エピローグ
後日談です。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
出発の日だった。荷物は何度も確認した。特に財布の中は念入りにした。美しい光沢を放つゆうちょカードは十回ほどみた。
鞄の中には着替え、本、そして大部分を占める画材。後の必要なものはすでに向こうに送ってある。家具は向こうでゆっくり選ぶ予定だ。
谷川土産店の前には早朝だというのに人が集まっていた。両親は勿論、岸にママ、布施先生、そして月海。
「ついにカズが上京かあ、予備校だけど」岸が呟いた。
「それをいうなし」と和広は言った。
結局、右手は完全には治らなかった。腕は肩より上に上がらなくなり、少し痺れも残っていた。あの日から和広は必死に左手で絵を描く練習をした。
右腕が壊れても画家になる夢をあきらめないことを両親は承諾し、都内の予備校に通うことを父はあっさり許可した。良いのかと聞いたら。
「そんな迷いのない顔で息子に言われたら、何であろうと断れねえよ」
と父は笑った。
「まあ、もうすぐしたら俺たちも行くからな」
と布施先生は言った。
この半年、彼はずっと月海の虐待に関しての裁判を義父に対して起こしていた。月海の珍しい症例は世間の目を浴びることは必死であり、義父は親権をゆずり、多額の慰謝料を払う代わりに内密にして欲しいと交渉してきたそうだ。月海も別に義父を監獄に入れたいわけではなかったし、それを承諾した。
だが主治医である熊田の診療所は都内にあり、この町から通うには遠い。なのでこの春、布施親子は通院しやすい都内に引っ越すことになった。ちょうど和広の通う予備校と近い。
「和広くん。忘れ物はない?保険証とか、予備校の書類とか」と月海は言った。といっても今は月海じゃない。美空だろう。
「当たり前だよ」と和広は苦笑した。
最近やっと、仕草や、雰囲気、口調から誰が表面人格として表に出てきているか分かるようになった。今はピンとした背筋と、後ろに置かれた手。美空の仕草だった。
半年という時間は、不器用な二人でも理解し合うには十分だった。和広は彼女たちと様々な交流をしてきた。完全とは言わないが夕子とも和解しかけていた。多重人格というものは思い込みが強い。どんな溝があっても時間をかければ埋めることが出来た。
「どうかしら。和広くんはどこか重要なところで抜けているんだから」
美空を初め、人格たちはよく笑うようになり、安心した顔をすることが増えた。それは父親が側にいて不器用ながらも愛しているせいかもしれないし、和広という友人ができたせいかもしれない。
「これ、みんなから。受け取って」と美空は一枚の封筒を渡してきた。
和広は受け取り、封筒を開く。そのことを美空は咎めなかった。きっとすぐに見て欲しい内容だった。
手紙だった。様々な筆跡で書かれ、寄せ書きのようでもあった。
あなたの夢が現実を打ち破り、大きな果実を結実することを祈っています。美空
かずひろさんなら、だいじょうぶ。きっとすごい絵かきさんになれます。だから、がんばってください。岬
凡人なりにせいぜいあがけ 八雲
応援しているよ。和広くんの人生に幸あれ 出海
手形(注:凪)・・・・
各人格からの激励の言葉だった。全部を読むのはやめておいた、涙が出そうだった。
彼女に向き直る。美空に声をかけようとして、違和感を感じた。きっと人格がスイッチしたのだろう。
「あなたと会わなかったら私はもう死んでいました」
月海だった。珍しいなと思った。月海は複数の人間がいるところで表にでることは少ないのだ。
「俺じゃなくても、会ったら誰でもつぐみんを救ったよ」
「つぐみんはやめてください」月海は怒ったので和広は笑った。ニックネームでからかうと必ず怒るのだ。見ていて飽きなかった。
「和広くんだったからこそです。あなたは私みたいに自己否定の面が強かった。だからこそ、自分を愛することと、他者を大切にすることの難しさと愛しさを誰よりも知っていた。
そして何よりも不器用だった。だから不器用な私たちも怖がりながらだけど、触れることができた」
二人は歪だった。人に関わることを恐れ、反面それを何よりも渇望していた。だからこそ、触れあうことが出来たのだろう。恋でも、友人ですら違う、原初の人間関係なのかなと和広は思った。
「買い被りすぎだよ。俺こそ、君たちがいたから、夢を研ぎ澄ませることが出来た」
苦難こそ人を強くすると言えばおかしいが、意志を確認させる。腕は壊れてしまったが、それでも超えられない壁に挑み摩耗するまで、この火は消えないだろう。
「・・・ごめんなさい」
月海は頭を下げた。和広はそれを制した。
「・・・きっとさ。人と関わることは傷つくことでもあるんだ。俺はそれがたまたま右腕だっただけで、他の人たちも、自尊心とか、価値観とか、そういったものを無意識に傷つけて新しいものに変えていくんだ」
そうして学んでいくのだ。人との距離、そして自分というものを。
「だから、月海が気に病むことは無いんだ」
人と人がぶつかり合うのは当たり前のことなのだから。
そろそろ時間だ。新しく前をみることを強要される日常が始まる。それは人間らしい日々であり、夢には必要なプロセスだ。
「いってらっしゃい」
「頑張ってこいよ。谷川」
「なんかおいしいものでも送ってよね」
「有名になるまで帰ってくんなよ。カズ」
各々、個性に満ちた言葉で和広を送る。優しい重圧と、溢れんばかりの親愛を添えて。
「いってらっしゃい」
月海が、握手を求め、和広はそれに答えた。彼女の手首には自分を否定する傷がまだ残っている。だがそれでも彼女はもう生を手放さないだろう。
だから、お互いに少しだけ強くなろうと思った。
朝顔はすでに時期を終えた。だが季節は巡る。生と死の狭間にあるこの町でまた花を咲かせる。朝々丘はまた絶望を飲み込み、生を謳い、ただそこにあり続けるだろう。まるで夜明けのように。或いは朝日のように。
そんな淡い場所にしばしの別れを。願わくばこの場所の絶望が、次の日に希望となりますよう。
「行ってきます!」
優しい潮騒の中、和広は歩き出した。
了
『潮騒の町と朝顔の少女』
読了、まことにありがとうございました。
感想を頂けると幸いです。
初めての長編小説で、至らない点も多々あったと思います。
ですが私には友人があまりおらず、感想を頂くこともできないので、こちらで感想や、批評をいただけるととても嬉しいです。切実です。
多重人格という精神病をしらべ、精神の不思議に驚き、その苦労をみながら様々なことを思いました。が、私もそれを小説の材料にするある意味酷い人間であることも強く感じました。
しかし、使命感でもなく、憐憫からでもなくこの題材を純粋に面白いと感じたからこの小説を書きました。
これを読んだ人が義憤や悲哀を含め純粋に面白いと感じてくれたら、それに勝る喜びはありません。
読んで頂き本当にありがとうございました。
執筆にあたり以下の書籍を参考にさせて頂きました。
この場をお借りし感謝申し上げます。
17人のわたし とある多重人格女性の記録
解離性障害 多重人格の理解と治療
自殺したらあかん! 東尋坊の“ちょっと待ておじさん”




