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蒼依の肖像  作者: 吉田和司


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19/28

十九 闇の中へ

 慎治は、ソファーに深く腰掛けると、両手で頭を抱え、しばらくじっとして身動きすらしなかった。そうこうするうちに沙織の二人の友人と蒼馬氏は帰ってしまい、部屋の中には沙織と亨、それにどことなく呆然とした顔で慎治を見つめていた莉子が残っていた。蒼依は彼のそばに居たかったが、彼を刺激しないためにも、今はここに居ない方がいいと沙織に諭されて、仕方なく自分の部屋に戻ることにした。莉子も何となく気まずくなったのか、蒼依を追いかけるようにして部屋から出て行った。彼女はその時、蒼依に何か言葉でも掛けようとして後を追ったのだが正直迷ってはいたのだ。このまま蒼依の部屋に行って、今回のことについて話すことが果たして今この時必要だろうかと。彼女はそうとう迷って、しばらく蒼依の部屋の前でじっと考えていた。しかし、やはり今はよそうと思い、そっと自分の部屋に戻って行った。


 慎治はやおら顔を上げ、誰かを捜しているのか辺りをキョロキョロ見回すのだった。そして、寂しげな様子でこう言った。

「蒼依さんに謝っておいて下さい。こんな形で大切な誕生日を台無しにしてしまったことを」

「そんなこと心配しないでいいのよ。それより、あなたこそだいじょうぶ?少しは落ち着いた?」

「ええ、少しは、でも、それは本当のことなんですか?なぜ、そんなことが分かるんです?つまり、ぼくの親父が……」

 彼は、そう言いかけて黙ってしまった。突然ある記憶が蘇ってきたのだ。『いつだったか、あの蒼馬先生に聞かされた話し、あれこそこのことだったんだ。父親の恥ずべき行状がこの結果なのだ。ああ、それにしても、おれはなぜこんなに失望してるんだろう?この事実が、おれにとってそんなに恥ずべきことなのだろうか?』しかし、彼には、まだ解決出来ない悩ましい問題があったのだが、あまりの疲労と虚脱感が突然襲ってきて崩れ落ちるように、そのままソファーに横たわってしまった。沙織は、それを見ると別の部屋から毛布を持ってきて、そっと彼に掛けてやった。二人は明かりはそのままにして部屋から出て行った。

 彼は夢を見た。そこは父親がかつてアトリエとして使っていた部屋の中だった。父親は、モデルを前に絵を描いていた。彼はそばでその様子をじっと見ていたが、すぐに退屈して部屋から出て行こうとした。すると父親が変な顔をして彼を呼び止めた。父親はそのモデルを指さして何か頻りと叱りつけているようなのだ。この女は何でこんなにあばずれなんだと言って、いきなり立ち上がると殴ろうとした。彼はその手を掴み『自分の娘を殴るのか?』と言って父親をたしなめた。父親は薄笑いを浮かべ部屋から出て行った。

 慎治は突然目を覚まし身を起こした。すぐには自分がどこに居るのか見当もつかなかったが、すぐに一切を思い出した。しかし『自分はここで何をしているのだろう』と思って辺りを見回すのだった。彼はテーブルの上が綺麗に片付けられているのを見て『あれほど賑やかだった誕生日会も、もう終わってしまったのだ』と不思議そうにつぶやくのだった。

 『誰も居ない、あれほど賑やかだった誕生日会も今では蛻の殻だ。おれを残したまま消えてしまった。おれがここに残ったところで何の意味もないのに。おれはここに居るべき人間ではないというのに。ああ、何でこんなことになってしまったんだろう?そんなことは分かっているじゃないか。すべてはおれの道化のせいだ。手の届かぬ女王様に恋をした道化のせいだ。運命という戯れは何と残酷なものか。この思いは、もはや何の意味も持たないのだ。あの人に初めて会った時の、すべてが夢のような輝きに満ちていた、あのときめきが何と懐かしく感じられることか。それがどうだ、すべてが地に落ちてしまったのだ』

 彼は何かに駆られるように立ち上がって部屋から出て行こうとした。すると、彼の前に蒼依が姿を見せ、じっと彼を見るのだった。それはあまりに予期せぬことだったので、彼はまるで幽霊でも見たかのようにぶるっと身震いした。蒼依はそのまま彼に近づいてきたので、仕方なく後退りして後ろ向きのまま、もと居たソファーに倒れ込んでしまった。彼女は、その前に静かにたたずみ、じっと見つめたまま何も言わずに、ただそっとその白い指先で彼の額に触れるのだった。そして、そのままきびすを返すように部屋を出て行こうとした。彼は慌てて立ち上がりこう言った。

「あの、今夜のことは申し訳なかったと思ってます。あなたの誕生日を台無しにしてしまって……」

 彼女は振り向いて優しく言った。

「いいえ、あなたは何も心配しなくてもいいのですよ。ただ、ご自分をあまり責めないで下さいね。いずれまた二人だけでお話ししましょう……」彼女はこう言って出て行ってしまった。

 慎治は、奇妙な感覚に襲われ、そのままソファーの上に倒れ込んでしまった。どのくらい気を失っていたのか、彼は我に返ると同じソファーにいることに気づいた。すでに外は明るく、窓からは日が差し込んで、昨夜のこの部屋の不思議な面影など跡形もなく消え去っていたのだ。それにテーブルの上が散らかったままの状態であったことに何よりも驚いてしまった。自分の記憶では、確かテーブルの上は綺麗に片付けられていたからだ。しかし、そんなことより彼は腕時計を見て、針が昼近くを指していることにびっくりしてしまった。彼は慌てて起き上がると、乱れた髪の毛を手で整え、服装の乱れを直した。すると、そこへ莉子が顔を見せた。

「あら、起きたの。でも、まだ寝ててもいいのよ」

「あの、蒼依さんはおられるんですか?」ちょうどいい時に来てくれたと思い、こう聞いた。

「ええ、いますけど、何か……呼びましょうか?」

「ええ、いや、いいです」彼は昨夜のことが聞きたかったのだが、何かためらいがあった。しかし、二人だけで話したいと言っていたことを思い出した。

「すいません。呼んでいただけますか?」

 莉子は、飛ぶように部屋を出て行った。しばらくすると蒼依が姿を見せた。昨夜とはちょっと変わった淑やかな出で立ちだったが、何やら思い詰めた表情で、心配そうに慎治の顔を見るのだった。恐らく昨夜はよく寝られなかったのだろう、彼を見るその眼差しもどこか辛そうで、その心労も半端ではないことを窺わせた。二人は今までとは違う、どこか気まずい雰囲気をどうしてもお互いに持ってしまい、スムーズに会話を進めることが出来ないようだった。

昨夜ゆうべはすいませんでした。あんなことになってしまい申し訳なかったと思っています」彼はこう言いながらも同じようなことを昨夜言ったことを思い出すのだった。

「そんなことは心配しないでね、慎治さん。ただ、どうか無茶な考えだけは控えて下さいね。あなたはわたしにとって大事な弟なんですから。あなたは決して一人ではありません。どうか、そのことを忘れないでね」彼女は、もっと言いたかったのだが、思いが溢れて胸が詰まってしまった。慎治は、彼女の言葉を聞くと、昨夜の彼女の姿がまるで夢のように思えるのだった。あれが夢だったとはとても思えないのだが。それなら確かめてみればいいじゃないか。

「昨夜、あなたはぼくの前に現れて言いましたよね。二人だけで話したいと……」

「昨夜?そうですね。昨夜は一度あなたの様子を見るために、ここに来ました。でも、あなたはぐっすりと眠っていましたよ」

「でも、ぼくはあなたとお話ししました。短い会話ですけど。確かに……あなたは、ぼくのおでこにちょっと触れてそのまま出て行ったのです」

「きっと夢でも見られたのでしょう……」

『彼女はとぼけているのだろうか?しかし、何のために。おれは、まったく何かがおかしくなっているのだろうか?おれの見ているすべてのことが、おれの感じているすべてのことが、おかしくなっているのだろうか?』彼はこう思うと、どこか常軌を逸した、もっと言えば狂えるような眼差しで蒼依の顔を見つめるのだった。まるでそれは自らの理性などとうに消え失せ、もう蒼依そのものがどうにも理解出来なくなり、果たして自分にとって彼女は一体どういう存在なのかという、実に由々しき疑問が彼の脳裏を駆け巡っているかのようだった。もはや彼の中にあった、あのまばゆいような時間は幻のごとく消え去っていたのだ。そこでかすかに感じられていたのは、奇怪な運命の渦中で、どうしていいのか分からず途方に暮れている彼の震える心だけであった。その震えこそ彼女に対する混乱しきった思いの異様さそのものであったのだが、それが果たして何なのかは理解できないまま、まったくと言っていいほど心身ともに身動きを取れなくしていたのである。とはいえ、いつまでもこんな状態でいるわけにもいかなかったのだが、なぜか彼女の視線に奇妙なあるものを感じ取り、それがどういうわけか彼の視線をそのまま釘付けにさせてしまっていたのだ。しかし、彼女のその奇妙な視線の中に彼は自分の奇怪な心を読み取るべきだったのだが、残念ながらそういう思いに至ることもなく、とうとう力尽きたかのようにぶるっと身震いすると自分の方からその視線を逸らせてしまった。彼は何となくばつの悪そうな皮肉っぽい薄笑いを浮かべると、そばにあったソファーに腰を下ろした。その薄笑いだが、その中に自分が先に目を逸らせてしまったという奇妙な屈辱感もないわけではなかったが、それよりもこの呪縛からようやく解放されたというほっとした薄笑いでもあったのだ。またある意味、彼にとってはまだはっきりと意識されたわけではないのだが、蒼依の謎めいた心情に対する戸惑いで歪んだ薄笑いそのものでもあったのだ。

 彼は、まだ自分の心が混乱していることは分かっていたが、蒼依に言いたいことは少なからずあったのだ。

「しかし、不思議なもんですね。まったく何て言ったらいいのか……でも、これだけは言わせて下さい。たとえあなたが、ぼくの実際のお姉さんだとしても、今すぐそれを認めなければならないのでしょうか?」彼はそう言いながらも、いや自分はそんなことを言いたいわけじゃないんだ。もっと違うことが言いたいのだが、思うように言葉が出てこない自分にいらつき始めた。

「いや、そうじゃない……それが事実なら、ぼくが認めようがどうしようが関係ないことですからね。ああ、どうもうまく言えません……」彼は急に考え込むように黙ってしまった。

「ああ、そうそう、これだけは聞いておきたいと思ってたんです」彼は急に頭を上げ、これこそ聞きたいことなんだと言わんばかりに急き込んで話すのだった。

「正直に言って、ぼくがあなたを好きだったことは、あなたもご存じだったのでしょう?どうお思いでした?ご自分の弟が姉を一人の女性として見てることに」

 彼が、どういうつもりで、こんな意地の悪い質問をしてやろうと思いついたのか、そこはやはり若い男の考えそうなことで、ちょっとした皮肉のつもりで口をいたことなのだが、しかし、それを口にしたとたん、その質問のあまりのひどさに改めて愕然とするのだった。

「いや、すいません。馬鹿げた質問でした。取り消します……まだ夢の中にいるようで、自分でも何を言いたいのか、どうもはっきりしません……ああ、それにしても、ぼくは間違ったことをしてしまったのでしょうか?あなたを好きになることが間違ったことなんでしょうか?いや、そんなことはない。そんなことはないが、もう真実を知った以上ぼくの思いはついえたのだ。ああ、まったく何ということだろう。ぼくの心をあれほどときめかしてくれたあなたを、こんなことで諦めなければならないなんて。まったく残酷な話しもいいとこじゃありませんか。ハハ、とんだ喜劇だ。そうだ、これは喜劇ですよ。この喜劇は、あなたが黒いドレスを着てあの部屋に入って来た時から始まったのです。それ以来ぼくの魂はあなたの美に圧倒されてしまい、ぼくにとって無くてはならない存在になってしまったのです。うまく言えませんが、それは好きとか嫌いとかの次元ではないような気がするんです。まるであなたの魂に取り憑かれてしまい、もはやそこにぼくの自由などなかったのです。あなたは完全無欠な女性となって、ぼくの心を支配してしまったのです。もちろん、それはあなたには何の責任もありません。ぼくの勝手な空想です。だから喜劇だと言ったのです。しかし、それがどういうことかあなたには想像もできないでしょう。そういうことがぼくの心の中で起こってしまったのです。あなたはきっとこう思われるかも知れません。それは単なる芸術家のよく見る幻想だと。ええ、そうです。幻想かも知れません。しかし、それは現実に起こったことでもあるんです。そういう空想が、あなたのその肉体が目の前に居ることと、まったく同じように、ぼくの心を圧倒するのです。……確かに今のぼくは混乱していて、自分が何を言っているのかよく分かってないかも知れません。実際のところ、ぼくは自分の愚かさを自覚してはいるつもりです。ああ、しかし、問題はそんなことではないのかも知れません。大事なことは、そんなぼくの個人的なことではないのだ。むしろ、もっと現実的なことかも知れない。もっと現実的な、たとえばあなたとの本当の関係をしっかり考えていかねばならない。そういうことも……必要だと思うのです。ああ、そうだ、ぼくは亨さんに対しても、とんでもない言いがかりをつけてしまったかも知れません。ぼくの狂ったような嫉妬で、どれくらいあの人に迷惑をかけたか、あなたのためにも何とか彼との関係を修復しないと。ああ、思い出したぞ。こんなことをしていてはいけないのだ。何とかしなければ……」

 彼はこう言って立ち上がると、部屋から出て行きそうになった。蒼依は、彼のうわごとのような言葉すべては理解できなかったが、何かとても危ういものを感じ、それこそ震えるような思いに押され、いきなり彼の前に立ち塞がるように身を投げ出した。そして、彼の両腕を掴み、焦点の定まらぬその目をしっかりと見つめた。彼はいったい何が起こったのだとびっくりして、蒼依をぼんやりとした眼差しで見るのだった。

「しっかりして、慎治さん。わたしを見なさい!」

 彼は言われるままに、蒼依を見るのだった。まるで夢から覚めたかのように、一瞬ぼやけた意識の中、今何が起こっているのか一生懸命その記憶を手繰り寄せるかのように彼女を見つめた。すると二人の置かれている立場が、闇の中からしだいに浮かび上がって来るのだった。そして彼は見たのだ。彼女の姿を。その悲しげな瞳の向こう側に、確かに光る何かを見たのだ。彼女の震える両手が必死に何かを訴え掛けているのが、心を貫くような感覚として、はっきりと感じられたのだ。すると彼は今までに経験したことのない衝撃を受けるのだった。その刺すような真剣な眼差しの向こう側に、紛れもないただ一つの愛情を感じたからだ。しかし、なぜか彼は、それを受け入れることを躊躇し、むしろ忌避さえしかねない有様だった。

 

 

 

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