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月海の章

最終話ですがまだおわりません

 朝がきた。白い病室が柔らかい光で包まれる。早朝の光は冷ややかだ、微かに青を帯びた色彩が昼も夜もない世界へと、世界を染め上げる。

 和広は身を起こした。なるべく右手を使わないようにしたが、それでも痛んだ。微かに痺れもある。これから一生この右手の違和感と付き合っていかなくてはならないのかと思うと気が重い。

 刹那の死痛と、一生の鈍痛。どちらがつらいかと考える。前者は潔いが、後者の計算したくない程長い時間の方が、先を見据えたときうんざりした。

 太陽はまだ光を薄くしか放っていない。まるで空に薄膜が貼ってあるようだ。時計を見ると、いつも朝ヶ丘に向かうときよりも早い時間だった。この時間に起床することができて、少し安心する。この病院は朝が丘から少し離れたところに位置している。だから、早く起き、早めに外に出なければならない。

 左手を使い起きあがる。日常においても、片手が使えないのは不憫なものだ。無意識に右手を使おうとすれば、その度に激痛が走る。無意識の存在をこれほど呪ったことはなかった。

 母親が持ってきた荷物は最低限のものばかりだったので、学校のジャージしかない。だが病院の寝間着でいるよりはましだと思った。考えてみたら、彼女と初めて出会ったときもジャージだった。品がないなあと自分で笑った。

 片手のみで苦戦しながら着替え、病室を出ようとする。そのとき、昨日壁に投げつけたままのスケッチブックが入った紙袋があった。和広は、今はもう人生に関係のないそれを丁寧に拾い上げた。

 振り向くと、寝台の脇の机に、岸が持ってきた画材道具の包みがありそれを開ける。中には丁寧に並べられた己の分身だった一式。かつてのように握ることの出来ない身体の延長線。その中からただ2Bの鉛筆を取り出しスケッチブックの入っている袋に入れた。

 自分で馬鹿らしくなってくる。どこかに行くならばスケッチぐらいしようとする癖が抜けなかった。もうそんなことをする意味は無く、意思もないはずだ。

 病院を抜けるのは意外と簡単だった。もっと厳重なセキュリティが施されているものだと思っていたが、受付も見たところ無人で、あっさりと通り抜けることが出来た。楽で良かったが、この病院の管理体制に少々不安になる。意見箱があったら赤鉛筆で書いて入れたいくらいだった。

 朝独特の、浮き足だった澄んだ空気が体を包む。病院から朝ヶ丘までは大まかに考え三十分。駐輪場にある他人の自転車を拝借する度胸はないので、当然歩かなくてはならない。幸い足に異常は無かったが、疲れそうだなと思った。

 道は空いていた。この町でも比較的大きな道路で、歩道と車道が段差で区切られていた。だが歩く人間も、走る車も少なかった。

 朝は静かだ。涼しく、孤独である。早起きは苦手だが、世界中で生きているのは自分だけと錯覚するような静けさが愛しかった。

 街路樹を挟んで、遠くに海が見える。朝ヶ丘ではなく、真っ白な砂浜が広がる海水浴場だ。病院は高台にあるため、ガードレールから先の斜面に生えた木に視界を遮られている海岸が途切れがちに見えた。多くの観光客が寝静まっているため、人は少なそうだった。

 歩いていると不思議と寝ているときよりも多くのことを考えることが出来た。歩く律動が思考と似ているからだろうか。様々な考えが枝のように広がり枯れていった。

 そしてその幹は必然的に崖にやってくる少女のことだった。

 これまで会ってきた人格を思い出す。短気で自己中心的な八雲、父親のような出海、深い傷を持つ岬、赤ん坊の凪、殺意と怒りに満ちた夕子、そして強がりだがその実弱い美空。

 それぞれが違う感情と記憶を核とし、別々のアイデンティティを獲得している。確かにこれらが一つの身体にあり、生きているのは異常なことだ。神秘であり、恐怖である。

 だが、それでも彼女たちは一人の人間だと和広は思った。人の心は一枚岩ではない。怒りながらでも慈悲を、悲しみながらでも喜びを、絶望しながらでも希望を心に宿すことが出来る。

 そもそも人間同士の認識など、その人の数%をみて判断しているに過ぎない。もし和広の中に違う人格が居座ったとして、誰が和広ではないその人を認識するのだろう。分かりやすい記号がなければ、違和感程度は起こるものの他人だとは考えない。

 気づいてやらないと、相手を思うこともできない。

 何も変わらない。同じ人間なのだ。むしろ月海たちは自分より余程人間らしいと思った。様々な感情が、記憶が、生々しく残って、分かってほしいと叫んでいる。

 だからこそ、誰かが彼女たちの叫びを見つけないといけないのだ。

 自宅の前に立つ。幸運なことに警官も両親もいなかった。そういえばママはあの場所から和広を運んでから警察に連絡したのだ。この路地裏から繋がる崖を、警官も想定していないのだろう。

 家の脇にある朝顔の植木鉢をみる。この間みたとき閉じていた最後の一つが咲いていた。水色の、今にも空気の中に溶けていきそうな淡い色彩の花びらだった。しかしその色は己が存在を示すように、弱々しくも凛々しく咲いていた。和広は心に芯が通ったような気持ちになった。

 人の関係は変わっていく。現状を維持しようとしても時間と共に摩擦が重なり、結局は変化せざるをえない。だからこそ、その変化を良いものにしなくてはいけない。

 森を抜け、朝が丘に出る。少女はまだ来ていなかった。考えてみれば、最後にあったとき、彼女は実の父を突き飛ばし、和広の腕を潰したのだ。警察にも追われている彼女がこの場所に来る方が間抜けなのかもしれない。

 それでも待とうと思った。和広は岩のひとつに座る。極々自然に、無意識に。袋の中からスケッチブックと鉛筆を取り出した。右手の激痛とともに激しい自己嫌悪に襲われる。だがその手を止めることは出来なかった。

 無駄だと分かりながら、スケッチブックを開き、左手で固定する。無意味だと悟っていながら、痛みと痺れで震える手で鉛筆を握りしめた。右手の動作をするたびに、神経がすり鉢で潰されたような激痛が走った。

 そういえばこの場所でスケッチはしたことなかったと思った。すぐさまその牧歌的な思考を打ち消す。

 この腕で一体何が出来る。このあきらめた心で一体何が描けるというのだろう。今更、絵を描いて何を得ることが出来るというのだ。

 鉛筆を持った右手が上がる。腕は三十五度以上開くことが出来なかった。手首を動かし、指を操作するたびに、手首からちぎられるような激痛が襲う。それらに耐えながらスケッチブックに鉛筆を走らせた。

 弱々しく、蛇行した線だ。蛇が通ってもこんな間抜けな線はしていないだろう。それ程までにあきれる線だった。

 それでも和広は線を重ねた。無意味な行為、無価値な線。左手に持ち替え描いたが、同じように弱々しいものしか連ねることが出来ず、なによりスケッチブックを支える右手が恒常的な痺れと痛みに苦しむ。

 手を変え、姿勢を変え、あらゆる形を試した。スケッチブックを辿る線は、海を描くことも、景色を映すことも出来なかった。

 ――どうして。

 和広はいつの間にか涙を流していた。不器用な線を描くたびに涙がこぼれ、視界をにじませた。

 ――どうして俺は泣いているんだろう。

 何故俺は、それでも鉛筆を走らせようとしているのだろう。

 もうあきらめたはずなのに。無理だと、理解したはずなのに。

 腕がひきつり、鉛筆が落ちる。乾いた音を立て岩場に落ちたそれを拾い上げようとする。

 その硬く細長い感触を感じたとき、和広の口から嗚咽が漏れた。

 ――もっと絵が描きたい。

 なんて単純な理由。無様な程に幼稚で、馬鹿らしいほど簡単。まるで、三つの音しかない純正和声。だがそれは絶対の真理だった。

 ――俺は、

 それは欲望にも似ていた。禁断症状だった。夢に未来に摩耗し閉ざされた今、それは虹のように鮮やかな色を携え和広の目の前にあった。

 ――ただ、絵を描くことが好きなんだ。

 もっと描きたいものがあった。家の傍らの路地裏の日陰も、岩の間の踊るような浪合も、命を飲み込むような森も、なによりも美しい人間を。

 もっと筆を走らせたかった。キャンパスに恋い焦がれ、デッサン用の木炭に愛狂う。

 何で今更と漏らす。何故今になって、こんなにも激しく愛おしい最初の感情を思い起こさせるのだ。

 いや、今だから分かるのだ。夢を閉ざされ、その残骸をみているからこそ。その輝きが目を焼いた。

 和広は泣いた。嗚咽を漏らし、声を憚らず涙を流した。涙は潮風に溶け、嗚咽は潮騒に乗って崖に広がっていくようだった。自分がこんなにも泣くことが下手になっていることに気が付いた。

 それは間違いなく、夢見る人間の慟哭だった。


 砂利を踏む音がした。既に涙は止まっていたが、鼻は充血して詰まっていた。

「・・来てくれたんだな」

 自分の発した声若干上擦ってしまい、少し恥ずかしくなる。女の子の前だというのに随分と情けない姿があったものだ。

 呼ばれた少女はびくりと身体を震わせる。和広が振り向くと、そこには白いワンピースを着た無垢な少女がいた。

 白は何も無い状態と共に神秘的な感情を想起させる。白は何色にでもなれる。朝顔の中心も白だ。そこから様々な色に染まっていく。三原色とは外れた始まりの色。

 彼女は一定の距離を置いてこちらにこれないようだった。生理的にこれないようではない。心の壁が邪魔をしている。こんな反応は他のどの人格にもなかった。

「月海、だね」

 存在する可能性から一番高いものを選ぶ。それ以上に、お姉ちゃんの娘である彼女に会うことを和広は望んでいた。

「・・・はい」

 今にも消え入りそうな声で少女は言った。自尊心も、自信もない小さな声。自分の全てを否定しているような瞳。他者との対話を恐れ食事の時にしか使いたくないと主張している唇。それだけでわかった。この子と自分は同類だ。

 どうしようもなく、自分という存在が嫌いなのだ。

「こっちに来なよ」

 そう言って和広は隣の岩を指さした。月海は随分と躊躇っていたが、おずおずと時間をかけて到達し、腰を下ろした。

「会うのは初めてだよね」

「・・いえ、実は、谷川さんに初めて会ったのは私なんです」

 途切れがちに少女は言った。

 彼女に初めて会ったときのことを思い出す。あのとき彼女は、和広を見てまるで殺人犯に相対したような恐怖に歪んだ表情をしていた。

「あのときは、ちょっとびっくりしたよ」

「・・・・ごめんなさい。母が死んだっている場所にいた人に、みつかったって考えたら、急に怖くなったんです」

 それだけ、たったそれだけの理由だ。死のうとした場所であり、母が死んだ場所に人がいた。まるで母を殺したかのように。

 いや、実際殺したようなものだ。お姉ちゃんの手を離したのは紛れもない和広自身だ。

「俺と、葵さんの関係。ママから聞いてる?」

 和広の言葉に月海が首肯する。

「だから、その、教えて欲しいんです。お母さんが、この町で最後の時間どう過ごしたのか」

 一世一代の言葉のように緊張していた。きっと人にものを頼めるような子ではないのだろう。

「それはいいけど、条件がある」

「なんですか?」月海は震えながら問い返した。

「君の絵を描かせて欲しい」

 意外な申し出に彼女は困惑しているようだった。

「でも・・・・・その手・・・・・」

 ああ、と和広は先程まで生死よりも悩んでいたことを再確認する。まだ心の裂け目は縫合されていない。だがそれを女性の前でみせるのは愚以外の何物でも無い。それに少し答えも見えかけた。

「大丈夫」

 和広は晴れやかに微笑んだ。

「描ければいいんだよ」


 最初の数分は静かだった。和広が左手で描く上での理想的な姿勢を見つけるのに手間取ったからであるし、月海はそんな和広に対して声をかけようにも躊躇ってしまっていたからだろう。

 やがて和広が不器用に運ぶ鉛筆の音が一定になる。世界は調停され、潮騒が戻ってきた。

「・・・お母さんは、最後笑っていましたか?」

 初め、月海が聞いたのはそんなことだった。

「あんまり覚えていないよ。そのときは必死だったから、ただ」

「ただ?」

「君に謝ってた」

 少女の瞳に涙が溜まる。人の死は、特に自殺に至るプロセスは決して美しいものではない。死は自殺を除いて己の意思とは何の因果のないものから起きるものだ。だからこそ人は長く生きることを望み、死を理不尽で平等なものとして捉える。

 人間は内面を裏返し、自らすら嫌悪する本性をみたとき、自らを殺すのだ。そんなものが美しいわけがない。

 彼女は涙をこぼしながらそれでも座っていた。拭うこともせず、しゃっくりを我慢してそれでも人間として泣いていた。

 そこからぽつぽつと話を続けた。七年前の忌まわしい記憶。ずっと和広を縛り付けていた一人の母親の記憶。それは何よりも代えがたく、棄てることの出来ない物語だった。

 一緒に朝々丘で話したこと。話していたのは娘の話ばかりだったこと。お好み焼き屋で好き嫌いを咎められたこと。サッカーの試合を観戦されて恥ずかしい思いをしたこと。幼い一夏の短い間に凝縮された思い出たち。和広は胸をつくような痛みと共に、記憶が思い出に変化していく様を感じた。

 少女は言葉は少なめだった。喋ることに慣れていないわけじゃない。話すことを恐れている。自分の汚れた指先が、発した言霊が、全てを台無しにしてしまうとでもいうようだった。

 彼女の姿勢はとても綺麗だった。他のどの人格とも違い佇まいに洗練されたそれがある。お姉ちゃんは月海に随分と厳しい教育をしていたことを思い出す。故に何も見たくないと地面を向いていることが際立った。

 表情には色がなかった。夕子のように負の感情により外界との繋がりを拒絶しているのではない。自らの存在を許さない故に、自らが世界に働きかける行為を最小限にしようとしている。それは外界を守るためであり、自分を否定という形で認識するためだ。

「・・・あの人はよく笑ってた。俺の行動が幼稚だったからか、そのときをかけがえ無く思ったのかは分からない。でもいつも寂しそうだった。君を大切に出来なかったことを悔いていた」

 だから彼女の存在を肯定するようにした。孤独な人間にとって必要なものは眼に見える承認であり、言い方を変えればお節介でもある。

 バストアップのスケッチを描いていた和広は、左手の感覚との格闘と喋った疲れのため少し手を止め視線を落とす、彼女の手首には新たな包帯が乱暴に巻かれていた。

 その視線に気づいたのか、一瞬彼女は隠すようなそぶりを見せる。だが、被写体が動くのは良くないと思ったのか。それとも、本当は誰かに見て貰いたかったのか、和広から視線を外しながら口を開いた。

「昨日、カッターで切りました。私が切ったのか、他の誰かが切ったのか曖昧なんですけど、私が望んだのは確かです」

 治療は万全なものではないのだろう。継続して付けられている傷跡には新しい血の跡があり膿があった。

「それってさ。痛くないの?」

「痛いです」

「それでもするの?」

 途端、彼女は押し黙った。しまったと和広は思った。言葉は選んだつもりだったが、彼女を責める形になってしまった。

「・・・・傷を付けると安心するんです」

 長い沈黙の後、月海は口を開いた。

「心が痛くて、身体が痛くて、自分が嫌いで堪らなくなったときに、どうしても傷つけたくなるんです。気持ち良いというのとは少し違うんです。

 傷の痛みで、心の苦しみを塗り潰すんです。

 許されたような気がして、現実を変えた気がして、癖になってしまうんです」

 その気持ちが和広には分かる気がした。

 世界にはあらゆる苦しみがある。苦悩は人間にとってマイナスの感情しか与えられないが、痛みは違う。傷つける人間、対象、程度、手段、理由により傷による痛みは快楽になる。

「君は、死にたいの?」

 和広は問う。人格の一人である美空は言った。大切な人が死のうとしている。八雲は自殺願望がある人格に毒を吐きながら、それでも朝にこの崖にやってきた。きっと他の人格も同じように行動していただろう。死に焦がれる己の半身を守るために。

「・・・はい」

「どうして」

「もう、生きていたくないんです」

 あまりにも単純な理由。それはあらゆる苦しみを濾過し、不純物のない段階まで純正化されたものだった。

「・・・私が、自我を認識して、最初に記憶があるのは父と母の喧嘩でした」

 苦しみの吐露には堰がない。ため込んだ故にその苦悩は巨大で、止める術など本人にもない。

「お父さんが殴って、お母さんが高くて耳に付く声を上げる。布団に中に潜って、耳を塞いでも声は聞こえました。人の耳って本当不完全です。聞こえたくないものまできいてしまうんだから。

 それで私は、頭の中に友達を作って、その友達とお喋りするようになりました。その子は男の子で、勝ち気で、いつも両親を罵っていました。

 一応そのときには頭の中にお姉ちゃんと、お父さんみたいな人はもういたけど、よく喋ったのはその男の子、八雲でした」

 空想上の友人。外国ではよくある症例だ。そしてその友人は自分の持っていない憧れの姿を具現したものが多い。彼は実父に対して強い嫌悪の態度を示したのも、そういった成り立ちが原因だろう。

「その内、お父さんは私とお母さんに、関わらないようになりました。好きの反対は無関心ってよくいったものだと思います。互いの家族としての存在意義をロールプレイするぎこちない共同生活でした。

 でもさすがに離婚するとき、泣きました。苦しくて、相手が怖い時って、その人が優しかったときのことしか思い浮かばないんです。もう一度、お父さんに抱き締めて欲しかった、それだけだったのに」

 子供の世界の大部分を占めるのは親であり、父は安寧や秩序といったものを司る。家族が壊れると言うことは世界が壊れることを意味する。

「私はその頃から臆病だったから、言われるままに生きていました。言われるままに勉強して、食べて、泣いて、寝る。引き取ったお母さんが再婚することになっても、迷惑をかけないように普通の女の子として、望まれるままに。・・でも」

 少女の声は震える。独白は止まらない。人は他人に自分を伝えたいと衝動を持つ。告白という行為は相手に自分を分け与え束縛したいからでもあり、自らの心の安定を保つためのものだ。だからこそ、この少女の言葉の一つ一つが重かった。

「新しく、お父さんになった人は、優しかった、最初は。でも、あの人の目は、私じゃなくて、私の身体を見てた。何で、お母さんは、あんな人と、確かに生きなきゃ行けない、だけど、汚されて、傷つけられて、そうまでして・・・」

「落ち着いて。無理にしゃべらなくてもいい」

 和広は月海の言葉を遮る。過呼吸に陥りそうになった彼女の側に行き、左手で背中をさすった。治療を必要とする段階ではなかったが、不安になった。

「もういい。そこまでつらいことを思い出さなくてもいい」

 和広は言葉を繰り返す。

 人格が出てこないことが妙だと思った。ここまで苦しんでいるのなら、それを代替わりするために人格を分離させたはずなのに。

「いいんです。話させて下さい」

 精一杯力を込めて月海は言った。呼吸も安定し、精神も通常値に近い。それにある種の覚悟があった。和広は元の場所に座る。

「私は義父に性的暴力を受けました。母には上手く隠していたようで、言っても信じてもらえませんでした。その頃から、よく時間を失うようになりました。夜だったのに気がついたら朝だったことも沢山有りました。そのことがうれしかった。夜の、つらい記憶を覚えていないで済んだから」

 この頃に恐らく岬が生まれた。義父から受ける痛みを代替わりするために、弱々しい幼子のままで、成長することなく従順に。

「しばらくして、私は小学校で傷害事件を起こしました。同級生をカッターで切りつけたそうです。小学生が傷害事件って結構当時報道されていたんですよ?

 軽くいじめられてはいましたが、傷つけようと思ったことは一度もありません。それは私が時間を失っている間に発生しました。夕子でした。

 私の知らない間に、私の中に、私のためのコミュニティが出来上がっていたんです」

 その後、彼女は熊田のクリニックに連れていかれた。そこで自分が沢山の人格を内包する存在ということを知った。

「私は、怖くなった。この身体に別の誰かがいる。知らない間に知らないことをしている。でも、現実はそれより厳しかったんです」

 精神の治療は、捜査に似ている。何があったか原因を調べ、解決する。それを快く思わない人間もいる。

「治療を進めるに連れ、義父のやっていたことを話すようになりました。熊田さんは、岬や夕子とも話しました。熊田さんから話を聞いた母は義父に問い詰めました。

 義父は最初、心病んだ娘の戯言だと一蹴していましたが、徐々にそれも言えなくなってきました。なんせ、実際に心が分裂するまでなっているんですよ。何もなかったと考える方がおかしい。

 義父は私とお母さんに対し、暴力を振るい、治療を辞めさせることを強要しました」

 他人を従わせるのに暴力ほど効果的なものはない。恐怖をすり込み、精神を摩耗させる。尊厳は削れ、傀儡となってしまう。

「しばらくして、母が全てを投げ打ち、この崖から自殺しました。ずっと支えてくれた母が死んだときはさすがにおかしくなりました。記憶はありませんが精神病棟にも入ったようです」

まだそのとき月海は小学生だったのだ。和広では考えられない程過酷な幼少期だった。

「それから、ずっと隠れるように生きていました。義父におびえながら、熊田さんのところに通いました。特別にお金は免除して貰いました。払うなら義父にばれるし、熊田さんにとっても私みたいな症例は珍しかったのでしょう。

 何より熊田さんがここで見捨てることは出来ないって。そうして七年間過ごしました。」

 日常は埋没する。どんな過酷な暮らしでも、それが長く続けば適応してしまう。そして精神は時計の歯車のように少しずつすり減っていく。

「七年間、私は、ずっと死にたいって思ってきました。

 でもそれは本当に死にたいと思っていた訳じゃなかった。いつも全てが嫌になって、喚き散らして、時間を失って、死んでやるって、熊田先生に言っていました。だけど、それは本当じゃなかった。そのときの私は、ただ先生の気を引きたかっただけです。

 それが自分で許せない。気を引くために他人を追いつめて、ただ喚いて時間を失う。それが自分で気持ち悪かった。どうしようもなく浅ましくて、自分を傷つけました。

 熊田先生が家庭の事情で離婚したとき、私なんて言ったと思います?「私は先生の子になるの、なんで離婚なんてするの、信じられない」って言ったんですよ。笑っちゃいますよ」

 月海は自嘲の乾いた笑みを浮かべた。端に涙が溜まっている。

「どうしようもなく、自分が嫌いになりました。この崖で海をみていると自分のそうした醜い部分が見えてくるんです。どうしようもなく幼稚で、論理性に欠けていて、異常なんです。

 それで何より嫌だったのは、そんな自分とこれから何十年も付き合わなくちゃいけないことでした。人生の乗り換えなんてできない。幼稚で、誰が何をしでかすかわからない「私」から逃げることができない。優しくしてくれる人に、罵詈雑言を投げ、知らない間に殴って、気味が悪いほど依存をする。自分のことながら気持ちが悪いです」

 岩場の間で波がはじける。遠近感がおかしくなるこの崖は、自分を見つめてしまう魔力がある。 

「・・・・それで、もう、いいんじゃないかって思ったんです。

 もし生きることが義務だとしたら、それを放棄する資格があるはずでしょう?いても異常者である私は誰も困らないですし、人も社会も重荷が経るだけでしょう」

 彼女の声には様々な感情が交じっていた。

「それだと他の人格も死ぬよ」

「別にいいじゃないですか!」

 月海は持ちうる全ての声を出した。

「私はお母さんを殺した!お父さんも怪我させた!熊田さんにも、酷いことを言ってしまった。

 ・・・谷川くんの未来も、奪ってしまった!

 こんな人間、生きている価値がどこにあるんですか!誰が、人として接してくれるっていうんですか!

 私は狂っている。そしてそれに逃げようとしている。それが自分で許せない。

 確かに皆は私を守ってくれた。だけど、そのせいで、どれだけの人を・・」

 最後に残った怒り、それは自分を傷つけたものへ向かっていなかった。自分という存在、そのものに対しての憎悪だった。

「もう疲れたんです。周りも、自分自身も、これで全てが綺麗になるんです。この身体は私のもの、生きるか、死ぬか選ぶ権利すら私じゃないものに縛られたくありません!」

 その言葉は、お姉ちゃんの最後を想起させた。どれほどの苦しみが彼女を縛っていたのだろう。どれほどのつらさの中、彼女は月日を積み上げてきたのだろう。

 月海は立ち上がった。急に波の音が耳に戻ってくる。

「絵は描けましたか」

「・・・・まだだよ」

「棄てて下さい。あなたに描いてもらえる資格なんて、私にはない」

 他者の価値観を彼女は放棄した。自らの心の領域、聖域とも表現できるそれは自分を確立させるための意思と記憶の概念。そこへの他者の介入を拒否した。

「最後に、あなたに会えて良かった。お母さんの最後を、私たちを知ってくれた人」

 振り向き、彼女は崖の先端に向かう。初めて会ったときと同じように、よろめきながら、夢に浮かされるように、ただそこを目指した。それが唯一の救いだというように。自分としての存在のまま生涯を完成させられるたった一つの冴えたやりかただと主張するように。

 何をしようとしているかは明らかだった、だが、和広は動けなかった。

 ・・・他者に生を強制する権利が自分にはあるのか?

 生まれてくることには意志はない。感情を持つことに理由はない。ならば死を選ぶことすら出来ない人間の自由は一体どこにあるというのだろう。

 社会は雁字搦めだ。他者と関わるだけで社会は生まれ、社会は構成要素である人間を否応なく縛る。だから和広は人との関わりが嫌いだった。他人が自分の意志を束縛することが怖かった。逆もまた同じだった。

 死が社会からの離脱する唯一のというのなら、この世にまつわるあらゆる苦悩から救い至らしめる最後の道だとするならば。関わりを放棄してきた和広に彼女を止めることなど出来ない。

 本当に、それでいいのか。

 四歩、七歩、生と死を区切る青色の境界が、彼女に迫る。死という概念は何も拒んだりはしない。母なる海と同じように、全てを平等に包み込むだろう。

 また、見殺しにするつもりなのか。

 右手が激痛を以て、孤独を愛する自我に叱咤する。彼女によって壊された未来。人との交わりによって破棄された夢。

 血流が酸素を際限なく運ぶ、全ては反射的に、だが絶対の意志の力によりそれは起こる。

 彼女の足はすでに境界を越えかけている。安らぎは眼前、朝の澄んだ空気の中どこまで開け広がった世界の中、彼女は、

「――駄目だ!」

 和広は、落ちた。

 朝日に目が眩む。それとほぼ同時に、両の手に凄まじい負荷がかかる。だが和広は手放さない。右手が粉々になりそうな痛みを爆発させる。それでも渾身の意識で耐えた。

 視界が慣れる。そこには、互いの右手を以て宙に繋がれた真っ白な少女がいた。

「どうして・・・・・・」

 月海が呟く。自らが繋いでいる右手に対してか、それとも左手を崖の端にかけ包帯の巻かれた右手で少女をつなぎ止めている和広に対してか。

 和広は崖に左手をかけていた。右手で月海を支えながら。

「くっあっ」

 和広は呻く。痛みで言葉すらでない。思考すら裁断され、記憶が断絶する。だがその手は絶対に緩めなかった。

「どうして助けるんですか!」

「死なせ、たくない、からに決まって、いるだろう」

 痛みに意識が途切れがちになりながら、答える。

「手を離してください!あなたまで、死んじゃう!」

「それはごめんだ。だけど君をお姉ちゃんと同じようには、したくない」

 あのとき、和広は恐れていた。人に踏み込むことを、人の生死を左右してしまうことを。何よりも他人を背負うことを。だが今は違う。

「あなたは私から、死ぬことすら奪うの?」

「違う。君は死にたくないはずだ。君たちは生きることを望んでいるのだから」

 彼女たちは様々な理由のためこの場所に来た。ある者は父親に会うため、またある者は母の最後を知るために。だが彼女たちは主人格である月海を思い、死ぬことを止めようとしていた。

「・・・・みんな、私をずっと追い詰めてきた。義父も、お母さんも。他の人格も。

 私の中の夕子はあなたを傷つけた。夢を閉ざした。あきらめざるを得ない身体にした。あなたは私を憎んでいるはずでしょう。許さなくていいし、許されちゃ駄目なんです。

 私はいらない存在なんです。私は歪で異質な人間。私はこの世界にとっての不純物なの」

「違う。早く岩肌を掴め」

 腕がちぎれるように痛い。二人分の体重を支える左手が悲鳴を上げる。

「・・・・でも、私がいても、誰も私を」

 そこで和広の感情は堰を切った。

「他人に君がどう思われているかなんて聞いちゃいない!君がどうしたいんだってき聞いてんだ!」

 和広は叫んだ。大きく、彼女と彼女たちの聖域に踏み込んだ。

「俺は絶対夢をあきらめない。右手が駄目なら左手を使う。腕が駄目なら足を使う。四肢が動かないなら口を使ってでも絵を描いてやる。こんな怪我、君が気にすることじゃないし。君ごときで潰えることじゃない、

 他人の言うことも、他人の人生も、結局は他人事だ。確かに他人との繋がりは大切だよ。友達のいない人生なんて意味も価値もない。だがな、生きるのに他人に迷惑をかけるのは当たり前だ。自分の意志すら他人のために決定するのは間違っている。

 君は本当に自分に価値はないって、死にたいって思っているのかよ?

 君の中にいる皆は、自分を、君を死なせたいと思っているわけないだろう!」

 和広は彼女を引き上げることができない。腕は既に限界で、今にもビスケットになって崩壊しそうだ。だから月海が引き上げなければならない。他でもない月海自身を。

 彼女は生を願っているはずだ。交代人格は彼女自身の思いに他ならない。無意識に彼女は自分を救おうとしている。それを他でもない月海が認めなくてならない。

 意志は肉体を凌駕することはない。針金が飛び出た指の感覚はもうない。だが、もう少しだけでいい。今和広が握っているのは命だ。意志が足りないならば覚悟を上乗せするだけだ。全身の神経で右腕を支える。あらゆる心を総動員して命を繋げ。

「私、は・・・・」

 彼女の声には躊躇いがあった。絶望の中、なおも希望を思う正しい人間のカタチだった。

「いいか。生きることは問答無用なんだよ。君もずっと、皆と一緒に、生きてきたはずだ。貪欲に、自分がどれほど嫌いな存在でも、呼吸をしてきたはずだ!

 悩むのなら、苦しいなら生きろ。一人でも、一四人でも無理なら俺も背負ってやる。不器用で甲斐性なんて皆無だけど。他人を背負うくらい出来るようになったんだ」

 幼年期は過ぎた。己を無力と罵る時期は終わった。一人で立ち、他人を支えられる。その覚悟を和広は得ていた。

「私は、」月海は涙を浮かべながら、岩肌を掴む。その手は震え、怯えていたが、何よりそれを渇望していた。

「・・・・・生きたい」

 そう絞り出した。

「生きたい。死にたくない。死にたくなんてない。つらいけど、資格無いけど、誰かに迷惑をかけることになっても、それでも、」

 それでも、生きたい。

 止め処なくあふれる願望。誰も認めなくても自らは認めなくてはならない意志。生命として、当たり前の欲望。

 和広は頷いた。

「上がれ!」

 体力の全てを費やして、和広は自分と少女を引き上げた。腕の感覚はもうない。だが、それでも力を振り絞った。月海も自ら動き、和広が上がるのを手伝ってくれた。二人とも、縋り付くように、生と死の狭間をよじ登った。

 朝ヶ丘に上がった二人はしばらく呼吸が整わなかった。和広は右手が砕けてしまいそうな程の痛みに意識を途切れさせる。それでも、後悔はなかった。

「ふ、ふふ」「ははは」

互いに自然と笑みがこぼれた。その後二人は涙を流しながら笑いあった。何故か分からなかった。だが、腹の底から、生きていることがうれしかった。

 波の音と、高い崖、どこまでも青い。その場所で二人はかすかに、しかし高らかに笑った。

「絵の続きを描いていいか?」

 和広は尋ねた。生まれ変わった自分が初めて描く絵をどうしても完成させたかったのだ。

「・・・はい」

 優しく、涙ぐみながら、あの人に似た笑みで月海は頷いた。


 岩の上に座り、彼女と対峙する。拙いタッチで目の前の美しい少女を描いていった。

 月海はすっかり落ち着いたようで、穏やかに、だが緊張した表情で、和広に指定されたように遠くを見ている。

 ふと、和広は思った。今、彼女は誰なのだろう。

 外見から今、彼女がどの人格かは判断が出来ない。和広に見えるのは白いワンピースを着た少女であり、腕に先程、落ちかけたときの擦り傷が腕と足に少しある。

 少し垂れた瞳、形の良い睫毛、少しやせ気味の頬、どれも両親の面影を彷彿とさせる。だが各人格を判別することが出来る記号はどこにもない。目の前にいる少女はもしかしたら美空かもしれないし、岬かもしれない。ひょっとしたら夕子で、こちらに襲いかかるタイミングを計っているかもしれない。

 結局、他人からみたら彼女たちは一人なのだと思った。記憶と感情が苦痛によって分離しただけ、たったそれだけで社会には不適合になる。

「・・・・不便だよな。人間ってさ」

 誰に向けた言葉でもなく和広は呟く。人は互いの心に真にふれあうことは出来ない。群体ではなく個が尊重される今の時代ならなおさらだ。

「違いますよ。和広くん」

 少女が答える。彼女は誰だろう。月海か、美空か、あるいはまだ会ったことのない人格か。だがそんなことは、主観的な視点にとって些細なことでしかないのかもしれない。

「分からないからこそ。触れあおうとするんです」

 完全に分かり合えないからこそ、触れあい、そこに個が生まれる。人が互いを認識して初めて自己を認識することが出来るように。

 人間の意識というのは儚く、不確かなものかもしれないと思った。いつか美空と八雲が言ったように、一分前の自分、十分前の自分、一年前の自分、そして現在の自分。これらは記憶として連綿と続いてはいるが、信念も感情もそのときにより大きく違う。それらに由来する自我もまた違うものだ。

 故に人間は脆い。だからこそ、他人に自らを許す。心という聖域への介入を許可する。脆いからこそ支え合い、傷つけあい、自我を確立させる。互いの存在を、認め合う。

 人と関わるのは、実はどうしようもなく利己的な行為なのかもしれない。

 依存、投影、親愛、憎悪、嫉妬、恐怖。他人に向かう心は、どうしようもなく汚らわしいものばかりだ。

 それでも、人が関わり合うことは、例えようもなく素晴らしいことなのだ。

「・・・ありがとう」

 月海は言った。それは深みのある、不思議な響きをしていた。 

「迷惑をたくさんかけるかもしれないけど、もし許されるなら、これからも一緒に、いて下さい」

 親愛どころか、恋ですらない契約。朝の光の中、始まりの時間にいるこの二名はきっとまだ人との距離を知らない。

 一人は一途に夢を目指し、一人は複数に分かれた自己に埋没する。そんな二人の関係は今から始まるのだ。

「ああ、こちらこそ」

 和広は鉛筆を置き、出来た絵を差し出した。おずおずと少女は受け取る。

「私こんなに美人じゃありませんよ」

 月海は笑った。その絵よりも余程美しい少女は、朝顔のような綺麗で眩しい笑みを浮かべた。

最後に男をみせた和広。最初から熊田に相談しておけばという突っ込みはなしでお願いします。


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