選択
『選択の毎日?』
『そう、人生選択の毎日!ってね。何を取り、何を捨てるのかって話でしょ?二兎追うものは一兎も得ずっていうじゃん。でもさ、そんなのやってみなきゃ分からないと思わない?』
『バカだな、久実は。先人の教えは大体正しいよ。』
『じゃあ、あきらめられるの?大事なものを二つ、目の前に出されたときに、どちらかを切り捨てるって選択を、本当にできるの?』
『……その非情さを持ち合わせなきゃならない時が来るってことなんじゃねぇの?』
非情さ。
そんなもの、あなたが持っていたとは思わなかった。
私にはいまだに分からないよ。
その非情さが本当に必要なのか、それ以前に、それが非情なことなのか。
あきらめることと向き合うことは一体どう違うのかさえ、今の私にはまだ分からないよ。
君が何を考えていたのか、私は今どうしたいのか。
いつからこんなに、何も選択できないくらい、一つの恋を引きずる人間になったのか。
どうやったらうまく忘れられるのか。
分からないことばかりだ。
月曜日の夜。
「ではお先に失礼します。」
「僕もお先に。」
定時を過ぎ、何人か帰る者が現れ始めた。
とはいっても、まだ半分以上がデスクに向かっている。
私もその大半の一人である。
週のはじめからミスを連発し、今日はかなりの残業になるだろう……
「上野!」
「はい!」
「この書類、まだ誤字が残ってるぞ!細かいところまでしっかり確認しろ!」
「すみません、すぐに修正します。」
後ろから書類をバサッと渡された。
赤ペンと付箋がよく見なくても目に入ってくる。
高槻さん、相変わらず容赦ないチェックだ……
目をそらしていてもしょうがないと、書類を手に取ると、ポツリと小さなチョコレートの包みが転がってきた。
とうに自分のデスクに帰り、キーボードをたたく高槻さんに小さく頭を下げて、私をそれを口に含んだ。
……よし。
カタカタカタカタ……
「上野。」
声をかけられてハッと顔を上げると、周りの席には誰もおらず、フロアの半分くらいの電気が消えていた。
「はっ」
「上野、お疲れ。もう誰も残ってないよ?」
「いつの間に……」
「さっきの直し、見たよ。あれで十分だ、やればできるじゃないか。今やってるそれは急ぎなの?」
それ、のところで画面を指して言った。
「あ、あー…まぁ締め切りは明後日なんですけど、あとちょっとでキリのいいところまでいきそうなので。」
「そうか。」
高槻さんはカップを私の机にトン、と置くと、自分のデスクに戻ってまたカタカタとやり始めた。
まだ仕事が残ってる、のか?
首をひねり、ありがたくカップを手に取った。一口飲むと、ほんのりとした甘み。
カフェオレだ……。
この間飲み屋で、疲れたときの癒しは何かと聞かれたのを思い出した。
チョコレートとブラックコーヒー、それか甘いカフェオレ。甘いものが好きなんだと、自分で言ったのを思い出した。
無意識にこぼれる笑みをこらえながら、私も最後の追い込みをかけた。
「よっしゃ、終わったー!!」
身体をぐーっと伸ばすと、ぶはっという笑い声。
「はははははははっ!はー、いや、すまん。部活終わりみたいで懐かしいよ。」
恥ずかしい。
「す、すみません…」
……ん?
「高槻さんもまだいらしたんですね。遅くまでお疲れ様です!」
私がそういうと、なぜか高槻さんはあきれたような顔でため息をついた。
「ま、いっか。帰るぞ。」
というとパソコンの電源を落とした。
高槻さんのデスクは綺麗に片付けられており、明日やるべきことの整理がされていた。
ひょっとして、待っていてくれた……?
「何ぼーっとしてるんだ、早く帰るぞ。」
「あ、はい!ありがとうございます。」
「ぶはっ、何なんだ、その礼は。」
私もパソコンの電源を落として、ははははははっと笑う高槻さんの背を追った。
帰り道、高槻さんと駅までの道を歩いた。
「あの、ありがとうございました!その……」
「いいから!みなまで言うな、恥ずかしくなる」
残業する私を待っていて、しかも送ってくれたことにお礼を言おうとすると、先に制された。逆に言う方がここは失礼、か!
「本当に、ありがとうございます。ここまでで結構ですので、帰り道お気をつけて…」
「それはこっちのセリフ……あ、そうだ。上野、ちょっとだけまだ時間いいか?」
「え?まぁ、はい、少しなら…」
「ちょっと寄り道しないか?」
「寄り道?」
ニッと笑うと、高槻さんは私の手首をとって少し速足で歩きだした。
着いた先は…
「コンビニ?」
「すまんなこんなところで。」
驚いている私が、落胆していると思ったのだろうか、苦笑を残して高槻さんはコンビニに入り、数分後に包みを二つ持って出てきた。
「これこれ。今日から販売開始だったんだよなー。はい、上野の分。」
「……なんですか?これ。」
「何って、肉まんデラックスだよ。」
「で、でらっくす?」
デラックスがゲシュタルト崩壊しそうだ。何がデラックスなんだ?
そんな私の心を読んだかのように高槻さんは付け足す。
「肉が。超絶いいもん食って育った豚らしいぞ?」
少年のような顔で、でもあまりに真剣な顔で言う高槻さんと、その手に持っている包みを見ていると…
「ふっ、あはははははは!」
「う、上野?」
「はー、なんか、肩の力が抜けました。ありがとうございます。ごっつあんです!」
高槻さんの手から素直に肉まんを、もとい、肉まんデラックスをいただいて私は頬張った。
「おいしい!」
「だろ?」
二人で肉まんを頬張り、それから駅に向かった。何だか、学生時代に戻ったような気持ちだ。大人だからって飲みニケーションしなきゃいけないわけじゃないし、なんでもかんでも肩ひじはる必要はないのかな。
「なぁ、上野。仕事のミスはきついか?」
ふと、されど急に高槻さんはぶっこんできた。
本当はこれを聞くために、私をコンビニに誘ったのだろうか……?
きついか、か。
「正直、きついとか言えるほどまだ何もできていないと思っています。もし現段階できついことがあるとすれば、何もできない自分が情けなくてきついですね。」
高槻さんは黙ったまま、ただゆっくりとした歩調で私の話を聞いている。無視しているわけじゃない、歩調を合わせ、言葉に耳を傾けてくれているんだ。
すっと息を吸って続けた。
「でも、それってまだ努力で何とかできる気がするんです。まだまだ、やれることがたくさんある。本当に、どうにもならないもいっぱいあるから……」
そう、どれだけ頑張っても、どうにもならないことがある。
どうにもならないことでも、それ以外の部分への働きかけでその『どうにもならないこと』がよくも悪くもなる。それも、よくわかっているつもりだけど……人の心だけは、どうしたって、相手のあることは自分一人の努力だけでどうにかなるものではないのだ。きっと、そうだ。
「どうにもならないこと、か。上野の考える『どうにもならないこと』は、本当にどうにもならないことなのか?」
「え?」
「いや、深い意味はないんだ。ただ、上野って負けず嫌いだから。努力して努力して、それで仕方ないって思ったとしても、やっぱりあきらめきれないんじゃないかってな。もちろん、努力が報われないことがあるってことは、努力してるからわかることだ。きっと上野もそういう目に遭ったことがあるんだろう。」
「……」
「ただ、今、上野が考えていた『どうにもならないこと』は、本当にどうにもならないと割り切れるものだったのか?」
「それは……」
どうなんだろうか。人の心は変わらなくても、自分を変えることはできた。そしてそれを私は、していると思っていた。している、『つもり』だったのだろうか……。
「俺にはそうは見えないけどな。」
苦笑した高槻さんの顔を見て、自分が一体どんな表情をしているのか何となくわかった。そして私が、どんな『どうにもならないこと』を思い浮かべていたのかも、ひょっとしたら顔に出ていたのかもしれない。
駅に着き、それでは、と一礼をして改札をくぐろうとしたとき、
「上野」
と呼び止められ、振り返った。
「おやすみ。」
少し驚いたけど、
「おやすみなさい。」
と返した。自然と浮かんだ笑みとともに。
改札を抜けて、一人今日のことを思い返した。
高槻さんの笑顔や言葉が、胸にすとんと落ちてなじむ。温かい。
……いやいや、騙されるな、私。
私は部下で、高槻さんは上司。仕事として、必要なコミュニケーションだからだ。
私は、二兎追って二兎とも逃すような人間だろう。
ぐっ、と沸き上がりそうになる気持ちを押さえつけ、私はホームに入り込む電車をぼーっと眺めた。頼ってくれていたゼミの仲間とも仲違し、あの人も失ってしまったあの頃を思い出しながら。
どちらかを選べと言われていたら、私はどうしただろうか。
どちらも選んでいただろうか、それとも、どちらも選べなかったのだろうか。
……違うか。
その二つは同じ、何も選んでないのと同じことだ。きっと。
プシューという音と主に開いたドアの奥には、人は乗っていなかった。