スーツ
【スーツ】
「上野、この書類コピーお願い。二十部で。」
「分かりました。」
黒いスーツに身を包み、私は書類を手に立ち上がった。
社会人一年目の春。
大手机上のマーケティング部に配属された私は結構忙しく働いている。
大学時代は北海道で過ごしたが、今は慣れない東京暮らし。こんなにも寒暖差があるとは、就活していた時には一生懸命すぎて気づかなかった。
コピーを取りながらアイスコーヒーを二つ用意し、デスクに戻った。
「高槻さん、どうぞ。あとコーヒーも。」
「お、サンキュ。」
書類とコーヒーを手渡し、私は自分の席で再びパソコンに向かった。
数字とグラフが並んでいる。
大学時代にも似たようなことをしていたため、初めての仕事にワクワクよりもミスがないかびくびくという感覚だ。
「上野、仕事の進みはどうだ?今日中に終えれそうか?」
高槻さんがデスクから声をかけてくれた。新人の私の教育係である高槻さんは隣のデスクだ。
私は時計に目をやった。
現在14:27。
今の状況から考えて……
「あと三時間ほどあれば。」
「よし。分からないことがあれば遠慮なく聞けよ。それから、今日終わったら飲みに行こう!」
年の割に明るく元気で、屈託のない笑みを浮かべる先輩社員と飲めると思うと、少なからず浮足立った。
「是非。」
笑顔で答えると、私は袖を少しまくってパソコンに向かった。
結局、会社を出たのは19:00近くになっていた。区切りのよいところで仕事を終わらせたのだが、週明けからすぐに仕事に取り掛かれるように高槻さんにいろいろと教わっていたのだ。仕事に関しては容赦のない人だから、結構みっちりと厳しめに。でも、新人にしっかり時間をとって厳しく教えてくれる高槻さんをすごい先輩だと思う。厳しい指導も、元柔道部の私にとってはちょうどいいくらいだ。
「かんぱーい!」
「お疲れ様です。」
「ん、ぷはーっ。いいもんだよな、仕事終わりのビール!身体にしみ込むぜ」
ニカッと歯を見せて笑う高槻さんは一口目でジョッキの半分まで飲んでいる。さっきまで指導していた姿とは別人のようだ。
居酒屋は同じようにスーツを着てビールを飲む会社員らしき人の姿が多かった。しかし騒がしいというよりは心地よい雑音と元気な店員さんの声が響くいい雰囲気だ。
「上野とこうして飲むのは部署の新人歓迎会以来か?もう三ヵ月経つが、仕事の方は慣れてきたか?」
「そうですね……まだまだ分からないこともできないことも山のようにありますが、やっていきます。」
「やっていけそうです、とかじゃないあたり上野は本当に気が強いよな。」
ああ、しまった。またやってしまった。
「つい。学生時代からの癖みたいなものでして……やれそうかとかじゃなくてやるしかない精神っていうか。」
頭を掻きながらごまかすように笑うと、指を軽く私の方に向けてきた。
「癖といえばそれも癖だよな。頭掻きながら照れたように笑うところ。休憩時間とかにもたまにやってるのをみかけるよ。」
「あ、ははは、よくみていらっしゃいますね。」
ますます照れくさいのですが。
「まぁかわいい後輩のことだからな。」
その言葉を……さらっと言われたその言葉は心からの言葉で、胸が少し高鳴った。下心とかじゃなく、仕事の後輩として大事に思ってくれていることが、素直に嬉しかった。
「ま、気が強いのも結構だが、あんま無理して一人で抱え込みすぎなんなよ。」
「はい、ありがとうございます。」
気が強い、か。確かに、そうなのかもしれない。
何とかなるじゃなくて何とかするがいつの間にか口癖で、そのせいで周囲の人を心配させたり、巻き込んでしまったり…悪いことばかりじゃないけど、いいことばかりでもなかったような気がする。
『はぁ?一人怪我した?』
『そうなのよ。今日、練習中に腰を痛めちゃってね……思ったよりひどいみたいだから、来週の試合は厳しそうなの。』
『じゃあ欠場?』
『まさか。まだ私とあと一人残ってるし、絶対予選通過してみせるよ。』
『でもそれって、勝ち上がるためには二人とも勝たないと。引き分けじゃ、進めないんだろ?』
そう。柔道の団体戦、女子の場合は三人制だ。一人いない時点ですでに一本負けした人が一人いる状態、つまりマイナスからの出発となる。勝つためには二人とも勝たなければならない。
『大丈夫大丈夫!何とかなる、何とかするって!』
Vサインを作る私を見て、心配そうにため息をついて……でも、あきらめたように笑いながら、私の頭に手を置いてくれた彼の手は暖かかった。
「上野、次何飲む?」
「あ、えと、ビールで、お願いします。」
「了解。すみません!注文を……」
危ない危ない。また過去にトリップしてた。何で、忘れようとするたびに思い出してしまうのかこのバカ。
今は人気ナンバーワンの先輩、高槻悠馬と二人で飲んでいるんだ。イケメンで、仕事ができて、後輩想い。体育会系でさわやかな笑みとは裏腹に仕事では厳しいクールな面も持ち合わせている。そのギャップが会社の女の子を虜にしている。
「なぁ、そういえばさぁ……」
「はい。」
「俺未だにお前のことちゃんと知らないんだけど……質問してもいい?」
「はい、全然。どうぞ。」
「じゃあ、とりあえず、性別は女だよな?」
「……はい?」
セクハラか?
「……冗談だからその怖い目で俺を見るのはやめてクダサイ。」
思わず高槻さんを見る目に殺気を込めてしまったようだ。
ニコリと笑い、「これでも女ですよ」と言って残っていたビールを喉の奥に押し込んだ。
と、同時に、次の飲み物。
私の前には同じくジョッキが、先輩の前には日本酒グラスが。
「高槻さん、日本酒ですか?」
「ん?おお。何だなんだ、ガン見しやがって。ひょっとして日本酒好きなのか?」
「へ?え、いや……べ、別に?」
「隠さなくてもいいだろ?ははは、わかりやす!そっか、上野は日本酒が好きなのか」
なぜか嬉しそうな顔をして「お前のことを一つ知ったぞ?」と得意げな顔をしている。
その笑顔につられて、私も思わず笑ってしまった。
やばい、お酒のせいかな。すごく楽しい。
「上野はこうやって飲んだりするのは好きか?今日は無理に誘っちまったようで…」
「そんな!無理になんてこと。こうして誰かと飲むのは好きですよ。一人では、めったに飲みませんけど。」
「へー、そうなのか。じゃあ大人数の飲み会とかは?」
「ワイワイしてて割りと好きですよ。大学の時も結構やってましたし。」
「大学かー、卒業したばっかだもんな。俺としてはもうすでに懐かしいけど。合コンとかしてたの?」
「いえ合コンは全く。そういうキャラじゃないですし、周りで合コンやってる人もいませんでしたし。」
「そうなのか!俺の周りは結構やってたな……ま、俺は人数合わせに数回行ったくらいだが。」
人数合わせ、か?先輩のことだから大学時代からモテモテだったんだろうな。
「大学といえば、上野はどこの大学出身だっけ?」
「北海道の大学です。」
「北の大地じゃん。そんな遠くからき来てたんだな。やっぱり寒いの?」
「ははは、よく聞かれます。でも、部屋は暖かいし、外も雪が降って積もっているときの方が風と雨がひどい時よりもあったかいんじゃないかと思うくらいですよ。」
「そうなのかー。大学時代、彼氏とかいたの?」
ドキ……
結構直球でつっこんでくるな。
「……いえ、いませんでしたよ。高槻さんこそ、モテモテだったんじゃないですか?」
「俺?俺は別に……まぁ何人かいたけど、長続きはしなかった、な。」
少しだけ目線を下げていう高槻さんは物悲し気だった。
やめよう、こんな話。きっとお互いにとってよいものではないはずだ。
「そんなことより、もうグラス空きそうですけど、次も日本酒を?」
ていうか飲むのはやっ!
「おう!上野もどうだ?一緒に。」
くいっとお猪口で飲む動作をやってみせながら、いつもの笑顔で高槻さんは言った。
「いただいちゃいます。」
その後一時間ほど、私は質問攻めに遭った。
好きな食べ物は?得意料理は?出身地は?家族構成は?それから……
「そういや部活は何してたわけ?」
「それは言えません。」
「なんで!」
「なんででもです。あ、何もしてませんでしたよ、何も。」
「あ、ってなんだよ!言え!上司命令だ。」
「えー、パワハラですよ、先輩。」
言うまで解放してくれなさそうな勢いなので、先輩のお猪口に日本酒を注ぎながら小さな声で打ち明けた。
「へー、柔道。かっこいいじゃん。何で隠すの?」
「だって、女の子らしくないとか、怖いとか、いろいろ言われるので……」
「俺はいいと思うけどな。芯が強い感じがするから。」
……別に後悔してるわけじゃないけど、でもそのせいか強気で、負けず嫌いな性格になって。女の子らしさとは全然遠いところにいる自分が、後ろめたいというかコンプレックスで。
私は無言で日本酒を飲んだ。
「すっかり遅くなっちまったな……駅まで送るよ。」
「大丈夫ですよ、ここで。」
「ダメだろ、こんな遅くに女の子一人で。」
たとえ上野が俺より強くても、と付け足して駅の方に歩を進めたその背を見上げてぼんやりと記憶がよみがえる。
『大丈夫だって!』
『ダメだろ、久実だって女の子なんだから!』
『そうだけど、私、柔道三段だよ?』
『それでも女の子でしょ。大人数で襲われでもしたらどうするわけ?』
ほら、行くよ。と。
手を引かれながら歩いた札幌には十一月だというのに雪が降っていて、ネオンが雪をも輝かせて幻想的に街を浮かび上がらせていた。それは本当に、幻みたいに。
『なぁ、久実。俺は……』
前を歩くあの人は、なんて言ったんだっけ?
小声すぎて聞き取れなかったその言葉を、私は聞き返しただろうか?
「着いたぞ。駅からは遠いのか?」
先輩の声ではっと顔を上げると駅が目の前でぼんやりとした明かりを放っていた。
「いえ、最寄り駅からはすぐなので、大丈夫です。」
「じゃあ、ここで大丈夫そうかな?」
家まで送る、と言わないあたりが逆に気遣いなのだろう。送り狼だという根も葉もないうわさが出回って困り果てた友達を見たことがある。どちらもいい気はしなかったはずだ。
「大丈夫です。今日はありがとうございました。とても楽しかったです!」
「こちらこそありがとう。その言葉がお世辞じゃなかったらまた誘ってもいいかな?
「もちろんです。今度までに日本酒のおいしいお店、リサーチしておきます。」
「じゃあ上野が一人で行って飲みつくしちまう前にまた誘わないとな。」
「もうっ!」
軽口を叩ける上司っていいなとふと思った。最初は“社会人”ということにひどくびびっていたが、今では余計な方の力も少しは抜けるようになってきたのかもしれない。
「じゃあ、また月曜日に会社でな。」
「はい、それでは失礼します。」
ぺこりと一礼して、私は改札を抜けた。
家に帰り、明かりをつけてベットに倒れこむと急に眠気が襲ってきた。
いやいやダメだろ、化粧も落としてないのに……スーツだって、癖になっちゃうし……。
そう、頭の片隅で思いながら意識は徐々に落ちていった。
『スーツ、着替えたら?ジャージ貸すけど……』
少し大きな場でのゼミ発表会の帰り、私は彼の家で反省会と称しつつ軽く飲んでいたのだが、気が付いたら二人とも眠っていて、再び目が覚めたときはもう夜中の三時だった。
『え、あ、うん……じゃあ。』
脱衣所でスーツから彼が貸してくれたジャージに着替えた。
私にはサイズが大きすぎるそれを、手でたくし上げながら歩いた。
暗い部屋を、月明かりだけがぼんやりと照らしている。
彼はベットの上に腰かけて私を少し見上げた。薄暗い部屋が妙な緊張感を生んでいる。
――いっしょに寝る?
大して深い意味はなかったのだろうが、私はどきっとしてしまった。
動揺を悟られぬように、平然とした顔をして潜り込む。
なぜ、なぜ一緒に寝ようなどと思ったのだろうか。
隣で目をつぶる彼を見ながら、不思議と落ち着きを取り戻している自分に気づいた。
どきどきするけど、伝わる体温がむしろ落ち着く。こんなにも近くにいたことはなかった。
『もう寝た?』
『ううん、まだだよ。眠れないの?』
眠れないのだという彼の手首をつかみ、きゅっと握った。昔、私が眠れなかったときに母親にしてもらったことがある。妙に安心して眠りにつけたのだ。
『眠れそう?』
『どうかな。』
二人で仰向けになり、外の明かりが薄く入る天井を見つめながら、どうでもいいことをしゃべっていた。もう内容さえも思い出せないくらいどうでもいいことを。
そうしているうちに眠くなって、ふと朝目が覚めた時、まだ眠っている彼を見て安心感と愛しさがこみあげてきた。
たとえ、彼と付き合うことができなくても。そんな結びつきがなくても。
この時間が、続いてくれれば……
つー……
涙が流れ落ち、目が覚めた。
どんな夢を見ていたのか、はっきりとは思い出せなかったけど、なんだかすごく悲しい夢を見ていた気がする。
時計を見ると、午前二時過ぎ。
スーツを脱ぎ捨て、化粧を落とし、私は一人布団に潜り込んだ。