悶々と
『は?』
『だから!やっぱり今日中にやっておこうかなって…』
『そんな顔色の人がやるべきことなんて、寝る以外にないから。』
『だって、ゼミのグループ発表だってもうすぐだし…』
『そんなものは俺がやる。寝ろ。』
『……』
『そんな目をしてもダメ。ほら、ちゃんと布団被って』
ベッドに押さえつけられるように掛布団をかけられる。」
そのままベッドサイドに座り、じっと見てきた。寝るまで監視するつもりだろうか…
体調不良のせいか心細く、少しだけ甘えたい気持ちが湧いてきた。
手をベッドからすっと出してみる。思いのほか布団の外の空気は冷たい。
少し困ったような、迷っているような顔をしていた彼は、その手を取って、両手で、包む。
『あったかい手だね。』
『久実の手が冷たすぎるんだよ。身体、大丈夫?』
『大丈夫。なんかほっとするよ。』
手を握り返してみる。
『手があったかい人は心が冷たいらしいよ。』
『ふふ、どうかな?』
『否定してほしいところだね。』
私は何も言わずに手に力を込めた。
そんなことない。心が、表に出てくるくらい温かいってことだよ、って。言いたかったけど、なんとなく言えなかった。
『……小さい手だね。』
ふいに、そんなことを神妙に言い出すものだから、私は虚を突かれてうろたえてしまった。何とか返したらいいかも分からず、思考の回らない頭で精いっぱい返す。
『そう?女友達からは割と大きな手だね、って言われるんだけど。監督にもよく、お前は手がでかくていいな!って、言われるし…』
慌てふためいてそう返してみたが、きょとんとした顔をしている。
変、だったかな?
彼は少し笑みをこぼすと、
『そうだね、久実は女の子だった。』
なんていうものだから、ますます返答に困ってしまった。
何も言えなくなってしまった私は、それでも強がるように「何当たり前のこと言ってるの?」と返して、手だけ残して布団を頭まで被った。
『今日はゆっくり休んで。身体冷やしちゃだめだよ。』
『うん』
もう帰るの?もう少しいてよ。
とは、素直に言えない。
私が倒れたせいで彼に発表資料をやってもらうことになってしまったのだから。
私がもっとしっかりしていれば、迷惑かけなかったのに。彼だって、いっぱいいっぱいでも一生懸命やっているのに、私は……
『久実、おやすみ』
布団をとんとんと軽くたたいて彼は言った。
『おやすみ。ありがとう』
手が離れた後、残った温もりを抱きしめるように眠った。
目を覚ますと、身体がひどく重かった。
昔、風邪をひいた時の夢を見たのはこのせいか。
しかもこれ、結構やばい、かな?
仕方ない、今日は定時で上がって早く帰ろうと、支度をしながら今日の仕事の算段をつけて出勤した。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよう。あ、悪いんだけど俺のコーヒーもいいかな?」
「はい」
頭をすっきりさせようと、コーヒーを淹れに向かった私に主任がついでにと言わんばかりに頼んできた。せっかくなのですでに出勤している人の分も入れる。
隣の席の遠野さんと、斜め向かいの池田さん、そして……
「どうぞ、高槻さん」
「お、サンキュ」
トン、とコーヒーを置くと、高槻さんはお礼を言って私を二度見してきた。
「えっと、コーヒーに何か問題が?」
「いや、そうじゃなくて…なんとなく顔色が悪いような気がしてな。風邪でも引いたのか?」
野生の勘かな?恐るべし。
「大丈夫です。少しだるいですけど。念のため今日は定時ですぐ帰ります。」
「おう、そうしてくれ。何かあればすぐ相談しろよ。」
「ありがとうございます。」
心配かけてどうする、私。
自分のデスクに着いて区部を回し、PC眼鏡をかけた。
よし、集中集中……
しばらくは集中力も続いたのだが、時間が経つほど頭がガンガンと痛くなってきた。
受け身に失敗してもこんなに痛くはならないだろうに!…と、訳の分からないことを考えるくらいにはやられていた。
さて、ようやく昼休憩か。
ふーっと大きく息を吐いて、財布を手に立ち上がった。
午後からはお昼を買うついでに購入したマスクを装着し、仕事に励んだ。
しかし、栄養ドリンクを投入した身体にもついに限界が来る。
田中さんが声をかけてくれているような気がする。
音が遠い。
パソコンの文字もかすむ。
あ、まずいな、と、そんな自分をどこかで冷静に見ている自分がいる。
『またそんなに根詰めて!無理するなっていつも言っているのに…』
そうだね、学習しないな…
あの人が苦笑する顔がぼんやりと浮かび、そして、消えていく。
……えの。
…い…ぶか、…えの!
「上野!」
はっと気が付くと、高槻さんが眉を寄せて心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「あ、えと…」
「大丈夫か、上野。田中から様子がおかしいと聞いたが、こんなに悪くなるまで放っておくなんて……今日はもう帰れ」
隣の田中さんが心配そうに見つめている。歳は少し上で、長い髪を緩く三つ編みにして丸眼鏡をかけた田中さんは何だか保健室の先生みたいだ。妙に落ち着き、懐かしくなった。
「はい、今日は帰ります。田中さん、高槻さん、ご心配おかけしました。」
私は途中になってしまった仕事を一旦保存してすぐに帰り支度をした。
会社前にタクシーを呼んでくれたので、すぐに岐路につけた。
ちゃんと治そう。
もう社会人なんだから。
こんなことで迷惑かけるなんて失格だ。
自宅近くのコンビニでタクシーを降り、私はゼリー飲料や即席おかゆ、スポーツ飲料などを買い込んでから、最後の体力を振り絞って家に帰った。
買ったものは冷蔵庫にそのままぶち込み、スポーツドリンクだけ手に持ってベットまでの道をスーツを脱ぎ捨てながら歩く。
辛うじて着た短パンとTシャツの安心感と、スポーツドリンクが食堂を通る冷たい感触。
それを最後に意識を手放した。
『久実はもっと自分のこと大事にしたほうがいいと思う。そうじゃないと、久実を大事に思ってくれる人に失礼だよ。』
そうだね。私もそう思う。でも、
『それでもね、私が大事にしたい人たちが笑っていてくれるなら、やっぱり、私はその人たちの笑顔や安息を優先させるよ。大切な人のためなら、考えるより先にそうやって動いちゃうから。』
『じゃあ、もう少し考えるようにして。そんなんだからおかん体質だとか言われるんだよ。』
そうかも。
でもそれでもいいかな。
それでもあなたが笑っていてくれるのなら。私に笑いかけてくれるその笑顔を守れるのなら。
たとえ、あなたにとっての私が何者でもなくとも。
目を薄く開くと、外から入る街灯のかすかな光で見慣れた天井がうっすらと見えた。もう外はすっかり暗いのだろう。
目の上に腕を乗せて、夢を反芻した。
夢……否、昔のことを。二年前の、ことを。
昔のことを一つ思い出すたびに、足が立ち止まるのを感じる。身体が重くなって、心の中の私は、俯いて立ち止まってしまう。どこに足を踏み出せばいいのかもわからない、迷子のように。
今に満足していないとか、彼のことを今も愛しているとか。
たぶんそういうことじゃない。
ただただ、私は、まだ悲しくて悔しいだけなんだ。
大切な人と、一緒にいられなかったことがどうしようもなく悔しくて、悲しくて、やりきれない。
自分の心をどれほど砕いたとしても、そばにいたいと思い続けた、そんな人のそばにさえいられなかった自分が惨めでやりきれない。
何より、そういう、自分のことしか考えてない自分がいることにうんざりする。結局は、私も、自分のことしか考えてない。おかん体質なんかじゃない。ただ自分が可愛いだけ。
「ごはん、食べよ…」
だるくてだるくて仕方ない身体を無理やり起こして、冷蔵庫の中を覗き込んだ。
雑に入れたものの中から即席おかゆを取り出し、お湯でふやかして食べた。
正直あまり食欲はなかったが、こういう時にはちゃんと食べておかないと、いつまでも治らないこともよくわかっていた。
顔を洗い、歯を磨いてすっきりしてもう一度眠りについた。
どんな夢を見ていたのかも分からない。
ただひたすら、眠って、眠って…。
ずっと眠っていたかった。
でも、それでもやはり、目は覚める。
目が覚めると、寝すぎたせいか、身体が逆に重いような気がしたが、悪寒のような気持ち悪さはなくなっていた。
これなら、問題なく会社にも行けるだろう。
時計を見ると、午前五時。
カーテンを開けると薄く外の明かりが差し込んでくる。
人は、一人では生きていけないと誰かが言ったけど、信じて裏切られるくらいなら、誰も信じたくないというのはわがままだろうか。
もう、信じて損したって思いたくないし、傷つきたくないというのは、保守的すぎるだろうか?
その時、はっと、思い出した。
『それはちがうんじゃねぇの?』
部活の同期が串に刺さった鳥ハツを豪快に頬張ってビールで流し込んだ。
『そんなくだらん男のためにお前がぐだぐだ悩む必要は、ない!』
『そうはいったってね…一緒に居た時間も長かったわけだし、簡単には…』
『一緒にいた時間なんて俺らと変わんねーだろ。』
『まー、確かにね。むしろみんなとの時間の方が長いくらいだし。』
『俺はお前の恋愛に興味はねーけどさ、ただ幸せに生きろよ。自分のために。』
……そうだ。
そう言ってくれた人がいる。
私の幸せを願う人がいる。
悲しい出来事とか思い出とか、そんなものに引きずられて、大切な言葉を忘れてしまう。
いろんな人が、今まで、私に向けてくれた大切な思いや言葉。
私はそちらをもっと大切にしなくちゃ。私自身がどうしたいのか、ちゃんと考えなきゃ。
もう駆けつけてくれる都合のいいあの人は、いないんだから。
私も、都合のいいだけの人には、ならない。