十五 蒼依の秘密
翌日、蒼依は先生からの連絡を受け大人しく家で待っていたところに、なんの前触れもなくいきなり沙織が訪ねてきた。蒼依は何事かとびっくりしたが、それはあのレストランでのことをもっと詳しく聞くためでもあったのだ。もちろん彼女はどうなったかはすでに分かってはいたが、少し気になることがあったので、こうしてわざわざやって来たというわけである。もっとも自分があの場所にいたことは内緒にしておこうと思った。変に誤解されるのが嫌だったからだ。
蒼依は自分の願いが叶ったことを嬉しそうに話したが、沙織には一抹の不安めいたものがどうしても残ったのだ。それは、やはり二人のやり取りを、実際にこの目で見た上での印象が消えないからだった。あの時の慎治の顔の様子や態度から見て、とても喜んで承諾したのではないことは明らかで、何かとても辛いものがそこにあったと彼女には思えたからである。ただ、蒼依の話しを聞いていくうちに、慎治との間にかなりの温度差があるのは否めず、かといって蒼依のある種の無邪気さを一概に責めるわけにもいかなかった。彼女の立場を考えれば、それはある意味当然なのかも知れないが、それでも蒼依はもう少し彼の心を忖度してもいいのではないかと沙織は思うのだった。もちろん、これは彼女の一方的な感想にすぎないが、このまま何事も起こらずこの計画がすんなり進んで行くのかどうかを考えると、そこにもどかしい思いが出てくるのは、やはりやむを得ないのかも知れない。
その時、部屋のドアがノックされ、蒼馬氏が姿を現した。几帳面な彼は一分も違わず時間通りやって来たわけだが、先客が居ることにひどく驚いた様子だった。それも沙織が深刻そうな顔をして蒼依と話しているのを一瞥すると、どこか間の悪い思いを感じてか、中に入らずドアのところで固まってしまった。
沙織は先生に気づくと、すっと立ち上がり「じゃあ、また来るわ」と言って、部屋から出て行こうとした。彼も慌てて邪魔にならぬようドアから離れ、挨拶しようと思ったのだが、あまりにもその身のこなしが早く、先生に挨拶もなしにその前を通り過ぎて行ってしまった。いかにも尊大なこの態度は、誰が見てもあんまりだと思うかも知れない。もちろん先生だって何かしらの感情を持って彼女を見ただろう。しかし、そこはまったく違っていたのだ。やはり子供のころから彼女を知っている者としては、変に誤解することなど少しもなかったのだ。それよりかこの時の彼女の素っ気ない態度から、別の意味で何かを感じずにはいなかったのである。そんなわけで一抹の不安を抱きながら蒼依に自分の気持ちを伝えるのだった。
「何か大事なご用件でもあったのでしょうか?どうやら沙織さんにはご迷惑をかけてしまったようですね」蒼馬氏はこう言って立ったまま蒼依の顔色を窺った。
「いえ、そんなことはないんですよ、先生。沙織は突然やって来ただけです。いつもの気紛れですわ」と言って、彼をすまなそうに見るのだったが、どこかその口振りには苛立ちにも似た響きが感じられるのだった。それもそのはず、この言葉は沙織の今の振る舞いに対する、彼女なりの抗議でもあったからだ。
彼女は立ち上がり「何かお飲みになりますか?」と聞いた。先生は「いや、お構いなく」と答えて、彼女のどこか落ち着かぬ様子に注意を向けるのだった。
「どうぞ、お掛け下さい。ところで、今日はまたどういうご用件でしょうか?」彼女はソファーに座ると、いつもの落ち着いた雰囲気に戻りこう聞いた。
彼も気を取り直して斜向かいに腰を下ろしたが、その物腰にはどこか緊張した趣が感じられた。それはやはり、これから話すことが大いに関係しているからかも知れない。いや、それも確かにあるだろうが、先生と彼女との間には、ちょっと一言では語れない心の繋がりのようなものが存在していたのである。それは彼女の母親に対するある秘められた感情がそこにあったからだ。その思いが今になっても消えることなく彼の胸の奥に残っている。それは、あまりにも苦い記憶となって今もなお彼を苦しめている。そういうわけで、その娘である蒼依に対しても、やはり特別な思いがあったようなのだ。
「今日、お伺いしましたのは他のことではありません。お嬢様もご承知の例の件でございます。実のところ、先方はお嬢様からのご返事がないことにひどく動揺されております。このようなことを、直接申し上げるのは、とても不躾なことではありますが、それだけ先方様のあなたを思う心の一途さからだと、どうかお察し下さい。ただ、これはお嬢様の意思を尊重しないということではありません。おお、そのようなことはこればかりもございませんので、どうかご安心下さい」
蒼依はそれを聞くと、いくぶん顔を赤らめ、改めてその居住まいを正した。
「もちろん、わたしでよろしければ、お付き合いさせていただきます」彼女は、慌ててこう言ったものの、心の中では果たしてそれでいいのか、という否定的な思いもあったのだ。その葛藤はここにきて、以前よりもひどくなってはいたのだが、この時の彼女は、他のとても厄介なあることに、すっかり心を奪われていたせいか、先のことを深く考えもせずに何とかなるだろうという、彼女にしては珍しく極めて安易な受け答えをしていたのである。
「本来なら、お目にかかって、わたしの方からお話ししなければいけなかったのですが、その機会も持てず、本当に亨さんにはご迷惑をお掛けしてしまいました。出来れば、もう一度、今度はわたしの方で改めて席を設けたいということをお伝え願えないでしょうか。こんなことはメールでもよかったのでしょうが、何か失礼なことのようにも思われまして、でも、こうして先生が来て下さって良かったですわ。先生なら、わたしの気持ちの隅々まで代弁してくれるでしょうから。どうか亨さんによろしくとお伝え下さい。それに今まで連絡もしないでいた非礼もお伝えください」
「分かりました。そのようにお伝えしておきましょう。彼もこれで安心するでしょう。お嬢様もこれでご自分の幸せがどこにあるかをきっと見つけることができると思います。あなたの今までの苦しかった人生を知っている自分としては、それは絶対に叶えてほしいものだからです。お嬢様、私は以前にあなたが成人された頃でしょうか、お母様のことでお話ししたことがありましたね。覚えておいででしょうか。その時のあなたには、ひょっとして理解できなかったこともあったのではないでしょうか?」彼はこう言って、再び彼女の母親について話すのだった。それは、また別の事情もあってのことで、決して単なる思い出話しでも、昔の苦労話しでもないことは、彼の真面目な表情で察することができた。
「それは、あなたのお母様が病床にあるときに、私を呼び、その痩せ細った手で、私の手を掴み、か細い声でおっしゃったことなのです。それは、あなたのお父様に関することです。いや、お父様といっても、もちろんあの方ではありません。この噂はひょっとして、あなたのお耳にも届いているかも知れませんが、そのような噂は、決して信じてはいけませんよ。あなたのお父様は、まるで聖者のようなお方だったのですから。しかし、このような事実を世間の誰が信じるというのでしょうか。そういうことですから巷間に伝わっているような、あなたのお母様を発狂さすほど苦しめたなどということは金輪際なかったのです。まったく悲しいことですが、それが世間というものなんです。むしろ奥様は、夫のあまりにもお優しい心根に却って苦しまれたのです。ご自分の過ちは、もはや取り返しのつかないこととはいえ、夫の苦しいであろう心を察すれば察するほど、ご自分の罪の深さに心を痛めていたのです。お母様はこうおっしゃったのです。
─このことは、ひょっとして知らないのかもしれない。あの人は、いつものようにわたしに接してくれていたし、何の素振りも見せませんでした。本当に本当にそうあってくれればとも思いました。あの人は、生まれたばかりの蒼依を抱きながら、何という優しい笑顔であやしていたことか。でも、知らないわけがないのです。思い当たる節なら沢山あったのですから。それでも、あの人は、そんなことはおくびにも出さずにわたしを労ってくれました。二番目の子供が生まれた時でも、子供のことより、わたしを先に気遣ってくれて、それはもう本当に愛情のある人だったのです。わたしは、この愛情に報いるには、どうすればいいのか唯々そのことばかり考えて今まで生きて来たといってもいいくらいです。ああ、でも、その愛情は届けられぬまま、あの人は逝ってしまいました。先生、これは一体どういうことでしょうか?わたしの罪はそれほど重いということでしょうか?あの人は、わたしの罪を咎めぬまま逝ってしまいました。それは、自分の罪は自分で償えということなんでしょうか?
私はそれに対してこう言いました。
─それは奥様、決してそういうことではないと思います。あなたの苦しみは、もう十分にあなたの魂に届いていますし、もはや、その報いは十分過ぎるくらい亡くなったご主人のもとにも届いているはずです。あなたが大切に育てた三人のお子さんたちがその証拠です。三人のお嬢様たちは、これから先もきっと立派にお育ちになることは、もはや疑うべくもありません。あなたは苦しみながらも、ご自分の人生を放棄せず、その責任を果たしたといってもいいくらいですよ。これは立派なことです。
奥様は、そのとき涙をこぼされながら、何も言わずに私の手を強く握りました。そして彼女は私を見ながらこう言いました。
─先生は、あの時わたしを心配して忠告してくれたんですわね?
─それは、また何の話しでしょうか?
─お忘れになりましたか?あの時先生はわたしにこうおっしゃったんですよ。『奥様、あなたはご自分の立場をよくよくお考えにならなければいけません。こんなことを言うのは差し出がましいことではありますが、あのようなことは実際慎むべきことではないでしょうか?あのお方は本当に信頼できる方なのでしょうか?私にはとても疑問です』わたしはそれを聞くと、心の中を何かでえぐられるように感じ、自分でも驚くような怒りを覚えたのです。でも、その怒りは、今考えるとただ自分が怖かっただけなのかも知れません。先生にわたしの心の中を指摘され、まったくの図星だったことに恐れ戦いたのです。でも恐ろしいことに、わたしの心はすでに悪魔の手中に落ちていたのです。ああ、あのとき先生の忠告に反発したのは、ただその時の自分の醜い姿を見たくなかっただけなのかも知れません。本当のことを言えば、先生のあの忠告は恐ろしいほどの混乱に、わたしを巻き込んでしまったのです。わたしはそれ以来あなたを避け、自分の心に閉じこもり、何も見ないようにし、ただあの人の美的センスに酔い、我を忘れていったのです。わたしは蒼依に対して済まないと感じています。このような形であの子を生んでしまって、本当に済まないと思っています。あの子の父親が別にいるということを、あの子に知られるのがとても恐ろしく思われるのです。わたしが生きている内に知らせるべきなのでしょうが、果たしてそれができるかどうか、今となってはとても不安でなりません。わたしがこのまま死んでしまえば、そのことは永久にあの子の知らないことになりますが、果たしてそれがいいことなのか、今のわたしにはとても判断できません。でも、こういうことは、いずれ知られてしまうでしょう。その時になってあの子は、わたしのことをどう思うでしょう?きっと、わたしを恨むでしょうねえ。わたしはその方がよっぽど辛い。
奥様は、そのことでとても苦しまれ、命そのものが危ぶまれる状態にまでいってしまいました。しかし、その後少し持ち直したある日、私にこうおっしゃいました。
─先生、わたし三人の前で、このことを言うべきだと思うのです。それが最後のあの子達への母親としての責任だと思うのです。
私はその時こう言いました。
─奥様の苦しまれるお気持ちはよく分かります。そうすることは、あなたのお気持ちからすれば、とても善いことかも知れません。でも、それはよくよく考えなければいけないことだとも思うのです。あの子達は、まだ成人に達していない子供達です。もちろん子供といえども何ら隠すべきことなどありませんが、このことはとても難しい問題でもあるのです。言うのであれば、私はむしろ蒼依さんお一人に知らせるべきではないかと思うのです。蒼依さんが成人され、何事も分かる年頃を待って話すこともあるかとは思われるのですが……。
すると奥様は、悲しい顔をされ、果たしてそれまで自分の命が持つかどうかと弱気な発言をされました。
─もし、そういうことであれば、わたしは先生にとても辛いことをお願いしなければいけなくなるかも知れません。先生は、わたしが話したこと一切を、あの子に伝えて貰わねばなりません。もちろん、これはわたしが、その時まで生きていなかった場合にですが。お願いできますでしょうか?わたしは自分の命が、もはや長いことはない、ということは何となく分かっています。今となれば自分の身がどうなろうとその覚悟は出来ています。でも、後に残されるあの子達のことを思うと、自分が責任も取らず先に死んでいくのが罪深く感じ、とても苦しくてなりません。ああ、どうか先生、わたしの最後の頼みです。どうか、あの子にわたしの思いを、このどうすることもできなかった弱い母親の思いを……聞かせてやってはくれないでしょうか。無理なお願であることは重々承知しています。でも、このようなことをお願い出来るのは先生をおいてほかに誰もおりません……。
私はその時、心の中で号泣しました。私は黙って頷き、奥様の両手を握り、必ず奥様の紛れもない心情をお伝えすることを約束したのです。奥様は、その後しばらくしてあなた達に看取られて、その短い生涯を閉じられました。私は奥様との約束を果たすべく、あなたが成人されたときにお話ししましたね。あなたは驚かれ、とても信じられないといったご様子でした。その時あなたは多分、私の話しを、その心に留めることはできなかったでしょう。無理もありません。今まで育ててくれた父親が、本当の父親ではないと聞かされて驚かない人間はいません。それよりも、自分が不義の子であったことに、どれほどのショックを受けたか、想像に余りあります。でも、あなたは、その時涙を流され、お母様の苦しみに対して、労ることをおっしゃったのです。あなたは実際情愛の深いお人です。私は以前に、半年ほど前でしょうか、あなたに弟さんがいるということを話しましたね。あなたは驚いて、一体何の話しかと思われたでしょう。私はその時詳しいことは言いませんでしたが、それはこのような経緯があったことで生まれた問題でした。あなたの実の父親は、不幸にも自死されました。それは、あの人の芸術家らしい苦しみの最後の問いかけでもあったのです。決して愚かな人間ではありません。ただ、ご自分の際限のない欲望に翻弄された不幸なお人だったのです。私は今あなたが、ご自分の将来のことを思いめぐらそうとしているこの時期に、また改めてこのような話しを申し上げるのも、唯々、あなたのお幸せを願ってのことでございます。老婆心ながら申し上げますが、あのお方は、決してあなたを誤解し、蔑むようなお方ではありません。これだけはどうかお信じ下さい」
蒼依は、彼の話しを涙ながらに聞いていたが、今改めて母親の話しを聞かされて、その思いは以前にもまして、自分の心の深みで、母親の魂とその嘆きを共に分かち合い溶けあっていくように感じるのだった。
「実際のところ」と蒼馬氏は、蒼依の様子を注意深く見ながらこう続けた。
「弟さんは、まだ、あなたとの本当の関係はご存じありません。しかしながら、このことはある事情によって、一刻も早い解決が必要かと思われます。はっきりと言ってしまいますが、あの方は、お嬢様に対してとても強い思慕を持っておられます」
蒼依は、その話しを聞くと、顔色さえ変えず寂しそうに先生を見つめるのだった。その悲しげな様にもとれる表情から推察するに、そのことはもう既に、はっきりとした大きな悩みとなって彼女を苦しめていたことを窺わせた。
「先生、そのことですが、なかなか言い出せないのです。そのきっかけさえ思い描けないのです。いったいどうすればいいのか……実際のところ困っています」
「お嬢様、彼の思いは、とても危うい状態に陥る可能性があると言ってもいいのかも知れません」彼はこう言って、その鋭い眼差しを彼女に向けるのだった。
「それはまた、どういうことでしょうか?」蒼依は驚いてこう聞き返した。
「それは、自分でさえどうすることも出来ない、ある圧倒的なものに、彼の心が支配されているからです。それは彼の芸術家らしい想像力を通じて、あなたへの強烈な思いとなって溢れ出していると言ってもいいのかも知れません。実際この思いは、今のところどうすることもできないでしょう。普通の時だったら、静観して様子を見るだけでよかったのかも知れませんが、今回の亨さんとあなたの関係が、よりこの事態を複雑にしてしまいました。とはいっても、可能性は可能性として、最終的には彼の心を信じるしかないのかも知れません」
蒼依は、黙って先生を見つめていたが、その思いは、どこか違うところを彷徨っているようで、焦点がぼやけ、まるで途方に暮れているような、諦めに近い心持ちにでもなっているような、何とも言いようのない表情をしていた。




