十八 未知なる不安
ひょんなきっかけから、蒼依が慎治の腹違いの姉だったということが判明して、蒼依自身は、ようやくその願いが叶ってホッとしているだろうと思われるかも知れないが、本人にしてみれば決してそうとばかりは言えなかったのだ。確かに、それはあまりにも呆気なく実現したことはしたが、慎治の心を思うと何だかこんな形で秘密が明らかになってしまったことに一抹の不安がよぎるのだった。しかし、その一方で、それが例えどんな形であろうと、もはやこの状況では告白どころの話しではなくなっていたので、沙織のこの勇み足のような失言は、ある意味とても有難かったかも知れないのだ。
その当の慎治だが、彼は何か放心したような状態らしく、椅子に静かに座っているだけで、この事実に対して何の反応も示さなかった。周囲の人達も、一体この状況にどのように対応すればいいのか、まったく分からないといった様子だった。しかし、何か特別な思いで、最初から黙ってじっとこの様子を窺っていた老先生だけは、この結果に大いなる運命を感じ取っていたようなのだ。こうしてその秘密は明らかにされ、新たな運命を形作っていく。その一部始終を見届けた老人は、おもむろに立ち上がると、この部屋から出て行こうとした。しかし、彼にとって、ある思い掛けない出来事が起こり、それがまたこの場に居た人々にある奇怪な印象を残すことになったのだ。
このような誕生日会らしからぬ状況になって、もう一人その心情にどうしても立ち入らなければならない人がいた。それは末っ子の莉子だった。彼女は取りようによっては慎治以上に、この状況を驚いてもいい立場にいたといってもいいくらいなのである。それは他でもない、今まで明かされることのなかったこの事実を、どうして身内でもある自分だけ知らないでいたのか、と言うことだった。どうしてこのような大切な事を自分にだけ隠してきたのか。まあ、その気持ちは分からぬでもないが、こういうことは成り行き上ままあることだし、知らなければ知らないでいた方がいい場合もあるだろう。しかし、そうは言っても、彼女からしてみれば、この事実は大きなショックとともに、その心を色んな意味で揺さぶったことだけは確かだろうし、きっとこう思われるのではなかろうか。この事が、ひょっとして彼女の心に深い傷でも残すのではないかと。ところが、そんな心配は少なくとも今の彼女にとっては必要のないものである。というのは、この時彼女が一番心を砕いていたのは、何にも増して慎治のことだったからだ。彼女はただ彼の苦しみに寄り添うように心を砕いたのだ。どうすれば彼をこの窮地から救い出してあげられるか、それだけを考えていたのだ。何とかしなければ。そう思って彼女は、沙織のそばに近寄ってそっと耳打ちをした。沙織は彼女の顔を見て、この子は一体何を考えているんだろうと一瞬思ったが、まあ、彼女の思いも分からぬではないので、この状況を変えるためにもいいかも知れないと思い彼女の提案に頷いた。沙織は慎治に向かってこう語りかけた。
「慎治さん、あなたにとってこの事実は、とてもすぐには納得できないかも知れません。でも、こういう大事なことは決して慌てて考えてはいけないのです。それに、今のあなたは、正直混乱していて、これがどういうことなのか、しっかり考えることも出来ないでしょう。でもね、あなたは決して間違ったことをしたわけではないのよ。あなたが蒼依を思っていたことは、このあたしにもよく分かっていたわ。それは仕方のないこと、そうよね?誰だって彼女を見れば恋の誘惑に駆られても仕方がないもの。でも、あなたの場合は、二人の間に血の繋がりがあったことが唯一の悲劇だったのかも知れませんね。実はね、蒼依もそのことで今までとても悩んでいたの。あなたをこの家に連れてきて、自分の肖像画を描かせた時から、ずっと悩んで来たの。あなたが、自分の将来について悩んでいるのを知ると、我が事のように心配して、あたしにさえその事で相談するくらいだった。どうでしょう、慎治さん。蒼依のあなたを思う心に免じて、留学のことは思い直してくれないでしょうか?だって、あなたにはあんなに優れた才能があるじゃありませんか。あの才能をもっと伸ばすという努めが、その使命があなたにはあるのではないでしょうか。それには今まで通りの生活を送っていては駄目です。あなたには環境を変える必要があるんです。外国への留学が、あなたにとって、とてもいい影響を与えるとあたしは信じています」
「そうよ、慎治さん。皆さんこれを見て下さい」こう言って、莉子は、慎治の描いた蒼依の肖像画を一同に披露した。一瞬、部屋の中は水を打ったかのように静まり返った。その絵は、確かに皆の心を掴んだのだ。一言で言うと、そこには何ものにも代え難い蒼依の瑞々しい肖像が描かれていた。いや、蒼依を知らない人が見ても、この女性像には、何とも言いようのない生命感と哀愁の入り交じった美の極致があると思うだろう。亨は、初めて、その前々から見たいと思っていた絵を見て、一瞬息を呑んだ。本人を目の前にしてなんだが、正直、絵の方が実物より多くを語りかけていると思った。これが芸術というものの持つ力だろうかと思わざるを得なかった。ここに居たすべての人は慎治の才能に賛辞を送った。この絵のお陰で、今までおかしかった人々の雰囲気も、どうやら落ち着いてきたかのようにも思えた。ところが、この部屋の後ろの方で、何やら変な動きをするものがあった。それは他でもない、あの帰りかけようとしていた蒼馬氏が、その絵の出現で思い返し、その場にとどまり、それを見た時のことだった。彼も実はその絵を見るのは初めてだった。彼は驚いたのだ。その絵が、何から何まですべて彼女の若い頃の母親とそっくりなことに。その表情といい、輪郭といい、すべてが瓜二つだった。その衣装からして、あの時に着ていた母親の衣装そのままなのだ。彼の記憶に間違いなどあるわけがない。彼はまだ惚けてはいなかった。蒼依の肖像画が突然記憶の中にある母親の絵と重なり、それがそのまま、あの時の彼の精神状態に至るまで、まるで芋ずる式に蘇ってくるのだった。あの時のあの絵から、この悲劇は始まったのだ。自分にとっては、あの忌まわしい絵は二度と見たくなかったし、見ることもないと思っていたのだが。彼はその絵にかつての女性の幻を見たかのような錯覚を覚え、頭がくらくらして、その場に膝をついてしまった。
「あら、大変!今度は先生が倒れてしまったわ」と莉子は叫んだ。
蒼馬氏は、すぐに駆け寄った亨に助けられソファーに運ばれた。彼は大丈夫だという意思表示をして、乱れた自分の服装を整えるのだった。心配して寄ってくる人達に向かって彼は言った。
「皆さん、どうか心配は無用です。私はご覧のように何ともありませんから。私のことなどほっといて下さい!どうか、皆さん本当に心配すべき方のそばに寄り添っていてあげて下さい!」
この時、今までじっと動かず、黙り込んでいた慎治が椅子から立ち上がると、そのまま部屋から出て行ってしまった。蒼依は、それに気づくとアッと声を上げた。それこそ心臓が止まるかと思うくらいの恐怖を彼の後ろ姿に感じたのだ。亨はすぐに蒼依の思いを察して彼の後を追った。
慎治は、ちょうど玄関を出たところだった。亨はすぐに靴を履き表に出た。すると意外にも慎治は、まるで彼を待っているかのような格好で門口に立ち止まっていたのだ。
「あなたが、追いかけて来るだろうとは、ぼくも思ってましたよ」彼は、まるでそのことを予想でもしていたかのような口振りでこう言った。亨は、彼の人の心を見透かしたような言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに頭を切り替えて、彼が何を言うのか待った。
「正直、ぼくは今ほとんど心の整理がついていません。あの事実が本当なのかどうか、それすらも考えられないのです。でも、ぼくはあなたにこれだけは聞いておきたいと思って、今こうしているんです。正直なところ、あなたはこの事実をご存じだったのですか?」
慎治は、まるで正邪の審判でも仰ぐかのように鋭い眼差しで亨を見つめるのだった。外灯の明かりに照らし出された彼の顔が青白く歪み、何か薄笑いのようなものさえそこには感じられた。
「いや、ぼくも初めて知りました」亨は、実は自分もあなたと同じように驚いていることを素直に打ち明けた。それが、慎治にも伝わったのか、彼の鋭かった眼光も、やがて落ち着いてフッと溜息が漏れた。
「まるで作り話だ。こんなことがあっていいのだろうか?まったく、ぼくはとんだ道化を演じてしまったようですね」
「あなたに責任はありませんよ。それよりも、どうか蒼依さんの心情を酌んでやってくれませんか。あなたのことがただただ心配なんです」彼は、慎治の自尊心を思い、なるべく彼を刺激しないように言葉を選んで言った。ところが、慎治はどうやら何かに心が奪われているらしく、亨の話しに耳を傾けることもなかったのだ。要するに、彼の魂はすでにある種の危機に見舞われていると言っていいのかも知れない。
「ぼくは、こんなことは知りたくはなかったなあ」彼はこう口走ると、何か深い物思いに沈んで行き、もう相手のことなど眼中にはなく、すべての事柄が目の前でガラガラと崩れ落ちていくような感覚を覚えるのだった。
「ぼくは、彼女の心に美を見たのです。ぼくの心を捉えて離さない唯一の美をね。それが、こんな事実で毀されてはたまらない。そんなことはあってはならない。ああ、過去の汚辱があらゆる美を台無しにしてしまう。そんなことは断じて許してはいけない」
この意味不明な慎治の苦悶に亨はゾッとしたが、このまま放って置くことは出来ないと思い、彼を何とか宥めて、再び家の中に連れ込むことにどうにか成功した。
こうして、その夜は、慎治にとっても、亨にとっても、はたまた樫山家の三姉妹、蒼馬氏にとっても、まったく予想だにしない驚くべき日となったことだけは、それぞれの思いはあるものの皆一致した意見だった。しかし、この劇は、まだ始まったばかりで、この先いったいどのようになるのか、まったく分からなかったし、そこにあるのは未知なる不安と、心労ばかりで、それが予断を許さぬ緊張した空気となって、彼等の心の中に漂い始めていたのだ。
亨に連れられて慎治が戻ると、誰よりも安心したのは蒼依だった。彼女はホッと胸をなで下ろし、目に涙さえ浮かべて彼の消沈した顔を見るのだった。




