十四 疑惑の深まり
亨は、その後、彼を家まで送り届けると、慎治の絵を見ていかないかという誘いに対して、少し迷ったが、なぜかそんな気分もとっくに消えていたので、それはまたいずれ改めてということで、そのまま、ある場所へと直行した。
それは市街地から、だいぶ外れた人家も疎らな所で、まるでこの忙しない現代の世の中から見ると、ちょっと信じられないくらい奇妙で孤立した場所だった。すでに日も落ち、鬱蒼とした木々の間を舗装もしていない狭く曲がりくねった道を進んでいくと、今にも倒れそうな外灯にぼんやりと霞む、いかにも侘しげな一軒家にたどり着いた。
とはいえ、やはりこういう所を好む人間は居るもので、誰からも干渉されず、こちらからも干渉しない、まるで世捨て人のような生活を自ら課しているような生き方は、おそらくこの現代においても可能だし、またそのような人物は実際に存在するのである。しかし、こういった人間は、得てして世間から偏見の目で見られたり、変人扱いを受けるのが普通だが、彼は何もそういう孤独を託っている様子はなく、ましてや一人を楽しんでいるわけでもないのだ。いわばこういった状態は、ごく自然なことで、世間を捨てるとか、干渉されるとかしないとか、そんな大袈裟なことではないのだ。もっとも現代人のように、お互いに干渉されたがっている人間にとっては、むしろそういった孤独は病的なものに見えるのだろうが、それは単にそう見えるだけのもので、どっちが病的なんだという問題になると、それはそう簡単には判断できないのである。
亨は、暗がりの中、どこに何があるかぐらい承知している人のように躊躇せず呼び鈴を鳴らした。しばらくするとあの蒼馬氏が中から姿を現した。玄関先で彼であることを確認すると、別に驚く様子も見せずに黙って中に通すのだった。どうやらこういったことはよくあるらしく、亨もまるで自分の家のように気安く振る舞い、ゆったりとしたふかふかのソファーに身を委ねるのだが、その顔にはどことなく疲労の跡が窺えて、しばらく黙って何事かを考えていた。蒼馬氏も紅茶を彼の前に差し出すと、斜向かいのソファーに座り、彼を見るでもなくジッとしていた。
「先生、ぼくはどう考えていいのかちょっと分からなくなりました」彼はとうとう沈黙を破り己の疑惑を語り出すのだった。「いえ、彼は一応留学には前向きのようです。しかし、気になることも出てきたんですよ。思うに彼は今回の件では蒼依さんの気持ちに、どうやら無理やり押されたようなんです。正直言って、この留学は彼の本意ではないとぼくは感じましたね。それにこれは実に妙な話ですが、突然自分から彼女が好きだったことを告白したのです。これは決してぼくに当てつけて言ったのではなく、語るに落ちた彼の本心だと、そう取っていいのかも知れません。ぼくは、ここに来るまでの間、ずっと考えていたのですが、彼がこのまま大人しく留学するかどうか、とても怪しいと思うようになりました。というのも、彼はこのぼくのことをまるで恋敵か何かのように思っている節があるからです。いや、それは彼と間近で会って、その表情や、言葉遣いでよく確認できました。でも、それは仕方ないことなのかも知れません。彼だってきっと彼女の魅力に取り憑かれた一人だと思うからです。ですから、そのことでどうこう言うつもりなどまったくないのですが、ただ彼のような繊細な芸術家にはよほど注意して接していかないと、後々厄介なことにもなりかねないと思うからです。ああ、それにしても、蒼依さんと彼との関係なんですが、単に画家とモデルということだけなんでしょうか?しかし、それだと蒼依さんの今回の行動がどうにも腑に落ちません。先生は、その辺の事情を何かご存じありませんか?」彼は意を決して、自分の一番気になっていたことを正直に打ち明けるのだった。
「私は、彼とはつい最近一度お会いしただけなので、詳しいことは……しかし、何もそれほど心配される必要などないと思われるのですが。私の見たところ、蒼依さんが取った行動は、あの青年にある種の同情を持ったからにすぎません。ですから、あくまでもお嬢様のやさしいお気持ちが取らせた行動ではないかと思われるのです」蒼馬氏はやむを得ずこう言ってお茶を濁すしかなかった。
「確かに、蒼依さんに限って言えば、そういうこともあるかとは思うのですが、ぼくは蒼依さんよりも、むしろ彼の方が心配なんです。さっきも言いましたが、彼のような人間は、どんな思い込みで人の心の中を探ってくるか分かりませんからね。それは今回の会見ではっきりと分かりましたよ。こっちが、よかれと思ってしたことでも、変に取られて妙ちきりんなわけの分からぬ騒動でも起こされかねないからです」彼はどこか落ち着かない様子で、立ち上がると部屋の中を歩き出した。どうやら、彼にはもっと気になることがあるらしく、そのことを話すかどうか迷っているようだった。
「ところで、蒼依さんは、どうなんでしょうか?ぼくと本当にお付き合いして下さるお気持ちはあるのでしょうか?先生から見て彼女のこの沈黙をどうお考えになります?」彼は、思い切ってこう言うと、先生がどう答えるか注目するのだった。確かにあれ以来、蒼依から色好い返事は貰えていなかったからだ。
蒼馬氏にとっても、彼女の沈黙は確かに気になることではあったのだが、それ以上に今回のこの無意味にこじれそうになっている三角関係は、あることを亨に知らせればひょっとしてすんなり解決すると思われるのだが、蒼依との約束もあることなので、話すことができないのが何とももどかしく感じられるのだった。
「もう少しお待ちになってもいいかとは思われるのですが、何なら私の方からそれとなくお聞きしておきましょうか?」
亨も、そうしてもらえれば、それに越したことはないのだが、やはり自分の不甲斐なさを悔やむ気持ちもどこかにあってか、いかにもきまりの悪そうな顔をしてこう弁解するのだった。
「そうですね。できればそうして頂ければ、ぼくとしても嬉しいのですが、正直なところ、何か急に不安になってきましてね。まったく年甲斐もなく見苦しい限りですが、あの青年のお陰で、どうやらこっちまでがおかしな具合になってしまったようなんです」