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蒼依の肖像  作者: 吉田和司


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十六 それぞれの運命

 亨は、彼女が承諾したという知らせを蒼馬氏から受けると、今ままでの鬱々とした気分やあの男に対する余計な心労も、これで終止符が打たれるのだと思い安堵するのだった。もっとも、これですべてが解決したというわけではなかった。もともと彼には二つの心配事があったのだ。一つは慎治のことだったが、それは、もはや心配するほどのことでもないだろうという思いになりかけていたきらいがある。それというのも、よい知らせを受けたこともあってか、若干強気にもなっていたからだ。そういうわけで、これ以上彼のことで心を煩わすのは意味が無いとでも思ったのかも知れない。

 ところが、もう一つの方は、なかなか一筋縄ではいかないものがあった。それは如何にして自分の家族を説得したものだろうかといことだった。実を言うと、母親がある立派な家庭の一人娘との縁談を進めている最中だったのだ。しかしながら、彼はそんなものには目もくれなかった。目の前に宝石のような輝きを持つ女性がいるのに、どうして他に目をやる余裕があるというのだろう。自分は確かに、この宝石の眩しさに目をやられているかも知れない。しかし他の宝石など彼女に比べれば、ほとんどその輝きは無いにも等しいとまで思っているくらいなのだ。ところが、世間的な問題として、彼女の出自で確かに気にしてしかるべきものがあることも、これまた事実なのだ。それは決して無視できない、もちろん彼にとってではなく、家族にとっての大いなる問題だということは彼にも分かっていた。

 亨はついに意を決して、母親に自分には好きな人がいるので、この縁談はないものと思って下さいと告げた。母親は驚いて「いったいそのお相手の方はどのようなお人なんです?」と聞いてきたので、彼は「以前うちの会社の創業者である人の、いちばん上の娘さんだ」と言ったところ、母親はますますびっくりして、と言うのも、母親はその人とは夫を通じてよく知っていたからだ。しかし有り体に言えば、その会社関係のことよりも、その家庭内のことの方にむしろ精通していたと言うべきか、より関心を持っていたと言った方がいいくらいなのだ。それは女性特有の嗅覚のようなもので、あらゆる裏の事情を嗅ぎ分ける本能のようなものが、世間の秘められた物事を逐一洗い出すのに一役買っているとでも言えようか。そんな事情もあってか、彼にとって言い訳がましいことを言う煩わしさもなくなり、この問題は、却って最初からはっきりとした対立点となって、彼らの間に立ち塞がることになった。もちろん母親にすればまったくの問題外で、この親不孝者の所業を甘受することはおそらくないだろうし、何らかの手を打ってくるのではないかと彼も考えていた。そういうわけで、家族の反対は、かなり強烈なもので、おいそれと解決できるものではなかった。とはいえ、彼の覚悟も相当なもので、彼女との関係を妨げるものは、どんなものでも排除するだろうことは、もはや疑うべくもなかった。それはすべてを捨てでも実現されるべきものであったからだ。彼は家族の反対を押し切り、駆け落ちすら辞さないということを示すためにも家を出ることにした。しばらくは蒼馬氏の家に居候を決め、この状況を静観することにした。

 そんなある日、亨のもとに珍しく蒼依からメールが届いた。それによると、今度内々で自分の誕生日会を開くことになったので、亨さんも是非参加してくれませんか、というものだった。もちろん喜んで参加する旨を返信した。あとで知ったことだが、その誕生日会には樫山家の三姉妹を筆頭に、蒼馬氏も加わり、そのほか沙織の友人も二人ばかり参加することになって、結構賑やかなものになっていたのだった。おまけに慎治もその列に加わっていた。

 亨にしてみれば、別にそういう雰囲気に異論のあるはずもなかったが、また別の観点から見れば、誕生日という特別な日に、蒼依との間で、もっと親密な関係を築きたかったという思いもなきにしもあらずだった。しかし、それはそれとして、また別な見方をすれば、今回の彼女の誕生日会に慎治が参加することに、何か胸騒ぎめいたものを感じないではいられなかったのだ。嫌な予感というべきか、二人の間に横たわるある種の闇が露わになり、それこそお互いの体面を引き裂くような事でも起こるのではないか。そういうことすら考えてしまうのだった。

        *             

 一月二十二日は、蒼依の二十八歳の誕生日だった。この日、誕生日会という明るい雰囲気の場ではあったが、彼女はある決意を持ってこの会に臨んでいたのだ。それは彼女のある思いを、ある人に向かって打ち明けなければならなかったのだ。その意志は固く、変更は許されない、そう強く心に決めていたのである。

        *     

 亨は、その日、蒼馬氏の家で目を覚ますと、突然あることが心をよぎり、その実現に大いなる心臓の高ぶりを感じるのだった。それは、ただ一つ彼女へのプロポーズという行為に対する、ある種の真実味にあった。もっとも、それを一体どう切り出せばいいのか、それはそれでまた大問題だが、実際的に考えて、果たしてそんなことは可能か?と思えなくもなかった。とはいえ一度このことを思った以上もはやこの考えから逃れることはできなくなっていたことも事実なのだ。確かにそんな思いばかりが逸る自分を抑えることも必要だとは思うものの、彼の中では既に何かによって心が乱され、その混乱したままの状態が一日中続くのだった。家を出て行くときも心は決まらず、ただ不安定なまま彼女の家に着いてしまった。予定の時間は、夕方六時からだったが、一時間も早く着いてしまい、まったく心の動揺がその態度に表れていやしないかと思い、玄関先で大きな深呼吸までする始末で、われながら呆れて苦笑せずにはいられなかった。

        *     

 慎治は、蒼依の誕生日会に出るにあたって、あることを思いついた。それはまだ彼女に渡さずにいた肖像画を、これを機にみんなに見てもらいたいという画家らしい思いつきだった。このちょっとしたアイデアに彼もすっかり乗り気になって、これはきっとその場を盛り上げるのに一役買うだろうという確信すら持つのだった。もっとも、それは自分がその場の主人公になるということではなく、もっと違う、心の底からの芸術家らしい真の欲望とでも言うべきものを思ってのことだった。

 彼は、その日蒼依の家に行くにあたって、ある思いがしきりと浮かんでくるのだった。それは蒼依との出会いから始まり、如何にして自分が彼女と深く関わり、もちろん心の中でだが、悩んできたか、それを思うと、自分のかつて蒼依と約束したあの願いが、曲がりなりにもそのままこの肖像画に結晶化できたのだと思い、いろいろと苦しみながらも責任を果たせたことが嬉しくも感じられるのだった。

 彼は、今まで自分の将来に、これといった展望など持っていなかったが、この頃なぜか急にそういうことを考えている自分に気づくのだった。それは確かに留学という二文字が、自分の仕事に関して別の意味で極めて強い刺激となっていたことはやはり否定できなかったからだ。これは亨に感謝すべきことでもあろう。しかし、そうはいっても、彼女への思いが完全に断ち切れていたわけでもないので、未だに不安定なまま彼の心は揺れ動いているといってもいいのである。それが証拠に、今もって彼はこの男に対して心を許しているわけではなかったからだ。くすぶり続ける嫉妬というべき思いは、意識の上ではそれほど感じていなくても、それは機会を得れば再び燃え上がる炎のようなもので、決して心の中から消えるものではない。それはちょっとした相手の仕草によっても、目覚めざるを得ないほど微妙に人の心を捕まえる。想像力を刺激し、勝手によからぬことへと都合よく解釈さえする。それは彼が嫉妬するのではなく、まるで嫉妬という魔物に襟首を掴まれ、否でも応でも、ずるずると引きずられ、挙げ句の果てに、とんでもない行為へと勝手に導かれることにもなるのだ。

 彼には確かに嫌な予感があったのだ。しかし、一体それに対してどうすればいいのかまったく見当もつかなかった。もう、こうなったら心を鬼にして、何も見ず、何も感じず、何も考えない。そうすればこの場をどうにか凌ぐことはできるだろう。と、まるでやけくそのような決意までして、何とか自分の心が平静でいられるようにと思うのだった。

        *     

 その頃、誕生日会の準備は、三人の手によって滞りなく進められていたのだが、ある問題が起きてしまった。蒼依の身体にちょっとした異変が起きたのだ。本人は単なるめまいだと言って気にしてなかったが、沙織はそこにもっと違うものを見ていたのだ。

 蒼依は沙織に連れられて自分の部屋に入って行った。何となく辛そうにベッドに腰掛け、上半身を横たえた。沙織も一緒に腰掛けたが、違う意味で辛い気持ちになってくるのだった。すると、そこへあたふたとした様子で、莉子が水の入ったコップを持ってきてくれた。

「だいじょうぶ?お水持ってきたわよ」

「ありがとう。だいじょうぶよ。ちょっとしためまいだから心配しないで」蒼依は身を起こすとコップを受け取り、一口飲んで再び横になった。

「今夜の主人公が、倒れたりしたら困るんじゃない?だって、今年の誕生日会はお姉さんにとって大事な日なんでしょう?」莉子はどこか意味ありげにこう言って姉の様子を窺うのだった。

「蒼依は、もうしばらくここで休むことにするから、悪いけどあんた一人で、向こうの準備をしていてくれる?ごめんね、お願いね」

「分かったわ。ほんとに少し休んだ方がいいわね」と言って、心配そうではあったが、すんなり部屋から出て行った。

 沙織は、体よく妹を追い出したが、ふと妹は何であんなことを言ったんだろうと不思議に思うのだった。彼女が知っている訳もないのにと思い、気にはなりながらも蒼依の苦しそうな顔を見ていくうちに、その決意の辛さがよく分かってきて、自然と可愛そうに思えてくるのだった。それは何も彼女が感傷的になっていたわけではなく、やはり、そこに色んな意味で、生きることの過酷さを感じていたからである。

 彼女は、そんなことを思いながら、しばらく黙って蒼依の顔を見ていた。彼女の青ざめたような透き通った白い肌に、長い艶やかな髪の毛が乱れ掛かっていて、それがまた女の目から見ても、何とも言いようのない美を漂わせているのだった。

 蒼依は、しばらく目を瞑ってじっとしていたが、やおら起き上がると、横にいる沙織を心配そうに見つめるのだった。それは何かに怯えたりしたときの顔にも似て、その動揺がありありと見て取れるのだった。沙織はそっと蒼依を抱きしめてやった。

「だいじょうぶよ。そんなに心配することないわ。きっと、あの子だって分かってくれるわよ。ほら覚えてる?初めて慎治さんが家へやって来たときのことを。あたしもあの子を見て、へえ、この子があんたの弟なんだって妙に感心してしまったもの。でも、正直あたしも驚いたわ。慎治さんがあなたの弟だって聞かされたとき、一体そんなことがあるのだろうかとさえ思ったくらいだわ。そうかといって、あんたを変な目で見ていたわけではないのよ。でも、先生から初めてあなたのこと聞かされたときは正直偏見もあったかも知れないけど、今ではそんなことは気にもしてないわ。そりゃ、生きる上では大変かも知れないけど、それとあなたの人生そのものとは別だと思うの。一体あなた自身に何の不足があるというの?何の不足もありゃしなわね。そうでしょう?あたしね、あんたにどこか嫉妬していたところがあるのよ。いつだったか、慎治さんが、あなたのことで言ったことがあるの。あなたはまるでこの世のものとは思えないほど純粋だって。それはあんたが混じり気のない宝石ってことなのよ。掛け替えのない、この世で唯一の宝石ってことなのよ。あんたはもっと自信を持つべきなの。自分の生き方に対してね。いつまでも自分の過去にこだわっていては駄目。あんたにとって今は大事なときなのよ。だって、あんたにも良き理解者が出て来たじゃない。あたしの目から見てもあの人は信頼できると思うの。それに、あんたがその事を決意したことだって、それはこの世間に向かって自分は一度世間的に死んで、それから別の人間になって再び生まれ変わるのだ。それがどうしても今の自分には必要なんだってことを宣言することなのよ。そうでしょ?それにしても自分の誕生日にこんな事をするなんて何か不思議よね。しかしまあ、あんたもよく決心がついたわ。でも、こういう荒療治があってこそ、今まで立ち塞がっていた壁も破れるのかも知れないわね」

「ありがとう。そう言ってくれて何だかとても落ち着いたような気がするわ。でも、一つ心配なことがあるの。このことで慎治がどう思うか、それがとても心配なの」

「あんたが姉だったということで?そうねえ、あの子があんたを女として見てるってことは、あたしも承知していたわ。まあ、若い男ならあんたに惚れるのは、自然のことでしょうけどね。それに、よりによって、あんたを目の前にして、その肖像画を描くことまでしたんですからね。その影響力たるや半端じゃないわね。それでも、いずれ夢は覚めるものよ」

「でも、あたし先生から、とても気になることを聞いたの。あの子は、どうすることも出来ないほどの強い力で、自分の心を支配されているって」

「恋の力ってやつね」

「ええ、そうなの。それが、また悪いことに、今回亨さんとの関係で、ちょっと厄介なことになっているらしいのよ。分かる?」

「三角関係ってやつだ。ほんとうに厄介なことね。でも、それはどうすることも出来ないわ。成り行き任せの運任せってとこかしら」

「もっと真面目に考えてよ」蒼依は、沙織の手を掴み、子供が母親に頼むときによくする甘えたような仕草で揺らすのだった。

「考えるったって、それはあんたが宣言することで自然と解消されるもんじゃないの?いくらなんでも自分の姉に恋はしても、その先はどうすることも出来ないのだから」

 確かにそうかも知れない。その先は神々に属する領域と言ってもいいのだろう。すべからく人間には自制心が必要だ。とはいえ、すべて思い通りにいくわけでもないし、そうかと言って、この若い男の真剣な恋を思えば同情すべき問題でもあり、ちょっとやそっとで処理できる問題でもない。しかし、もうすでに三人三様の劇が、そこで始まろうとしている。どうなるかはまったく分からないが、とにかく何かが起こり、それによって、彼等自身の運命がはっきりするのだ。

 


 

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