一 邂逅
美大生の当麻慎治は、今日もまたいつもの場所に来ると、人々の流れを見守っては、似顔絵のモデルになってくれる客を待っていた。と言っても、彼は別段それで生計を立てていたわけではないのだが、午後一時頃から夕方までの三、四時間は、その場所でじっとしているのが習慣になっていた。どうやら、この青年には特にこれといった人生の目的など持ち合わせていないようなのだ。確かに彼の表情にはどこかぼんやりとした、まるで生きる焦点がぼやけたような眼差しが見え隠れしていて、たとえ無為な時間を過ごしていても、何ら不安に思うこともないらしかった。まるで意欲そのものが枯渇してしまったかのように。しかし、果たしてそんなことがあるのだろうか。若い時にはよくあることだが、彼の心の中で起こっている現実との葛藤が彼の夢を見るも無残に破壊しようとしているだけなのだ。
まったく、青年というものは実に不思議な生き物である。それはまるで足が地に着いていない、ただ夢を抱いているだけの中途半端で、ある意味何者でもない存在でありながら、その夢こそが生きる上での原動力にもなり、また自分の現実を形作っていくための精神的な核にもなり得るからだ。青年たるもの大体がそういう心理を持ち、己の道を辿って行くものなのだろう。それこそが他にはない青年の特権でもあり、結果はどうであれ、そこに顕現するのは誇り高き空想家で、かつ野心家の面影そのものであろうか。しかし、そうは言っても、現実的には夢を持ちながら彼のように何かに躓き、その人生の入口で足踏み状態のまま、どこに進めばいいのか分からなくなっている青年もいるわけである。確かに彼には悩みがあった。いや、あったどころか、それに足を取られて身動き出来ない状態に陥っているといってもいいほどである。それでも彼は彼なりに、その悩みと一人戦ってはいたのだが、その気力も次第に薄れ、今では完全にどうでもよくなり、たとえこの先自分が野垂れ死んだとしても、さほど悲しむことでもないように感じられるのだった。もっとも、なぜそこまで落ち込んでしまったのだろうという疑問に関しては、ここではちょっと述べるのを差し控えたい。と言うのも、それこそこの青年の悩みの核心に繋がることでもあり、とても一言で語れるものでもないからだ。ただ言えることは、彼は自分の人生に対して、何の意味も見いだせず、もはや進むことすらままならぬ、いわゆる二進も三進もいかない、そういった気分にすっかり呑み込まれたままでの生活を余儀なくされていたということだけである。
こういった精神状態は、なかなか自力では破れないものであるが、悲しいかな彼には友人も家族もなく、やむなく孤独な生活を続けざるをえなかったのである。もっとも、彼には画家になるという夢はあったのだが、今ではそれすら儚い夢のごとく消えて行く運命に晒されていたのである。ちなみに彼の父親は画家で、そこそこの腕の持ち主であった。彼も小さいころから父親の手ほどきを受けてきたこともあって、その技量には確かなものがあったのだ。
この日も客はなく、ビルの陰に日も沈み、冷たい風も吹いてきたので、そろそろ家路に着こうと画具を片付けようとしたとき、一人の女性が彼の前に立ち止まった。
「あの、もう、おしまいですか?」
「え?いや、構いませんよ。どうぞ、お掛け下さい」
その女性は、年の頃二十七、八といったところで、黒の瀟洒なワンピースに、キラキラとやさしく映える金のロングネックレスがその胸元を飾ってはいたが決して派手な印象はなく、却って彼女の繊細で上品な容姿とぴったり調和しているようにも見えた。物腰も控え目で丁寧なところがあり、そのちょっとした動作にも、この女性の持つ非凡な何かが形となって表れていると思わざるを得なかった。改めて椅子に座った彼女を間近で見て、慎治は、ちょっと言葉では表現できないくらい複雑な感覚ではち切れそうになってしまった。長く艶のある髪は、その美しい顔の輪郭を覆い、魅力的なその瞳が、見る者を引きつけて止まないのだが、彼の画家としての目には、もっと違うものが見えていた。その美貌はあまりにも際立っていたので、それにどうしても目を取られがちだったが、それとは別に、その美しさの陰で敢えて身を隠しているような、どこか優しさの籠もった哀しい眼差しとでも言いたくなる不思議な陰影が垣間見られたのだ。それは気づく人には気づくといった程度のもので、どうやらそれは人目を気にしながらも秘かに滲み出て来るものらしかった。そういうどこか哀愁に満ちた表情というものは、どことなく人の好奇心を刺激するものである。それに彼女のそうした表情は決して悲しみに泥むようなものではなく、そこには人の気持ちを暗くしたり顔を背けさせたりするようなものなど少しもなかったのだ。ただ、どうしようもなく人の心を惹きつけるものがあった。彼も一瞥してその表情に魅せられてしまった。画家としてよりも人間として。それがためにその美しい顔に見入ってしまったが、それが一瞬だったのか、それとも永遠の時が過ぎ去っていたのか、それは彼にもはっきりとはしなかった。彼はどうにか我に返ると何事もなかったように手慣れた手つきで描き始めた。
「失礼ですが、あなたはいつもここでお仕事されているのですか?」その女性はいかにも好奇心ありげにこう聞いた。
「いや、恥ずかしい話し、お仕事と言っていいのかどうか分かりませんけど、週に三回ぐらいは来ています。部屋に籠もってばかりいると滅入ってしまうので、息抜きのためにということもあるんです。でも、こうやって街中に出て見知らぬ人々の行き交う姿を見るだけでも、それはそれで楽しいもんですよ」彼は喋りながらも、その手はどこまでも手際よく動き回っていた。
「お嬢さんは、あまりこの通りでは見かけませんよね」
「めったには通りません。でも、この間たまたまこの通りを歩いて、あなたをお見かけしまして、ちょっと興味を持ったものですから、今日は思い切って描いてもらおうと思って立ち寄らせていただきました」
「あっ、そうですか。それは有難うございます。いや、なかなかこの前に立ち止まって絵を描いてくれと言うのは勇気のいることで、そう、一日に多くて二人、少ないときはゼロ。これじゃ仕事とは言えませんよね。情けない話ですが」と彼はまるで他人事のように言って笑った。
「それじゃ、こんなことをお頼みしていいのか分かりませんけど、ちゃんとした報酬をお支払いしますので、どうか本格的に絵を描いてはいただけないでしょうか」
慎治は一瞬手を止めて、彼女の顔をまじまじと見た。どうやら、このお嬢さんは、まじめに言っているようだった。
「絵をですか。本格的に?それはまたどういう……」
「わたしの肖像画を描いていただきたいのです」
本格的に描くなら、何も自分のような美大生ではなく、他にもっと良い画家が居るだろうに、と思い「でも、自分はまだ学生で、あなたのお眼鏡にかなうような作品が出来るかどうか分かりません」とつい馬鹿正直に余計なことを口走ってしまった。後悔したが、彼女は別に構わないと言うので内心ほっとした。
彼はこの思いがけない依頼に正直動揺したが、この綺麗な女性を自分が描くのだと思うと、危うく枯れる寸前だった花が、突然の雨で蘇ったごとく、彼の血もなぜか急に騒ぎ出し、身体中が熱くなるのと相俟って、いったいぜんたい自分のどこに、こんな燃えるような意欲が隠れていたんだと呆れるのだった。
「わたしは樫山と申します。それでは、これが住所です」と言って、彼女は紙切れを手渡した。彼はそれを受け取ると「ぼくは当麻と言います」と言って、描き終わった絵を彼女に手渡した。
「おいくらですか?」
「いえ、これは差し上げます。と言うよりか、ぼくのほんの名刺代わりに」
実際、彼女はしばらくその自分が描かれた絵に見とれてしまうくらい、その出来映えは素晴らしく、彼がどれほどの技量の持ち主かを的確に証明していた。
「それでは、今度の日曜日に、ご足労ですが、わたしの家にまで来ていただけますか。午後なら何時でも構いませんから。お待ちしています。では、今日はこれで」
彼女は軽く会釈して、その場を立ち去った。その後ろ姿を見送った慎治は、ひとつ深いため息をつき、いまの彼女とのやりとりを思い返さずにはいられなかった。




