです。そういう噂が巷に流れたのです。まったくのでたらめですがね。そんなことはまったくありませんでした。もっとも発狂したというのは、あながち嘘でもないのです。しかし、それは妻ではなく夫の方だったのです。しかし、そのことはごく限られた人しか知りません。彼はそれがためにすべてのものを失いました。彼はどんなに人知れず自分と戦ってきたことでしょう。しかし、最後に力尽きたのです。彼の聖者のごとき資質は発狂という代償を引き起こしたのかも知れません。おそらく彼の理性は、そのきちがいじみた葛藤に押しつぶされたのです。しかし、このことはまた別様にも考えられるのではないかと、今ではそう思うようになりました。つまり彼は何も妻の裏切りに発狂したわけではないのです。そうではなく、彼は自分の理想が粉微塵になったことに絶望したのです。彼はそういう男でした。そういうことに重きを置く男だったのです。世間は彼に同情はしましたが秘かに笑ったのです。それでも彼は妻を愛しました。どんなに滑稽だろうと愛したのです。たとえ気が変になろうとも。
彼女はある時、私に言いました。夫が生まれて間もない蒼依を抱いてあやしているのを見たとき、どれほどこの事実を知らないでいてくれたらと、身も裂かれるくらいの思いでいたことを私に打ち明けてくれたことがありました。しかし、この時にはすでに夫の精神は破綻しかけていたのです。もちろん彼女はまだはっきりとは認識してはいませんでした。しかし、後になってその事実を知ったとき、どれほど自分の罪深さを感じ絶望したか。だからこそ彼女は、その後、夫が亡くなるまで自分の死を掛けての献身を示したのです。蒼依はそういう環境で育って行ったのです。残りの二人もそうですが、とくに蒼依は驚くべき資質を持った女性です。それはあなたもきっと感じていることと思いますが、それはもはやこの世で生きていくにはあまりにも辛い心性を持ったまま生まれてきたようなお人です。私は今回亨さんからこの話を聞いたとき、何よりも蒼依さんの幸せを願いました。どうして願わずにおれましょうか。ですが、すべては彼女次第でしょう。私はそう思っております。ところで、慎治さん。あなたは本当に、あの事は諦めるのですか?留学のことですよ。あの時あなたははっきりと言ってしまいましたが、多分それは本心ではないと思うのですが、いかがでしょう?」
慎治は、老人の話にすっかり心を奪われていたせいか、いきなり自分に振られた質問にびっくりして口ごもった。
「いや、まあ、いいでしょう。あなたが何故にここに来たのか、それはいづれ分かることでしょうから。亨さんが来るまで、もうしばらく老人の無駄話しにお付き合い願いましょうか」
「その前に、ちょっといいでしょうか。先生は今すべては彼女次第とおっしゃいましたが、それはどういうことでしょうか?つまり二人の結婚は彼女次第ということでしょうか?」
「ああ、慎治さん、あなたはまだ蒼依という女性をご存じないのですよ。無理もありません。若いあなたは、蒼依という女性の本質がどういうものか、そういうことにそもそも考えが及ばないからです。こんなふうに言う私自身も、はっきりとした確信があるわけではないのですが、つまり彼女の本質というのは、祈りということではないかと思っているのです。もちろん自分のための祈りではありません。それが彼女次第とどう繋がるのか、そうです、すべては彼女の祈りの中にあるのです。彼女の幸せもまた彼の幸せもね。どうでしょうか。お分かりになりましたか?どうやら納得いかない顔をしていらっしゃいますが、まあ、それはいずれ分かる時が、あなたにも来るかも知れません」
「でも、もし、そういうことなら亨さんは、それで納得するんでしょうか?」
「とても、難しい問題ですね。しかし、もちろんこれは一つの仮定です。人の心は分かりません。それは確かです。それに、われわれは神ではありませんから、人の心などとても読み切ることなど出来ません。そんなことは分かり切ったことです。しかし、この人間というやつは、どこまでもお節介に出来ているので、どうしても相手の懐にずかずかと踏み込んで行くという習性があります。もっとも、そういう心の動きは、ひょっとして人間の本質と何かしら関係があるものなのかも知れません。しかし、もしそうであるなら尚更、人は他人の心の前で一旦は立ち止まるべきなのです。それが礼儀というものです。ところが、人間の中には、それを物ともせず踏み越えて行く者がいます。その変わり者は、まるで探偵のような熱心さと好奇心でどこまでも詮索し、挙げ句の果てにもう理解したと勝手に思い込んでしまう性癖を持っています。そういう礼儀も常識も弁えぬ輩は、いづれ身を滅ぼすでしょう。何事も度が過ぎれば人間としての綻びも目につくようになりますからな」
「ところで、ちょっと質問してもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん何なりと……」
「その亨さんのことですが、先生との間に、一体どのようなご関係があるのでしょうか?いや、こんなことを聞くのも、なぜ彼がぼくをここに来させたのか、あなたが出迎えてくれた時に、まず頭をよぎった疑問だったからです」
蒼馬氏は、いつの間にか、この若者に不思議な共感を持ち始めている自分に気づいていた。それはほかでもない、彼と最初に邂逅したあの部屋でのことが、今でも忘れられないのである。あの時自分が若い頃感じていた、人生上のあらゆる疑問、不安、怒り、苦しみ、そういった諸々の情動を、彼の表情から難なく読み取ることが出来たし、それがまた内心の震えを必死に抑えながら苦渋の思いで佇んでいたかつての自分の姿と、どこか重なるようにも見えたからだ。
「亨さんとは、もともとは彼の御尊父との関係で繋がっているのです。私はご覧のように、このような辺鄙な場所で人目を避けて暮らしておりますが、このような暮らしも、もう随分となります。ここが私の終の住処になることはほぼ確実ですが、それが出来るというのも彼の御尊父のご尽力があったからです。それについて今詳しいことは、ご存命なので省きますが、彼の施しはこのような寄る辺のない死に損ないの老体には身に余るくらいのもので、それに報いることは自然な感情でもあるわけです。その機会が、今回のことで実現出来るかも知れないと、つまり亨さんから蒼依さんへの橋渡し的な役を仰せつかったわけです。しかし、これにはやはり問題があり、その実現はかなり難しいものになりやしないかと、内心秘かに危惧しているわけです。ご本人はそんなことはまるで問題にしてはいませんが、そうは言っても、やはり世間の目はあるのです。もちろん彼のためにもこのことは何とか実現させてあげたいと願ってはいるのですが」
「そうでしたか、いや、ぼくが今更どうのこうのと言える程の人間ではありませんが、どうやら憑きものも落ちてしまい、ぼくも次第に蒼依さんや亨さんの恩が身に染みて感じるようになってきたのです。それは本当です。ですから、ぼくが亨さんにしてしまった失礼な態度がとても悔やまれて……いや、正直に言いますと、今日、亨さんに面会を申し込んだのはほかでもありません。ぼくにある提案があるのです。それはつまりぼくの描いたあの肖像画を彼に買って貰いたいのです」
「ああ、しかし、それはまたなぜでしょうか?」
「先生は、きっと不思議に思っておられるのでしょう。なぜ亨さんがあの絵を買わなければならないのか、と。まったくその通りです。彼に買う理由など、どこを捜してもありません。でも、ぼくは買ってほしいのです」
「それは、実に謎めいた発想ですね。しかし、そこにはきっとあなたなりの理由があるのでしょう。私としては、たとえその理由がどうであれ、あなたの願いが実現できるよう祈っておりますよ」彼はこう言って、この若者の心の中で何か大事なことが起こっているのだと感じて、これから始まる亨との話しを注視することにした。




