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蒼依の肖像  作者: 吉田和司


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十 魂の煩悶

「ところで、先程のあなたのお話しで気になるところがありましたので、ひとつ質問をしてもよろしいでしょうか?」

「もちろん、何なりと……」彼はこの質問に、ちょっと驚いて見せたが、すぐに何かを感じ取り、さっそく心構えをした。

「先生は」と慎治は彼がもともと医者であることを思い出して、あえて名前では呼ばずにこう言った。

「先生は、ぼくの父親とは、どういうことがご縁でお知り合いになったのでしょうか?」

「ああ、そのことですか。それは、もう随分と昔のことになりますね。そう三十年ぐらい前のことですよ。なかなか思い出すのも苦労する時間です。でも、それは不思議とはっきり覚えています。それはなぜかと言いますと、ある女性が関係していたからです。いや、ごめんなさい。あなたのような純真な青年に、こんなことを話して果たしていいのかどうか、ちょっと迷ってしまいますが、まあ、貴方も実の父親との関係を知りたいとおっしゃるので、私も、敢えてありのままを言った方がいいのではないかと思ったしだいですから」

「別にそんなことで遠慮などする必要はありませんよ。親父の女癖の悪いことなど子供のころから知ってましたから。母は、そのことでどれくらい泣かされたか。思い出すだびに怒りが込み上げて来るくらいです」

 なるほど、この青年にとって、父親への怒りは、すべて母親を思えばこそなのだ。すべての怒りはそこから来る。父親が女のことで地獄に落ちようが、そんなことはたいした問題ではないのだ。しかし、この話しを聞けば、その怒りはもっと別なものに向かうかもしれない。

「貴方の、そのような優しい言葉は、私のような終わった人間にも何か暖かいものを感じさせてくれますよ。ええ、まったく」彼はこう言って、いきなりソファーから立ち上がり、何事かを思い巡らすように、しばらくの間天井を見つめていたが、おもむろに語り出した。

「敢えて、名前は伏せておきますが、いえ、明かしてもいいのですが、何分相手の名誉のこともありますので、そのことはどうかご承知おき願いたいのです。その女性は当時まだ新婚の身であったのです。夫はある会社の社長でした。仕事一点ばりの、まあ、社長という立場上、仕事にその時間を取られるというのは、仕方のないことかもしれません。若い妻は、その新婚生活を寂しく一人で過ごす時間が多くなったのです。そのことを心配した夫は、そのころ親交のあった貴方のお父様に声をかけ、慰みに一つ彼女の美しい肖像画を描いてやってくれないかと相談を持ちかけたのです」彼は心の中で、『この部屋だ。その肖像画が描かれたのは』と思い苦々しく辺りを見回すのだった。

「私も彼も、そのころはまだ三十代で、私は医者の端くれとして、またこの家の主治医として、いろいろと彼女の相談にも乗っていました。つまり彼女の寂しい新婚生活を、少しでもその退屈さから逃れさせてやりたいと、まあ、余計なお世話かもしれませんがね。そこに彼がやって来たのです。薄汚い格好でね。いや失礼。つい余計なことを……」彼の父親であることに気づき慌てて謝るのだが、それほど悪びれた様子も感じさせずにそのまま話しを続けるのだった。

「まあ、あの当時は、貴方のお父様も売れない画家として、どこか必死なところもあったようで、この仕事を何とか成功させたいと思っていたようです。その時彼はすでに妻帯していましたが、貴方はまだこの世に生まれていなかったはずです。彼は、それからというもの足繁くここに通って来ました。仕事というれっきとした理由があったので、何のわだかまりもなく来ることができました。ところが彼の仕事ぶりにはむらがありましてね。ちょっと気が乗らないと、そこで描くことを止めてしまうのも度々だったのです。私はそういった現場を目撃したことがあるんです。ええ、そうですよ。思い出しました。私は一度、彼が制作しているのを覗いたことがありました。そのときは珍しくドアが開いていたものですからね。ちょっとした好奇心で別に他意はありませんでした。ところが、そうではなかったのです。私の中の悪魔は、これ見よがしの光景を見せるために、この私をそそのかしたのです。彼は絵のことなどそっちのけで談笑に耽り、聞くに堪えない甘ったるい言葉で若妻を誘惑していたのです」

 彼は、何かいたたまれない様子で部屋の中を歩き出した。余程たまらなかったのだろう。過去のあまりにも忌まわしい記憶が突然鮮やかに蘇って来たことに耐えるかのように、片手を口元に押し当て天井を見上げるのだった。そして彼はゆっくりと自分に念を押すかのようにこう続けた。

「ええ、確かに今思えば、ただそういうことが起こったということでしょうね。ええ、そうですよ。別段怒りに身が震えることでもないでしょう。ああ、しかし、私には堪らなかったのです。でも、その時私に何が出来たのでしょうか?いきなり二人の前に現れて驚かしてやるべきだったのでしょうか?彼の前で、まるで当てつけのように彼女に恥をかかせてやるべきだったのでしょうか?私はただ気付かれないように、そこからそっと退散するしかなかったのです……まるで、何もかも違っているのです。私のような人間からすると、それはとても不思議なことのように見えるのですが、彼の持つ女性を引きつける得体の知れない力。それに画家というブランドイメージに加えて、どこか品のある容姿を持つ彼が、それはもう傍で聞いていても、こちらが恥ずかしくなるようなことを臆面もなく話すことで、どんな身持ちの堅い女性にもある虚栄心を、それとなくくすぐることにとても長けていたのです。それに彼女も、いつしか取り込まれてしまったのです。私はそれ以来嫌な予感に苛まれるようになりました。男と女が一日中、部屋の中で過ごしているのです。他に誰も邪魔をする人間はいません。こんな誘惑的で危険なことはないでしょう。私はその事で彼女の夫に相談しました。今から思えば相当危険な事だったかもしれません。が、その時は何とかしなければという思いの方が強かったのだと思います。私はまず、彼の仕事ぶりについて意見しました。要するに彼の仕事に対するある種の怠慢を指摘したのです。その仕事ぶりのいい加減さをそれとなく知らせ、彼に考え直すきっかけを持ってもらいたいと思ったのですが、ことごとく失敗しました。私はもう一歩踏み込んで言わねばと思い、自分の見たことを言いました。するとあろう事か彼は笑って、あの男のやりそうなことだと言って、まともに取り合おうとしませんでした。いったいこれはどういうことかと、その時は思いましたが、後になって分かったことは、もうそういうことはすでに有名な話しで、彼の女癖の悪いことは公然の秘密だったのです。彼は言いました。「あなたのおっしゃりたいことはよく分かりますが、それはちょっと考え過ぎだと思います。というのも彼女に限ってそんな心配は少しも必要ないからです」こう言って、彼は猜疑心を起こすどころか、逆にこういうことを言ってくる私の方を不審な目で見るくらいだったのです。まったくこうなると、こんなことで心配するこっちが間抜けに見えてきて、自分の道化振りを晒すだけの一種の猿芝居に見えてきました。しかし、とその時私は思ったのです。この夫の貞淑な妻を、どこまでも信じているその態度は一見立派に見えるかも知れませんが、人の心は、どこでどう変化するか分からないのです。良心の眠った隙を突いて、どんな悪魔が忍び寄って来るか分かったものではありません。仕方ありません。私は覚悟を決めて、彼女に直接私の危惧をそれこそ遠回しに遠慮気味に言いました。ええ、そうです。私はこの時すでに自分を無くしていたのです。というよりも、ほかならぬその時の自分こそ、悪魔的な衝動にすっかり取り憑かれてしまっていたのです」彼はこう言ったかと思うと一瞬ふっと何かに心を奪われたかのように黙ってしまった。しかし、それもほんの束の間にすぎなかった。すぐにまた語り始めた。

「ところが驚いたことに彼女はそれを匂わせた時点で怒ったのです。あの物静かな女性が顔を真っ赤にして怒ったのです。私はその時あっと思い、自分の迂闊さに恐れ戦きました。とんでもない状態に彼女を追い詰めるかもしれないと直感的に危惧したのですが、もはや後の祭りです。案の定それ以来、彼女はこの私を避けるようになりました。目すら合わせてくれません。私はただ自分を呪いました。この取り返しのつかない自分の傲慢な態度が、どれだけ彼女の心を傷つけたか、私はもはや彼女に対してどんなことがあろうと許しを請うことすら出来ないのです。私はただ祈るしかありませんでした。しかし、おぞましい出来事は、まるで他人の願いなど嘲笑うかのように起きてしまったのです。ええ、そうです。これが、あなたのお父様と私との謂わば忌まわしい経緯いきさつと言いましょうか、ご縁でもあるのです」

 彼はこう言って、何かに小突かれたかのようにソファーに倒れ込んだ。慎治は窓辺に突っ立ったまま、身動きすらしないで聞いていたが、なぜか恐ろしいような、それこそ心の深いところから湧き上がってくるような嫌悪感を感じるのだった。それは身内の恥の、あまりの醜さに今にも発狂してしまうくらいの衝撃だったのだ。

「それでね、慎治さん」と、静かに語りかけるように彼の名前を言うのだった。

「その後のことを、やはり話しておく必要があると思うのです。その後どうなったか、あなたも知りたいでしょう?」彼は何事かに促されるように、また立ち上がると、こう語るのだった。

「それとも、もう聞くのも嫌ですか?何だか顔色がひどく悪いようですが、大丈夫ですか?」彼はあまりにも慎治の様子が最初のころと変わってしまったので、心配になってこう言うのだった。

「ええ、大丈夫……です。どうか先を続けて下さい」彼は心の動揺を悟られたくないために、何とか平静を装い、窓辺にもたれ掛かり、先を聞く心構えをした。そのとき彼は、慎治の顔にこの若者なりの矜持を感じ、ひどく心を揺さぶられるのだった。実際のところ、この自分の忌まわしい思い出を語るうちに、彼の心に、今までずっと霧が掛かって、もやもやとしていたものが、突如はっきりとした形となって浮かび上がってくるのを鮮明に感じるのだった。それは今まで何回も心の中で反芻されたものではあったが、それはあくまでも自問自答という形で堂々巡りのようなものだったのかも知れないと、そうはっきり認識したことだった。それは、この若者に向かって、話しているうちに、まるで棘のようなものが頻りと彼の良心を突いてくることからもそう感じられたのだ。そういう苦しい意識は、やはりこのとき初めて自分の心の秘密が、他人の前に晒されたことと大いに関係していることは間違いないだろう。それがために、この話しを続けようとしている彼の気持ちを考えると、ある意味、自らの罪をすべて晒し悔いるための懺悔であったのかも知れない。

「しかし、この出来事は夫には知られることはなかったのです。もちろん私は黙っていました。立派な夫の自尊心を、いたずらに刺激する必要もありませんからね。しかし、今考えれば果たしてそれが良かったかどうかは疑問です。この罪は、後々彼女の心を蝕んでいくばかりだったからです。誰にも知られない罪。それに耐えていくことは、やはり彼女には荷が重すぎたのです。その後、その罪は、はっきりとした形を取り、日々後悔と自覚のうちで成長していったのです。ところが彼女の生活は、傍から見れば平穏無事に過ぎていったのです。ですが、これは生活という単なる習慣にすぎません。真の平穏からは何と遠いことでしょうか。でも、恐ろしいことに人間は何にでも慣れて行ってしまうようです。

 ところで、貴方のお父様ですが、彼はその後その絵を完成させ、世間的にも認められて、曲がりなりにも名を知られる端緒にはなったのです。その絵は、しばらくの間彼女の手元にあったのですが、その後、手放してしまい、噂によると、ある有名な実業家に買い上げられたものの、今ではその所在が分からなくなっているようです。この一件が、彼にどんな影響を与えたか、それは、はっきりとは分かりませんが、その一端は私にも掴むことができました。と言いますのも、その後、彼と二度ほど、お会いしたことがあったからです。一度目は、彼の傍らには、小さな息子さんがおりました。ええ、そうです、貴方でした。その時の彼は、身なりも以前と比べ良くなり、その顔にも自信が漲っているように感じました。彼は頻りと自分の息子に画才があることを私に自慢するのです。まるで、自分の血を引く息子の天才に、自分の将来を重ね合わせるかのように、目を細め、熱っぽく私に話すのです。その時、私は彼女のことをちょっと仄めかして言いました。すると彼は笑って、一体誰のことを話しているのかと言った表情を一瞬しました。私は、その時思ったのです。この男には彼女に対して何の憐憫も思いやりもないのだろうかと。しかし、それも仕方のないことかもしれません。彼に限らず、どんな人間も、この世で生きて行く以上、何事も薄れていく記憶の下、すべての出来事が流れ去って行くしかないのですから。どんな尊い出来事も、薄汚い出来事もまったく同じように消えて行くのです。私はこの時、この男を見ながら彼女の悲しい運命を思っていました。彼女はその後三人の子供を授かり、表面的には幸せな生活を送ってはいたのです。ところが、死に至る病が、秘かに彼女の心を蝕んでいたのです。私はその事を彼には敢えて言いませんでした。ところが、二度目に会ったとき、彼の人知れぬ心の闇を知ることになったのです。それは二、三年経ったころでしたか、その頃の彼は以前と違って、服装も、態度もどこか見窄みすぼらしく感じられました。彼は弱気で、何かに悩んでいるようでした。この男にも悩むことがあるのだと思うと、正直なところ拍手でもしてやりたくなりましたよ。そこで、私はこの男の魂が何を語るのか聞きたくなったのです。私は言いました。いったい何をそんなに沈み込んでいらっしゃるんですか?あなたらしくもない。何事も楽観的で享楽的なあなたが、そんなに悄げては、仕事に差し障りがでるのではありませんか?すると彼はこう言ったのです。君には分かるまい。おれの苦しみが。おれはすべてを犠牲にして、今まで自分の仕事に打ち込んできた。自分の仕事だけに誇りを持ち、世間の無理解などまったく意に返さず、おれは生きて来たのだ。いつかこの世の中を見返してやりたいとな。それがどうだ。おれはつまらんしくじりから、嘗てないチャンスを潰してしまったのだ。その原因を知った時、おれがどれくらい自分を笑ったか、君にはまったく想像も出来ないだろう。思いもよらぬところからあの事が漏れたのだよ。おれが何も知らないとでも思ったか?おれがあの女と寝たところで、それがお前にとって一体なんなんだ。お前はこのおれに嫉妬しただけなんだ。ただそんな下らぬ理由だけで、お前のような俗物は、つまらぬ復讐心に駆られこれ幸いと告げ口に走るんだ。お前はあれの連れにこっそり告げ口したんだろう?白状したらどうだ。ちぇ、情けないやつだな。もっとも、今となっては、おまえの口からそんなことを聞いても何にもならないがね。いや、もうそんなことはどうでもいいのだ。すべては終わったのだから。おれは、そのお陰で、ある権威のある会員にはれなかったのだ。あれの夫は、その会の重要なポストにいてね。ようやくこの時期になって、おれはその会員に推薦されることになっていたのだよ。ところが、突然この話は白紙となったんだ。まったく突然にだ。おれは色々と考えて見た。原因は一つしかなかったのだ。つまりあれの夫が横槍を入れてきたのだ。まあ、今更お前を呪っても仕方のないことだ。もとを正せば、このおれのつまらん欲望から起こったことだからな。世間様がよく言う自業自得ってやつかね?へっ、まったく笑わせやがるぜ。でもな、おれは今になってはっきりとこう悟ったのだ。この世界というものは、なんと滑稽で無意味な所だと。われわれはただ自分のわけの分からぬ欲望に唆され、無駄にこの世界を彷徨い歩くだけの影にすぎないのだとな。およそ馬鹿げたことが、さも真面目な意匠をまとい、飽きもせず繰り返されているではないか。そこにはまったく確実なものなどなく、それこそ蜃気楼にすぎないのだが、それでもその影にすがりつき、何かを成そうと思ってるんだから、人間ほど度しがたい哀れな生き物はないくらいだ。ああ、でも、一つだけおれの心になぜか今でも引っ掛かっていることがあるんだ。それは、いつだったか時期は忘れたが、今になっても彼女の言葉ははっきりと覚えている。彼女はお前とのやり取りを一部始終おれに話してくれたんだ。その言葉は、まるで自分の魂を侮辱するようなものだったことまで正直に話してくれたのだ。お前が彼女に吹き込んだその言葉がどれほど彼女を傷つけたかお前には分かるまい。そのときの彼女の目からは涙が溢れ、どんなに自分の至らなさを嘆いたか、お前は知るまい。お前を非難するわけでもなく、このおれを疑うでもなく、ただ自分を責めていたことを。おれは後になって思ったのだ。自分の下劣な行為などもとから話しにならない。しかし、彼女までが、そのことによって貶められることだけは、まったく我慢できないのだ。

 おれは、その後あの家とは疎遠になったが、彼女のことはそれなりに気にはなっていたよ。ところが、あれの夫も、なかなかの強か者で、妻の行為には世間的なこともあってか目をつむり、と言うよりも、これは一種の手の込んだ妻への復讐ではなかと思ったくらいなんだ。ところが、どういう理由でか彼女はこの一件について夫はまったく知らないと思っているようなんだ。いったいこれはどういうことなんだろうと。そこでおれは思ったのだ。そのことこそ夫の復讐がいかに巧妙だったかのいい証拠だとね。つまり自分はまったく知らないということにして妻の恐怖心を悪戯に煽り、それを陰で見てこっそり楽しんでいるってわけさ。まったく人間とは上辺は善人面して、いかに残忍な生き物になりうるかのいい証拠だよ。それで自分の良心は何のわだかまりもないのだろうか?彼女を苦しめ発狂さすことが、あの男の唯一の楽しみになったのだろうか?まあ、確かなことは、誰も彼もそのうち発狂するしかないってことさ。人を呪わば穴二つだ。と、まあ以上が、貴方のお父様とのその後の経緯です」老人は、さすがに疲れたらしく近くのソファーにまるで倒れ込むように腰を落とした。

 部屋の中は、重苦しい静寂に覆われた。まるでこれ以上得体の知れない空気に、お互いの心が晒されるのを恐れるかのように、二人ともジッとして身動きすらしなかった。老人は、窓辺に佇む慎治をチラッと見た。逆光で、その表情はよく分からなかったが、その心の中は、あらゆる思いで揺れ動いているだろうと推察された。

「いえ、私は何も貴方のお父様の行為を、どうのこうのと偉そうにあげつらったわけではないのです。そこをどうかお分かり願いたい。しかしながら、貴方の質問への答えが、このような次第になって、どうも私としましても……」

「そんな心遣いは、まったく無用ですよ」慎治は、ようやく沈黙を破りこう言った。しかし、その声は余りに弱く、心の中は錯綜して、出来ることなら今すぐこの部屋から、この老人に何も告げずにさっさと出て行きたかったくらいなのだ。

「まったく、随分と長居してしまいまして、貴方のご用事のことも考えずに大変申し訳ありませんでした。蒼依さんはもうすぐお戻りになると思いますので、このままお待ちいただいても大丈夫だと思います」彼は、時計を見て、蒼依の帰宅をそれとなく知らせるのだった。老人は部屋から出て行った。一人残った慎治は、それこそ頭の中は、何もまとめられず、切れ切れの想念が浮かんでは消え、消えては浮かぶものの、そのどれ一つにも注意を向けることができなかった。ただ、得体の知れないある怒りが、心の中に突然生まれてきて、それがまるで腫れ物のように彼を苛立たせるのだった。

『まったく、これほど滑稽なことがあるだろうか?』彼は心の中で、吐き捨てるように言うのだった。『いや、おれがここに来た、哀れな理由を言ってるわけじゃない。おれの今まで生きて来たその思いの何という青臭さか、これだけでもまったく我慢の出来ないことだ。……ところで、おれは、このままここに居続ける気だろうか?それがお前にとって大事なことだと思うなら、そうすべきだろう……』すると、彼は断固とした態度で、部屋の扉を開け、階段を降り、誰にも告げずにこの家を後にした。

 慎治は、通りを歩きながら、老人の話したさまざまなことを、もう一回心の中で思い返すのだった。彼にとって、すべてが違う風景に見えてきて、その我慢のならない感情が一段と強まってくるのだった。この時、彼ははっきりとあることに思い至ったのだ。それは、父親の忌まわしい性癖が、そのまま自分の血の中にも流れているということだった。

 不思議なことに、今までそのことはそれほど気になることもなかったのだ。つまり、この哀れで好色な男が、たまたま自分の父親だというだけで、そこに重大な意味があろうなどとは、これっぽっちも考えなかったということである。要するに、まるで自分とは関係のない対象物として、他人事のように見ていたのである。それほど父親を嫌っていたわけであるが、それでも自分の中にも父親と同じ性癖があるということは薄々感じてはいたのだ。

『まあ、いいさ。彼がおれの父親だということが紛れもない事実なら、それを受け入れるのに何のためらいがあるのだろう。親子という事実。何という恐ろしい響きだ。血は争えない、というわけなんだろう。哀れな言葉だ……』

 彼は、このように切れ切れな想念が、脈絡もなく頭を占領して、その思いは身体から離れ、自分が歩いていることさえ忘れるくらいだったのだ。すると、彼の横を一台の車が静かに通り過ぎていった。蒼依が運転するその車は、ちょうど歩いてくる彼を認めたのだが、いかにも打ちしおれた今まで見たこともない弱々しいその様子にすっかり驚いてしまい『ああ、どうしよう……』と口の中で呟くのだった。彼女はいったい彼の姿に何を思ったのだろう。彼をこんなにまでしてしまったのは自分のせいなのか。ところが、その時もっと苦しい意識が彼女を襲ったのだ。今回の件は彼のことなど無視して、ある意味、自分の善意から一方的に進められていたのだが、それがあまりにも偽善的で独りよがりなものであったかを、なぜか突然彼のその姿からはっきりと思い知らされたのである。しかし、今さらそんなことで悩んでも、もはや手遅れで避けて通れないってことくらい分かっているつもりではあったのだが。

 車は、ちょっと走ったあとに路肩に止まると、心の動揺を隠せぬくらいの眼差しで、彼のうしろ姿が街角に消えるまで見送るのだった。

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