表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

葵の章

4章

過去と今の符号


 ラジオ体操のカードの空欄も残すところ十個近くになった。

 和広は、画用紙と鉛筆を持って、朝ヶ丘に向かっていた。読書感想画の宿題はとうに終わっている。ただ、また彼女に絵を誉めて欲しかったからだ。

 この前のサッカーの試合の時に聞いた彼女の名前、長瀬葵。だが、和広はそのまま「お姉ちゃん」と呼ぶことにした。一人っ子の和広にとって兄や姉というのは憧れであったし、甘えの象徴だったからだ。

 森を抜け、崖にでる。いつもの岩の上にお姉ちゃんはいなかった。そのかわり、岩場の先端、そそり立つ朝ヶ丘の死と生の境目に座っていたのだ。

 海鳥が鳴く。空は彼らの場所だ。人はそこに住むことはできない。地も天も束縛も悲しみもない自由な空に、人間はいくことは許されない。

「お、おはよう。お姉ちゃん」

 岩場の先端で泣くように座り込んでいたお姉ちゃんに声をかける。いつにもまして声をかけるのに緊張した。生と死の狭間で悲しんでいるように見える彼女がどこか触れ得ざるものに思えたからだ。

「あ、おはよう。和広君」

 お姉ちゃんは答えた。声を聞くだけで、振り返った顔を見るだけで、彼女が憔悴していることが分かった。

「どうしたの?」 

 おそるおそる聞く。月並みに鈍感な和広でもお姉ちゃんに何かあったことくらい嫌でも気付く。

「・・・・・ちょっと電話があって。月海の様子が怪しくなってきたの。私、帰らないといけないかもしれない」

 お姉ちゃんの歯切れが悪い。いつもの明るく聞き取りやすい声ではない。考えをぎりぎりまで言葉にできないまま、口にしたような不完全さ。

 だが、和広はそれよりも別のことに気を取られていた。

「つぐみ。どこか悪いの?」

 今までお姉ちゃんから月海の話は沢山聞いた。だがここ数年の月海の話はなかったし、その中で月海の体調が悪いことなど聞いたこともなかったからだ。

「そうなの詳しくは説明できないけど、つぐみは今、病気なんだ。」

 絞り出すような苦悩の声。どうしても、言いたくなかったという思いが、短い言葉に乗り潮騒に溶けていく。しかし、たかが十年しか生きていない子供はそんな些細な機微に気づけなかった。

「つぐみを助けなきゃ。今、どこにいるの?どんな病気なの?」

 和広は目の前で苦悩しているお姉ちゃんより、会ったことのない彼女の娘を心配した。移り変わりやすい子供の心。言葉一つで心配する対象を入れ替えてしまう。純粋というのは、考えのないことでもある。

「私の、せいなんだ。月海はね。壊れたんだよ。私のせいで、私がお母さんとして、いてあげなかったから」

 お姉ちゃんには和広に話しかけている意識はなかった。ただ、和広の言葉が糾弾の刃として彼女を引き裂いていた。だが、和広は自らの言葉の重さを理解してなどいなかった。

「お姉ちゃん。帰らないで、大丈夫なの?」

 お姉ちゃんは母親だ。和広の母は、世間一般で言うところの普通の母親だった。子供に世界のなんたるかを教え、教育について学校に一々抗議し、和広の中での正しさと優しさの象徴である「普通」の立派な母親だった。

 母はいつでも子供の側にいるものだと思っていた。幼い子供にとって母親の存在が占める割合は多い。だから今、お姉ちゃんが月海の側にいないのはおかしいと思った。

 大人は子供を守るものだと、当たり前のように、無責任に思っていたのだ。

 お姉ちゃんは何も言わなかった。和広もまた何も言えなかった。海鳥が青空で声を交わしあっている中、二人はただ無言だった。

 和広はお姉ちゃんに近づいた。言葉で何もできない癖に、接することで彼女の苦悩が和らぐかもしれないと、幼稚な考えを巡らせていた。

 二人の距離が縮む。だが二人の心は決定的に離れている。それは片方が察することが出来ない程幼く鈍感なせいか。それとも片方が大事なことを必死に隠しているせいか。

 和広はお姉ちゃんに抱きしめられた。

 眠ってしまうそうなくらい柔らかく。息も出来ないほど苦しい抱擁。

「ねえ。和広君は、私の味方だよね?」

 か細い声で、お姉ちゃんは呟いた。



「さて、谷川君。君が会ったのは何人で、どの人格だい?」

 喫茶店でカモミールのハーブティーを飲みながら、熊田は尋ねた。カモミールにはリラックス、鎮静作用があると聞いたことがある。

「・・・・・八雲、岬、出海、それから、美空です」

 殺人鬼の人格については勘定に入れなかった。しっかり会話をしたわけではないし、あれは和広にとって現象に等しかった。

「それだけかい?」

 熊田は猜疑の目を和広に向ける。改めて考えると和広は彼女の内包する十七の人格の内、たったの四人しか会っていないのだ。殺人鬼や、岬の話に出てきた「凪」を入れても半分にも満たない。

「はい」

「そうか・・・・。確かにその人格達は、比較的よく表にでる子たちだ。その子たちしかでてこないということは、君は随分と紳士的に彼女に接していたようだね」

 彼の視線を避けるように和広は珈琲を口にした。焦って飲んだので、カップの中には砂糖もミルクも入れていない。舌につくカフェインの苦さを我慢する。

「よく表にでる?人格は均等に表にでている訳じゃないんですか?」

 和広が彼女たちに会うときはその度違う人格だった。そのせいか和広は全ての人格が均等に表にでているものだと思っていた。

「そうだよ。元々多重人格というのは、その人が心の苦しみに耐えきれない事態に直面したとき、その苦痛を引き受けさせる役割として他人格を生み出すんだ。だから、心に苦痛がないとき、多くの人格は休眠している場合が多いんだよ。実際、彼女たちの中には五年と表に出ず休眠している人格もいる」

 五年、彼の言う休眠とはどのようなものかはわからない。だが人の心は五年も眠り続けられるものだろうか。

「勘違いされがちなんだけど、解離性傷害は、多重人格じゃなくて、苦痛や苦悩で時間を失って、記憶が飛んだり、自分も知らない間に行動してたりする精神的な遁走行為のことを指すんだよ。

 解離性同一性傷害はそれの派生。と思ってくれたらいい。心の痛みが臨界を越えたとき、彼女は時間を失って、違う人格にスイッチする。そうすることで心のバランスを保つんだ。

 勿論、日常の些細なことでもスイッチするけどね。そうじゃなきゃ病気じゃない。日常生活に支障を来さない異常は、病気じゃないんだよ。」

 岬が言っていたことを思い出す。時間を失う。痛みから逃げるために、自身を心の中に閉じこめてしまう。その間の耐え難い苦痛は、引き受ける専門の人格が請け負う。

「彼女に何があったんですか」

 駆け引きや前置きはいい。和広は踏み込んだ。心理学の講義を受けるために、彼の誘いに乗った訳ではない。

 男に触れられるだけであれほど恐怖してしまう彼女の過去を知る必要がある。

「意外に君はせっかちだね。

 その前に聞きたいんだけど、君は彼女たちの主人格に会っていないんだね?」

 主人格?美空のことだろうか。彼女たちは自分が多重人格だとは言ったが、誰が主人格なのかは話さなかった。

「美空のことですか?」

 熊田に問いかける。

「いいや、違うよ。彼女の正式な戸籍名は、霧谷月海。それが彼女の主人格であり。数多の人格を生み出した、最初の一人だ」



 お姉ちゃんに抱きしめられた日から、和広は朝ヶ丘にいくことを躊躇っていた。

 抱きしめられたとき、不思議と嬉しい気持ちはなかった。それよりも何故か恐ろしいと感じてしまったのだ。

 密着。束縛。依存。人が人を頼るとき、どちらの側も深層をさらけ出してしまう。人間の奥底は複雑なようでいて、単純で移ろいやすいものだ。

 和広は、怖かった。未成熟な心は、お姉ちゃんが自分を頼ってくるという重みを無意識に理解し、逃げたいと震えていた。

 お姉ちゃんにどう接したらいいのだろう。彼女は苦しんでいる。和広に助けを、支えを求めている。十年生きて初めて理解する、依存されるという恐怖。

 朝ヶ丘に行かず、気が付いたら三日たっていた。ただ、部屋の中で扇風機の風にさらされながら答えのない物思いに耽っていた。朝になったときが一番怖かった。

 タオルケットの中で和広は動けなかった。行かなければお姉ちゃんは落胆し、あるいは和広に対し怒りを覚えるかもしれない。だが、起きあがれない。生まれたばかりの赤ん坊のようにタオルケットくるまって、その場しのぎの安心感に包まれる。

 問題を先延ばしにすればするほど、深刻化することくらい分かっていたが、刻まれていく時間を後ろめたい安堵に変わっていくのを、心臓を締め付ける後悔とともに感じていた。

 自分は最低な奴だと思った。お姉ちゃんが好きだと言いながら小さな恐怖一つで膝を折っている。それも殺されたり、罵倒されたりする恐ろしさではなく。人と関わるという生きる上で最も大切な行為に怯えている。

 時間と共に、後悔と焦燥は大きくなる。お姉ちゃんは今も苦しんでいる。

 和広は起きあがる。足が別の意志を持っているのではないかと思える程重い。心臓は縮こまり、息をするのも難しく思えた。

 だがそれは、自分を騙すために自らが演じているにすぎない。仮病とどう違うというのだろう。

 やがて覚悟を決めて、朝ヶ丘に向かった。ただ青と岩が織りなす世界に入る。

 ふと、この場所がいつもと全く違って見えた。

 それまで朝ヶ丘とは単なる場所だった。自殺名所だと言われても、保護された人たちを遠くから見ても、そこは少し特殊な観光名所だとしか思わなかった。だがその時から、あらゆる絶望の終着駅である自殺の崖が、美しく壮厳で、恐ろしいものに感じられた。

 キリストが登ったゴルゴダへの道よりも柔らかで光に満ち。釈迦が入滅した沙羅の林よりも厳しい、涼やかな処刑場。

 お姉ちゃんはまだ、崖の先端にうずくまっていた。ひときわ大きな岩の固まりがせり出したような形をしているそこは、自らの人生を省みる懺悔の場のようにも見えた。

 和広は言葉を探した。友達と会話をしてこなかった和広のボキャブラリーは多いわけはない。

「おねえちゃん・・・・」

 やっと出たのはそんな言葉だった。彼女はずっとこの場所で待っていたはずだ。三日と言葉にすれば短いが、朝の冷めた孤独な時間。彼女は死の隣で、己の過去を自分だけで見ていたのだ。

「和広君。三日間どうして、来てくれなかったの?」

 まるで、機械のような無機質な声、だがそれは感情を押し殺したもので、漏れ出た非難に身体が締め付けられるような錯覚に陥った。

「ごめん、なさい。ちょっと宿題が忙しかったんだ」

 嘘を言った。自分でもこんなにスムーズに口に出ることに驚いた。それが一層和広を自己嫌悪に追いやった。

「そう・・・・・・。ねえ、和広君。隣に座って?」

 言われるまま、隣に座る。岩のひんやりした感触を服越しでお尻に感じた。目の前には、海と空の青が、朝の空気の中解け合っていた。

「月海もね。宿題は夏休みの最後まで残す子なのよ。去年だってそうだった」

 お姉ちゃんは口を開いた。驚きに頭が明確になっていくのを感じた。わずかに残った眠気は完全に消えた。彼女が最近の月海の話をするのは初めてだったからだ。

「私、馬鹿だから、月海が六歳のときに離婚したの。お金とか、権利とかは一切関係ないただの行き違いだったけど。若い私たちには大問題だった。恋とかは和広君にはまだ早いのかもね。でも、恋することと、愛することと、一緒に生きることは全然違ったんだ」

 お姉ちゃんが離婚していたなんて初めて知った。彼女の話の中に夫の話が出てこなかったことに疑問は思っていたが、深く追求することはなかった。

「法律は結構女性の味方で、月海の親権となけなしの養育費を貰うことは出来た。けど、身体が弱くてずっと専業主婦してた私に、一人で二人分の生活を養う力も、精神力もなかったんだ。

 だから再婚したの。仕事場で知り合った、金銭に余裕のある人と」

 語尾が震えていた。先程の、離婚の話の時もなかった怒りとも、悲しみとも着かない劣情。

「でもね。それが、失敗だったんだ」



「霧谷月海、母親が再婚する前の姓は長瀬だ。

 母親の長瀬葵と離婚した元々の父親は、お互い美大生で学生結婚だったそうだ。まあ、イメージで言って申し訳ないが、出来婚だったんだろうね。経済能力の低い学生同士の結婚でありえるのはそれしかない。両親も大反対したそうで、駆け落ち同然の結婚だったみたいだ」

 熊田の言葉に和広は呆然としていた。予感はずっと前からしていた。だが、そんなことはないとずっと考えていた。

「どうしたんだい?和広君」

 熊田は和広の様子がおかしいの察し、話を中断した。

「だ。大丈夫です」

 和広は言い。珈琲を一気に流し込む。人肌の温度になった珈琲の苦さが和広をこちらの時間に引き戻した。視線を熊田に戻し、続きを促す。

「だけど、そんな二人も仲が悪くなっていった。母親の葵さんは、元々身体の強い方ではなかったから、父親が必死になって働いた。ちょうど不景気が本格的に始まった時期でね。余程の仕事に就かない限り、共働きしないと核家族はつらい時代だった。

 母親は彼女なりに何とか役に立とうと、月海にかなり厳しい教育をしたらしいよ。結構ヒステリックで精神的にも弱いところがある女性だったからね。責任感と、夫に対する罪悪感で必死だったんだろう。

 父親の方は元々デザイナー志望だったらしい。だけどデザイン業の不安定な収入じゃ、家族を養えないのは目に見えている。だから仕事を選ばず働いたらしい。どんな仕事かは聞いてないけど、禁止されていたアルバイトの掛け持ちもやっていたらしいし。

 それで結局行き違い。娘のことを省みない夫と、夢をあきらめさせ、自分の給料を食いつぶしていく妻と子。世間は子供のことを考えろというだろうけど、心を磨耗させた人にそんな余裕を強要するのは寧ろ罪だ」

 今の時代では、夢を追いながら家族を養うことなど無理なのだ。当たり前のことだが、画家を目指す和広の心にも針のように突き刺さった。

「その時点で、月海の自我は解離し始めていた。最近零歳教育なんてものがあるけど。あれは正しくやらないと、子供に妙な先入観や恐怖心を与えてしまいかねないからね。葵さんはやり方を間違えた。

 それから、解離のしやすさっていうのは個人差があるんだ。勿論環境によって起こるものだけど。個人の資質も関わってくる。その点で、月海は多重人格に対しての適正は高かったわけだ。

 後、これは直接聞いた訳じゃないけど、長瀬葵さんは、幼い頃に親から虐待を受けていたらしくてね。半ば絶縁に近い状態で、家を飛び出したそうだ。

 白雪姫コンプレックスって知っているかな?子供の頃に虐待された母親が、自分の娘に対して同じよう虐待してしまう症候のことだよ。葵さんはその気があった。

 と、様々な因子が重なり合って、月海にかかるストレスは増えた。そして母親も、本人すらも気づかないところで、解離性同一性障害を発症させたんだ」

 自分より美しい娘の白雪姫に嫉妬し、毒の林檎を渡した王妃。王妃はその罰として焼けた鉄の靴を履かされ、命つきるまで踊らされる。親が子を傷つけることはそれ程までに重い罪なのだろうか。

 お姉ちゃんは、月海を壊してしまったと言っていた。それはつまり、自分が娘を虐待し、精神病を患わせてしまったことだろう。

 それが彼女の母としての罪のひとつ。

「主人格の月海があそこまでなったのは、その、母親のせいですか?」

 今なら、何が起こったかわかる。あのときお姉ちゃんも意味のまだ分からない和広に教えてくれた。それらが符合していく。

「違うよ。悪化させた最大の原因は、葵さんと再婚した男だ。

 娘と二人で暮らす経済力のない女性と、結婚適齢期を過ぎた男性の結婚。打算的だけど、これも愛の一つだ。

 問題は、その男は財力はあったけど。同時に小児性愛の気もあったことだ。

 再婚した相手の幼い連れ子の少女と、小児性愛者。どんなことが起こったか、ここまで言えばわかるだろう?」

 熊田はハーブティーを口に運ぶ。精神科医である彼はこのような事例など日常会話のように聞くのだろう。だが、催す嫌悪は決して慣れるものではないようで、顔にはやるせない表情と皺が現れていた。カモミール特有の心を落ち着かせる香りが唯一の救いだった。


「再婚したあの人は優しかった。前の夫にはなかった安心感があった。でもそれは見せかけだったの。人は外見で判断しちゃいけないけど。私は外見しかみれなかった。

 あの人は、私に本当によくしてくれた。悪い人じゃないんだよ。

 でも、彼が、壊れかけの月海を、完璧に壊しちゃったんだ」

 お姉ちゃんは震えていた。月海が何をされて「壊れた」のか和広に教えてはくれなかった。きっと子供には早いことなのだと和広は思った。

 それは少しずるいと思った。子供だって色々考えている。幼稚な自信だったが、自身そのものを否定されたようで、つらかった。

「それで、月海はどうしたの?」

 月海は「壊れた」その状態がどのようなものか和広には見当も付かなかった。だが、無事ではないことくらいは理解できた。

「今、月海は入院しているの。普通の病院じゃなくて、心の病院に。

 本当は私がついていなくちゃいけないの。でも私、怖いんだ。自分の娘なのに、大切な家族のはずなのに。

 あの子の何も映してない目が、私を怯える姿が、狂ったように叫んで、ものを壊して、私に包丁を向けることが!

 親なのに、受け止めなきゃいけないのに!あの子を守らなきゃいけないのに!怖かったの!あの子を抱きしめるのも、夫に話を付けるのも、全部!全部!」

 彼女は、全ての責任から逃げていた。今まで積み上げてきた大事なものに恐怖を抱いていた。

 細い指がお姉ちゃんの綺麗な顔を覆う。泣いているのだと分かった。しなやかな指が受け止めきれなかった雫を地面に落とす。余りに小さく、悲しい宝石。

 和広は言葉をかけることが出来なかった。彼女が経験した重みを和広は知らない。だから半端な慰めなどかけることができない。上辺だけの言葉など、苦痛を逆撫でするだけだ。

 言葉にできない代わりにお姉ちゃんの手を握った。人は暖かいものに触れると安心する。今は夏で、その熱さえも鬱陶しさを覚えてしまうかもしれない。だが、心が凍えたときそんな物理的な暑さなど関係ない。

 波の音が聞こえる。寄せては返し、永久に止まることはない。人間の悲しみはいつかは止まる。涙もいつかは枯れる。お姉ちゃんは長い時間をかけて、泣くのを止めた。

「和広君。人ってどうしようもないよね。

 好きだから一緒になって、耐えられないから守って、大切だから側にいて、思い通りにならないから投げ出して。誰だって自分が一番なんだ。命をかけて守ろうと思った自分の娘だって、いつの間にか、全然違う、怖い存在になってた」

 泣くことは人間のストレスを軽減させる。想いという厄介なものを背負った人間が持つ防衛手段だ。だがストレスが減り、少し冷静な目が絶望しかない世界を捉えたとき、人は何を思うのだろう。

「和広君。君の書く絵はとても綺麗だよ。見るだけで、私の心は救われたんだ。

 ねえ。和広君は私のこと見捨てたりなんか、しないよね?」

 彼女の瞳には、光がなかった。

 絶望しかない泥の中で、弱々しい藁を見つけたとき、人はどんな希望を抱いてしまうのだろう。


「・・僕が月海の病気と関わったのは、月海が学校内で傷害事件を起こしたときだ。渡辺くんがその件を担当していたから、昔からの繋がりがあった僕にお鉢が回ってきたんだよ。

 葵さんの手には包帯が巻かれていたよ。おとなしかった月海が急に包丁を持って暴れたそうでね。今でも鮮明に覚えてるよ。恐怖と愛情に揺れ動いていた若いお母さんの顔をね」

 愛娘の異常行動。母親の彼女はどんな心境だったのだろう。厳しく躾たのがいけなかったのか。再婚がいけなかったのか。たった一人の娘のために人生を捧げたのに、その娘が自分を傷つける。シジフォスの罰のような理不尽な痛み。

「解離性障害に限らず、精神病の治療において一番大切なのは周りの人間のサポートだ。他人から歪められた心は、他人でしか癒せないからね。

 彼女は間違いなく母親だった。教育の方法は間違っていたかもしれない。でも、娘を思う気持ちは本物だった。治療に対して不器用ながら熱心に取り組んでいた。

 でも障害が大きすぎた。治療の上で明らかになった再婚相手の月海に対する性暴力。月海の交代人格の異常行動。根気が必要な対話。戸惑いながらも、彼女は戦っていた。

 当時、日本では多重人格に対する認識が薄かった時代だ。僕自身も最初、月海が多重人格だとはっきりと診断できなかった。そうした症例に会った前例もなかったしね。先の見えない治療の中、彼女は本当に立派に母親として月海に接してたよ。

 ・・・だけどね。人間の心はそんな頑丈には出来ていないんだ」

 熊田が顔を歪める。精神科医にとって患者の治療より厄介なものは、患者の周りの環境の改善なのだろう。周りの環境が患者の心を傷つけてしまうのなら、いくら患者の心を直そうとしたところで、また歪められてしまう。

 医者はあくまで他人だ。特に日本では患者の家庭に深く関与することは難しい。だから、一番理解ある保護者に家庭の環境の改善は任せるしかない。

「葵さんは失踪した。愛娘を一人おいてね。でも僕に彼女を責めることは出来ない。彼女も限界だったんだ。元々、苦しみをため込む人間だった。その手の人間の心はね、曲がるんじゃなくて折れるんだ。

 夫とも険悪になったらしいし、全てを放り投げたくなったんだろう」

 そして、失踪した霧谷葵、お姉ちゃんが辿り着いたのは、この町、正確に言えば朝ヶ丘だ。

 そうして和広と、長瀬葵は出会った。全てを放り投げ、罪に怯える母親と、何も分からない少年は、皮肉にも死に最も近い場所で交差した。

「その母親は、その後見つかったんですか?」

 彼女の結末を和広は知っている。だが聞かずにはいられなかった。喫茶店の窓から見える町並みはすでに夕焼けの赤に包まれている。

「この町で見つかったよ。死体になって。君も朝ヶ丘の近くに住んでいるのなら彼女をみたことがあるのかもしれないね。

 でも、覚えていないか。年間で十数人も死んでいるこの町では」

 熊田はハーブティーを呷る。和広の珈琲は無添加のまま冷めていた。

 覚えている。セピア色ですらなく鮮やかな青を携えて、その記憶は和広の心に居座っていた。


 何かに縛られるように、その日も朝ヶ丘に向かった。何度も通った。

 行きたいという気持ちはもはや無かった。行かなければならないという強迫観念に突き動かされていた。

 だが、それも解放されるときが来た。和広が持っているラジオ体操のカード。その空欄が後一つになっていた。

 夏が終わる。ただ涼しさを感じさせていた涼風が冷たい感触をはらみ、森を支配していた虫の声が遠くなる。

 最後の日も、和広はお姉ちゃんの隣に座っていた。その距離は余りに近く、肩が今にも触れそうだった。だが完全に身体を接触させたりはしなかった。人は互いを信頼しなければならない、友情や愛情、綺麗事といわれる言葉は多い。だが和広は、段々と、人と人が関わるときに必要な距離を感じ取るようになっていた。

 お姉ちゃんは和広にもたれ掛かろうとして、躊躇う仕草を繰り返す。それは支えを失った若木のようであり、生そのものを依存する宿り木のようでもあった。

「和広君。私、生きてて良いと思う?」

「大丈夫。当たり前だよ」

 お姉ちゃんは最近、このような質問ばかりしていた。それは真面目に考えて欲しいわけではない。ただ、自分の存在が間違っていないと肯定して欲しい故の問い。

 絹のような髪が潮風に遊ぶ。幼子の舞のような無秩序な動き、彼女は乱れた髪を直すこともしない。あるがまま、風に翻弄され、波の言葉を溶かし、ただあるものとしてそこにいた。

「お姉ちゃん。僕さ、明日から学校だから、ここには今までみたいにくることは出来ないよ」

 寂しさと一抹の安心感を覚えた。お姉ちゃんと会いづらくなるのは確かに悲しい。だけど、お姉ちゃんと少し距離を置くことに安堵する自分がいることを和広は必死にみないようにしてきた。

「学校でも、朝早くすれば毎日会えるでしょ?」

「学校遠いし、宿題もあるから、毎日はちょっときついよ」

「じゃあ、夕方は?」

「店の手伝いしないといけないから」

 詭弁だ。和広は宿題に真面目に取り組むような優等生ではなかったし、店を手伝う健気な息子でもなかった。

「じゃあ、週に何日会えるの?」

 お姉ちゃんの声には余裕がなかった。地獄で見つけた蜘蛛の糸に手を伸ばすように、和広が離れないように言葉の網を必死に掛ける。

 和広はお姉ちゃんのことが嫌いになったという訳では勿論無かった。ただ、彼女と関わることが、自分の身体に鎖を縛り付けるような繋がりをずっと背負わなければならないことになると思った。

 人は他人の全てを背負えない。和広のような小学生ならば尚更だ。どれほど苦しい境遇だろうが、結局は自分で立つしかない。

「一日、二日くらいかな。実際始まってみないと何とも言えないけれど」

「和広君は私のこと嫌いなの?」

 お姉ちゃんが迫る。脈絡のない、緊迫した質問。

「嫌いじゃないよ。大好きだよ。でもぼくは小学生なんだ。学校行かなくちゃ、いけないんだよ」

 半分言い訳で半分本当だった。岸や、少ない友人がいる小学校は和広にとって普遍的な日常の象徴だった。いくらお姉ちゃんが大切な存在でも、日常を捨てることは出来ない。

「好きなら、毎日ここに来て。お願いだから。もうこの前みたいに怒鳴ったりなんかしないから。何でもするから。お願い」

 和広は答えられなかった。言いくるめられるだけの論理も、口車もなかった。

 何でもするという言葉が方便だとはわかる。だが、和広は怖くなった。お姉ちゃんが自分の決定権を和広に委ねているということだ。 

「和広君まで、私を見捨てるの?」

 お姉ちゃんの声音に浮かんだのは非難ではなく懇願だった。彼女はなぜ和広に執着するのは分からなかった。しかし、他のどんな繋がりよりもこの少年との繋がりを大事にしている。

 だが一方的な絆の押しつけは、互いの人生を狂わす。

「見捨てないよ。でも、お互いの人生があるでしょ?あんまり深く関わったら僕も、お姉ちゃんも、お互い足引っ張っちゃう」

 和広はそれをずっと感じていた。他人を背負う重さ。完全に理解はしていなくても、感じていた。

 しかしそれを他人に伝えるのは拒絶するのと同義だ。例えどんな柔らかなレトリックに包んでいたとしても。

「やっぱり和広君も、私のこと嫌いなんだね」

 お姉ちゃんは呟いた。人は物事を二元化してしまう。善と悪、右と左、世界と自分、好きと嫌い。だが二元化を咎める側も、非難することに逃げているにすぎない。

「嫌いじゃないよ」

「同じことじゃない!」

 甲高い声が潮騒を切り裂く。青空を割るような魂の叫び。

「結局皆、私とは関わりたくないだけじゃない!あの人も、月海も、和広君も、なんで私なんかと関わったの。どうせ逃げてしまうのなら、最初から会わなきゃ良いじゃない!最初から冷たくすればいいじゃない!

 希望を抱かせて、最後は逃げるの?置いていくの?私は一体どうすればいいのよ!

 もう帰ってよ!帰って!

 私から、帰って!」

 お姉ちゃんは和広を座った状態で、森の方に押した。狂乱していて、全てを拒絶する子供のようだった。

「おねえちゃ・・・」

「帰ってよ!」

 何度も同じやりとりを繰り返した。和広がなだめ、彼女が怒る。結局、彼女が和広を許すことはなかった。日は高くなった頃、ついに和広は折れた。

「・・・また、明日くるから」

 弱々しい声でそう言うのが精一杯だった。お姉ちゃんはまだ背を向け、崖から海をみている。もう何も言いたくないようで、言葉は何もなかった。

 和広は何度も振り向きながら、朝ヶ丘を去った。心の奥に突き刺さるような痛みとともに、妙な開放感を感じてしまっていた。

 人は結局、一人なんだと、心の端で気づいてしまった。


 目覚ましがなる。夏の湿気を含んだ空気はまだまだ去ることはなさそうだった。日付と月が変わってもそれは人間の事情であって、世界は区切りも曖昧に移ろっていく。

 眠気眼の和広は、窓から射す光とともに、まとめておいたランドセルを確認した。宿題は完璧に出来たとまでは言えないが、言い訳でどうにかなる程度には済ませている。

 行く。とは伝えていたが、本当に行った方がいいのだろうか。惰性のような躊躇が和広を捉えていた。

 まだ、お姉ちゃんが怒っているのなら、まだ、側に行かない方がいいのではないか。

 眠気以上に、そのことが和広を布団に縛り付けていた。

 このまま、登校時間ギリギリまで、眠ってしまおう。そうしたら、嫌なことを考えなくて済む。少なくとも今は。

 ドン!ドン!

 突然聞こえた音に強引に意識を覚醒させられる。家の、それも店の扉をたたく音だ。まだ開店する時間には早すぎる。迷惑な客か、あるいはこの家の住人に用があるのか。

 その音が止むと、次に和広の部屋の扉がノックされた。

「和広、秋月さんが呼んでいるよ」

 母の声だった。秋月というのはママのことだ。こんな時間に一体なんだというのだ。

 ガラス戸を開ける。早朝の光の中、残り僅かな命の朝顔が萎れながらも咲いている。朝顔の植木鉢の隣には、息を切らしたママがいた。

「どうしたんだよ。ママ・・・。こんな時間に」

 頭は眠気から解き放たれていたが、身体はそういかない。

「あんた。葵さん知らない?」

 せっぱ詰まった様子でママは聞いた。

「知らないよ」

 今朝はまだ会っていない。昨日の朝、別れたっきりだ。

 ママは息を整えた。

「あの人、死ぬつもりだよ」

 冷静な言葉が、場を支配する。

「え、え?」和広は情けない声を出す。

 お姉ちゃんが死ぬ?そんな、昨日喧嘩したからって。

「私が起きたら、宿泊代としてのお金と、置き手紙があったよ。」

 ママは紙を和広に見せる。


 秋月鈴さんへ

 今まで、短い間でしたけど、ありがとうございました。

 宿泊代をお返しします。

 この町にきて、鈴さんや、和広君、沢山の人に出会って、こんな私でも、救われた気がしました。

 でも、結局、私は逃げていただけでした。

 ですが、私にはもう償いをする資格すらありません。

 立ち向かう先に償いがあるのなら、逃げた先には罰があるのでしょう。

 私は、馬鹿で愚かな自分を裁こうと思います。

 止めないで下さい。

 自分で死ぬ権利くらい、許して下さい。


 本当にありがとうございました。

 

 PS 和広君へ


          ごめんね


「あの子、本気だよ」

 何度も書き直した後があった。それだけ、彼女が本気で終わらせようとしていることが伝わってきた。

「ママ、お姉ちゃんが家を出たのはいつ?」

「分からないよ。さっき私が起きたときにはもういなかった」

 まだ六時半程だ。いつも朝ヶ丘で会っていた時間だ。まだ大丈夫。根拠はないが、確信した。

「私はこの先の崖をみてくる。カズ坊も、思い当たる場所を探して!」

 ママはそう言って朝ヶ丘への道を走っていった。まだ空いていないお土産屋の閉じたシャッターが、この時間をどこでもない時空に閉じこめているようだった。

 店から、父と母が出てきた。どうやら、会話を聞いていたようだ。和広と顔も知らないお姉ちゃんとの関係を問いただすこともなく。ただ

「俺たちも探すぞ」

 ただそう言って、同じように朝ヶ丘に向かった。

 取り残された和広は、確定に近い予測をたてていた。ママや、両親が行った方向ではない。自分と、お姉ちゃんだけが知っている秘密の場所。

 間違いなく、あそこにお姉ちゃんはいる。

 迷う余地はない。和広は大人たちが行った方向とは全く違う裏道に入った。

 人は何のために生きるのか。他者の為か、自己の為か、エゴの為か。人が涙する物語は献身的な自己犠牲が多い。自分すらなげうつほどの自己犠牲で愛する人を助ける。支える。だがそれは本人にとって最良の選択なのだろうか。

 誰かの為にと人は言う。歌は歌う。言霊は紡がれる。だが、大切なものと自分を天秤に掛けたとき、大切なものを選ぶのは果たして正解なのだろうか。

 和広は狭間に立った。一歩足を出す度に、砂利の音がする。

 岩と青が境界を、地面と空が生と死を分ける境目の場所。朝ヶ丘。そこにはこの夏に出会った愛しい人がいた。

「こないでって行ったでしょ」

 お姉ちゃんは和広に背を向けたまま呟く。

「お姉ちゃん、死んじゃ駄目だよ」

 和広は言った。叫んだつもりが、弱々しい声にしかならなかった。

「あなたに私の何がわかるの」

「そんなの何も分からないよ!」

 分かるわけがない。僕とお姉ちゃんは違う人間だ。ふれ合うことは出来ても、その人自身になることは出来ない。

「じゃあ、あなたに私を止める権利はないわ」

 お姉ちゃんが振り返る。その瞳は凍っていた。涼しげに、悲しげに。

「私の人生だもの。終わりは、私がつける。誰も何も、止めることは許さない。生まれることが自分で選べないのなら。死ぬ自由くらいはあってもいいでしょう?」

 手を広げた。風を受け止めるように、世界を拒むように。

「そうだわ。あなたが私を生かそうとする権利があるのなら、あなたを連れて行く自由も私にあるはずよね」

 お姉ちゃんは後ろに歩いていく。朝日を背にするその姿は、どこか神々しかった。

「駄目だ!待ってよ!」

 和広は走り寄ろうとする。死と生を区切る境目は彼女へ残り三歩というところまで迫って来ている。その状況が和広を急がせた。

 言葉の意味も深く考えないままに。

 和広は手を伸ばした。小枝のような細い腕。届かない。死を踏み越え、青に溶けようとする彼女には、腕は到達できない。届いてくれと強く願った。

 ふいに、手首を捕まれ、前に引っ張られた。予想外の出来事に、和広はそのまま前に倒れそうになる。

 お姉ちゃんの手だった。

 バランスを崩し、和広は倒れながら、死の境界を乗り越えた彼女をみた。

 左手に激痛が走る。倒れた衝撃を左手でもろに受け止めたせいだ。肺にも衝撃が走り、咽せる。それと同時に右手にあり得ないほどの重量が貸せられる。崖で身を乗り出した体制で倒れ込んだ和広は、右手に掴んでいるものを激痛の中はなさまいとした。

 崖から落ちた彼女が、宙に浮いた状態で、和広の右手を掴んでいた。

「なん・・・で・・。お姉ちゃん・・・」

 激痛にうめきながら、聞く。右腕にはこれまで経験したこともない負荷がかかり、体中は岩に打ち付けられ、痺れていた。

「一緒にいこう?和広君」

 昨日の、助けを求める瞳で、お姉ちゃんは言った。

「やっぱり、一人は寂しいよ」

 引き上げようとした。だが上がらなかった。小学生が成人女性を引き上げる力など持っている訳もない。なんて非力なのだと和広は思った。

「何、いってるんだよ!死んじゃ、だめだ!」

 叫ぶ。彼女から動かなければ、引き上げることは不可能だ。

「ねえ。和広君。私ね。人生を間違いすぎたの。だからもう、正しく生きることは無理なんだ。誰かと関わって、弱さを打ち明けることも、娘を裏切った私には無理なんだ。

 でも、でもね。寂しいんだ。死ぬときになっても、寂しいの。もう全部おしまいなのに。

 和広君。あなたは、私と同じ、生きていても仕方ないと思っているんじゃないの?岸君みたいに人にとって必要な存在じゃない自分は、いらないって」

 お姉ちゃんを掴む手に力が籠もる。お姉ちゃんが言うような虚無感を和広はずっと感じていた。痛みとそれらがまぜこぜになって力を奪っていった。

 腕が、震える。

「和広君。一緒に、行こう?」

 お姉ちゃんの絞り出すような声。死を目前とする恐怖でかすれ震えている声。恐怖に勝る寂寥。

 震える手のひら。それは重さのためか、彼女の思いに同調したのか分からなかった。

だけど。

「・・・・僕は、死にたく、ない」

 命を絞り出した。殆ど無意識に、その言葉を発した。自分がいらない存在だと感じていても、それでも、生きたかった。

 僕は人間なんだから。

「そう、だよね」お姉ちゃんはあきらめたように吐息と言葉を吐き出す。

「おねえ、ちゃんも」生きて欲しかった。どんな理不尽な現実があっても、どうしようもなく自分が嫌いになっても。

 だけどお姉ちゃんは、首を振った。

「私は、もう手遅れ。疲れちゃった。でも和広君。君には可能性がある。君の絵は綺麗だし。君の言葉は誠実だった。

 ごめんね。和広君。ここまで、付き合わせて。でもやっぱり一緒にいきたかったな」

 お姉ちゃんは手を振り払った。限界に来ていた和広の手は、いとも簡単に離される。

 お姉ちゃんが落ちていく。潮騒の中を、遠い空間を。瞬きすら出来ない短い時間。少年は瞳に、その刹那を焼き付けてしまった。

 厳格な岩と海の間、彼女は飛んだ。

 ――ごめんね。月海

 そう、最後にお姉ちゃんは呟いたように見えた。

 ノイズのような波音の中、人が潰れる音がした。


「君は、葵さんと知り合いだったのか」

 熊のような精神科医は言った。和広は黙っていた。簡潔に、だが心をえぐり出しながら、幼い日のことを熊田に話したせいで疲れていた。

 熊田に話したのは、利があると判断したからではない。堰を失って流れ出た記憶を他人に打ち明けなければ耐えられなかったからだ。

「そうか。君が、彼女の最後をみたのか」

言葉が和広を抉る。見ていただけだ。長瀬葵という人間の最後の刻を。その命を引き上げることもできず。

「ありがとう。少なくとも彼女は最後まで孤独じゃなかった」

 なのに、熊田は礼を言った。それが一層記憶を重くした。

 あの後、和広は朝ヶ丘でずっとうずくまっていた。血の匂いもせず、いつもと同じ潮風が強く吹く中、両親とママが見つけるまで、動けなかった。

「同じことです」

 救えなかったことは変わりはない。生きてさえいればと今更言っても、この世の言葉は彼岸に届かない。

「自分を責めるべきじゃない。本来、他人ができることなんてたかがしれているんだから。誰も最良の選択肢なんて選べないよ。未来をみることはできないからね。世界には神様も、ラプラスの魔もいないのだから」

「はい・・・」

 和広は生返事を返す。たかが知れていても、可能性があったことには変わりがない。未来が見えなくても、予想がつくことはできない訳じゃない。物語の主人公ならば最良に至る機会を逃したりはしない。

「そろそろ、帰った方がいい。明日も彼女と会うんだろう?」

 熊田は和広に気を使ったのか、会話を打ち切った。

「はい。そうしますよ」

「僕も行きたいところだけどね。残念ながら、彼女たちは僕を信じていない。拒絶しているのは数人だけど、一人として彼女をみたときの僕の信用は良くない」

「何をしたんですか?」

 和広は尋ねた。つかみ所のない男だが、他人を傷つけることはしないように見えた。

「治療のときにね。深く聞きすぎたんだよ。多重人格っていうのは珍しい症例だから。焦ってたんだと思う。患者との信頼を大切にするのが、基本なのにね。」

 熊田は詫びるような顔をしていた。

「精神科医っていうのはね。マゾヒストとサディストの両方の面を持っていなくちゃいけないんだよ。じっと患者の言葉を引き出すために待ち、その苦しみを主観的に思う側面と、相手の心的外傷に惑わされない厳しい側面。僕と月海はかなり長い間一緒に治療してきたから。いつしか、彼女の苦しみに僕が同調するようになってしまったんだよ。

 長く治療するということは、患者と親密になっていくことは避けられない。彼女たちは主治医に対して好意を抱いてくれる。良くも悪くもね。人格が別れている分、人間としての深みが薄いんだ。だからすぐに他人に依存する。

 好意の種類も人格によって違う。美空や出海は親愛に近い好意を抱いてくれた。治療について賛成してくれたし、治療の最終的な目標、人格統合へのプロセスを一緒に検討したりした。

 だが他の人格は僕に患者と医者との境を越える関係を幻想していた。

 岬は僕に父親を夢見ていた。ハグをしてくれ、一緒に暮らして隣で寝てくれって頼まれたことは何度もある。断る度に泣かれたし、昔のことを思い出すと錯乱状態になった。

 八雲はこちらを逆撫でするような発言ばかりした。きっと大人の男性の象徴としてこちらを見ていたんだろうね。見捨てられないか確認するために何度も怒鳴ってきたよ。深夜二時に電話でたたき起こされたこともある。

 肉体関係を求めてきた人格もいたよ。かつての義父との痛みを再現するように、そうすれば僕が彼女を見捨てることはないと考えてね。断ると喚き散らし、こちらに暴力を振るおうとした。

 肝心の月海は、一番おとなしかった。だが一番歪んでいた。いつも怯えていて、ちょっとした物音にも過剰に反応する。僕に対して異様に下手に出る。義父や父親との関係をロールプレイすることで、無意識的に安心を得ようとしたんだろう。

 彼らと一緒に治療していく内に、治療者としての自分を見失うほど、心が磨耗していったよ。ちょうど、僕の家庭内でも問題があったしね。」

「問題ってなんですか」

「離婚だよ。今のご時世そう珍しいことでもないだろう?

 だけど彼女たちにとって離婚は不幸の象徴だ。だから八雲や、夕子っていう攻撃的な人格は、僕を見限ったのさ」

 離婚の原因については踏み込まなかった。彼も聞くなと目で言っていた。

 それより、聞き慣れない名前が出てきた。先程、美空と話しているときも出てきた名前だ。

「夕子ってこの前の殺人未遂を犯した人格ですか?」

「そうだ。八雲とは違って狂気じみた怒りを司る。八雲の憤怒はストレスの発散にも繋がるけど、夕子は壊れた怒りに分類できる。

 彼女が僕のクリニックにきたのは、小学校で傷害事件を起こしたからだけど、それは夕子がやったことだ。彼女は月海を守ろうという側面が強すぎるんだよ。岬が受け止めきれない苦痛の記憶の管理もしているしね」

 彼女は殺人未遂事件のとき、酔った中年男性に絡まれた。性的な行為が連想されるそれは、義父からの性暴行を思い起こさせたのだろう。

「とにかく、僕は彼女からの信頼を失っている。彼女たちは思い込みが激しい。それは人格自体が人間性に乏しいからだ。だから今の僕では、彼女たちを説得することは難しい。だから、月海達が今、心を開いているのは、君しかいないんだ」

 熊田は席を立とうとする。話は終わりのようだ。和広は腑に落ちない点ががあった。

「月海は何で、この場所に来られたんですか?その、父親とかは」

 月海にしてみれば、死ぬためや、それを止めるため、あと恐らく、母親の足跡を辿るためと様々な要因があるだろう。だがここにくる前の月海の居場所は今どうなっているのだろう。

 彼女に性的暴力を行ったという義父、その男はまだ彼女の父親なのだろうか。

 熊田はああ、と言っていなかったことを失念していたように言う。

「その義父なら一週間前から海外に出張しているよ。中国らしくてね。連絡をとったときかなり慌てていた。後一ヶ月は帰れないそうだ。彼は焦っている。そもそも彼は月海の治療に反対している。自分のやったことが明るみにでてしまうからね」

 和広と熊田は、店を出た。代は熊田が出してくれた。太陽と夜の境目にある空は、夕方の赤と夜の青が混ざり合って幻想的な色をしていた。黄昏を連想させる色彩に、和広は寂しい気持ちになった。

「・・・自殺って、本当にいけないことなんでしょうか」

 和広は自分の口から出てきた言葉に驚いた。だが、ずっと降り積もっていた疑問でもあった。

「自分の人生で、社会から嫌われて、どうしようもなくつらくて、どうにもならない状況で、唯一自分で選べる選択肢が、人としてのプライドが自殺なんじゃないかって、俺、思うんです」

 生きる義務があるのならば、死を選ぶ権利もあるのではないのか。

 熊田は黙った。この問いは精神科医としての根底を否定する質問かもしれない。彼はしばし考え込んだ後、顔を上げた。

「確かに、自殺する自由すら奪うのは、その人を否定してしまうかもしれない。本人にとっては屈辱的だろう。

 でもね和広君。僕たちは一人で生きているわけじゃないんだ。絶対誰かは手を伸ばしてくれている。伸ばしてなければ僕が伸ばす。絶対その人が死んで悲しむ人はいるんだ。

 何より、自殺する自分が悲しいんだよ。ただ、それに気づいていないだけでね。大切なのは、その人が悲しみに気づいて、受け入れられるかどうかなんだ。

 精神科医の仕事、人との関わりってそういうものだと僕は信じてる」

 熊田は穏やかな顔で言った。

 その言葉を臆面もなく受け入れられるか、和広には自信がなかった。

 俺は、誰かが差し伸ばしてくれた手を、素直に掴むことができるのだろうかと。

感想を頂けたら幸いです

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ