出海の章
5章
出海と銘打ちながら活躍は少ない don't mind
翌朝、美空たちは朝ヶ丘にこなかった。昨日のことを考えて躊躇しているのか。明日またくるのか、全く分からなかった。だが、お姉ちゃんはずっと和広を待っていた。自分もそれくらい待つことはできる。
それに、今日は別の用事があった。
黴と絵の具の混じり合った匂いが独特の空気を作り出す。朝の薄暗い美術室の明かりをつける。
そこには、ぐちゃぐちゃに塗りつぶしたデッサンがそのまま置いてあった。
自分でもひどいことをしたなと思う。絵は、完成したその瞬間から命を持つ。絵の中の空間は作者から離れて別の世界になる。描いた本人でも、手を加えることは無粋なことと和広は思っている。
絵をイーゼルから離し、描いたデッサンがまとめてあるところに置く。自分でもこんなに描いていたのかと少し感心するほどの量があった。だがそれでも上達しない技量にあきれてしまう。
「なにしたんだよ。それは。何だ?色々溜まってんのか?」
布施先生が入ってきた。和広が持っているデッサンのことを指して言っているのだろう。色々誤解を招く言い方には突っ込まないでおいた。
「ええ。これでも色々悩んでるんですよ。将来のことを」
重い未来がずっと和広の肩にのし掛かっている。自分自身の人生だからこそ、失敗は許されない。自分でも臆病者だと思う。
「何言ってんだ。それは当たり前だろう。みんなそうだ」
布施先生は椅子に座る。
「自分の人生に不安を抱かない奴なんていねえよ。どんな天才でも、どんなに恵まれていても、見えない未来のことは怖いんだ。
だから努力するし。悩むんだよ。思い描いた理想や幻想が正しいのかなんて誰にもわからない。誰にも正しいなんて判断できない。だから自分が信じるしかない。疑いながらもな。
その不安は、夢を目指す人間にとって、至極当然のことだ。だから心配するな」
和広は、ぽんっと肩を押された気がした。確かにそうだとも思ったが、他人が乗り越えていくそれを、自分は越えられるか不安だった。
「まあ、夢は一つじゃねえし、意外と何とかなるもんだぜ?俺みたいにな。俺だって最初は教師なんてやるとは思ってなかったが、今はこれでよかったと思っているしな」
布施先生は笑う。三十代後半とは思えないほど若々しい顔。彫りの深い輪郭。少し垂れ気味な瞳。
朝顔が咲く時間会う少女と、面影が重なる。まるで互いの顔を参考にデザインされたかのように類似している。
なぜ、今まで気づかなかったのだろうか。
和広がここに来た理由。布施先生がこの町にいる理由。それはきっと偶然じゃない。
「先生。あなたに尋ねたいことがあります」
キャンパスから目を離し、布施先生と向かい合う。教師となる前、一体何を目指していたのか。何を背負い、何を思い、何に抗おうとし、ここにきたのか。
「霧谷月海という女の子のことを知っていますか?」
出海の頼み。彼の意図は分からない。だが、枝分かれしていた線路は合流する。和広は確信に近い思いを抱いていた。
童顔の教師が立ち上がり、和広に迫る。
「お前、あの子に会ったのか?今、この町に月海は来ているのか?」
肩を掴む。和広は驚いた。あの布施が狼狽している。終始相手のペースを握り、会話を進める男が、我を忘れている。
「答えろ!」
肩を握る力が一層強くなる。逃げ出さないように掴んでいるようだった。痛みすら感じた。
「ちょっ、ちょっと落ち着いて下さい」
和広は布施の腕を掴んだ。
「あ、ああ、すまない」
布施先生も、我に返ったように、手を離した。
「・・・やっぱり、この町に来てたんだな」
改めて椅子に座り布施先生はため息をつくように呟いた。
「気づいていたんですか」
「もしかしたら、程度の憶測だったけどな。商店街で起こった傷害事件。やけに解離性同一性障害について聞いてくるお前とかみてて、期待っていうか。恐れっていうか、そんなことを考えていたよ。
じゃあ、お前、月海には会っているんだな?」
「はい。まあ厳密に言えば月海には会ったことはありませんが」
和広は途中で言葉を切った。その後を布施先生が引き継ぐ。
「他の人格と会ったってことか」
和広の中の仮説が補強されていく。
「布施先生。あなたは・・・」
「そうだ。俺は、月海の父親だよ」
だまし絵のように、今まで見えなかった二人の顔の共通点が見えてくる。気づいてしまえばはっきり分かるのに、それまで気づかなかったことが不思議なほどに。
「和広、お前どこまで知っている。随分と踏み込んだことまで知っているようだが」
「話せば長くなりますよ」
和広は前置きをおいた。拒否されても話すつもりだった。
「構わない。俺も知らないことがあるかもしれないしな」
説明するため、今まで起きた出来事を思い返す。振り返ってみれば一週間も経っていないのだ。もう何ヶ月も彼女のことを考えていたような気がする。まるで恋人のように、あるいは家族のように。
歩き回り、頭を使ってきたからだろうか。それとも昔の思い出を反芻したからだろうか。
本当は布施先生に聞かなければならないことが山程あった。怒りに近い感情とともに、疑問が渦を巻いている。
だが、先ほどの彼の剣幕に押されてしまった。それは長らく忘れていた父親だけが見せることの許される不器用な愛情だった。それは、きっと自分のお節介よりもかけがえのないもののはずだ。
だが一つ、懸念があった。和広と月海達との関係性を説明する上で、お姉ちゃんのことを話さなければならない。すなわち、布施先生の元妻。学生結婚をしたあげく、離婚し、自殺した女性のことだ。
「布施さんこの件の前に。一つ聞いておきたいことがあります。月海達の母親、葵さんについてです」
葵という名前を呼ぶことになぜか心が痛んだ。それは名前で呼ぶことで彼女との距離が離れてしまったように感じたからだろう。それと同時に記憶が思い出に変わったことにゆがんだ安堵を感じ、それを振り払う。
布施は、ああと呟いた。
「君は、葵と会ったことがあるんだろう?」
「えっ」
「驚くのも、無理はないだろうな。俺は元々、葵の足跡を辿ってここに来たんだから。
さて、どこから話そうか。知っているかもしれないが、俺と葵は、大学生の頃付き合っていた。他大学との合コンで知り合ってな。よくあることさ。意気投合して、別れて、それで終わると思っていたのに、妙に俺のことに気を掛けてくれてよ。優しい奴だった。
それで、付き合って、子供が出来た。俺はそのとき、子供なんて遙か未来のことだと思ってたんだ。男と女がどんなことしたら子供が出来るか位理解した上でことに及んだはずなのにな。
勿論、葵のことは愛していたけど、結婚まで考えてた訳じゃない。だが、墜ろすことは出来なかったんだ。俺たちの都合で授かった子供だが、宿った子供には罪はない。
親にも大反対されたよ。だけど、俺たちは本気だった」
凡そ、熊田に聞いたとおりだった。生命にとって、新たな生を授かるというのは祝福されるべきことだ。だが、人間にとって、その営みは必ずしも幸福をもたらすとは限らない。
「だけどな。覚悟って日常に埋没していくものなんだ。夢を語って、理想に向かったところで、現実と摩擦を起こしてしまう。結局俺は、元々目指していたデザイナーになることをあきらめて、持ってた教職免許で、高校の教師になった。丁度公務員の問題が叫ばれていた時期でさ。教育委員会も政治思想も、笑える程腐ってて、マスコミや地域からさんざん言われていた。給与も少なくなって、家族を養うのは困難だったよ。
葵も最初はパートとかしてたけど、すぐ体調壊してな・・・。まあ、今にして思えばそのときが一番幸せだったよ。守る者ができて、やっと自分が大人になった気がした。でもな。そういうことを思っている時点で子供だったんだよ。
葵も、俺も、段々と追いつめられていったよ。子供ってやたらと金がかかるんだ。葵も持病やらで病院に行かなくちゃいけなくて生活費もつらかった。今にして思えば何であんなことで喧嘩してたのかっていうくらい、怒鳴り合っていたよ。人間って、余裕がないと視野が狭くなるものだからな」
そして二人は離婚。確かに二人にも問題はあったかもしれない。だが、坂道は本人たちが望んで通るわけではない。もう少し世界が優しければ、彼らは家族というものを壊さずに済んだのかもしれない。もし神様がいたとするなら、この哀れな家族をみて手をさしのべようとしたのだろうか。
「俺は、嫌なことからはとことん逃げちまう奴だからな。縁を切って、養育費だけ送って、結局、死ぬときまで葵に会うことはなかった」
彼は、最小限の言葉で半生を綴る。だがその行間にはどれほどの苦悩があったか、想像できなかったが、感じた。
「その後どうしてもあいつの最後の場所に住みたくてこの町に移住したんだ。
実は、谷川のこともずっと前から知っていたよ。新聞にも小さく載っていたしな。葵の最後を看取った人。一回話そうと思ってたが、会っても何を言えばいいか、分からなかった。聞く資格もないと思ったしな」
美術部に入ってから、和広に気を掛けてくれたのは、彼の生来の気質もあるだろうが、死んだ妻への後悔の面も強かったのだろう。
「なんで、先生は、月海を引き取らなかったんですか?」
親権という法制度がどのように作用するのか、和広は知らない。だが、実の父親が引き取れないことはないだろう。
「葵の再婚相手がな。がっちりガードしてたんだよ。手続きも、他も色々していたしな。
俺も独自に多重人格障害について調べたし、義父の性暴力を理由に裁判を起こそうとも思ったが、証拠もないし、心を閉ざした月海は証言しなかった。」
和広に渡された日焼けした多重人格障害の資料を思い出す。あれは、台風の夜調べたものではなく。彼が昔、娘のために調べたものだったのだろう。
「でもどんな障害があったとしても、俺は逃げ出したのと同じだ。結局娘も救えず、妻の死にも踏ん切りが着かない。
正直、今もよ、会わなくちゃいけないと思っているが、娘に会うのを怖がっている自分もいるんだ。それが自分でも許せない。
頼む。教えてくれ。月海が、いや、月海達がこの場所でどうしていたか。今、どこにいるのか」
父親としての責務として、一人の大人として請い願う。彼に知らない権利などなかった。
和広はこれまで出来事を話していった。
だが和広と会ったのは、月海ではない、和広は彼とお姉ちゃんの実の娘の人格とは話してすらいない。だが、これまでふれ合ってきた人格達も確かに月海の一部のはずだ。
「・・・・その崖に俺を連れて行ってくれ」
全てを聞いた布施はそう言った。その答えは予想できていた。彼が本当に父親であるのなら当然の思考だ。
「・・・・分かりました」
和広は正直にいうと不安だった。彼の話ではお姉ちゃんの再婚以降、月海と会ったことはなく、解離性同一性障害について個人的に調べただけなのだ。彼女たちと交流し、何も害を与えない保証は無い。
だが、それは、和広自身も同じことだ。出海の頼みもある。明日、彼女が来るかは断定できなかったが、いつまでも待てばいい、そう思った。
人は、安心を望んでいる。それは孤高に立つものには与えられず、常に人との関わりにおいてもたらされる。孤独という安心も、対人関係を念頭において初めて成り立つのだ。
だが、人との繋がりは流動する。愛は憎しみに、慰めは怒りに、対極にあるモノほど表裏一体である。感情は個体ではなく群体なのだ。単体で成り立つことはなく、様々な要素の中で繋がっている。表裏一体なものでも隣り合っていることには変わりない。
美しい朝だった。夕方の世界は赤に染まるが、朝の世界は空色に染まる。澄んだ空気の中で太陽の光が真っ直ぐ延び、お土産屋が並んでいる道も、その前に広がっている雑木林も、かすかに青のベールに包まれている。
和広は布施を待っていた。自宅のシャッターに背を預け、どこにも焦点を定めず、移りゆく時間をみている。とても静かだった。
だが、和広の心の中は激しく動いていた。あの少女たちに、離婚した父親を引き合わせる。前置きは何もない。
本当に会わせて良いかという困惑。時間の流れがやけに遅く感じる焦燥。今更どうにもならない決定事項を和広は何度も反芻していた。
両親の離婚による子の重圧。精神病。今更ながら和広にとっては凄まじい程の他人事だ。生来他人に踏み込むことも、他人に踏み込まれることも嫌いな和広だ。場違いすぎて笑えてくる。
手先が震える。それは商店街で通り魔となった月海に遭遇したときとは異なる震えだった。
和広は、自分が嫌いだった。
昔から思っていた。誰も心を開けない。誰にも心を開いてもらえない。それは生来自分が不器用なせいでもあるし、お姉ちゃんとの記憶も根底にある。誰と話しても相手にとってプラスにならない、終わりのない自己嫌悪をする。
人の感情の深層に踏み込むほど、自分へのなけなしの信頼が薄れていく気がした。熊田は治療とともに治療者としての自分を保てなくなっていたと言っていた。その感覚がよく分かる。
朝の静けさに不釣り合いな心臓の早い鼓動と格闘し俯いていると、いつか水をやった植木鉢があった。
朝顔が咲いていた。蔓に連なる花は五。支柱に依存するように、もたれ掛かるようにして花開いている。その色は違いはあれど淡かった。他のどの種類の花も鮮やかな色であるのに対し、朝顔は水で薄めたような色だ。
だが、その色は堂々していた。
和広は心臓が収まっていくのを感じる。きっとみんな同じなのだ。人間って奴は、他人が強いように見えるだけで、本当は自分勝手で、自信が無いのかもしれない。
足跡が聞こえる。虫の声もまばらだからよりはっきり聞こえた。
布施先生だった。Tシャツと、ジーンズというラフな格好だった。だが、その表情は軽いとは言えず、重い皺を刻んでいる。十歳は老けたように見えた。
「おはよう。遅くなって悪いな」
「いいですよ」
彼の目の下には深い疲労の色があった。恐らく寝れなかったのだろう。深く追求はせず、家の裏手にある秘密の場所への道に足を踏み入れる。
「久しぶりに子供に会うのってどんな気持ちですか?」
和広はふと尋ねた。
「不思議なことに、うれしいと言う気持ちは少ないな。ただ、これまで何もしてやれなかったことへの後悔しかない」
布施は答えた。
「おはよう」
和広は、岩に腰を降ろし、背を向け海をみている少女に声をかける。まるで十年前のお姉ちゃんをみているようだった。改めてみると後ろからでもお姉ちゃんに似ていると思った。少し癖のある長い髪、小さな肩幅、自分を抱きしめるように、膝を抱えるその姿勢。当然だ。親子なんだから。
彼女は、抱えていた膝を自由にする。その足は大きく開かれ気怠そうな座り方になる。
「遅えんだよ。和広。たまには俺らより早く来いってんだ」
男の、しかも若い男性の口調。小さな可愛らしい口から紡がれた言葉に和広は確信する。
「八雲だな?」
「そうだよ。この前は良くも色々言ってくれたな、よりにもよって岬に・・・・」
彼は振り返る。だが次の瞬間。その目は大きく開かれる。
「・・・・てめえ。何しにきた」
殺気だ。和広は得体の知れない戦慄をそう感じた。
「君が、交代人格だな」
布施は必死に感情を押さえながら答えを並べる。
「こっちの質問に答えろよ。何しにきた。今更俺たちに何のようだよ。お父さん」
皮肉たっぷりに呟く。
「娘に、会いに来ただけだ」
「はっ。てめえに月海は会わさせねえよ裏切り者。交代して良かったぜ。俺たちを置き去りにしやがってよ」
八雲は布施に掴みかかった。白く手首に傷が残る細い腕で、布施のシャツを締め上げる。
「待てよ八雲!布施を探してくれ言っていたのは出海だぞ?」
「あいつは、俺たちの気持ちなんか考えちゃいねえんだよ!合理的な方法ばかり選びやがる!」
八雲は拳を振り上げる。か弱い力を有らん限り込め、布施の頬をぶん殴った。
布施は悲しい顔のまま拳を受けた。何を言えばいいのか分からなかったのか、それとも贖罪だと思ったのだろうか。殴られた後も、彼女の前に達続けた。
「何でだよ・・・・」
八雲はへたり込む。襟を掴まれていた布施も一緒になって岩場に膝を着く。次の瞬間、彼女は大声で泣き出した。
まるで赤ん坊のようだった。いや、実際そうなのだろう。あれは、きっと凪だ。彼女の一番幼い人格。
風を裂くように、彼女は泣いた。赤ん坊は悲しみも喜びも臆面無く表に出せる。だからこそ、泣いた。それは父親への怒りなのか、再会への喜びなのか分からなかった。
布施は彼女を抱きしめた。彼には一体どの人格が出てきているのかわからないだろう。だが人格など関係ない。彼は、自分の娘を抱きしめているのだ。至らない、自信のない父親として。
少し離れた和広に、二人の熱が伝わってくるようだった。親子ではなく、もっと原始的な、人間のあり方をみた気がした。
やがて、泣き声が止み、少女は深みを湛えた瞳で布施をみた。
「驚かせてしまって申し訳ありません。みんなに掛かったストレスが尋常じゃなかったから、凪を出してしまいました」
少女は、布施から離れた。いきなり他人になったかのような他人行儀。
「出海さんか?」
和広は聞いた。自分が知る中でこのようなしゃべり方を、これ程までに冷静にする人格は出海以外に該当しないと思ったからだ。
「そうだよ。谷川君。ありがとう。やっと、この父親に会うことが出来た」
泣きはらし、震える声でそれでも冷たく出海は言った。和広は理解した。彼は、布施の娘の交代人格であって、布施先生の息子ではないのだ。
「崇久さん。いや、お父さんと言った方がよろしいでしょうか。初めましてというべきでしょうか、僕は出海といいます。月海の人格たちの管理者のようなものです。
僕がこの町にきたのは、あなたに会うためでした。母の昔の書類から調べ、あなたの場所を知るまで随分とかかってしまいましたが」
この町は彼女たちにとって不自然な程縁のある場所だ。母が死に、父が逃げ、そして自分が死のうとしている場所。
「どうして、俺を」布施は訊ねた。
「あなたに義父に裁判を起こして、僕たちの親権を得て貰いたいのです」
出海は、こともなげにそう言った。
「義父は、自分が娘にした行為が明るみにでることを恐れています。だからこそ、義父は虐待をしたし、異常者である僕たちを恐れました。だからこそ、暴力を以て、従順に無力になるように躾けたのです。
そのかいあって、今義父は遠くへ二ヶ月ほど出張しています。怯え従う僕たちに気を許したのでしょう。もしくは異常性に恐れて距離を置いたか。何であれ僕はこの隙を好機として、親権を持ってくれる希望があるあなたを探しました。」
出海の目にはかすかにおびえがある。十年以上離れていた実父に命を預けるような懇願をしているのだ。精神が三十五歳と設定されていても恐れるところはあるのだろう。
「わずかな手がかりを伝い、この場所を確定しました。ですが、正直この場所は避けたかった。母が身を投げた場所。僕たちの中の何人かも、ここで命を終わらせることを望んでいます。義父からのプレッシャーや、主治医の熊田先生への不信感で、僕たちのシステムも崩壊しかかっている中、僕と美空の力ではみんなを抑えきれることは困難でした。
その辺りは、谷川くんに頼らせて貰いましたが」
「裁判を起こすといっても、大丈夫なんですか?前は義父が厳重にガードされていて駄目だったんだでしょう?」と和広は外野ながら訊ねた。
「それは、たぶん問題ない。治療もだいぶ進んだし、なにより守ってくれる父が見つかったからね。前と違ってはっきりと証言できる。僕たちの証言について熊田さんが弁護してくれるはずだ。
なにより、この件を報道機関に流せば、多重人格障害っていう餌に食いついて大きく取り上げるだろう。そのことをあの義父は望んでいないはずだ」
児童に性暴行。この国はその辺りの事件について容赦がない。それ故にマスメディアの格好の話題だ。しかも多重人格を発症している。裁判の結果はどうあれ、世論は義父を裁くだろう。
「僕は守護者です。霧谷月海という存在を守るためのシステムの管理人の一人。月海が脳内に作り上げた理想の男性保護者。その僕から、失礼ながら本当の父親に改めて希います。どうか再び、月海の父親になって下さい」
お願いしますと、さらりと滑らかな黒髪が揺れる。女性らしく滑らかで、男性のように力強かった。
布施は下げられた少女の頭の前で黙っていた。恐らく彼に拒絶する選択はないだろう。きっと誰かを背負う覚悟、一度は投げ出した肉親をもう手放さないと誓う時間。
「わかった。俺でいいなら、誓う。もう娘を離さないと」
神聖な沈黙の後、布施は頷いた。出海は顔を上げた。
「よかった」
そういうと、出海は糸の切れたように崩れ落ちた。布施が慌ててそれを抱き留める。
「大丈夫ですか?」焦りながら和広が声をかけた。
「あ、ああ、僕は大丈夫だ。体の方は、結構無理しているけどね。最近色んな人格が出てきて余り寝ていないんだ。ずっと気を張っていたしね。でも心配ないよ。僕という人格自体は疲労していない。僕は痛みを感じないし疲れない。ちょっと身体の方がガタがきてるだけさ」
力なく少女に宿る男は笑った。
「君は大丈夫かもしれないが、休んだ方がいい。俺から見ても今の君の身体は疲弊しきってるぞ」
布施は娘の身体を支えている。
出海はまだ笑顔を浮かべている。大仕事を成し遂げた顔だった。無理もない。彼はこの時間の為にこの町にきたのだ。
しかし、すぐ彼の表情が崩れる。それは恐怖とも焦燥とも付かない顔だった。全くの不意に驚いたかのようにも見えた。
「離れろ!」
出海が叫んだ。珍しいなと呑気なことを考える。次の瞬間、布施が突き飛ばされた。
不意を突かれた布施は、背と頭を大きな岩に打ち付けた。鈍器同士がぶつかったような重い音が響く。うめき声と共に布施は沈黙した。
和広は動けなかった。思考が液体窒素に浸されたように止まっていた。その隙に、少女は和広を押し倒した。背中に衝撃が走り、石によるごつごつした感触を確かめた。
殺気という概念を理解した。時間は隔離され、ある種の絶望の感触と共に、魂のそこから震えが起こった。
彼女は、馬乗りになって、和広を見下ろしていた。その顔に生気はなかった。人形のような生気のなさの中、殺意だけが明確に視線となって降り注がれていた。
この感覚を和広は覚えていた。忘れられるわけがなかった。途切れかけの街灯の下、血に塗れた包丁の切っ先を向けられたあの夜。マリオネットに形容できる狂気。
「君は・・・」
「夕子」
即座に答えが返ってきた。微かに安心した。少なくとも会話は成立している。
身体は動かなかった。少女とは思えない力の強さだった。
「どいてくれないか」
一応聞いてみる。夕子の表情は動かない。捕食者は的を追いつめることに何の感慨も浮かばない。
「退くと、思う?」
勿論思わない。耽美的な感情も浮かばない。何が起こるかまでは分からなかったが、本能的な恐怖があった。
「どうして、こんなことをするんだ」
和広は聞いた。
「あなたのせい」
と夕子は答えた。
どうして、と言いながら、和広は起きあがろうとした。想像もしていなかった力だが、所詮は女性の体だ。筋力にも限界がある。
その瞬間、力を込めた右手に砕かれたような激痛が走った。和広は呻いた。痛覚で思考が塗り潰される。
「が、あ・・・」
目の端に右手をみると、拳大の石が、右手に妙にめり込んで置かれていた。夕子はそれを両手で不器用に持ち上げる。
「あなたは、みんなを傷つけた。岬を泣かして、美空を追い込んで。そこまでは私も大目に見た。
だけど、あなたはお父さんを連れてきた。私たちを傷つけて、逃げたお父さんを。絶対に許すわけにはいかないのに」
もう一度、少女は和広の右手に向かい、石を振り下ろした。鈍い音が細波の中響く。手首から先が捻切られるような激痛を味わった。
「あなたは、私たちが、何をされてきたか、わかっていない」
息を切らし、言葉を途絶えさせながら、夕子は淡々と言う。
「これは私たちが耐えてきた痛みの、一部。もっとしてあげようか?でもあなたは、男だから無理か」
今度は肩に痛みが走る。倒れたところに肩を石で殴ったのだろう。
もう五感が薄くなってきている。激痛に対しての自己防衛なのか。ただ単に痛覚の許容範囲を超えているのかわからない。
「あなた、は、私たちを壊した。今まで、私が、私たちがずっと、守ってきた月海を、私たちを」
かすれていく音の中。頬に水滴の感触がした。涙だった。
夕子は泣いていた。
なんで泣いているのか分からない。朝日が眩しいからかもしれないし。だけど、その雫は温かに感じた。
彼女は月海を守るための存在だと、熊田は話していた。初めて会った日の夜を思い出す。彼女は危害を加えるかもしれない男性に躊躇いもなく刃を向けた。人が人を傷つけるときに躊躇する本能が、彼女には欠けている。
夕子は天秤なのだと思った。自分か、他人か。どちらを尊重し、どちらを切り捨てるか。どちらを優先するかを普通の人間は迷う。答えは自分と決まっていても、他人に意識を向けてしまうのが人なのだ。
だが夕子という人格にはその躊躇がない。人が心の深奥で行う他者を切り捨てるという判断を瞬時に行う天秤。人に傷つけられてきた「月海」という人間にとっての、最後の守り、それが夕子なのだ。
自分を守るために他者を拒絶する。当たり前の心の所作。その顕現である夕子が今。他人を傷つけて、泣いていた。
なぜだろう。
もう、意識が保てなくなってきた。なぜ、こんなに痛いのか、どうしてこんなに悲しいのか。
自分と空の間には、美しい少女がいた。人形のような堅いその顔は世界の全てに憎悪しながら、悲哀の涙を流していた。それが、意識をかき消すどの痛みよりもつらかった。
「大丈夫」
和広は言った。少しでも彼女の怒りが消えるように。僅かでも心安らかになるように。痛みと霞んだ視界の中、そう願った。
夕子は何かを言っている。顔を歪ませて泣いている。謝ってはいない。ただ悲しい。そして夕子はそれを自覚できない。彼女は他人を傷つけなければならない。そういう役割なのだ。当然だ。誰も他人を傷つけずにはいられない。拒絶することで守られる世界がある。彼女はそういう存在なのだ。
世界が薄れていく。右腕の痛みも、背中の石の感触もなくなって宙に浮いているようだった。
あらゆるものが遠い。夕子の声や、他の誰かの声が聞こえる。ああ、この声は誰だったか。聞いたことのある声音だった。
何も感覚がなく、朝の柔らかな光だけを感じる。空の中にいるみたいだ。海と宇宙の狭間。人との関わりも、身を千切る痛みもない。世界の全てを俯瞰する場所だった。
意識が落ちていく。人間という存在を縛るそれらから、解き放たれる。青に溶けてしまいそうな孤独。自由だった。ただ自分自身としての存在だけがあった。
和広は理解した。ああ、だから皆、崖から落ちるんだ。
死と生の狭間の、刹那の永遠。何者からも解き放たれるこの一瞬、人は孤独に、救われるのだ。
和広は落ちていく、人は翼を持たない。故に墜落する。待っているのは死という救済。空っぽの空に潰されるような感触に押され、墜落の先の、安らぎをみる。
和広は知らずその場所を目指した。そこはあまりに涼やかで甘く、静かだった。他人の声もない。ただ風の音と、荒々しい波の音、世界のもっとも青に近い音が満ちている。自分という存在すら曖昧になる場所。
だが網膜の裏に雫の感触と、陽の光を感じた。その光が和広の体に楔を打ち、虚空のただ中に固定した。
和広は、そのまま、時間を失った。
感想を頂けたら幸いです




