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蒼依の肖像  作者: 吉田和司


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十七 二人だけの真実

 誕生日会は、予定通り午後六時から開かれることになった。招待された人達は部屋に集まって、それぞれが自由に席に着き、思い思いに喋ったり、スマホを見たり、じっとその場を観察したりしていた。慎治はテーブルのいちばん端に腰掛け、あたりをジロジロ見るわけでもなくじっと動かず、まるで修行僧のように、見ざる言わざる聞かざるを実行しているかのようだった。

 亨は、このような家庭的な雰囲気は、自分の生活では子供以来のことだったので、最初はどこか戸惑っていたが、しばらく経つとこの和やかな雰囲気が、どことなく心地よく感じられるようになってきて、隣りに座っていた沙織の友達だという女性にも気軽に声を掛けていた。彼は慎治とは反対側の席で、それもいちばん離れていて、まるでそれは彼との心理的な関係をそのまま暗示してでもいるかのようだった。

 その部屋には、テーブルの後ろにソファーがあって、そこにはあの蒼馬先生が、まるで神話に出てくる老賢者のように静かに座っていた。もっとも誰も彼もこの場には相応しくないその雰囲気に恐れをなしてか、それとも最初から無視することに決めたのか、声を掛ける様子もなく、そうかといって本人もそんなことは別に気にしているようにも見えなかった。実を言うと、彼は、これから始まるこの劇の成りゆきを見届けるために参加しているといってもいいくらいなのだ。

 そうこうしているうちに誕生日会は始まった。蒼依も沙織も、それなりに着飾って部屋に入って来た。それにしても、この姉妹は、父親が違うという事実があるとは言え、それでもやはり同じ環境で育って来たせいか、似たような美的感覚をそれぞれ身につけていたと言ってもいいのかも知れない。しかし、性格という面から見ると、これほど違った姉妹もいないのである。それはその立ち振る舞いにも現れていたし、沙織には今時の女性らしいところもあるにはあったが、その育ちには古風と言ってもいい何かが彼女の性格の底にあり、それが意識しないところで彼女の行動を律していたのである。それは、どうにも説明しづらいものではあるが、決して融通の利かない頑固な性格とはちょっと違うものであった。もちろん、本人も一応気にしている、頭ごなしに喰って掛かっていくその物言いや、どこか人を見下した尊大な態度など、誤解を受けやすい性格もあるとはいえ、そういう欠点と言われるものでさえ彼女の人格を作っていく上では、ある意味とても大事で、むしろ必要なものであると言ってもいいのである。彼女の特徴的な性行としては、何よりも人に媚びたり、お世辞を言うことができない性分だった。男でも女でもそういう場面に出くわしただけでもう虫唾むしずが走るのだ。要するに世渡り上手とはとても言えないわけで、その点かなり損をしていると言ってもいいくらいである。もちろん、そんなことは彼女にとってどうでもいいことではあるが。そういうわけで、彼女と同世代の男どもにはすこぶる評判はよろしくなかった。美人ではあるが可愛げがなく、おまけに彼女を目にしただけで、どこからともなく腰が引けるような恐れに似た感情が、男の方に自然と立ち現れてくるのだった。そこで問題になるのが、果たして彼女はそういう自分をどこまで受け入れているのかということだった。つまり、どこまで折り合いが自分とついているのかということだが、正直それはなかなか難しいことではあったのだ。若いということもあるのだが、やはり社会で生きている以上、どうしても女としての悩みの原因がその辺りでくすぶり続けていて、自分の性格が疎ましく思えるときだってあったのだ。そのことで、最近ちょっと気になることが彼女の身に起こっていたのである。それはほかでもない、ひょっとして自分には女としての魅力が毛筋ほどもないのだろうかと秘かに疑い始めたのだ。これはまったくおかしなことなのだが、本人はひどく真面目で、どこまでも真剣な悩みとして、ここ最近の彼女を苦しめていたのである。もっとも、なぜそのような心境に彼女を突き落としたのかというと、それはどうやら慎治との、あの最初の出会いから始まり、彼の家に一人で出向いたというあの事実にどうやらその原因があるらしいのだ。あれ以来、彼女の心に何かが起きたのである。それに、もっと深刻なことは、今までそんなことは考えもしなかったのだが、蒼依の存在がどうやらこの悩みの原因に一枚噛んでいたらしいのである。つまり、彼女はどういうわけか今までとは違った、いわば、そんなことで苦しむことなどないだろうと高をくくっていたことで苦しむことになったのだ。

 蒼依はその点についてどう考えているのか気になるところだが、ご存じのように、どこかおっとりとして、そういうことにあまり気の付く性格などではないと思われるかも知れないが、決してそんなことはなく、彼女は彼女なりにとても繊細な神経の持ち主でもあったのである。確かに、一見しただけでは何も考えていないような、どこか気の抜けた、ぼんやりとした性格の持ち主に思われるかも知れない。実際にそういう面がないわけではなく、よく人から、あの子はいったい何を考えているのかさっぱり分からないという話しは実際聞かれたのだ。彼女は一人で居ることが殊のほか好きで、子供の頃は部屋の中で一人静かに何時間でも過ごしていたのである。そういう性格の子にありがちなことだが、彼女はいつも何かを考えていたし、いや正確には考えていたというより何かを空想していたと言った方がいいのだ。そういうわけで、彼女の心は絶えずどこかを彷徨い、何かを求めているような、生きることが、そのまま祈りにも似た空想に巻き込まれていくような不思議で、どこか危うい性格を作っていったのである。しかし、そのような変わった性格の持ち主とはいえ、そんなことなど微塵も感じさせないほどの気品としとやかさが、彼女のそうした欠点(もちろん、これが欠点だとしての話しだが)など帳消しにしてしまうほどで、いやむしろ、そういところがあったがために却って誰が見ても他の人にはない何かとても魅力的なもの、嫉妬してしまうほどの何かを感じたのかも知れない。現に沙織は彼女のそういう心の不思議な美しさに嫉妬するくらいの、ある思いを抱いていたことを自ら認めていたほどで、先程も言ったように、二人の間になにがしかの軋轢あつれきが起きかけてはいたのである。しかし、そういう感情は二人の間で摩擦を起こすまでには至らなかった。それというのも、蒼依はそういう嫉妬心がもとで、二人の間に問題を引き起こすことなどあってはならないと考えていたからだ。それは何も蒼依が勝手にそう思い込んでいたからではない。むしろ彼女がそういう思いに苦しんでいたことは何となく分かってもいたので、却って自分の方がそのことに対して、よほど慎重な態度を取らなければいけないと思っていたほどである。というのも、彼女のそういう苦しみを取り除くことなど自分にはとてもできないし、できることと言えば、ただ彼女の苦しみを軽くあしらったり無視したりせず黙って付き合うことぐらしかないと思ったからだ。確かにそれも一つの態度かも知れない。人間というどうにもならないものに対する一つの適切な態度かも知れないのだ。そこにはきっと人間に対しての痛切な思いがあったのだろう。彼女の心の奥底にある消すことのできぬ苦い思いの中から、どうしてそのようなやさしい態度が生まれてくるのだろう。まるで尽きることのない火によって、彼女の心が絶えず暖められているかのようだ。その火こそ彼女のやさしい思いやりそのものではないだろうか。誰もがその火に否応なく惹きつけられるのだ。誰もが彼女を見て、この人はきっといい人だろうと素直に思わせてしまうような、そういう気品に溢れたそんな女性なのだ。

 ところが、この時の蒼依は、いつもの優雅さもなく特に驚いたのは、その青ざめたような顔色だった。亨もどこか体調でも悪いのかと思ったくらいで、まるで沙織に付き添われた病人のようにも見えなくはなかった。慎治もいち早くそれに気づいたが、かといって顔に出すこともなくじっと座っていた。蒼依も自分の誕生日会でもあり、皆の手前いつまでも沈み込んではいられないので、自分に負けないよう気丈に振る舞おうとするのだった。確かに彼女のいつもとは違う雰囲気に、誰もが口には出さずとも何となく感じていたことではあったが、そういう皆の思いはひとまず置いといて誕生日会は始まらなければならなかった。手順通り、ケーキに付けた蝋燭の灯を吹き消す段取りとなり、蒼依は幾分緊張して息を吹きかけた。煙が細い筋となって辺りを漂い、皆がそれぞれに拍手してお誕生日おめでとうと言うのだった。

 こういったお決まりが滞りなく終わって、さて後は別にこれといったこともなく自由に進むのだった。まあ、女達のパーティーといえば、そのお喋りが一番のご馳走なのかもしれない。美味しいものを食べて、お喋りするのが何よりも楽しいのだ。話題は話題を生み、目的もなく進んで行く。それでいて決して迷子にならない。いや、彼女達にしてみれば、それは迷子ではなく、あてのない散策と言っていいのかも知れない。話題がそぞろ歩きをするのだ。そういうわけで彼女たちの話しを逐一ここに述べるのは、それだけで退屈な労力を要する仕事になり、ただ混乱してうんざりするだけのものになってしまう可能性がある。かといって、この散歩をいい加減に端折はしょってしまうと、この誕生日会で起こった特筆すべき出来事を理解するのに支障が出る恐れがあるので、なるべく冗漫にならぬことを心掛けて話しを進めて行きたいと思う。

 蒼依は皆に祝福されると、笑顔でそれに答え、何か言わなければと立ち上がった。例年なら、姉妹だけで行われた誕生日会も、今夜はまったくその様子が違っていたので急に緊張してしまい、何を言ったらいいのか戸惑ってしまった。それでも何とか落ち着いて二言三言お礼の言葉を述べた。

「お姉さん、今夜は特別なサプライズがあるから楽しみにしていてね」突然、莉子がこう言って蒼依を驚かした。

 これには訳があったのだ。それは慎治が秘かに莉子と打ち合わせたことで、例の肖像画を彼女に頼んで、時機をみて皆に披露するよう頼み込んでいたのだ。さっそく亨は、このサプライズという話しにいち早く反応した。それは自分にだって、それ相応のサプライズがあったからだ。彼はまだその可能性を捨ててはいなかったし、機会があれば、と言うよりも是非とも、その実現を望んでいたことはまず間違いないだろう。それは慎治を目の当たりにしたとき、何か確信的なものに変わったのだ。何が何でも今夜この場で、この男に引導を渡してやるのだ。そういう思いが沸々と湧いてくるのだった。

「わたしも皆さんにお知らせしたいことがあるんです。ですが、それはまた後ほどということで、今夜は皆さんどうか楽しい時間をお過ごし下さい」

 蒼依は突然こう言って、莉子のサプライズに劣らず皆を驚かすのだった。確かにこれには一同いろいろと憶測を巡らせた。その中でいちばん考え込んでしまったのは亨で、一体これはどういうことかと思い、まるで自分に謎でも掛けているのではないかと思うのだった。

「本当に、今夜は何てサプライズが多いんでしょうね。まったく」と沙織は、さもびっくりしたかのようにおどけてこう言った。

「そりゃ、そうだわ。だって蒼依姉さんはもう決断したんですからね。そうでしょ?」

 莉子は、こう言って同意でも取るように蒼依を見るのだった。もっとも、彼女には、蒼依の言葉の真意とはまったく違う考えが頭にあったので、それでこんなことを言ってしまったのだ。しかし、それは思いもよらぬ空気をこの姉妹の間にもたらした。

「莉子ったら、自分が何を言ってるか分かってるの?」すかさず、妹の余計な一言を打ち消すために、どこかたしなめるような口振りで沙織はこう言うのだった。

「え、どういうこと?あたしはただ今日という日が、蒼依にとって大切な日になるんだと思っただけよ。それが何か?」

「いや、別に……」沙織は突然口ごもってしまった。というのも、その時、蒼依がもうこれ以上妙な事態にしないでと言ったような、まるで祈るような視線を彼女に送って来たからだった。

 この姉妹の心の齟齬そごは、どうやら広がることもなく収束したが、沙織は、すっかり考え込んでしまい、この先、一体どうなることやらと頭を悩ますのだった。ところが、彼女のそんな心の隙を突くかのような出来事が起きてしまった。いや、それは、この場にいる人々全員が驚愕するような出来事の端緒になったのだ。

「ところで、沙織、紹介してくれない。こちらの方を」と沙織の友人の一人が、どうしても慎治と話しがしたいらしく、こう言ってお願いしてきたのだ。それはやはり慎治のまるで取り付く島のない態度のせいで、どうにも声が掛けずらかったこともあるのかも知れない。

「ああ、まだ紹介してなかったわね。ごめんなさい。こちら画家の当麻慎治さんよ」と慌てて慎治を見るでもなく友人に紹介してしまった。慎治は仕方なくその女性に視線を移し、まるで気のない挨拶をするのだった。

「沙織から、あなたのことは、よく聞いているんですよ」その女性は、こう言って身を乗り出した。

「沙織はね、あなたのことが余程気になっているらしく、もううるさいくらいなの。分かります?この事……」と言って、意味ありげに笑ってみせた。

「ちょっと、あんた、何をつまらないこと言ってるのよ」と沙織は、慌てて言ってはみたものの、この油断も隙もない女の告げ口にすっかり驚いてしまい、その動揺振りは彼女の意外な内面を図らずも露呈してしまったと言っていいのかも知れない。

 慎治は、その話しに反応するや、ある記憶がフッと蘇ってくるのだった。それは何時だったか、彼女が突然彼の前に一人で現れたときのことで、その時は何やら要領を得ず、深く考えもしないで別れてしまい、それきりになったことは覚えていた。あの時は、確か彼女から蒼依の結婚の話しを聞いたことで頭が一杯になり、沙織がなぜ自分を訪ねてきたのか、ろくすっぽ思い巡らすこともなかったのだ。しかし、今思えば、それは確かに気になる行動ではあったのだ。とはいえ、今更そのことを持ち出して問い質すのも、どこか気まずいことでもあり、彼女だってそうはっきりとは答えづらいだろうし、それはもはや記憶の闇に沈めておくしかないと思った。ところが、これを切っ掛けに、思いもよらない方向へと話しが展開し始めたのだ。

 沙織は、この事態をどう繕ったらいいのか分からぬまま、まるで不可抗力的に自分の思いが暴露されていくのを黙って見ているほかなかった。もう一人の友人が、沙織の秘められた恋の一端を、まるで面白がるように慎治に吹き込むのだった。その友人は、はっきりと言った。沙織は慎治を一人の男として見ていることを。自分より年下とはいえ、彼の仕事に向かうときの情熱や、その生き方に対してとても惹かれるところがあり、ある意味尊敬しているとまで言っていたことを、その友人は彼に打ち明けるのだった。

「これぞ、恋の告白でなくて一体なんでしょうか?」亨は、それを聞くと、ついこういう言葉が口をついてしまった。

 彼はその時、決して茶化したわけではないのだが、自分でも手に余るくらいの苦しい思いで、この場に臨んでいた慎治にとっては、もはやその言葉は我慢の限界を通り越し、この哀れな修行僧の内面を無残にも引き裂いてしまった。

「失礼ですが、それは沙織さんに対して、とても迷惑な話しではないでしょうか?」慎治は、こう言うともはや心の平静など、どこかへ消し飛んでしまい心臓が激しく鼓動し、胸の辺りが熱くなるのを感じた。

「慎治さん、ぼくは思うのですよ。確かにこういう話しは、とてもデリケートなものですが、決して隠すべきものではないと。われわれはもっとオープンになるべきだと思うのです。そうではありませんか?この話しで果たして沙織さんが迷惑しているのかどうかは別にして、ぼくはよくぞ言ってくれたと、この女性に感謝したいくらいですよ。今や、はっきりしたのです。沙織さんの思いがどれほどのものであったかが、はっきりとしたのです」

「ちょっと待って下さい。それは言い過ぎというものでしょう?」慎治は慌ててこう言い返した。この男は一体何を先走った物の言い方をしているのか、それが心に引っ掛かったのだ。

「言い過ぎですと?ははあ、あなたは照れていらっしゃるんですね。いや、素敵だ。そういったナイーブさは若い芸術家には是非とも必要なものですよ。あなたは生まれながらの芸術家だ。あなたの感受性は、あらゆる微細なものにまで反応する。どんな些細なことでも鋭敏に感じ取ることができる。しかし、考えようによっては、それはあまりにも辛いことでもあるのです。何故にこんなに苦しまねばならないのか。大いなる疑問です。何かの刑罰か。あまりにも理不尽だ。でも、あなたはただその苦しみに耐えていらっしゃる。そうではありませんか?」

 慎治は心の中で、一体この男は何を言ってるんだろうといぶかった。しかし、亨にしてみれば、こういった観念は、以前に彼と一度会ったときから秘かに思い巡らされてきたものなのだ。それが今この場で、なぜか知らないが一気に溢れ出したわけである。

「ええ、そうですよ。あなたは芸術家でありながら、そうですね。まあ、こんな言い方はどうかと思うのですが、一種の苦行者でもあるのです。ええ、まったくそうですよ。これはなかなか良い譬えです。それが証拠にあなたはご自分の苦しみを愛していらっしゃる。と言うよりも、それはあなたの人生にとって無くてはならないものなんです」

「お話しの途中すいませんが、あなたのご高説は、一応拝聴させていただきましたが、しかしながら、どうもその説には納得いたしかねます。あなたはぼくの一体何をご存じなのでしょう?苦行者だとか、苦しみを愛しているとか、まったく恥ずかしくないんですか?よくもそんな文学青年でも照れて言えないようなことを平気でおっしゃいますね」

「果たして、そうでしょうか?これがもし、あなたのおっしゃるように文学青年の単なる戯言だとするならば、むべなるかな確かにごもっともと言っていいのかも知れません。しかし、これはそんな間の抜けたお話しなんかではなく、あなたのこれからの生き方に大いに関係していることなんです。こんなことを軽はずみに言うと、またあなたに怒られそうですが、敢えて言いましょう。あなたは今とても深刻な状態にあると言ってもいいくらいなんです。少し弁解じみた話しにもなりますが、それは決して他人事ひとごとではないと私自身思っているからです。要するに他人事のように話して済む問題ではないからです。彼は、今ある人にとても強い恋心を抱いています。それ自体はべつに普通の誰にでも起こることですが、私が心配している理由は、それが今の彼にとっては、尋常でない心の葛藤となって彼をさいなんでいるからです。なぜ、そんなことが言えるのか、それは他でもありません。この私も、その恋に関わっている一人だからです。私もその恋に、お恥ずかしい話しですが、彼と同じようにどっぷりとはまり込んでいます。ですから、彼の気持ちは手に取るように分かるのです。彼の苦しみも、彼の嫉妬も、我が事のように分かっているつもりです。ところが、ここで困ったことが二人の間で起こっているのです。いわばそれは……」

「もういい加減にしてくれませんか。そんな話しは、まったくもってあなたの勝手な作り話しにすぎない。よくも、そんな勝手な話しを人前で、それもこのような彼女のめでたい席で話せましたね。あなたの見識を疑いますよ」慎治はこう言いながらも、その額には汗が滲み、その青ざめていた顔色も、一瞬熱をおびて赤くなった。

「確かに、あなたの怒りはもっともかも知れません」亨は、彼の表情がみるみる変化するのを、いち早く感じ取ってこう弁解するのだった。

「私も年甲斐もなく熱くなってしまいました。その点は謝ります。彼女に対しても、もちろんあなたにも。しかし、あなたも多分ご存じかとは思うのですが、かく言う私もあなたとある意味同じ境遇にいると言ってもいいのかも知れません。そういう訳ですから、こう言ってもあながちあなたの怒りを買うものではないと考えるわけですよ。つまり、それは敢えて言わせてもらいますが、彼女は決してあなただけのものではないと言うことです。要するにですね、それをもっと踏み込んだ言葉で言わせてもらいますと、彼女は決してあなたのものにはならないということを、どうかご承知おき願いたいということです」亨は、話しているうちに、その冷静さが、自分でも分かるくらい変質していくのを感じるのだった。そして、とうとう我慢できずに彼に引導を渡すべく、その揺るぎのない自分の決意を、胸の高鳴りとともに口にしたのだった。

「それはまた随分な言い草ですね」慎治は、それを聞くと心持ち顎を上げ、かすかに笑みを浮かべると、この男は、間違いなく自分に喧嘩を吹っ掛けてきたのだという確信を持った。すると彼は、亨の目をまともに見ながら、まるで噛んで含めるように、はっきりとこう言うのだった。

「ぼくは以前から、つまりあなたと初めて会ったときから、どこか合わない、生理的に反りが合わないと思っていました。この際だからはっきりと言わせてもらいますが、あなたが、今度ぼくのために援助してくれることになっていた、例の留学のお話しですが、この場を借りて言わせてもらいますが、すべてお断りさせてもらいます」

「だめ!慎治さん。そんなことを言ってはだめです!」驚いた蒼依は、思わずこう叫んでしまった。彼女の不安は、二人のどこか棘のある緊張したやり取りを聞くに従って次第に高まってはいたものの、それでも何とか平穏に治まってほしいと、それこそ祈るような気持ちで見守ってはいたのだが、この突然の慎治の宣言に、さすがの蒼依も仰天してしまったのである。それに、この留学を断念するなどと言うことは、その理由が何であれ、絶対してはいけないと彼女には思えたのだ。

「どうか、それだけは撤回して下さい!だって、それにはあなたの将来が掛かっているのです。あなたの夢が、そこに掛かっているんです!」彼女は慎治に向かって、まるで懇願するかのような悲痛な表情で手を合わすのだった。予想だもしなかった彼女の我を忘れたようなこの振る舞いに、周りに居る人々は一様に驚いてしまった。

「蒼依さん、確かにあなたのお気持ちもよく分かります。しかし、ぼくにもそれ相応のプライドというものがあります。ぼくだって決して人の援助を頭から拒むということはしたくありません。人の好意を無下むげに退けるということは、それはそれで人の道に反することでもあるからです。でも、それは相手にもよります。この男は、今自分の隠していた本心をはっきりと宣言したのです。ようやく合点がいきましたよ。この男がなぜぼくを外国に留学させようとしたか。それはぼくを蒼依さんから遠ざけようと思ったからにほかなりません。ぼくはその手にまんまと引っ掛かるところだった」自分の予感は正しかったのだという思いに、彼の心は逆上し震えるのだった。

 確かに、この時の慎治の心境を冷静に考えれば、どこか正常な心理から逸脱したものがないとは断言できないだろう。しかし、彼は、心の片隅で自分は今なにか取り返しのつかない事をしているのではないかと、意識していなかったとは言えないのだ。というのも彼は、興奮してはいたが、はっきりと心の中で思ったのだ。果たしてこれは大人の対応だろうかと。なぜか「大人の対応」という言葉が、彼の心をかすめて通り抜けたのだ。

「慎治さん。あなたの怒りは確かにごもっともです。ぼくは謝ります。ぼくも今気がつきました。あなたに対してとんでもないことを言ったことを。どうか、今回に限って許しては貰えないでしょうか」亨は何を思ったか、急に神妙な顔付きになってこう言った。その時はっきりと彼は自分の行動に違和感を持ったのだ。自分のこのような態度は、この場にとって相応しくないどころか、異常なものであることを肌身で感じてゾッとしたのだ。それは周りに居る人達の見るからに戸惑っている視線からでも察しがついた。しかし、このとき彼は、急に慎治が可愛そうに思えてきたという心境の変化もあったのだ。この男は、自分が蒼依から遠ざけるために彼に留学を勧めているとまで思うくらい、それくらい苦しんでいたのだ。いわば、その思いの中に、まるで子供のような無垢な嫉妬を感じて、驚きとともに哀れにさえ思われたのである。ところが、それにもまして、もっと彼の心を強く打ったのは、ほかでもない蒼依の異常とも思えるくらいの取り乱しようだった。なぜ、これほどまでに彼を心配するのか。彼の身を気遣い、その将来を憂う。そこに一体何があるのだろう?そこには自分の愛すらも入り込む余地のない何かがあるような気がしてならないのだ。それこそ、彼が以前から気になっていた一番の疑問だった。

「慎治さん。お願いですから留学のことは思い直して下さい。それはわたしからのたってのお願いです。あなたの夢をどうか壊さないで下さい」蒼依は、もうほとんど泣きださんばかりにこう訴えかけた。

「お願い、慎治さん。あなたのお姉さんの言うことを聞いてあげてやって!」沙織もまた、なんとか蒼依の気持ちを分かってもらおうと、この時ばかりはどこか必死になってしまったからか、うっかり口走ってしまったこの言葉に、慎治はすぐさま反応した。

「あなたのお姉さんって、それは、また何の話しでしょうか?」まるで自分の耳を疑うかのようにキョトンとした顔でこう聞き返した。

「蒼依は、あなたの本当のお姉さんなのよ」沙織は、一瞬まずかったかなと思いはしたが、もう言ってしまったのだからと思い直して、意外にも心のこもった優しい声で、この驚くべき真実を彼に向かって宣言するのだった。

 

 

 


 

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