十一 幻影
慎治は、それから、どのくらい街中を彷徨い歩いただろう。苦しい心を引きずりながら、どこへ行くという当てもなく、ただ忌まわしい思いを振り払いたいがために、あちこちを野良犬のように歩き回った。そのうち彼はこうした重苦しい精神状態に振り回されている自分にいささか辟易してきて、しだいに歩くのもしんどくなり、どこでもいいから座りたい気持ちになるのだった。ある広場に偶然たどり着いた彼は、ベンチを見つけると一も二もなくへたり込んだ。しばらく目を閉じてじっとしていたが、突然ある方角から人々の歓声が聞こえてきた。いったい何事かとそっちに目を向けると、今しがたくたびれて座ったにも拘わらず、いきなり立ち上がって歓声の方へと歩き出した。そのとき彼は何でもいいから気が紛れるものを無意識に探していたのかも知れない。
その歓声の正体は、たまたまその日に広場で催されていた大道芸の集まりのようであった。人々は喜んで手を叩いたり、驚きの歓声をあげたり実に楽しそうだった。彼もしばらくその観客たちと一緒になって、その達者な芸を食い入るように見つめていた。彼も同じように夢中になってしまったようで、いつしかその場の雰囲気にすっかり乗せられてしまい、わけもなく笑っている自分にある瞬間ふと気づくのだった。するとそのとき心の中で何かが蠢き、今まで思ってもいなかったある滑稽な観念が彼を襲うのであった。それは自分も含めたすべてのものに対して感じたある種の違和感のようなもので、これは何かの冗談ごとかと、もちろんなぜそんな思いになったのか、はっきりとしたことは分からないのだが、突然何もかもが虚しく思われてきて、まったくこんな所で笑っている場合かと、要するに自分の気分のあまりの変質にわれながら呆れ返ってしまい、皮肉な笑みを残したままその場から立ち去って行くのだった。
『まったく人間なんて実にたわいないものだ』彼は歩きながらこう思うのだった。『正直に言って、こんなことにどんな意味があると言うのだろう?ここにこうして歩いている人たちは、いったいどんな思いでこの人生を生きているんだろう?いや、考えるまでもないことだ。どっちみち実際の眠りから覚めたとたん、生活というもう一つ別の眠りに落ちて行くだけなのだ。まったく、人間というやつはどこまで馬鹿に生まれついているのだろう。救いようがないくらい。いや、救う価値すら認められないくらいだ。それに比べれば牛や豚の方がどれだけ真っ当に自分の本分を果たしていることか。哀れな人間どもよ。恥を知るがいいんだ。ああ、もちろん、その中に自分も入っていることぐらいちゃんと承知しているさ。しかし、問題はそんなところにはないのだ。もともとおれのような人間に何の価値もないのだから。悲しいかな実際そうなのだ。そこに問題がある。そこに大問題がある。つまり、そんな人間でも生きて行く価値があるのかどうか?そういう問題を抱えながら生きて行くのは本当に意味のあることなのか?自分の無意味さを自覚しながら生きることに果たして意味などあるのだろうか……?しかし、こんなふうに考える人間など少なくとも現代ではいないのだ。誰もが生きるのに忙しくて、こんな夢のようなことに心を煩わすような物好きなやつは一人だっていないのだ。それだけは断言出来る。すべてはいい加減に済まして、ただそれなりに幸福であればそれで満足するのだ。第一そんなことを考えるやつは人生の何たるかを知らない夢想家だけだろう。そう言って馬鹿にしたような笑いを残して立ち去るだけなんだ。だけど、それがもし錯覚だとしたら?もし彼等の言う幸福なるものが、そもそも錯覚だとしたら?まったく人間ぐらい騙されやすい生き物はいないからな。人はひとを騙すのが好きなんだ。いや、むしろ人は騙されたがってるんだ。そう言った方がより真実に近いだろうさ。そこにつけ込まれるんだ。人間という人間は傲慢と虚栄で身を飾り、その精神は堕落で腐りかけているじゃないか。そんな人間どもに、いったい何を求めよと言うのか?そいつらの腐った理想か?それとも、この世界にも見るべき物はあるのだという俗物どもが見る夢か……夢?おれも、それにはさんざっぱら苦しまされてきたものだ。それならそれはすべて幻想で儚い夢だったのだろうか?確かにそうかも知れない。ああ、それでもおれは、たとえそれが幻想でもいい、どれほど清い存在を願ったことか……』
彼はこの時、突然蒼依のことが頭をよぎり、それがまた今までと全然違う感じで、彼の心を締めつけくるのだった。その脳裏に次々と蒼依との思い出が蘇ってきて、もうどうすることも出来ないくらい、その心は揺さぶられるのだった。それはあまりにも唐突なことだったので、自分でもびっくりするぐらいで、いったい自分に何が起きたんだろうと思い、その場に立ち止まってしばらくジッとしていた。
*
蒼依は家に着くと、さっそく妹にさっき慎治さんを通りで見掛けたのだが、家に来たのかどうか聞いてみた。「それがおかしいのよ。彼は確かに来たけど、いつの間にか消えていて、いったい何があったのかさっぱり分からない」と、莉子にしてみればそう言うしかなかっただろう。蒼馬氏は、その時そばに居て二人のやり取りを聞いていたが、先ほどあったことは一切口には出さずにいた。
蒼依は、その夜、ベッドの中でなかなか寝付かれないでいた。彼女は明日にでも彼の家に行こうと思ったものの、なぜか心細くなって、とても一人で彼と会うのが怖くなってきたのだ。彼女は思い切って沙織に相談することにした。沙織はそれを聞いて、あの時の嫌な予感が的中したのではないかと思った。自分が蒼依の結婚を仄めかした時の慎治の様子から、それは何となく想像できた。
*
慎治は、その日あちこち歩き回ったおかげで、すっかり疲れ果て、まるでぼろ雑巾のようにヨレヨレになって自分の家に帰ってきた。冷え切った部屋に入ると、そのまま着替えもせずに、ベッドに倒れ込んだ。布団をひっかぶって、しばらくウトウトとしたが、夜中に目が覚めて、ベッドから身を起こした。気だるい感覚を覚え、しばらくそのままの状態でじっとしていた。窓からは月の光が淡く差し込んできて、恐ろしいような静寂が部屋を包み、この世界からあらゆる音が一切消えてしまったかのようだった。すると不思議なことに、この部屋には自分の他に誰か居るような気がして、何となく辺りを見回すのだった。あまりの静寂さに耳の奥で鳴る物音にも敏感になっていたのかもしれない。彼はブルッと身震いすると、立ち上がり窓のカーテンをそっと開けてみたり、戸棚を覗く真似をするのだった。彼は自分のこうした行為を、どこか心の中で面白がっているらしく、どう見ても無意味に思われるその行為を止めようとはしなかった。しかし、そのとき彼は何かを感じたらしく、息をひそめ辺りを窺うようにして部屋の真ん中でじっとしていたが、とうとう声に出してこう言うのだった。
─あれはどこだっけ?君は一度ぼくの前に現れたよね?ええと、どこだったかな?あ、思い出した。蒼依のあの部屋だ。たしかその時、君はぼくに何か言ってたよね?もう、はっきりとは思い出せないのだが……
─それは、あれじゃないか?
その気になる人物は、とうとう彼の前にはっきりと姿を現した。いたって普通の容姿をして、どちらかと言えば華奢な体つきの、どこにでもいそうな若い男だった。彼はかなり使い古されて、誰がどう見ても遠慮するだろう絵具が飛び散って、染みだらけになっている椅子に構わず腰を下ろすと、気取った格好で足を組み、こう話し始めるのだった。
─君はあのとき結婚のことを詳しく聞くために、わざわざあの家に行ったわけだが、ぼくが聞きたかったのは、そんなことを蒼依に聞いていったいどうするつもりだったんだろうと思ったわけさ。まさか、その結婚に異議ありとでも言うのかと思ってね。いや、怒っちゃいけない。君とぼくとの仲じゃないか。何事も率直に語り合うべきものだと思うんだ。でも、君はよほどあの話しで気が動転したらしく、蒼依の件はすっかりうやむやになってしまったようだね。もっとも君にすれば、さすがに恥ずかしくなったのかも知れないね。なにもそう眉を顰めることはないよ。ぼくは隠さずに白状するけど、あの時なぜか胸にグッと熱いものが込み上げて来てしまったんだ。いや本当だよ。君もやっとそういう気持ちになったんだと思ってね。要するに今までにないものを君の中に見たような気がしたんだ。
─ああ、そうやってどこまでもぼくをからかうがいいさ。どうやら、それが君の仕事らしいからね。
─気分を害したというのなら謝るよ。もっとも君はまだ自分のことで勘違いしているところがあるんじゃないのかね?これはまじめな話しなんだが、たとえばさ、君はどうして自分を堕落した人間だと思うようになったんだい?そのことがよく分からないんだよ。しかし、よく考えてみると君自身だってその辺のことには、まだはっきりとは気づいていないように思われるんだがね。
─それは、いったいどいうことだろう?そんなことぐらいぼくだって気づいていたさ。もっとも気づいていたからどうなんだという話しだけどね。
─つまり、ぼくが言いたいのは、君はなぜか知らないけど、自分のことを生きる価値のない駄目な人間だと思っているからさ。まるでそういう人間であることをさも自慢したいかのように。なぜだろう?そう思う根拠は一体どこにあるのだろう?つまり君は、そんなに堕落した駄目な人間なのだろうかということなんだが。実際のところを言えば、君は駄目でも堕落しているのでもなく、ほんのちょっと愚かなだけかも知れないよ。いや、ちょっと我慢して聞いてくれないか。これはとても大事なことだからね。もちろん、このことはもっとよく考えなければいけないのだが、しかし、ぼくが思うに、君はまだすべてを理解してるとも言えないからね。自分の父親についても、どこか思い違いをしているところがあるようだしね。そうだよ。どうも君は父親をひどく嫌っているようだが果たしてなぜだろう?あの男が、家族のことも顧みず自分の欲望のままに生きた人間だからかい?しかし、それはそのままあの男の運命ってやつではないか。君の運命とはまったく違うものなんだ。確かに、君は彼の血を引いてはいるが、そんなことはあまり気にすることでもないんじゃないのかね?君の魂といったい何の関係があると言うのだろう。君の魂は君の運命とともにあるんだし、何も父親の運命と結びつける必要もないんだよ。それに、君が自分のことを堕落した人間だと思うのはいいが、それを親の血のせいにするのは果たしてどうなんだろう?そんなことより、そもそも人間なんてたわいないものだと思っているほうが、ずっと君らしくてぼくは好きだね。どうせ人間なんて救いようのない馬鹿な生き物だしね。いや、それはまったくその通りだよ。その点、君はなかなかの哲学者でもあるわけだ。
─まったくよく喋るやつだ。君はどこまでもお節介にできているようだが、思うに君は、きっと友達もいない寂しいやつなんだろう。だから、これ幸いと詰まらぬことまでベラベラ喋り倒すんだ。
─図星だよ。君と一緒だ。でもね何のかんの言っても、やはり孤独は実にいいものだよ。とくに若い時にはぜひとも孤独に親しむべきだと思うよ。もっとも君はもう既に十分孤独かも知れないが、しかし、君はなぜだかそのことにちっとも気づいていないようだね。だって自分のことでも他のことでも、静かに思い巡らすってことはとっても楽しいことじゃないか。ところが君にはその楽しさが、まだ余りよく分かってないようだがね。でも、それは実際本当のことだよ。だから、孤独を楽しめる人は、ある意味途轍もない宝物を見つけたようなもんだよ。
─宝物?そんなもの誰も見向きもしないよ。そんな孤独など今のご時世ではゴミのようなもので、なんの価値もないもんだとみんな思っているよ。孤独は惨めなもの、引きこもり、孤独死、然り。社会的にも異常で、問題で、すべて矯正されるべきものらしいからね。つまり、現代では誰も彼も一人になることに異常なほどの恐怖心を持っているんだ。何かと繋がっていなければ不安で仕様がないんだ。たとえそれが機械であってもね。人間の影が感じられるものなら何でも構わないのさ。
─確かに、君もそういうことを恐れているのかも知れないが、しかし、君は不本意にしろ何にしろ、それをたっぷりと享受しているのだからね。享受している以上それを受け入れてもっと尊重すべきだよ。もっとも人はたとえ気づいていたとしても、そんなものに何の価値もないと思い込んでいるってことは往々にしてあるからね。残念なことだが、ある意味仕方がないことなのかも知れないね。なぜかって言うと、それは君自身の成長に期待するしかないからだよ。そうだろう?だからこの際、社会など無視して考えるべきものだと思うよ。君の人生は君自身に掛かっているのだからね。そういう大事なことを他人に預けたり頼ったりしてはいけないのだ。
─そんな道学者ぶっていったい何が言いたいのだろう?そんなことを言ったって誰も鼻も引っ掛けないだろうさ。
─しかし、君はそんな世間のやつらとは全然違うんだ。そうじゃないか?あんな俗物どもの夢など屁でもないからね。やつらの腐りきった理想など誰が信じるものかね。まったくだよ。君はそう言う権利すらあるのだ。だって君は人生の殉教者なんだから。いや苦行者と言った方がいいかもね。君は自分の欲望を犠牲にするつもりなんだ。いやぼくには分かっているよ。
─気でも触れたか?お前はさっきから自信たっぷりに真面目なことのように言っているけど、そもそもこんなことはおれ自身の意味のない空想じゃないか。いったいどこからそんな結論が出てくるんだろう。それなら、いったい生きることにどんな意味があるのか、ぜひ聞きたいものだね。でも悲しいかな、お前に答えられるわけもないんだ。だってお前はおれの空想だからね。これがおれの答えだ。
─まったく残念だよ。君がそうやって真面目な話しを混ぜっ返してしまうのはね。君は少しは見所のあるやつだと思っていたんだがね。
─さあ、言えるもんなら言ってみろ!
─ああ、君はやけを起こしているね。無理もない。君にとってはこの事を消化するだけでも、なかなか難儀なことだからね。それはよく分かるよ。しかし、それと君の人生とはまた違ったものなんだよ。君は、その辺のところが、まだよく分かっていないのかも知れないけどね。要するに君は君の人生を生きなければいけないんだよ。それがたとえどんな人生でもね。それだけは間違いない。もっとも、それが嫌なら……
─それが嫌なら、どうなんだい?
─嫌なら生きることを放棄するかい?しかし、そんなことをしても何の解決にもならないと思うよ。君の苦しみは死んでからも続くだろう。生命がこの世に続くかぎり君の苦しみは形を変え復活するのだ。
─でも、今のおれはそれでチャラになるのではないかね?
─それが、そもそも間違いなんだよ。そりゃ肉体はなくなるけど、君の魂は永遠に続くのだ。君の意識している自分だけがすべてだと思ってはいけない。
彼は目を覚ました。窓からはわけ有り顔で静かに光る満月が見えた。彼は薄笑いを浮かべ、この夢とも幻覚ともつかぬ会話を思い返していたが、なぜか物悲しい息吹が、どこからともなく彼の心を吹き抜け、この若い精神に一時ではあるが複雑な感情を残して行くのだった。
彼は、しばらく寝床の中で、暗い天井を見上げながら何事かを考えていた。彼は、寝返りをうつと深いため息をつき、部屋のある一点をぼんやりと見つめるのだった。そこにはイーゼルに立てかけた蒼依の絵が置いてあったのだが、外が白みかけてくるのにしたがい、次第にその形が浮かび上がってくるのだった。
『確かに、蒼依は素晴らしい女性には違いない。ああ、それだからこそ、あまりにも辛いのだ。しかし、おれはいったい何を望んでいるのだろう?どこまでもおれにつきまとい、おれを苦しめるだけのこの下らぬ妄想の先に、どんな世界を夢見ているのだろう?どうせ詰まらんおとぎ話に決まってるんだ。ああ、一層のこと何もかも諦めてしまえ。所詮、高嶺の花。見るだけで摘むことはできぬ。無理に動けば彼女を苦しめるだけのこと。そうだ、人間は諦めが肝心だ。ああ、しかし、そうやって口は勝手なことをほざくのだ。ところが、心にはいつまでもその妄想がへばりついている。くそっ、もうこうなったら、下劣な思いをこの胸から剥ぎ取ってしまうまでだ』
彼はベッドから飛び起きると、蒼依の絵に近寄り、絵具を取り出して筆でサインを記した。
『もう、この絵ともおさらばだ。さっさと消えてなくなれ』彼は、これで決まったと心の中で叫ぶのだった。なぜかそう思うことが、この瞬間とても心地よく感じられたのだ。もちろん、なんら解決したわけではないのだが。




