十二 慎治の決意
翌日、突然蒼依からメールが届いた。ところが、あれほど連絡を待ち望んでいたはずなのに、いかにも面倒くさそうな顔をして、その内容を確認するのだった。そこには『今までこちらの都合で、会うことを延ばしていたことをお詫びしたい』と書かれていて、その後に『それと、ぜひあなたにお話ししたいことができたので、日にちを決めて会うことはできないか』と、いかにも事務的で素っ気ない調子で書かれていたことが、なぜか彼をどうしようもなく傷つけたのだ。それはやはり昨日までの自分の苦しみなど、およそ無意味で馬鹿げたものであったことが、これによって証明されたと思ったわけである。彼はそれ見たことかといった皮肉な笑みを浮かべるのだった。もちろん、そういった心情の裏には、彼女に対する思いがまったく解決されることなく残されていて、意識されぬまま、もやもやとした不満となって、こっそり紛れ込んでいたのだと考えても、あながち間違ってはいないだろう。彼は、いったい何を話したいのだろうとは思いつつも、どうせあの事の報告でもしたいんだろうと、まるで自分とはすでに関係のない事のように考え、『それでは、あなたの都合の良い日にでも、場所を決めて会いましょう』と、彼も負けず劣らず素っ気ない調子で返信するのだった。
蒼依はそのメールを沙織に見せた。
「ああ、なるほどね。ところで、あんた一人でも大丈夫よね。あたしは立ち会わない方がいいと思うの。あんたが自分で亨さんに提案したことなんだから、その責任は取りなさいね。まあ、あの子が、どう思うかは言ってみなければ分からないけど、あまり変な期待は持たないことね」
蒼依は、その日、慎治と会うために出かけて行った。彼と会うのは実に久しぶりのことのように思えた。そう言えば、あの絵は、もう完成したのだろうか。彼女としても、今まで、いろいろなことにかまけて、絵のことをすっかり忘れていた、というほどのことでもないのだが、実際のところを言えば、確かに忘れていたこともあったのだ。
彼女は、なるたけ静かな場所で会いたいと思ったが、あいにく自分には、そのようなところはまったく心当たりもなかったので、事前に沙織に決めてもらっていたのだ。彼女はタクシーを降り、沙織が予約しておいてくれた店に向かって歩いていると、ちょうど向こうからそれらしき人が歩いて来るのが見えた。彼女は一瞬どうしようかと迷ったが、きっと向こうも気づいているだろうと思ったので、立ち止まって彼が近づくのを待っていた。彼は意外にもニコニコしながら歩いて来たので、蒼依も安心して何気に手を振って見せた。ところが彼女のこのちょっとした仕草が、慎治に与えた影響は大きく、今までの思いがすべてひっくり返るような衝撃を受けるのだった。
店に着くと、二人は黙って指定された席に座った。そのレストランは時間も早いこともあってか、客も少なく静かだった。
「あなたの元気そうな顔を見て、ちょっと安心しました」彼女は、この間、車の中から見た慎治を思い出しながらこう言った。
「ええ、元気ですよ。思いのほか」彼はこう言いながらも、またつまらぬことを、と心の中で舌打ちした。
「ところで、あれから随分と経つけど絵の方はうまくいってる?」彼女は、なるたけ平静に、普通の話題を装うように話そうとするのだったが、なぜか腫れ物に触るような、おどおどした物言いになってしまうのだった。
「絵は、もう完成しています。でも、本当のことを言えば、その前にあなたと是非お会いしたかったのですが、なかなか、あなたのご都合がつかなくて……」彼は、もはや自分の思いなど、どうでもいいことぐらい分かってはいたが、なぜかさっきの彼女の仕草が心に引っ掛かって、自分の思いがぐらぐらと揺れ動き、あの決意が反故になることを恐れるのだった。
「慎治さん。わたし何も隠さずにあなたに言うわね」彼女は意を決してこう語り出した。「わたし、今ある方とお付き合いするかどうか正直言って迷っているの。あなたはご存じないとは思うけど、その方は、わたしの亡くなった父と近しい関係の人で、とてもいい方なの。あなたにその事ををお知らせすればよかったんだけど、あまりの突然の話しで、今までいろいろとそれにかまけて、あなたに連絡もできないでいたの。それはどうか許して頂戴ね。それでね、その人は、名前を芝原亨って言うんですけど、あなたのことにとても関心を持ってくれて、今のあなたの現状を知って、ごめんなさいね、わたし今あなたがどういう生活状態にあるか知ってもらおうと思って、つい、話してしまったの。それは、本当にごめんなさい。あなたからすれば、何でそんな余計なことをと思うことぐらい重々承知しています。でもね、それを聞いて、その人は、あなたの才能を惜しんで、それなら外国にでも留学してみてはどうかという話しが出て、いえ、本当のこと言うとわたしが最初に、その事を彼にお願いしたの。余計なことと思うかもしれないけど、あなたの将来を思ってのことで、どうか許してね」彼女は、これだけのことを、何とか無事に話し終えたが、果たして自分の思いが通じたかどうか、覚束ない気持ちで慎治の顔を窺うのだった。
彼は、黙ってこの話しを聞いてはいたが、その頭の中は、彼女が話す言葉の、ちょっとしたニュアンスも聞き漏らすまいといった、張り詰めた神経で満たされ、それこそ自分の運命のご神託でも聞くぐらいの心持ちでいたのだ。
彼が、まず彼女の言葉に対して、その重要な響きを聞き分けたのは、彼とお付き合いするかどうか迷っているというフレーズだった。これは彼にとって決して聞き漏らすことのできない言葉だった。
『迷っているとはいったいどういうことか。まだ結婚など考えていないということではないのか。そう取っても決して間違いではないだろう。ああ、しかし、おれは何をこんなに喜んでいるのだろう。まるで希望が復活し、未来に夢が持てたかのように。馬鹿な。お前は自分の決意を、これ幸いと反故にでもするつもりか?それとも、あの決意は一時の気の迷いか?まったく見上げた根性だよ。でもな、この話にはまだ続きがある。そうだ、さっきからそれが気がかりだったんだ。おれを外国に留学させるという話しだが、これは一体どういうことなんだろう?』
「お話しの途中すいません。それはどういうことなんでしょうか?その、外国に留学するということです。それは、つまりぼくが外国に留学するということですか?」
「ええ、その通りですわ。慎治さんの留学の話しです。わたし思ったんです。あなたの非凡な才能を今の生活で埋もれさせてはいけないと。そう思ったもんですから、つい、このことを亨さんに話してしまったんです。そしたら、彼もあなたの現状に同情して、それなら一日も早く、あなたに会ってその事で相談に乗ってくれることになって、それで、そのことを、今日あなたに話そうと思ったものですから……」
『いや、これはそんな風に勘ぐってはいけないのだ。そんなことを彼女が目論むはずがないではないか。彼女を疑うこと自体恥ずかしいことだ。それなら、その相手の男はどうだろう。おれのことを邪魔だと思ってやしないだろうか。それで、こんな茶番を思いついたのかも知れないじゃないか。きっと、おれのことを彼女から聞いて将来の禍根にでもなると思ったのかも知れない。それは有り得る。でも待てよ、この話しは彼女の発案だとさっきおれは確かにそう聞いたではないか。いや、だからこそ、とっさに賛成したんだ。要するに邪魔者は、面倒にならんうちに、さっさと外国にでも放り出してしまえってわけだ。なるほど。しかし、妙だな、おれは何でこんなにその男を疑っているんだろう?まるで恋敵か何かのように。ひょっとして、おれの心は何かを察知したのかも知れない。おれの愚劣な心性の復活を。将来おまえはきっと嫉妬に狂うだろうから、心はそれを見越してまるで当て付けのようにこんな妄想を引き起こしているのかも知れない。おれのあの決意など、どっちみち反故にでもする気なんだろうと思っているに違いないんだ。ちくしょう!まったくおれは、こんなぶざまな思いに引きずられて、どこまで落ちて行けばいいんだ……』
すると彼は弾かれるように席から立ち上がるのだった。まるでこの情けない考えから一刻でも早く身を振りほどいてしまいたいかのように。しかし、我に返って、また席に着いた。彼は青年らしい羞恥心を感じ、どんな愚劣な人間でも、これには呆れるだろと思い苦笑した。
蒼依は、彼の様子を見て、自分の心配は的中したかと一瞬思ったが、彼の自制している姿を見て、ここは辛抱強く彼に接していこうと思った。
「そうよね。いきなり留学の話しを聞かされても、いったい何を言ってるんだと思うのが普通よね。わたしも迂闊だったわ。あなたに前もって相談もしないで、勝手にそんな重要なことを決めるなんて。今でも、あなたに悪いことをしたと思って、とても後悔してるの」
「いえ、そんな後悔などする必要はありませんよ」彼は、何か決心でもしたかのように、はっきりとこう言って続けた。「確かに、その話しは、ぼくのような境遇の者には、なかなか魅力的な話しではありますよ。亨さん、でしたっけ、あなたのお相手のお名前は。その方がぼくに会いたいというのでしたら、ぼくは喜んでその話しに乗ってもいいですよ」彼はこれだけを何かに抗い、まるで自分の身を切るような思いで言うのだった。自分の決意を反故にしてはいけないという思いだけが、彼を引き留めたのだ。当然その反動は大きく、幕が下りたかのように目の前が暗くなり息が詰まりそうになった。
「本当に会ってくれるの?よかった。じゃあ、さっそく明日にでも亨さんに連絡しておくわね」
蒼依は、すっかり心の重荷が取れたかのように感じて嬉しくなった。いや、そんな自分のことより、慎治の将来が、これでますます希望のあるものになって行くのではないかと考えると、それが何より彼女にとって一番嬉しいことだったのだ。
「なんか、お腹すいちゃったね」彼女はこう言って、目の前の料理にようやく手を出す気になった。慎治も釣られて食事に手をつけたが、その心は暗澹として、とても食事どころでなかったのは言うまでもない。でも、このような状態の二人を、誰よりも、一番気に掛けていたのは、ほかでもない、二人の席とちょっとした置物で隔てられていたテーブルで、身を隠すように食事をしていた沙織だったかも知れない。彼女は二人が来る前から、その席に座っていて、二人の話しをそれこそ息を潜めて聞いていたのだ。もっともどれだけ聞き取れたかは不明だが。それはさておき、何でそこまでして二人の話しを聞かねばならなかったのか。それは正直言って分からないが、きっと彼女のことだから、何か思うところでもあったのかも知れない。




