二 樫山家にて
約束の当日になって、慎治は、イーゼルやキャンバスバックその他さまざまな絵の道具が詰め込まれた鞄を持って、さて出かけようかと思い何気なく鏡を覗いてみた。なにぶん日頃から身嗜みには一切頓着してこなかった罰が、この日いきなり彼の身に降り掛かってきたことを自覚せずにはいられなかった。こんな事は前から分かっていたことではあったが、予定にもなかったこういう現実にぶつかったことで、今まで考えもしなかった男としてのプライドがどこからともなく湧いてきて、はてさて、どうすべきかと、そのまま出かけて行くのがためらわれた。もっともためらったところで、ほかに小綺麗な服があるわけでもなく、どうすることも出来ないのだが、彼はまるで何か名案でも浮かんで来やしないかと、しばらく鏡の前でじっと考えていた。しかし、無駄に時間が過ぎていくだけで、気の利いた解決方法など思いつくはずもなかったのだ。
とはいえ現実的な問題として彼は出かけて行く必要があったので、何とか自分と折り合いを付けなければならなかった。すると彼は閃くようにこう思ったのだ。つまり自分の服装を見て、これだってなかなかの代物で、画家としての雰囲気を醸し出している年季の入った服だと。なるほど、これは良い考えだと思い、これでやっと出かけることができるぞと、もう一度鏡を見るのだった。するとその鏡の中の自分が、「お前は何をやってんだ。こんな事は大した問題じゃないだろう。服装に拘ることなど馬鹿げたことだ。問題はそんなことじゃない。問題は今日あの魅力的なお嬢さんをどうやって描くか、そのビジョンが問題なんだ」と言って、こんなことにいちいち拘泥している自分に呆れ返るのだった。確かに、ここ二、三日は、そのことばかり考えてきたことは本当であった。彼は単なる肖像画で終わらせたくなかったのだ。そこに自分の直感を、どうしても実現したいという要求が募ってくるのを抑えることが出来なかったのである。
あの時の彼女の瞳の奥に感じられた物悲しくもどこか暖かみのある不思議なあの陰影を、手で触れたくなるような哀愁に満ちたあの表情を、どうしても表現しなければならなかったのだ。彼は胸騒ぎを感じながらも彼女の住む家の前に着いた。そこは閑静な住宅街の一画にあり、古びてはいたが、どこか威厳のある二階建ての洋風な家だった。
彼がチャイムを押すと、そこに中年のかなりでっぷりとした家政婦らしき人が出てきて、彼の様子を一通り上から下まで見ると、何も言わずに彼を中に通した。おそらく前もって伝え聞いていたのだろうが、彼の身なりから察するに、どうしても胡散臭そうな目で見てしまうのは、どうもこれはやむを得なかっただろう。
彼は二階のある一室に通された。そこは窓が大きく作られていて、光線の当たり具合も申し分なくてアトリエに使うには最適だった。その部屋には、ある大きな絵が壁に掛かっていた。どうも見覚えのある絵ではあったが、あまり気にもしなかった。と言うのも、もっと気にかかる絵を見つけたのだ。それはこの間、自分が描いた彼女の絵のほかに、もう一枚確かに自分が描いたと思われる絵がそこにあったからだ。そんな絵の存在など今では記憶にすらなかったのだが、どう見てもそれは自分が描いた絵に間違いなかった。そこには若い女性の顔が描かれていたのだが、それがここにあると言うことは、きっとこの家の家族か誰かなのだろう。あれこれ詮索はしてみるものの、どうにも腑に落ちなかった。
しばらくして部屋の扉が開いて、若い女性が茶菓子類をお盆に載せて入ってきた。その女性は、ちょっとはにかんで慎治の顔を見るでもなく、それをテーブルの上に置くと、
「今日から姉がお世話になります」と、ようやく話を切り出して彼を見るのだった。
「あっ、そうでしたか。あなたですね、あの絵のモデルは」と言って、彼はその腑に落ちなかった絵のそばまで行って、そのことを指摘した。
「はい、いつぞやはどうも……」
「いったい、これは……」彼は納得するどころか、一段とその謎に搦めとられてしまったようだ。そこへ、ようやくこの日の主人公が登場した。彼女は豪華な黒いドレスを身に纏い、まるで女王のように威儀を正し凜とした姿で部屋に入って来た。以前見た時と違って髪をアップにしていたので、大人としての雰囲気もどことなく感じられ、落ち着きと気品さが相俟って、彼女の魅力を一段と引き立てていた。その胸元を彩る煌びやかなネックレスも今だけは脇役に徹し、耳を飾るエメラルドのイアリングも彼女の動きに従って軽やかに揺れ、すべてが調和し、彼女の美という目的だけに向かってその歩調を合わせているかのようだった。
「今日は、わざわざお運び下さいまして本当にありがとうございます。改めて紹介させていただきます。わたくし樫山蒼依と申します」彼女は軽く会釈して続けた。「あなたにこうしたことを頼めたというのも何かのご縁です。それに、これからの有意義な時間をあなたと過ごせるかと思うと今なぜかとても感動しているんです。と言いますのも、あなたのことを妹から聞いたとき、わたしがどれほど驚いたかとても口では言い表せないからです」
慎治は彼女のこの話をどう取ればいいのか分からずただ呆然としていた。
「お姉さん、駄目じゃない慎治さんを困らせちゃ」と妹が彼の困っている様子を見かねてこう言って笑った。
「慎治さん。あたしは妹の莉子。今日は姉さんをうんと美人に描いてね。といってももともと美人だから、そこんところはあまり困らないわね」
「もう莉子ったら、あんたは向こうへ行ってらっしゃい」
「はいはい、あたしはお邪魔でしょうとも。それじゃ、よろしくね慎治さん」と彼女は意味ありげな笑みを彼に投げかけながら部屋を出て行った。
「ごめんなさいね。あの子ったら失礼なことばり言って」
「いや、とても良い子ですよ。今思い出しましたが、以前に彼女を例の場所で描いてやったことがあります。ええ、そう、覚えていますよ。彼女はぼくの描いてやった絵を見て、とても喜びましてね。まるでぼくのことを天才扱いにして褒めるんですよ。もっとも、その時は、ぼくのことをからかったんでしょうがね。で、彼女は家には絵の好きな姉が居るということを、ぼくになぜか話すんですよ、何なら今度連れて来るからとまで言ってね。いや、それはぼくが暇だと何気に言ったことが原因なんですが、それで、彼女はぼくの名前を聞いて、そのまま帰っていきました。ぼくは別に気にもしませんでしたし、それはそのまま忘れてしまいました。で、これにはきっと訳があるんだろうなと、今考えているんですが……どうなんでしょう。話していただけませんでしょうか」
「ええ、もちろんお話しいたしますわ。実は、わたしある人を探していて、人に聞いたり色々と調べてみたりはしたのですが、その手掛かりすら掴めませんでした。その訳は今お話しできませんが、わたしにとってとても大事なことなんです。ところが、ある日、妹が自分の顔のスケッチ画を持って帰ってきました。妹はその絵をわたしに見せ、あなたのことをいろいろと話してくれました。確かに、わたしは絵は好きなんですが、さすがに出かけて行ってまではとためらっていたところ、妹の口からあなたのお名前が出て、どれほど驚いたか。その後、もっと詳しく知りたいと思いまして、ある人に頼んで調べさせてもらいました。ごめんなさいね。あなたにとっては、ご迷惑だろうとは思いましたが、どうしても知りたいことだったので、やむなくさせていただきました。あなたは、あの当麻祐治画伯のご子息である当麻慎治さん……ですよね?」
彼女は話していて興奮してしまったのか、いくぶん顔を紅潮させながら彼の返答を待った。
「確かに、ぼくはその何とか画伯の息子には違いありません。でも、それがあなたにとって何の関係があるんです?」彼はどうやら思い出したくもないものに触れられたようで、イライラした様子がそのまま言葉の端々に表れてくるようになった。
「ごめんなさい、なんかいけないことを聞いてしまったようですね」
「いや、別にそんなことは……」
正直なところを言えば、慎治は彼女がこの部屋に入ってきたその時から、すでにイライラは始まっていたのだ。まず、彼女を見て、髪をアップにしているのが気に入らなかったし、その派手なネックレスも彼女のイメージとは全然違っていたのだ。まあ、黒のイブニングドレスはいいとしよう。この人に黒はよく似合うし、本人も好きなんだろう。彼は自分の要求するところのイメージを彼女に言うべきかどうか迷っていた。でも、このままでは自分の仕事はろくな事にならないことだけは、はっきりしていたので、ついに意を決して自分の要求を彼女に告げようと思った。
「あなたに雇われた身として、こんなことを言うのは、はなはだ僭越かも知れませんが、一つだけぼくの要求を聞いてはくれないでしょうか」
「えっ、それはまた何でしょうか?」彼女は一瞬驚いてこう言った。
「その髪を出来ることなら下ろしていただけないでしょうか。ぼくのイメージでは髪を下ろした方が、あなたの顔の特徴がより映えるのです。もちろん、これは出来ればの話しです。嫌なら仕方がありません」と彼は最後の一言は余計だったと思いつつも、こうなったら開き直って押すしかないと思った。すると彼女は驚いたことに何のためらいも見せず黙ってセットしてあった髪をほどき、首を左右に振った。良い香りが辺りに放たれ艶のあるダークブラウンの髪が無造作にその端正な顔を覆った。
「どうでしょう?」
「ちょっと待ってください」と言って、慎治は彼女の髪を自分の思い通りに整え始めた。
「このネックレスはどうでしょう……?」彼女はもしかしたらこれも気に入らないのではと、彼の顔を見た。
「できれば、外してください」彼はもうこうなったら大胆に行くしかないと思った。これで彼としては、自分の望むものは一応手に入れることができた。彼は落ち着きを取り戻して、ようやくこの驚くべき対象物をまじまじと観察し始めた。
この時、彼女は黙って慎治の指示に従ったが、内心穏やかならぬものがあったことは正直否めないのだ。と言うのは、慎治がまだ自分の家であれこれ準備をしていたころ、樫山家では蒼依の絵となるその下準備として、妹といろいろと相談し合っていたからである。それは二人にとってはとても楽しいひとときで、どの洋服を着れば絵として美しくなるかとか、髪形はどうすべきかとか、どのネックレスにしようとか、お化粧はどうするとか、要するにそうした空想に夢中になるということは、女性にとって未知な世界に繋がるための一つの手段でもあり、それが如何に彼女たちにとって心を踊らさずにはいられない大事なことであったかは確かに男の与り知らない、それこそ女に任された一つの特権的な世界でもあったからだ。
蒼依は、自分の髪形を思い切ってアップにすることに決めた。なんかそれの方が品もよく、どこか落ち着いた雰囲気を出せるのではないかと思われたのだ。莉子もそれに賛成してくれた。「それじゃ、一層のこと、貴婦人みたいに黒のイブニングドレスに、沢山の宝石をあしらった豪華なネックレスで、煌びやかに胸元を飾るべきよ。ほら、お母様が若い頃着たことがある、あのドレスがあるじゃない」どちらかと言うと、地味な性格でもあった蒼依は、この妹の大胆な提案に最初は乗り気ではなかったが、結局は彼女の気持ちに押されて、その提案に乗ってしまうことになった。それというのも彼女はこの七歳も離れた可愛い妹がとても好きだったのだ。とはいえ内心なんかわくわくしてきて、何度も鏡の前に立っては、すっかり貴婦人になった自分を見て正直まんざらでもなかったのだ。まあ、そういった経緯があってのことだったので、このような彼からの突然の要求は、普通だったら嫌な思いにもなったであろうが、その時の彼女の精神状態はまるで違っていて、恐らく、この若い画家のためならどんな要求でも呑むのではないかと推察できるくらいだった。
ところがこの若い画家の方は、自分の出過ぎた要求を黙って聞いてくれる彼女に内心戸惑いながらも、きっと自分を嫌な奴とでも思っているのだろうと一応考えてみたりはするのだった。しかし、そこは仕事の為と思って、あえて無視することにした。画家の目は、ただ見ることだけに集中した。
彼はついに、あの時に感じた彼女の不思議な陰影の秘密を確かめるという幸運を手にし、着手できる段階まで漕ぎ着けたのだ。そういう意味でも、これは天から授かった栄誉ある事件と言ってもよかったのである。ああ、こんな喜びはまたとあろうか。それも画家の特権として、誰にも邪魔されず、文句も言われず堂々と、満足の行くまで、彼女のその眩いほどの面差しを観照することが出来るのだ。もちろん、こうした彼の思いは純粋極まりないもので、そこには何ら疾しい思いなど何もなかったのだが、その純粋な思いが後々彼を苦しめることにもなったのである。しかし、その時の彼は喜びに全身を震わせ、まさに至福の極みへと彼を誘って行くのだった。
彼女の魅力の一つは、やはり哀愁を帯びたその黒い瞳だった。そしてその瞳を中心に形のよい鼻。すっきりとした顎のラインに透明でいて暖かみのある白い肌。ぽってりとした処女のように可愛い唇。そこにダークブラウンの髪がいくぶん無造作に掛かっている。黒いドレスは彼女の悲哀の象徴だ。そこにはアクセサリーなど一切必要ないのだ。彼はそう確信し、この直感をどこまでも押し通そうとした。とはいえ、それを実際に表現するということになると、そこにはまったく別次元の難しい問題が当然待っているわけである。しかし、その時の彼には、不思議な予感があったのだ。彼の喜びが、その感動が、すべてをうまく運んでくれるだろうという。彼女の深みから来る得体の知れない謎めいた美が、自分に、はっきりと感じられる限り何を恐れることがあろうか。ああ、恐れる必要など少しもないし、その筆の動きにためらいなど起きようがないのだと……慎治は彼女の生身の身体から否応なく来る感覚としばらくは格闘した。今にも打ち負かされそうになるが、自分の腕を信じて、この美の謎に立ち向かえる喜びを全身で感じながら少しずつ形を作っていった……。