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岬の章

第3話

萌え度というものがあるのならここが1番萌え度が高いところ

むしろあざといかも

 この町には、色々なものがある。博物館に、お土産屋さん。展望台に観光案内。

 そして、支援施設。

 それらは全て、この町にある断崖、朝ヶ丘に由来してできたものだ。人がいれば歴史は勝手に紡がれる。そこに珍しい何かがあれば、ただの歴史に価値が生まれる。

 始めから万里の長城が立っているような綺麗な歴史はどこにもない。あらゆる時間が人間によって練り上げられ、足跡になる。瞬間が丹念に塗り重ねられ、歴史になる。

 そのような意味ではこの町はこの場所に即した歴史を正確に刻んでいる。

 夕焼けの中、和広は、唯一の馴染みの店に入った。赤色の暖簾の隙間からはお多福ソースの焦げる香りが昼から何も入れていない胃を刺激する。和広が小学校で一桁の割り算を解いていたときから嗅ぎ慣れた匂い。

 ガラガラと引き戸の硝子が揺れる音と共に店への扉を開ける。引き戸はこうでなくてはならないと、手に残る独特の振動を感じながら思う。

 店の中は空いていた。仕事帰りらしきサラリーマンや、近くに住む独身の老人が二、三人カウンター席ではなくテーブル席にいるだけだ。

「いらっしゃい」

 ママが言う。ママはカウンターで洗い物をしていた。

 和広は何も言わずカウンター席に座る。いつもは一言二言挨拶を交わすのだが今は頭の中に様々なものが蟠っていて、そこすら考えを割く余裕がない。

「随分困っている様じゃないかい、カズ」

 ママがお冷を置く、水滴が浮き出ている硝子のコップは、夏の暑さにさらされていた喉の乾きをさらに催促する。

「まあね。そういえば、パトロールの人から何か聞いたことある?」

 この前、ママにパトロールの情報を依頼しておいた。パトロールは完全なボランティアだがそれ故に独自のネットワークを持っている。

「悪いねえ。何人かに聞いてみたけれど、その美空って子?そんな女の子いなかったって」

 やはり、彼女は和広しか知らない外れの崖にしか行っていないようだ。目撃情報の一つもあれば、彼女を捜すのに役に立つと思ったのだが。

「一応、そんな子を見かけたらすぐに保護するように言って置いたけれど」

「ありがとう、ママ」

 謝礼をほぼ条件反射で返しながら、美空たちは捕まらないだろうなと考えた。布施先生から貰った資料をみると、多重人格者というのは、他人に自分の障害を隠す。その症状を他人に信じて貰えないし、多重人格になった理由のほとんどが幼少期のつらい体験が主で、それにより他者に対する警戒心が強い。

 さらにやっかいなことに、自分が多重人格だと自覚していない人格もいるということだ。伝達された容姿だけでは、性格や行動原理さえ変わる美空たちを判別することは難しいだろう。

 やはり、明日会ったときに、どうにかして居場所を聞かなければならないと思った。

 だがそこで疑問が浮かんだ。どうやってここまで身を隠していたのだろう。警察は決して無能な組織ではない。殺人未遂という重大事件で、この町の平和ぼけした警察の包囲網でもある程度強固であるはずだ。だが、和広は捕まったという情報を聞いた覚えはない。少なくとも事件の関係者であるのだから、確保したならば連絡くらいくれるだろう。

「あんまり根詰めない方がいいよ。とりあえず腹を膨らませな」

 そう言って、ママはカウンターの上の鉄板に生地を流し込む。注文について言葉を交わす必要はない。和広がいつも何を頼み、どの食材を苦手としているのか家族よりも知っている。

 ママに美空の事情を話しておいた方が良いだろうかと考える。これから、美空を探す上で、ママの独自の情報網は非常に役に立つだろう。ママを通じてパトロールのボランティアの人たちとも協力して置けば色々と役に立つかも知れない。

 だが、和広は躊躇した。布施先生の例もある。下手に情報を伝えてしまったら、それこそ矢の如く美空のことが町にいる人間に伝わってしまうだろう。

 ママは昔からの付き合いだし、布施先生よりも余程信頼がおける。彼女には多くの武勇伝があるが、それ以上にママが慕われているのには、その凛とした性格と、竹を割ったかのようなさっぱりとした気性がその根底にある。

 だがそれでも、話というのはどう伝わるのか分からない。糸電話の糸に意志がないように、噂を伝えていく人間に悪意はないのだ。

「・・・・・」

 静かだ。お好み焼きが食欲をそそる匂いと蒸気を出しながら加熱されている。それ以外の音といえば、テーブル席に座って飲んでいる二人のサラリーマンの雑談と、音量を抑えられたテレビから流れてくるバラエティーの微かな笑い声くらいだ。

「・・・カズ、何でそんなにその美空ちゃんに気を使うのかは知らないよ。」

 ママがため息混じりに言う。その言葉に和広は顔を上げた。そのとき初めて和広は自分が下を向いて考えていたことに気が付いた。

「でもね。一人で動いても出来ることは少ないよ。少しは周りを信用しなさい。あんたが思っているよりも人間は酷い生き物じゃないんだ。

 自覚しているかも知れないけれどカズは一人で抱え込んでしまうところがある。昔からね。

 私じゃなくても家族でもいい、問題は分かち合いなさい。それは逃げでもなんでもない。むしろ一人で全てを解決しようとする方が逃げている場合もあるんだよ」

 ママは感づいているのかも知れない。美空がどうという意味ではない。和広がこの一件を七年前の事件を無意識に重ねていることに。

「・・・・そうだね。ママにだけは言っておいた方がいいのかもしれない。

 だけど、他言はしないようにして欲しいんだけれど。いい?」

 和広は心の天秤を傾けた。自分一人の力も、信念も、精神力もたかが知れている。その点ママは強く、女傑と呼ぶにふさわしい。味方に付ければこれほど頼もしいことはない。そう決断した。

「いいよ。私もその美空っていう子のことは気になっていたしね」

 よっと、ママが焼けた生地を裏返す。綺麗な色に焼けたお好み焼きはどこか満月を思わせた。ママはその真ん丸なお月様に見事な手際でソース青海苔鰹節とトッピングする。

 和広は美空のことを話した。

 彼女が殺人未遂を起こしたことは黙っておこうと思っていたが、それでは和広と美空との関係に矛盾が生じる可能性があるし、何より多重人格のイメージを掴むためにはその出来事が重要だと判断した為、和広は今持っている情報全てを偽り無く伝えた。

 ママは黙って聞いていた。時折疑問に思ったことはその都度質問してきたが、たまに仕事に気を使いながら、和広の話すことに聞き入っていた。

 全てを話し終えたのは、お好み焼きが無くなり、店内から客がいなくなった頃のことだった。

「・・・・花道商店街の殺人未遂事件は私も聞いたよ。たまにいるんだよ、ここが自殺名所の町だからやけになって変な行動起こす奴がね。今回もそんな奴らの一人だと思っていたんだけれど」

 ママはそこで言葉を切り、空になった硝子のコップにお冷やを注ぎ込む。流動する透明な水と無秩序な泡。

「多重人格ねぇ・・・・」

 押し出すようにママが言う。解離性同一性障害。確かに白いワンピースの少女は、ママの言う「自棄による傷害」を犯したかも知れない。だが問題はその加害者が、数多の人格を持つ少女の精神に存在する内の一つかもしれないということだ。

「俺はまだ完全に信じている訳じゃない。だけど、あの通り魔だったときの美空を思い出すと、多重人格だって身体が納得できてしまうんだ」

 和広はあの晩を思い出し、脊髄から身体を震わせた。

「そうかい・・・・。

 でももしそれが本当なら、尚更あんた一人じゃ荷が重すぎると私は思うよ。彼女にまつわる問題が、追い詰められての自殺だけならカズや私でも止めようがあるけれど、解離性同一性傷害だっけ?多重人格なんてもの、素人が手を出していいものじゃないと思うわよ」

 確かにそうだ。現在でも人の心の全容は解明されていないのだ。だからこそ、心理学や哲学なんて曖昧な学問が成立してしまえる。それを学んだ者ならともかく、素人が下手に多重人格者に接して、取り返しの付かない事態になってしまっては目も当てられない。

「そうだね。だからこそ、あんまりこの話は広げない方がいいと思う。

 ただでさえ殺人未遂、自殺志願者なんて物騒なレッテルを貼られかねないのに、多重人格なんておまけなんて付いたら、彼女が見つかったときにどんな扱いを受けるか分からない」

 和広が水を飲みながら言う。一方のママは何やら考え込んでいた。

「和広は知り合いに、そういう心理学とかに詳しい人はいないのかい?悪いけれどこっちはガラの悪い馬鹿ばっかり知り合いでさ。そういうインテリな人間とは縁がないんだよ」

 ママは自嘲気味に笑いながら和広に聞く。和広は脳裏に、大柄で底の見えない精神科医と、ゴシップが好きな美術部顧問を思い浮かべる。

「残念ながら」

 和広は答える。なるべく関係者は少ない方がいいと和広は思った。

 だがそれが、悪影響を考慮してのことなのか、ただの独占欲なのか、和広は疑問にも浮かべなかった。

「じゃあ、次会うときどうするんだい。また会う約束をしているんだろう?」

 次に会うときにその少女に対してどのような対応をすればいいのか。それは和広にも分からなかった。そもそも、「誰」が来るのか分からないのだ。一体どのように計画すればいいのだろう。

「とりあえず、会ってから考えるよ」

 だからそれが最善だ。そしてそれは和広にとってはもっとも困難な手段だ。人付き合いが苦手な人間にとってアドリブは、案山子が笛を吹くくらい無茶なことなのだ。

「あんたって意外に行き当たりばったりなところがあるね。まあ、話すだけでもいいんじゃないかな。会話をすることは何かを必ず進ませるからね」

 ママは和広の皿を下げた。

 会話をすることは何かを進ませる。だが、それは良い方向、悪い方向を問わない。どんなに特殊な例でも対人関係とはそういったものだ。

 だが、悪影響でも進まないよりはずっといいのかも知れない。全く進んでいない将来への決意を省み、心の中でその事実と時間制限から脱兎の如く逃避する。

 その責任放棄にも似た思考の中、和広は明日の朝日の中、庭先の朝顔は咲いているのかなと思った。



「こ、こんにちは・・・・・」

 今にも消えてしまいそうな声が、背後から聞こえた。朝の潮風にかき消されてしまいそうな繊細な声は、独特の律動を刻む潮騒には不思議と調和していた。

 手頃な岩に座っていた和広は振り返る。そこには縮こまった美空がいた。服装は白いワンピースではなく、フリルの付いた臼桃色のスカートを着ている。青空を背後に肩を狭め、軽く握りしめた右手は口の前に持ってきており、左手はお腹に添えられている。背は見事なまでの猫背で、まるで自分が占有する空間をなるべく小さくしようとしているようにも見える。

「おはようございます。じゃないのか?」

 どこか小動物を思わせる表情をした少女に和広は言葉を返す。彼女の視線はどこにも定まらず、逃げ場所を探しているようにせわしなく動いている。

「ご、ごめんなさい」

 どこか頼りなさげな彼女はこっちが申し訳なるくらいの必死さで謝罪をした。直感的に今日の美空は随分と消極的だなと思ったが、それが気分によるものではないことを和広は思い出した。

「いいよ。どうぞ座って」

 和広がそう勧めると、彼女はおずおず隣の岩に座る。

「ありがとう・・ございます」

 いつか聞いた声と比べると、少し舌っ足らずな言葉遣いだった。

 こうして観察すると当たり前だが外見は美空と変わりない。昨日の八雲は男性人格のため白黒写真の色を反転させたかのようにその違いが際だっていた。だが今日の彼女はどのような人格かは知らないが、少し調子が悪いだけの美空の様にしか見えない。本当、人間は互いの存在を外見で認識するんだなと改めて感じた。

「ほんとうに、きてくれてうれしいです」

 拙い言葉遣いで謝礼を述べる。十代後半の女性のラインとは不釣り合いな幼げな響き。

「美空とも約束したし、八雲にも釘を刺されから。・・・君は誰だい?」

 相手の性格と会話のテンポに細心の注意を払った。口に出す言葉の何倍もの情報を要領の悪い電卓のように処理している。

「わたしは、みさきっていいます。あの、わたしたちのことしんじて、くれるんですか?」

 怯えを称えた瞳でみさきはこちらをみる。それは相手が自分に害をもたらさないかを判断する行動だった。なるべく下手に出て、相手の反応を伺う。観察ではなく生存本能に近い。社会という、弱者に厳しい世界を生きるための定石。さらに彼女にとっては異常者である自分たちを守るための知恵なのだろう。

「うん。君たちが嘘ついているようには見えないしね。みさき、か。いい名前だね。どういう漢字を書くの?」

「海のさきにある岬のかんじです」

「綺麗な名前だね。何歳だい?」

「十さい、です」

 十歳。雰囲気から低年齢だとは思っていたが、実際に十八歳前後の外見で十年の月日しか経験してないと言われると、拭いようのない違和感がある。

「そういえば、はい、岬ちゃん。これ、今日来るとき買ってきたんだ」

 そう言って和広は買ってきておいた缶ジュースを岬に差し出した。どんな人格が出てきても大丈夫なようにアレルギーのない果実ジュースだ。外気と中の低温の飲料との温度差で出来た水滴が表面に浮き出ている。

 布施先生に貰った資料によれば、人格ごとにアレルギーを持っている例もあるらしい。そのような例がそうそうあるものではないとは思ってたが、念には念を入れた。

「あ、ありがとうございます」

 今まで強ばっていた表情を少し緩め、微かに笑みを覗かせながら、腕を缶に差しのばす。その一瞬の笑みからでも、この少女の無垢で優しげな本質が見える気がした。

 岬は左手を差し伸べてきた。美空が麦わら帽子を持っていたのも、八雲が傘を持っていたのも、そしてかの殺人鬼が凶器を持っていたのも右手だったので、かすかに妙だと思った。

 そんな和広の疑問に気付いたのか、岬は照れくさそうに微笑んだ。

「わたしは左利きなんです。たぶん、みんなの中でわたしだけだとおもいます。」

 岬はそう言いながら缶を受け取り、栓を開けようとする。子供人格だからだろうか、控えめな性格の割にジュースを手にとってすぐに開けようとする。だが、本来の利き手では無いためか、または単に握力が足りないのか。プルトップ相手に悪戦苦闘していた。

 見かねた和広が、彼女の分も開ける。岬は申し訳なさそうな顔をした。

「他の人の右手と同じように使えるわけじゃないんだな」

「はい・・・。利き手っていっても、ふだん他のひとはつかいませんし、たまにわたしがつかいますけど、うまくうごきません。文字とか書くと、がたがたになるんです」

 人格が変わると様々なことが変わると言っても、肉体的な経験はさすがに覆せるものではないようだ。精神が肉体のキャパシティーを越えることはありえない。

「おいしい・・・」

 一口飲んだ岬が、吐息とともに言葉を紡ぐ。

「良かったな」

 和広は自分の分の飲料を開けた。ちなみに和広は炭酸飲料だった。

「はい・・・。ジュースもだけど。かずひろさんと話せて、うれしいです」

 岬はジュースの缶をまるで包み込むように握っている。百二十円の価値しかない清涼飲料水をまるで宝物のように柔らかく持っている。時折痛みを気にするように腹部をさすっていたが、その表情には、微かな幸福があった。

「俺と?」

「はい・・・・。ほんとうは今日わたしがでてくるんじゃなかったんです。だけどいずみさんにおねがいしちゃったの」

 いずみさん?初めて聞く名前に耳を疑った。

「いずみさんって誰?」

「あっ。すみません。いずみさんは、わたしたちの中のひとりです。わたしたちのリーダーみたいな役割で。えっと、だれが表にでるかはだいたい、美空さんか、いずみさんが決めるの」

 そういい、岬は手のひらに「出海」と書いた。それが漢字表記なのだろう。

 出海という人格と、彼女の心の構造がどのようになっているのか非常に興味があった。だが、深く追求するのは止めて置いた。他人との対話で大切なことは相手が話したいことをしっかりと聞くことだ。そうしないと聞き出せることも聞き出せなくなる。和広は出海という名前を心の中の付箋にしっかりと書き込んだ。

「俺なんかと話せて、良かったのか?」

 和広は自分がいかにつまらない人間かよくわかっている。自分と話をするくらいならセキスイインコとでも話していた方が余程有意義だろう。

「はい。美空さんや八雲さんが、和広さんと話しているのをみてすごくうらやましかったんです。わたし、あんまり人とはなすのがすきじゃないんだけど、がんばってみようかなって・・・」

 かすかに緊張と好奇心が伝わってくる岬の声音と表情。和広は少し安心した。この娘は自分と同類なのかも知れない。自分の自信の無さからくる他人と話すことに対しての躊躇。おずおずと幼子が手を伸ばすようなそんな拙いコミュニケーション。

 それから、和広と岬は少しずつ話をした。岬の外見は美空と同一だったが、和広は別人として接することが出来た。

 始めに好きなもの、嫌いなもの、よく見ていたアニメーション番組。と段々と枝葉を広げていく。十歳の岬と十七歳の和広ではテレビ番組や、経験した流行に対しジェネレーションギャップがあるものだと思っていたが、意外にも経験した流行の世代はぴたりと一致していた。そのことを指摘すると。

「わたしが十歳っていうのはよく時間を失うせいもあるけど。いちばんの理由は、わたしのとしが十歳でとまっているからなんです。」

 ということらしかった。

 岬は女の子らしい少女だった。好みも、考え方も多少消極的ではあるが、少女趣味で、人形遊びが大好きだと言っていた。ピーターラビットを始めとする絵本が大好きで、グリとグラの物語を二編程丸暗記していた。美空を爽やかな朝日の女性とするならば、岬は春の木漏れ日のような少女だった。

 だが、元々、口数の少ない二人だ。すぐに言葉が枯渇することは明らかだった。和広は話題の枝葉に先端に迫っていることを感じ、覚悟を決めカードを切った。

「岬ちゃん。君は今どこに住んでいるんだ?」

「・・・・・・・・」

 岬の口が堅く結ばれる。柔らかそうな唇が真実を言ってはいけないと必死に押さえているようだった。

「・・・・ないしょ、です」

「他の皆に止められているの?」

 人格間のコミュニケーションがどのように成されているかは和広には分からない。資料を読むと、幻聴という形もあるし、脳内で会話する、さらに夜の寝ている間に心の中の会議室で人格同士が会議をするなんてものもある。十歳の岬に、誰か別の人格が口止めを要求したのだろうか。

「それもありますけど。他人に教えたらたいへんなことになるっていわれたから。」

「誰に?」

 和広は綻びに指を入れ、広げた。岬たちに大変なことになると教えたのは、今までのコンテクストから察するに、交代人格ではない「誰か」ということになる。

「あっ・・・・・・」

 岬もその失敗に気付いたのか、それきり口を閉ざした。年齢の割に聡明な少女だ。だが手は見て分かるほど震え、まだ中身の残っている缶ジュースをも揺らしている。きつく閉じられた唇は動く気配がない。

 生憎とここからは和広には術がない。ゴシップ好きな美術顧問のように、カマをかけたり、誘導をしたりして話を引き出す話術を和広は持っていない上に、それが出来る心の強さもないのだ。

「質問を変えようか」

 和広はこの問いをしていいものか迷っていた。あまりにも率直すぎる問いは相手を傷つけるからだ。しかし、今まで一緒に会話をし、彼女は大丈夫だと思った。

「岬ちゃんは、何のためにこの朝ヶ丘に来たの?」

 和広が出来る精一杯の歪曲的な質問。勿論、本質は自殺しにきたか、否かということだ。だが、この問いはどのような言葉で聞いたところで強烈な皮肉を持つことは避けられない。むしろ遠回しに言うほどそのアイロニーは強くなる。

 顔は見れなかった。怖かった。質問をした側の癖に、相手の反応を見ることも出来ない臆病者。

 ガラン、と低い金属音が聞こえた。水分を内包した金属容器独特の、低く湿った接触音。

 音のした地面をみる。岬が持っていた缶が岩の上に落ちていた、残っていたジュースが岩場に滴り、染みを作っている。和広はそれを拾おうと瞬間的に手を伸ばす。

「あっ・・・・・・。ごめんなさ・・」

 岬も同じく反射的に岬が左手を伸ばす。

 互いの手が触れる。時間が止まる。

 彼女の手は白磁のようになめらかだった。女性に触れることに慣れていない和広はすぐに手を引っ込める。その反応は本人からしてもちょっと過敏すぎると思った。岬でもこれはおかしいと感じるだろう。そう思い、岬の顔を見る。

 彼女の顔は、死人のような色になっていた。

「あっ・・・・・すみませ・・・。や、・・・・やめ・・て・・・」

 岬は岩からゆらりと立ち上がり、和広に対し後ずさる。その顔は蒼白としていた。先程まで辿々しいながらも言葉を紡いでいた口唇は血の色を失い、浅い呼吸を激しく繰り返している。瞼は不自然なほど開き、瞬き、その瞳には恐怖を越え錯乱の色を呈している。お腹を抑えている右手をまるで内蔵を引きずり出そうとするように強く握りしめていて、身体そのものも何かを拒絶するように震えていた。

「いや・・・・、やめて、こないで・・・・。もう、したくない・・・。もういやだやめて、やめて、やめてやめてやめてやめてやめてごめんなさいごめんなさいごめんなさい言うことをきくからゆるしていや・・・」

 彼女の瞳は何も映していない。焦点の合わないその眼球は可視光線ではなく、ただ有らん限りの絶望を見つめている。

 人格が変わった?和広は一瞬その可能性を直感したが、するべきことは思考などではない。

 彼女は間違いなく正気ではなかった。和広は自分の迂闊さと自分勝手さを呪った。何がきっかけになったかは判断できなかったが、情報を求めるあまり岬を労らず、追い詰めていた。

「岬、落ち着け!俺は何もしない。だから目を覚ませ!」

 和広は大声で岬に呼びかける。そうしないと彼女の耳に届かない気がしたからだ。

 だがそれがいけなかった。先程までとは違う声量。それだけで微かに増した威圧感に岬は身体をびくりと震わせる。

「いや。いや。いや。いや。いや。いや。いやああああああああ!いたいのはいや。きもちよくなんてないから、やだ。やだ、やめて」

 何に対しての拒絶なのか。もはや岬は和広を見ていない。威圧に絞られるように甲高い悲鳴に似た声を上げる。足下は覚束なく、ちょっとした岩の凸凹にすら足を取られそうになっている。

 和広はまずいと感じた。このままでは会話どころか彼女の身が危ない。一般に観光に使われる朝ヶ丘から離れた場所に位置するこの崖は、観光場所以上に安全対策が成されていない。足を取られそうな小さな石がごろごろしている上、安全柵は存在すらしていない。

「あっ!」

 岬が大きな段差に足を取られ、後ろに転びそうになる。それをみた和広の脳裏に遥か昔の記憶が蘇る。何の考えもなく身体が動く。それは歳月が刻みつけた後悔か、人間としての本能なのかはわからなかった。

「っ!」

 和広は岬の左手を掴み、引き寄せる。かなり力ずくで引き寄せたおかげで、和広が岬を抱き寄せる形になってしまった。服越しに彼女に触れる。

 人間はこんなに熱いものなのかと、和広は思った。

「いやあああああああああああああああああああああ!」

 岬が叫ぶ。いや、岬かどうかすら怪しかった。一体何が彼女のスイッチを押してしまったかはわからない。だが、完全に岬は和広に対して恐怖していた。

 どうしたら良いかわからなかった。彼女は和広から逃れようと暴れているが、彼女の身体を支えるために和広の腕は彼女の身体を固定している。

 離してしまえば、岬は最悪崖の下に墜ちてしまうかもしれない。もし岬がその行動を望んでいるとしても、それは絶対にさせない。

 悲鳴に似た泣き声が朝ヶ丘に響く。潮騒にも負けないそれは皮肉にも生ある者の証だった。和広は抱きしめていない自由な手で岬の頭を撫でた。意味のないことかもしれないが、せめて自分が危害を加える存在ではないことを知って貰いたかった。

 やがて、悲鳴も、泣き声も収まり、海鳥の声と潮騒の音が世界に戻ってきた。激しく上下していた肩も、穏やかな呼吸と共に正常に戻っている。微かに押し殺した嗚咽のようなものが聞こえた気がした。朝の日差しの中、和広は少女を抱きしめていることに今やっと意識をした。

「・・・・・もう、大丈夫。離しても問題ないよ」

 胸の中で岬が呟く。だがその声音には知性的な響きがあった。和広は気恥ずかしさを感じながら、そっと彼女と距離を置く。和広の胸には人間の温もりが残ってた。

 少女の顔を真正面に捕らえる。微かに赤くなっている瞼、どうやら少し泣いていたようだ。だが、それに不釣り合いな冷静な顔で彼女は和広の視線を受け止めた。

「大丈夫。岬は君のことを嫌った訳じゃないんだ。ただ君とふれ合ったことで少し昔のことを思い出しただけだよ。

 岬の受け持つ記憶は男性に対する恐怖が多いからね」

 先程より低い声、柔らかくも厳しさを秘めた瞳。先程までお腹に添えられた手を前に組み。まるで月日を重ねた巨木のようなどっしりとした雰囲気で和広に言葉を伝える。

「君は違う人格か?」

 和広は確信した。人格が変わる瞬間をみたのは初めてだった。

「ああ、そうか。谷川君が僕に会うのは初めてだったね。君が僕たちと対峙したとき、誰と喋っているのかわからないことを忘れていたよ。

 僕は出海。性別は男。年齢は三十五歳だ。よろしく」

 そう言って十八歳ほどの少女は右手を差し出してくる。どうやら握手のようだ。和広も右手を差しだし、手による挨拶を交わす。

「あなたが、岬の言っていた出海さんですね」

「そうだ。でも敬語はいいよ。そりゃあ僕のほうが年上だけど、肉体年齢からすれば君と同じ位なんだ。変に気を使う必要はない」

 出海は笑った。そうは言っても出海が年上だというのなら、どのような由来であれ下手に出るべきだ。和広は典型的な日本人だった。

「岬は大丈夫ですか?」

 色々と出海には聞きたいことはあったが、岬のことが気になった。

「ああ、大丈夫だよ。随分気が動転してたようだけど、君が抱きしめてくれたおかげで随分ましになった。最後なんて、彼女から恥ずかしいなんて理由で引っ込んだんだからね」

 また、出海が笑う。それは年月を経た人間が作れる深みのある顔だった。

 和広は顔が赤くなるのを感じた。母親以外の女性とあれほど密着したのはあの人以来だった。

「そ、それなら良かった。てっきり俺が岬に酷いことをしてしまったのかと思って」

 あの状態は普通じゃなかった。恐怖を通り越して狂気に近い状態だった気がする。純粋な感情は突き抜けると狂気になる。恐怖や絶望は勿論、愛や希望でさえも。

「うん。でもね。確かにスイッチを押したのは谷川君だ。害を加えた訳じゃなくてもきっかけ一つで人は壊れるんだ。そりゃあ僕たちの事情が特別なせいもあるけどね」

「はい」

「だから気をつけてほしい。君が僕たちと関わってくれるのはとても嬉しい。皆の状態もかなり変わっている。ちょうど今、色んな出来事が重なっている時期なんだよ。詳しくは言えないんだけど、ここに来たのもそのせいだ。

 今までの僕たち人格同士のシステムが変化している。それは言い換えれば崩壊とも言えるんだ。場合によっては、君があの夜彼女に会ったように、君に危害を加えてしまう可能性もある」

 出海の指す彼女は、恐らく商店街で殺人未遂を起こしたあの殺人者の人格のことだろう。

「気をつけます。あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

「僕たちの居場所のことかい?」

 和広は頷いた。

「残念だけれど、それは教えられない。色々理由はあるけれど。一番の理由は泊まっているところの人との約束だよ。泊めて貰うことの条件として、僕たちがそこに住んでいることは、君は勿論、例え警察に捕まっても言わないという誓約があるんだ」

 そう言って、出海は申し訳なさそうに俯く。

「でも、許してくれ。僕はこの町でしなくちゃいけないことがある。ああ、いくつかの人格の自殺願望とは別にね。それで谷川君。おこがましいが君に二つ頼みたいことがあるんだ」

 出海は風に舞うスカートを整える。

「なんですか?」

「一つは、岬達を救って欲しい。彼女たちはずっと死に惹かれている。自分を傷つけて、何事にも絶望している。岬がこの場所に来たのは逃避のためだけじゃないけど、どんなきっかけで、突発的な行動に出るかわからない。僕や美空では、日常生活が壊れないように人格のスイッチを管理するしかないんだ」

「・・・最初からそのつもりです。もう一つは?」

 出海は少し間を置く。それは躊躇の時間ではなく。その言葉の重みを増すための意図的な流れの中断。この人格はそういった駆け引きを熟知していると感じた。

「ある人物を探して欲しいんだ。その人の名前は――」

 出海の口からその尋ね人の名前が話される。合計六文字、漢字にして四文字の羅列。それは和広の思考を奪った。

「この町にいることは間違いないんだ。何をしているのかはまでは僕にもわからない。・・・・・谷川君、聞いているのかい?」

「あ、ああ、はい。聞いています」

「ならいいんだ。もし、情報が手に入ったら教えて欲しい」

 和広は思考をシフトした。

「わかりました。あと聞きたいんですけれど。あなたでは、他の人格の自殺を止められないんですか?」

「僕と美空は、確かに皆のリーダー的な人格だけど、だからといって皆の記憶や、意志へ自由に干渉できるわけじゃないんだ。あくまで僕たちは元々一人の人間だからね。あらゆる感情を自己完結できる人間なんてそうそういないよ。

 さらに言えば、最近皆の主張が強くなってきている。僕や美空は、皆が不用意に出てしまわないように押さえている役割も持っているんだけど。それももう限界が来ている。

 理由は色々あるし、昨日今日起こった変化でもない。でもね。谷川君。君の存在も大きな理由なんだよ」

「俺がですか?」

 和広は聞き返した。自分が彼女たちにどんな影響を与えたのか怖かったからだ。

「そう、色んな人格が君に会うことを望んでいる。今まで「僕たち」を守るために分かれたシステムに過ぎなかったのに、それぞれの感情に沿った自己を、谷川君とのコミュニケーションを核にして表に出そうとしている。

 僕としては、それがいい方向に転がって欲しいんだ。雨降って地固まるというけれど、前提から破綻しかけている今のシステムを立て直す必要がある。君に依存する形になってしまうのは申し訳ないんだけどね。

 岬なんて本当は男性に対して楽しそうな表情をすることなんてなかったんだよ?いつもならせめて愛想笑いくらいさ」

「何でですか?」

「さっきも少し言っただろう?岬は男性に対する恐怖の記憶を多く受け持っている。男性から受けた痛みや屈辱。それの管理が岬の役割だ。だからこそあの性格だし、男の人に触れられるのには異常に恐怖する。他にも先端恐怖症とかも持ってるしね」

 岬が錯乱したのも、和広が触れたのが原因だったのだろう。コンマ一秒にも満たない身体の接触。それだけでわずか十歳の女の子があそこまで壊れる痛みや屈辱を、想像力に欠ける和広は全く想像できなかった。

「一体何をされてきたんですか?」

 和広は聞く。その身体の管理者たる出海なら、その記憶も知っているはずだ。

「それは、僕の口からは聞かない方がいいよ。生理的に無理なのもあるけど。直接本人から聞いた方がいい。谷川君。絶望した人間が欲しいものは同情なんかじゃない。記憶の、想いの共有なんだ。

 この二つは一見同じだけど、主観的か客観的かの点において決定的な違いがあるんだよ。それは、他人から伝え聞いてしまえば絶対に同情になってしまう」

 まあ、僕は本人でもあるんだけどね。と出海は舌を出す。

「君は不器用で、考えが足りなくて、それでいて優しい。だからこそそんな人間らしい君に、他の人格達と話して欲しいんだ。

 ・・・じゃあ、明日ここでまた、今度は僕じゃないかもしれないけどね」

 彼女は、いや、彼は立ち上がる。まるで逃げるようだと思った。

「何であなた達は、朝にしか来ないんですか?家主との約束もあるかもしれない。でも、こんな朝早くに会う必要はないでしょう。明日は昼でもいいんじゃないですか?」

 別に朝に会うのが生理的につらいというわけではない。もう早起きにも慣れてきたところだ。だが、やはり寝坊してしまう場合もあるし、朝早くに話をして、その後一日中悶々と考えるサイクルに少しうんざりしてしまっているのも事実である。

「それは、駄目だ。他の人格が昼間に会うことを望むのなら昼に会うこともいいけれど、僕には朝だけで十分だしね。

 でも一番の理由は、君に一番会わなければならない人格と会うためには、朝じゃないと駄目だからさ」

 そう言って彼は立ち上がった。もう話すことなどないというように、すでに殺人的な日光が、岩場を照らし、荒れ狂う海をも蒸発させようとしている。

 朝じゃないと会えない。和広に一番会わなければならない人格。なぜ今までの生活の中で出会わなかったのだろうか。

「どういう・・・・」

 思考の末、導き出した質問が言葉として発せられるときは、彼はもう、森の奥に消えようとしていた。

 そのとき、彼の両手が自由なことに気付いた。岬の時はずっと押さえていたので、今日はお腹が痛いのかなと思っていた。

 和広の視線からその疑問に気が付いたのか。出海は振り返る。フリルの付いたスカートがお姫様みたいに揺れた。

「岬の痛みはね。今も続いている昔の傷だよ。身体の傷は癒えるけど、心の傷はすぐには治らない。何度も何度もね。そのときの痛みが、岬そのものだ。

 君は、少しは多重人格について調べたんだろう。女の子がこの症例を発症するとき、一番多い要因は何か、知っているかい?」

 多重人格障害を持つのは九割が女性だ。それは何故か。和広は、布施先生の資料にあった発症の原因を思い浮かべた。

 身内からの、性的虐待。

 僕が言えるのはここまでだよ、と出海は去ろうとして。ふと、思い出したように言葉を続けた。

「・・・岬からの伝言だ。今日のお昼、花街商店街で一緒に買い物がしたいって。時間は十三時くらいだ。君のことがかなり気に入ったみたいだよ。少し話をしてあげて欲しい。大丈夫かい?」

「問題ありませんよ」

 その時間なら大丈夫だ。画材も買わなければならないし、ちょうどよかった。

「ありがとう。後、頼んだこと宜しくね」

 そう言って三十五歳の男性を宿した少女は、森の奥に消えていった。和広は走って追いかけたが、途中で段々畑に繋がる道を通ったのか、姿は消えていた。

 聡明そうな彼のことだから、追っても巻かれるだけだろう。あきらめて家までの道のりを歩く。土と雑草の柔らかい感触を感じながら、出海から頼まれたことを思い出す。

 ある人物を捜してほしい。その人の名前は――

 その名前を頭に浮かべる。岬との約束も和広を苦悩させたが、出海の口からこぼれたその名前が、和広を混乱のただ中に放りこんだ。

 

 ――布施崇久というんだ。

 

 どうしてここで、この名前が出てくるんだ。


「和広、あんた、隠しごとしていない?」

 今朝、急に午前から学校に行くことにした和広に、母は尋ねた。

「隠し事ってなに?」

 和広は靴を履きながらとぼける。顔を見せると嘘がバレると思ったからだ。

「・・・この前の事件。まだ犯人捕まってないし、あんた全然喋らないから、不安なんだよ。せめて何をしているのかは教えて」

 母の勘なのだろうか。もう十七年も家族をしているのだ。和広が何かを隠しているくらい、看破しているのだろう。

「大丈夫だって、大したことじゃない」

「どうだかね。カズには前科があるじゃない」

 もう、七年も前の話だ。確かにあのときは親に内緒でお姉ちゃんと関わっていた。だが、高校生にもなってまだ信用されていないのかと思うと、多少傷つくものがある。

「お父さんも心配しているんだから。あまり無理しないでね」

 母が言う。親父は今店で仕込みをしている。今の時期は観光客もそこそこするので、食事の時にしか顔を会わせない。しかし和広は楽で良いと思った。下手に顔を合わせても、いったい何を話すというのだろう。

「大丈夫だよ。まかり間違っても親父には迷惑かけないさ」

 それは安心を促すと言うよりも拒絶だった。幼い頃は、否定的な感情を抱かず父親と遊んでいたものだ。今では秘密を相談することすら出来ない。

 玄関の扉に手をかける。使い古された引き戸、鍵もまともに閉まらない田舎独特の不用心な入り口。

「あんたに言っていなかったことだけどね」母は前置きを挟む。

「お父さんはね。ここにくる前はデザイナーだったの。美大もでて、夢に向かって歩いていた。でもこの朝ヶ丘にきた。それがどういうことだか、わからないことはないでしょう。

 お父さんは、頭ごなしに反対しているんじゃないんだよ。それを忘れないで」

 和広の手が止まる。今まで知らなかった。知るのが怖かった父の過去。その一端。父は自分と同じ夢を抱いて、そして破れたのだろうか。

「行ってきます。ちょっと商店街にも寄るから、帰るの夕方になると思う」

「あら、じゃあ、買い物頼んでいい?」

 母は、居間に行くと、冷蔵庫に貼ってあった必要な食料品のリストを持ってきた。やけに多い。これは母なりの嫌みなのだろうか。

「わかったよ。行ってきます」

 ポケットにその紙を突っ込んで家をでた。今まで遠かった父が近くなったような気がしたし、さらに遠くなったような気もした。



 美術室の扉を開ける。所々引っかかってうまく開かない。なんとか人一人通り抜けるだけ隙間を作ると、そこに身体を滑り込ませる。

 少し早かったかなと和広は思った。今時計は十時を指している。

 元々、今日は学校に来る予定ではなかった。夏休みとはいえ、毎日学校で絵や模試を受ける訳ではないし、受験生といえど、息抜きは必要だ。

 今日は布施先生に会いに来た。ただ、今日見に来るとは聞いていなかったので、いる保証は無かった。この間デッサンをみせたばかりだし、あのズボラな教師が理由もなく学校に来るとは思わなかった。早く、出海が布施先生を捜している理由を知りたかったが、焦って聞くのはまずいと思った。

 一番最後に書いた石膏デッサンはキャンパスの上に置いたままだった。片づけるのを忘れていたのだ。描いていたとき気づかなかったのが不思議なくらい荒く、才能を感じさせない白黒の絵。

 志望校の入試案内で載っていたデッサンの例を思い出す。影の付け方や構図の取り方、そんな小難しい要素が馬鹿らしくなるくらいのセンスと技術の差。凡人がいくらあがいても、届かないとあきらめるしかない天賦。

 将来のことだけ考えるなら、今、美空たちと関わっている場合では無いのかもしれない。こちらはこちらで、未来がかかっている。

 人生は一度しかない。そして分岐点は、恐らくここしかない。

『君は本当に、絵の道に進みたいのかね?』

 ふいに声が聞こえる。いや、現実にはそんな声など響いていない。和広は二次元平面に写る歪な哲学者の視線を受け止める。

「当たり前だ」

 答える。そうだ。人生をかけるべきものとして掲げた道。いつから目指したのか覚えていない、昔からの夢。

『この程度の腕と才能で?』

 辛辣に、明確に、哲学者は現実を突きつける。人生をかけたところで世間に認められるとは限らない。ヴィンセント・ファン・ゴッホは、自殺した後評価されたが、それはまだ幸運な例だ。誰にも認められないまま、名前すら知られず、世を去っていく絵描きなど掃いて捨てるほどいる。

『君はあの少女たちを助けたいと思っているようだが、それを盾にして夢から逃げているだけだろう。

 描けば描くほど、君は自分の才能の無さに絶望する。人生をかけると豪語しておきながら、心の奥底ではすでにあきらめかけている。

 だから、もっと大切そうなことを優先するようにして逃げたんだろう?自殺を止めたい。彼女を救いたいだと?笑わせる。

 自分の夢すら真っ直ぐみれない臆病者が、一体何を救えると言うのだ。君はただ、彼女を救うという名目で、自分の夢と向き合うことから逃げているだけだ。』

 これは、哲学者が喋っているわけではない。これは自分の声にすぎない。客観的に自己を分析しているもう一人の自分の糾弾だ。

「人を救うのに理由がいるのか。他人が苦しんでいるのに、それを見過ごせっていうのか?

 絵は俺の夢だ。今は躓いているだけで、あきらめてなんかいない。二つのことは全く別々のことだろう。」

 和広はキャンパスの前に座る。その自己嫌悪に捕らわれたくなかった。彼女を救いたいと願う心は純粋なものであり、夢を追う意志もまた、混じりけのない透き通った青ような願いのはずだ。

 そう思いたかった。

『夢か。君も分かっているはずだ。二つのことは根本では同じだ。結果を幻想し、積み上げる過程こそ夢であり、人生と言うものだ。過程なくして結果はなく、また結果なくして過程はない。

 君が絵描きを目指して生きて、それのみで生きていくことは不可能だとわかっている。そもそも、君の目指している画家の定義が曖昧だよ。油絵を学ぶつもりのようだが、デザイン、造形、芸術というジャンルはあらゆる方向に枝分かれしている。君は幹すら選んでいない。

 君は本当に芸術の道を目指したいのか?そもそもなんで絵が好きになったのだ?

 七年前、お前の絵を誉めてくれた自殺者の言葉だけか?』

 瞬間、和広は鞄の中から木炭を取り出し、キャンパスの上に突き刺した。脆い木炭の先端から、破片がぽろぽろと落ちる。

『君は他人にも、夢にも、そして自分自身とすら向き合えない臆病者だ。真正面から受け止めることが出来ない弱い人間、夢を叶えることも、他人を助けることも出来るわけがない。

 半端者だよ。君は。』

 強引に、木炭をキャンパスにざりざりと音を立て滑らせる。真っ黒な否定の線が、ジクザグに哲学者を塗りつぶす。

『そんな覚悟じゃ、救うことも、手に入れることも、できない』

 黒い線で切断されていく厳つい石膏像が、最後の言葉突きつけた。

 木炭が折れ、床に落ちる。乾いた音は美術室に響く。

 和広は歯を食いしばる。様々な想いが混じり合い、混沌とした色になる。

 俺は、本当に、画家になりたいのだろうか。

 布施先生に会う目的はすでに忘れ、和広は美術室を飛び出した。無惨に黒い線で塗りつぶされたデッサンをそのまま残していた。

 いつか自分の絵を誉めた。原動力となった一言を、和広は反芻していた。

 



 商店街の入り口で、和広は目眩を覚えた。ただでさえ人の多い観光地の上に、夏休みの日曜日という最大数を二乗したような休日。いくら時代遅れの商店街とはいえ、その人の混みようは、足を踏み入れることを躊躇させた。

 和広のいる商店街の入り口は、小さな公園のようになっている。バス停や、ベンチ、蛇口を逆さにした程度の勢いしかない噴水などが、県の無駄な税金で作られている。

 その中の隅っこにある目立たないベンチに、探し人を見つけた。今朝会ったときと同じ、花を思わせるフリルの付いた女の子らしい服を着ていた。

「やっと来た。遅いよ和広君。デートなんだから、女の子を待たせちゃ駄目」

 少しむくれた様子から、彼女が岬ではないことが分かった。ちなみに和広にデートという考えは全くない。

「美空か?」

 和広は思い当たる可能性を口にした。

「あたり。よく分かったね」

 美空は立ち上がった。よく考えてみると二日ぶりであった。

「ちょっと不安だったけどな。・・・・色々、他の人格から聞いたよ」

 美空であると判断したのは消去法だ。和広が知っている中では女性人格であのような話し方をするのは美空しかいない。

「うん。見てたし、聞いてた。ごめんね。隠しててさ。でも和広君と普通の私として話すのが楽しかったから。つい黙っちゃってたんだ」

 美空は舌を出す。

「別に、怒っていない。でもそっちが色々秘密にするものだから、こっちは頭の中こんがらがっているけどね」

 和広の中には様々な疑問点が浮かんでいた。布施先生のこと、朝にしか会えない人格のこと。そして何より彼女らの過去のこと。

「それはおいおいね。今日は岬ちゃんと遊んであげて、いつも凪の相手してあの子も疲れているしね」

「凪?」

「赤ちゃんの人格だよ。女の子。まあ周りに迷惑かかるから滅多に表には出ないけど」

 赤ん坊の人格。ではその子が表に出てきたら、幼児と同じ行動をするのだろうか。確かにそれは日常生活に支障をきたしかねない。

「そういや、なんで美空は今日、出てきたんだ?」

「ひどーい。私が出てきちゃいけない?」

 美空はむくれる。まるで子供のように頬膨らませる。和広は焦って弁解を口にしようとする。

「分かってるよ。ちょっと岬に頼んで交代して貰ったんだ。せっかくのデートを邪魔したくなかったんだけど。和広君に謝っておきたかったの」

 美空は改めて頭を下げた。

「ずっと黙っててごめんね。和広君に変な目で見られたくなかったの。普通の人間として、見てほしかったんだ」

 美空は顔を上げる。その目の端には涙を貯めていた。そのとき、つかみ所のない美空が、とても弱いものに感じられた。

「いいよ。別に多重人格だからって俺に遠慮することないから。元々、人付き合いが苦手なんだ。そんな色眼鏡でみる余裕なんて俺にはないよ」

 誰かに気を使われることも苦手だし、誰かに無理に気を使うと必ず裏目にでてしまう。和広はそういう人間なのだ。

「ありがとう。じゃあ、これからもよろしく。和広君。お互い良い関係を。

 ・・・岬に変わるね」

 笑みの後、美空は瞳を閉じる。それは眠っているようにも、祈っているようにも見えた。岬と出海は、美空を自分と同じ管理者だと言っていた。だが美空は、出海に比べ少し疲れているようだ。

 出海は多重人格のことを「システム」と表現していた。そしてそれが崩壊しかけているとも。多重人格の心の中がどうなっているかすら分からない和広には、それが崩壊したらどうなるのかなど想像すらできなかった。

 瞼が開かれる。先ほどよりも表情が暗くなった気がした。それだけでなく、少し肩も縮こまり、うつむき加減で、自信の欠片もない。だが緩く開かれた瞳には、子供特有の無垢さがあった。

 今朝、人格が交代をするところをに立ち会ったが、今回はよりはっきりと彼女たちの言う「スイッチ」の切り替えを見ることができた。

「・・・あんまり、美空さんをせめないでください。わるいことをするのはわたしたちですから。」

 右手をお腹に添ながら、岬は美空をかばう。

「ああ、美空が俺のために色々気を使ってくれたことは分かってるよ。

 ・・・朝は悪かった。怖がらせてしまったな」

 そう言って、頭を撫でようとしてとどまる。岬に触れてはいけない。彼女の記憶の中には、和広には想像も付かない悪漢の行為が眠っているのだろう。

「いいんです。それより、ごはんたべましょう。いずみさんにたのんでお金もらいました。いつもわたしにはつかわせてくれないのだけれど。今日はとくべつだって」

 そういって彼女は、怯える顔を見せまいと、必死に笑顔を作る。その左手の中には兎をあしらった可愛らしい蝦蟇口財布。きっと彼女専用なのだろう。右手は今なお彼女を傷つける記憶の爪痕を労っている。

「・・・阿呆。十歳に割り勘させる気はないよ。高校生に恥かかせないでくれ。」

 和広は、赤くなる顔を見せないようにしながら彼女の服の袖を掴んだ。こうすれば大丈夫だろう。商店街の人混みの中で、十歳の子供がはぐれるなんて自殺行為に等しい。

 岬は一瞬、驚きと戦慄の表情を浮かべた後、おそるおそる和広の袖を掴み返した。まるで温もりを求める子犬が、怯えながら人間に寄り添うように。

「じゃあいこうか」

「・・・はい」

 いつかのお姉ちゃんのように、和広は、岬を引いて歩き出した。


 岬と共に休日を過ごすのがこんなに難しく、楽しいとは思わなかった。

 最初、昼食をとるために入った定食屋では、彼女は箸を使えなかった。本来の利き手とは違う彼女は、箸をうまく握ることさえできなかった。いつもはほかの人格が食事をとっているそうだ。岬は悔しそうな顔をしていた。仕方ないので店員に頼んでスプーンを出して貰った。お子さまランチを左手で不器用に食べる外見十八歳の女性は、発達障害の人を想起させた。

 その後、ショッピングに出かける。彼女が好んだのはやはりというか、女の子らしいファンシーな店だった。一緒に入らざるをえない和広には拷問に等しき時間だった。異性との付き合いなど全くない和広は、堂々としていればいいという考えなど浮かぶわけはない。

 岬は、色々な商品を見て回ったが、買って欲しい、とねだることも、自分から買うこともしなかった。

「これ、欲しいのか?」

 長い時間をかけて見ていた小さなカモメのぬいぐるみを指さし、和広は言った。

「は、はい。」

「買えばいいじゃないか。お金、持って来ているんだろ?」

 岬は財布を大事そうに持ちながら俯いた。

「でも、これは、美空さんが貯めた、みんなのお金です。八雲さんがかってにつかっちゃうときもあるし。大切にしないと・・・・」

「八雲の奴、酷いんだな」

 和広は笑う。八雲。彼はこの会話を聞いているのだろうか。聞いているのならば、速攻で出てきて和広に何か言いそうなものだが。交代しないのは、岬に時間を譲っているからなのだろうか。

「いいよ。俺が買うから」

 岬は何度も遠慮したが、和広は買った。もし、恋人ができたらこのように振る舞わなければいけないのだろうか。周りから必要以上に見られているかもしれないと思うと、むず痒いどころか、痛い。

 今隣にいる岬は十歳の子供だ。恐らく、彼女が和広に抱いている感情は依存。愛情とは似て非なるものだ。そう和広は自分に言い聞かせる。

 だが依存とは、愛以上に人間が生きる上で大切で、疎ましい感情だ。

 その後は、岬の希望に付き合いながら、和広も自分の買い物を済ませようと思った。母に頼まれていた食料品の買い物、それから今朝折ってしまった木炭を含め、必要な画材も買わなくてはならない。

 先に買い物を済ませることにした。スーパーマーケットで岬を後ろに引きながら食料品を買い物かごに入れていく。瑞々しい夏野菜が見事な光沢を放っている。

 岬の方はというと困ったことに、目を離すとお菓子をこっそり買い物かごに入れようとしたことが何回もあった。目で注意すると、しゅんと落ち込むがまた同じことを繰り返す。それが可愛らしく、やっぱり子供なんだなと実感した。それと同時こちらを信頼してくれているようで嬉しかった。

 画材店で、必要な道具も揃え、商店街に出る。気付いたときには四時三十分を指していた。まだまだ夏の太陽は明るかったが、楽しい戯れの時は終盤に入っている。

 商店街の雑踏も真昼に比べると多少ましになっており、道行く人々の顔も鮮明に分かるようになっていた。

「あっ・・・・・・・・」

 岬は何かに気付いた。和広はそれが何かを察する暇もないまま、岬に袖を強く引っ張られる。

「お、おい。岬?」

 岬は今日初めて、和広を先導する。あの内気な岬が、強引に和広を自分のスピードで引っ張っている。それも歩くような早さではなく。段々と早くなり、ついには走った。

「どうしたんだよ!」

 周りに変に思われない程度の大声を出す。だが岬は答えない。大通りを曲がる。一気に人通りが少なくなる。

 気付いたときには路地だった。この辺りの地理に岬が精通しているとは思えなかった。恐らく適当に逃げていたらここに辿り着いたのだろう。

 逃げていた?何から?

「おい、岬。どうしたんだよ。いきなり」

 荒げた息づかいのまま、岬に尋ねる。文化系クラブに所属している和広の心肺機能は対したものではない。

 岬も足に左手を突き、右手を腹部に添え、浅く激しい呼吸を整えていた。その呼吸が整わないまま、顔を上げ、和広に説明をしようとする。

 そのとき、背より路地裏に入る光が、遮られた。

 一瞬、熊かと思った。勿論こんな場所に熊なんてでない。出たとすれば全国ニュースものである。それは熊のような人間のシルエットだった。

「はあ、はあ、何で逃げるんだよ・・・・」

 疲れた声が路地裏に響く。和広はその声に聞き覚えがあった。和広は振り返る。それと同時に、岬が和広の後ろに隠れるのが分かった。

「熊田さん、ですか。何ですか。いきなり」

 熊田だった。嫌なタイミングで遭遇したなと思った。彼も買い物中だったらしく。左手には買い物袋をぶら下げている。

「それはこっちの台詞だよ。君たちを見つけたと思ったら、いきなり逃げ出すんだからね。

 今は、岬ちゃん・・・かな?久しぶりだね。霧谷さん」

 和広の後ろにいた岬がびくりと震える。捕まれている服の生地からでも、その震えは伝わってくる。だがその瞳には不思議と怯えの色は少ない。

 どうしていいか分からないといった困惑の表情だった。

「あなたは、この子のこと知っているんですか?」

 今、熊田は岬を「霧谷さん」と言った。恐らく、和広も知らない彼女たちの名字。しかも、「今は岬である」という可能性を思い当たった点で、彼女たちが多重人格ということを知っている。

「そりゃあ。僕は彼女たちの主治医だからね。いや、元主治医と言った方がいいのかな?」

 熊田は岬に目をやる。岬は彼と目を合わせようとしない。

「で、この子を捕まえて、警察にでも渡そうっていうんですか?」

 この男は、警察官と一緒に行動していていた。つまり、この少女を犯罪者として追っている可能性が高い。

「いきなり酷いね、それは誤解だよ。そもそも僕と渡辺は霧谷さんを保護する目的で追っていたんだ。それに、その子は警察に渡しても刑罰は受けないよ。精神疾患を患っている被疑者は責任能力の関係で罪に問われにくいからね。

 美空、いや、夕子も聞いているんだろう?君たちはここにいちゃいけない。この町はあまりにも死に近い。それに和広君を傷つけてしまうかもしれないよ。それでいいのかい?」

 岬の震えが大きくなる。何かを思い出しているのか顔面は蒼白としている。だが、歯を食いしばるように顔をゆがめると、その瞳に強い光を宿した。

 スイッチが入ったのだと、和広は気付いた。

「熊田さん。あなたは私たちを裏切りました。いや、あなたからすれば裏切っていないでしょう。私もそう思います。だけど、私たちはそれだけで誰かを信じれなくなってしまうんです。

 私たちは皆、この町ですることがあります。それまで帰ることはできません」

 右手は架空の痛みから解放された腹部より離され、和広の前に出た少女が抗議を上げる。

「美空、だね?しかしその望みの中には自殺もあるんだろう?」

 熊田の言葉に美空は押し黙る。

「それは・・・・和広君となんとかします」

 何とか出たのは、自身のなさそうな言葉だった。

「和広君と・・・・・・か。

 いいかい?君たちは、他人に恐怖を覚える癖に、他人に幻想を持ちすぎている。それは信頼ではなく、依存だよ。他人は神様でも悪魔でもないし、願いを叶えてくれる魔法の精でもない。

 一方的な依存は大切な人を不幸にする。それは君たちが身を持って体験していると思うけどね」

 美空は返す言葉もなく。下を向いている。この二人の間に交わされる言葉を和広は完全には理解できない。だが、美空が傷ついていることは明確に理解できた。

「熊田さん。何かは知らないけど、そんな小難しい言葉並べて説教とか、大人げないと思うけど」

 論点は関係ない。この対話を中断させなければと思った。

「小難しい言葉にもしっかりした意味があるんだよ。単にそれを理解しようとするかしないかだ。

 さて、美空、帰ろう。ここは君たちにとって誘惑の多すぎる町だ。統合しようがしまいが、ここにいたんじゃ自分を傷つけるだけだぞ」

 熊田に敵意はない。まるで言うことを聞かない子供をなだめるように、柔らかい声音で父のように呼びかける。

 美空が拳を握りしめる。それは誰かを殴るためにあるものではない。向ける方向のない感情をただ握力にしているだけだ。

「ごめん。和広君」

 沈黙の末、そう囁いた。

 次の瞬間。彼女は走り出した。まるであの夜の再現だ。ただ違ったのは、彼女が紛れ込んだのは、夜の帳などではなく。日が傾き始めたのに人がひしめく雑踏の中というだけだ。

「おい!美空!」

 和広は勿論追った。右手に下げた買い物袋が激しく上下する。熊田もそれに続く。だが彼女はこういった逃亡には慣れているようで、すぐに人混みの中姿を隠してしまった。

「くそ!」 

 和広は悪態をつく。なんであいつはアルセーヌ・ルパン並に逃げるのが巧いのかと。

「全く。この国は昼も夜も人を捜すのが難しいね」

 熊田が息を整えながら、和広に声をかける。和広は熊田を一瞥する。

「あなたのせいでせっかくの休日が台無しですよ。俺はこれで失礼します」

 買い物袋をみる。別に品物に損傷はなさそうだ。和広は安心し、熊田

から逃げようとする。自分でも不自然なくらいの慌てた逃亡だった。

「待ちなさい。和広君」

 熊田は声をかける。勘の良いこの男のことだ。和広があの夜以来嘘をついてきたことくらい分かっているだろう。

「なんですか?こっちはアイスが溶けそうで早く帰りたいんですよ?」

 買い物袋を熊田に示す。勿論不透明のエコバックの中にはアイスクリームなど入っていない。

「嘘をつくんじゃない。もしそうなら買い物は最後に行くはずでしょ?のんびり画材店で買い物する時間で溶けちゃってる。

 お茶でも飲まない?とって食ったりはしないからさ」

 やはりこの人は苦手な人種だ。和広は直感した。

「とって逮捕したりするんでしょう?」

 和広は抵抗する。定置網のような言葉の罠にかかる前に、早く逃げ出してしまいたかった。

「侵害だなあ、そんなことしないよ。

 美空たちの過去。知りたくないのかい?」

 だが、彼女の主治医という最大の餌が提示され、逃げられなくなってしまう。罠だと分かっていても、考えを読まれついに網は完成してしまう。

「・・・わかりました」

 数秒の思案の末、和広は頷いた。

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