十三 亨の性格
この二人の会見から、数日経ったある日、一台の車が慎治の家の前に止まった。その車の主は亨だったが、しばらく車の中で、これからどのようにこの青年と会って、どう例の話しを進めていくべきか考えていた。亨は、この若き芸術家のことは、蒼馬氏からある程度の知識は受けていたし、蒼依からも聞いてはいたが、ここにきて、いくら彼女の頼みとはいえ、このような役を引き受けなければならなくなったことに対して、なぜか説明のつかない重苦しい気分に陥っている自分に気が付くのだった。しかしその一方で、いったい、彼がどのような意図で今回のことを思いついたのか、それに対してなぜ蒼依が自分に相談を持ちかけてきたのか、その経緯が、どうもはっきりとしないので、その辺の事情もこの機会に是非知りたいという思いもあったのだ。しかし、それ以上に知りたかったのは、いったい二人の関係はどういうものなんだろうということだった。それがいちばん気がかりなことでもあったのだ。
ところで、慎治の方は前もって亨から連絡があったので、それに対しての心構えも出来ていて、なんら慌てる様子もなく家から出てきた。二人はこの時初めて顔を合わせたわけだが、お互い、妙に意識しあって、狭い車の中は、ぎこちない雰囲気でしばらくは満たされていた。
興味深い二人の会見ではあるが、その前に、この芝原亨という人間について、少しばかり話しておく必要がある。彼については、以前にもちょっと紹介してはいるが、ここではもう少し突っ込んだ形で、この青年の性格のある面に光を当てて見たいと思うのである。もっとも人間の性格などどいうものは、極めて曖昧で、決して固定されたものではないのだが、それでは社会生活上困るので、仕方なく被っている仮面のようなものなのだ。他人にとってもそれの方が便利で混乱しないというわけである。とはいえ、それはあくまでも、ああ、あの人はこれこれこういう人だよと、さも分かっているかのように言っているだけで、それが果たしてそうなのかどうかはまた別問題だ、ということも一応考慮しておくべき必要がある。人間には確かにそういう厄介な一面があり、それがまた社会生活を複雑にしている原因でもあるわけである。
つまりここで詳らかにさせたいのは、人間の性格が持つ厄介な方であり、彼が四十間近の独身男で、女性の好みはこれこれで、やさしい穏やかな面はあるものの、どこか神経質で時間にうるさく、おまけに毎日ジョギングしなければ気が済まない、などという性格ではないのだ。もっとも人間の生活が、そんな単純なものだけで成り立っているなら、なんの苦労もないし、却って悩み事の少ない人生を送れて、それはそれで喜ばしいことかも知れない。しかし彼の性格をある面で支配しているのは、そんなことではなく、ある意味この社会生活にとってあまり役にも立たず、むしろ邪魔になるものかもしれないのだ。つまりこう言うことだ。どうして、われわれ人間は今生きていることに何の驚きや恐れも感じないで生活していられるのだろう、と。つまり彼は自分が今ここに存在していることに限りのない疑惑を感じているのだ。これは注意すべきことである。何でこんな状態が恰も当たり前のように出現しているのか。もちろん生きる上でのさまざまな不信や疑念は誰でも感じているところだが、どうやら、そういうものとはどこか違っている所がありそうなのだ。彼はこんなことも言っている。われわれは何かきっと途轍もない神秘的なベールで存在そのものを、その未知なるものから隔離させられているのではないのか。むしろ、その秘密に触れてはいけないかのような、ある意味、自然の掟がわれわれの周りに張り巡らされていて、決してその外に出られないような仕組みになっているのではないのか。われわれは生きることは辛いとか、やれ何だとかかんだとか不満ばかりいっているが、その肝心なことについては、まるっきり赤子同然な意識しか持っていないのだ。赤子が自分の母親に盲目的な信頼を寄せているように、人間は、この世界を当たり前のように生き享受している。ある意味、羊のように飼い馴らされ、一頭が右に行けばそれに従い、左に行けば何の疑いも持たずに左に行く。なんらそこに定見などなく、その時々の状況によって変わって行く。それで何の不安も疑いも抱かず、己の生を浪費していく。
断っておくが彼はどこまでも真面目に考えているのである。彼の疑念は、更にこうも要約できるかも知れない。われわれはなぜか突然この世に生まれてきて(誰がその理由を知り得ようか?)気がついた時には、すでにわけも分からず生きることに振り回されていて、とどのつまり、また意味もなく死んでいくという、どう考えても合理的な説明など、いとも簡単に撥ね付けてしまようなこうした現象が、ある意味、人間にとって考えたくもない不都合なことのように思われてしまったのではないのか。考えたくもない不都合なこととは、いわば人間にはどうすることも出来ないことに対する恐れとでも言っておこうか。だからどこまでも認めたくないのだが、これが昔だったら素直に畏怖したであろうことも、残念ながら現代のように増長しきった意識は、そこですっかり居直って理由もなく馬鹿にするわけである。なぜか。確かに、このことが人間の狭い不完全な知性などの手に負えない代物であることぐらい分かるというものだ。だから最初からそういうことはこっそりと避けて通ることにした。とくに現代科学にとっては、およそ次元の違う事柄として考えないようにしている。いやむしろ考えないことの方が知的なことでもあるかのような意識の奇妙な思い上がりがある。要するに沽券に関わるのだ。そんなわけの分からぬ現象の前にひれ伏すくらいなら最初から無視したほうが得策だと考えたからである。
このような考え方が真っ当かどうかは一先ず置くとして、いずれにせよ、こうした一見馬鹿げたような思いつきに戯れることが、良い悪いは別にして、彼にとっては、もうそれこそ子供の頃からの日常なのだ。時と場所も選ばず、突然そういう観念に襲われるのである。それは今でも、ごく普通に生活しているときに起きるのである。もちろん、こんなことは誰にも打ち明けられないし、たとえ何かの洒落のつもりで喋ったとしても、おそらく誰一人まともに受け取ることはないだろう。きっと鼻で笑われるか、ひどいのになると、正気かどうか疑ってくるのが関の山なのだ。つまり、こういうある意味社会的に考えて、不健全な空想が、彼の子供の頃から心の秘密として蓄積されていたわけである。もちろん、彼にだって話していいものかどうかの判断力ぐらい持ち合わせていたのは無論である。それでこそ、この歳まで何とかこの社会生活を安全に恙なく送って来られたわけである。
ところで、亨は蒼馬氏から慎治について、それほど詳しい情報は聞かされていなかったので、はっきり言って、どう切り出していけばいいのか迷ってはいたのだ。それに、間近で彼を見たとき、その印象が極めて強く、あの説明のつかない重荷の意味が、どういうものか、何となく掴めたように思われるのだった。もっともこの時点では、この青年が、後々これほど自分にとって問題になるとは思いもしなかったことだけは確かなようだ。
「これは、蒼依さんからお聞きしたことですが、何でも彼女の肖像画を描いているそうで、どんな絵なのかとても興味がありましてね、機会があればぜひ拝見したいと思っているんです」亨は、まるで反応を探るかのようにこう言って、チラッと慎治の横顔を伺った。
「かまいませんよ。もっともあの絵は、蒼依さんに渡す手筈になっているので、そのうちお二人で、ゆっくりと見ることもできますが、やはり好きなお方の絵は一刻も早く見たいということなんでしょうか?」慎治は、これだけのことを、身動きもせず前方をじっと見ながら言ってのけた。亨は、これを聞いて、彼がどのように自分を見ているか、その一端を知ったわけであるが、やれやれこれでは先が思いやられるわいと思い、さっさと用件に取りかかることにした。
「ところで、本題に入りますが、あなたの留学のことですが、あなたご自身の実際のお気持ちはどうなんですか?」
「気持ちですか?そうですね、ぼくは、蒼依さんのぼくの将来を思う優しいお気持ちには、とても感謝しています。ただ、ぼくはそう言った彼女の気持ちを無視することは出来ないし、彼女の意思を尊重したいと思っているんです。もちろん、あなたのご好意も、どれほどぼくのこれからの人生に影響せざるをえないか、それはもう言葉では言い表せないくらいです。ところで、あなたがどういうお考えで、今回のことに賛同して下さったのか存知上げませんが、ぼくは、あなたにも同じように感謝の気持ちを伝えたいと思っているんです」
「つまり、あなたの決意は堅いというわけですね?分かりました。それでは、ぼくもあなたの将来性に掛けて、この援助に参加させていただきますよ。ところで慎治さん。ここだけの話しですが、本当のことを言いますとね、あなたの留学のことを蒼依さんからいきなり切り出されたときは色んな意味でびっくりしたんですよ。ええ、しかし、もちろん、あの人の邪念のない純粋な気持ちは疑いようのないもので、その時のぼくにもはっきりと伝わってはきましたがね。その、何て言えばいいのか、まるであなたの才能に惚れているとでも言えばいいのでしょうか、いや、それよりもっと強い、そう母親が自分の子供の将来を思う愛情とでも言えばいいのでしょうか。実際のところどうなんでしょう。そのはなはだ聞きにくいことではあるのですが、あなた達の……」
「ぼくは、正直言って、蒼依さんがとても好きでした」慎治は何を血迷ったか、いきなり驚くべき告白で亨を面食らわせるのだった。
「それに、こんなことを言うと、あなたのご好意に傷をつけることになるかも知れませんが、あえて言います。今回の留学のことは彼女の幸せを願って無理やり承諾したんです」ところが、こう言ったとたん、自分でも抑えきれないような復讐にも似た感情は突然巻き起こってしまい、逆上するかのように頭に血が上るのだった。
ところが亨は、彼の言葉に自分の考えていることとは違った意味合いを感じたので、それがちょっと気になり車を止めて改めて慎治の顔を見るのだった。
「どうかされたんですか?」彼は怪訝な顔をして亨を見た。
「いや、ぼくはどうやら勘違いしていたようです。てっきりあなたの方が……ああ、そうですか、なるほどね……」
彼はこれでやっと合点がいったというような顔をして見せた。慎治にしてみれば、この、まるで人の心を見透かしたような態度は、まったく我慢の出来ないものではあったが、いったい何が「なるほどね」なのか、それを知りたいと思って心を落ち着かせるために、ひとつ深呼吸して聞いてみた。
「なにを、そんなに驚かれているんですか?ぼくの、蒼依さんが好きでしたという、物好きな一言が、そんなに意外だったですか?あなたは、きっとこう思われたのではないでしょうか。この男と、蒼依との関係はいったいどうなっているのだろうか?もしかして、彼女はこの男に特別な感情でも持っているのではなのかと。でも、そんな心配など無用ですよ。それに第一ぼくはこれから外国に行ってしまう身ですよ。ぼくが、彼女をどうこうしようなどと考えること自体が滑稽ではないですか。ましてや彼女は、ぼくに対して、あなたが心配するような感情など持っていませんよ。もっとも、それは直接聞いたわけではないので実際の所は知りませんがね。しかし、それは先程あなたもおっしゃっていたとおり、母親のような気持ちがあってのことかも知れません。確かにそれはぼくもちょっと感じてはいました。でも、そこに変な感情などあるはずもないのです」さあ、どうですか?これであなたも安心しましたか?それともまだ腑に落ちませんか?とでも言いたげな口振りだった。
亨は今回の留学の話しを、そもそも蒼依から初めて聞いたとき、慎治の方がこの計画を思いつき、彼女の立場を利用して、あわよくば実現の運びに持って行けると考えたのかも知れない、とそんなふうに勘ぐりもしていたのだ。しかし、どうもそうではないらしいということが、彼の話しを聞いていて何となく分かりかけてきた。とはいえ、彼の語るに落ちたような台詞には、それなりの驚きも覚えたが、そこに何かしらのやけくそな響きも感じられ、再び霧の中に閉じ込められたような気分になるのだった。
「いや、あなたが何か誤解されているようであれば、どうか許して下さい」彼はもうこれ以上、この狭い空間で彼と居ることに限りないストレスを感じたので、何とか終わりにすべく話しを持っていくのだった。
「ぼくは、あなたのそういった心情に立ち入るつもりなどまったくなかったのですが、どうやら、ぼくの迂闊な一言が、あなたのプライドを踏みにじってしまったようですね。でも、これだけはご承知おき下さい。ぼくは決してあなたのそういった心情を尊重していないわけではないのです。ましてや嘲笑する気などあるわけがないのです。ただ、ぼくとしましては、あなたの留学のことで、それなりの配慮をしたいと思っているわけでして、それにはいろいろと知っておかねばならないこともやはりそれなりにあるわけです。その点であなたのことについても知っておくべきと思ったものですから、失礼なこともありましょうが、そこは、どうかご容赦願いたいのです。もっとも二人の間に変な誤解を生まないためにも、今回こうしてあなたとお会いできたことは、それはそれでとてもよかったと思っています。これで、ますます、あなたという人に興味を持つようになりましたから。いや、じつに愉快ですよ。いずれ、またゆっくりとお食事でもしながら、今度の留学の件だけでなく、もっと色々なことをあなたとお話しできればと心から思うようになりました。また、いずれこちらからご連絡いたしますので、その時は、ぜひ嫌な顔などせず、お付き合い願いたいものですね」
「ええ、それはもちろんです。自分の恩人に尻尾を振らない犬はいませんからね。ぼくも、それほど世間知らずとは思っていません。それに、あなたがこうやって大人の対応をして下さるので、ぼくとしてはとても落ち着いていられます」
「大人の対応ですか?」
「ええ、大人の対応です」慎治はそうだと真面目に答えるのだった。