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八雲の章

第2話です

彼女の正体

 午後、和広は不機嫌な顔で真っ白なキャンパスと向き合っていた。

 目に見えて彼はストレスを感じている。それは目の前にある石膏で出来た無愛想なブルータスのせいでも、これからも数年続くであろう不景気のせいでも、この美術室独特の黴臭い空気のせいでもない。

 厳密にいえば、不機嫌というよりは疲れているという表現をした方が適切かもしれない。その顔には、狩りで獲物を逃した肉食動物の様に深い疲労の色が貼り付いている。和広は今日全く使っていない木炭を机の上に置くと、ポケットの中から三つに折られた紙を取り出す。

 そこに書かれているのは三文字のアルファベット。

「DIDという言葉を調べて、か」

 和広はいらついた様子で、ため息とともに言葉を洩らした。疲労の色が隠せなかった。

「DIDってなんだよ。」

 掃き捨てるように和広は呟いた。

 和広の家にはパソコンはない。携帯電話も、通話とメールしか使えない旧式のもので、ネットに繋ぐことは出来ない。母曰く、そんな機能を付けたら料金が嵩んで仕方ない、だそうだ。和広にはメールを交換し合う相手も、電話をする相手もいない。携帯電話の存在意義はほぼ無いに等しい。

 学校にもコンピュータールームはあるが、自由には使えず、使用許可を申請するのには面倒な手続きが必要になる。

 つまり和広には、現代の情報の海に漕ぎ出す船はなかった。

 結果として和広は古典的な、本を漁るという方法を取ることにした。朝食を食べた後、学校までの道を遠回りして図書館に寄った。

 朝ヶ丘付近の図書館で一番の大きさの図書館だった。内蔵する本一万冊を越え、腹ぺこ青虫からカントの純粋理性批判の原文まで。ある程度マニアックなニーズになら答えることが出来る。これなら何とか見つかるだろうと和広は思った。

 しかしこれが期待ほど、甘くなかった。書名検索、内容検索、司書の人に聞いたが見つからない。今まで存在すら知らなかった書庫の中に入れさせてもらい、あらゆる方法でその類の本を探したが、それらしいものは見当たらなかった。

「こういった大文字で略す頭字語は、何らかの組織名か、病名ではないでしょうか」

 と一緒に本を探してくれた若い司書は言った。利用者から頼まれた本が見つからず、申し訳なさそうな顔をしていた。また他の図書館に問い合わせてみるらしいが、一週間以上さきになると言っていた。

 組織か病気、確かに込み入った事情としては理由になりえる。特に、病気であるならば、死への恐怖からの錯乱、という風に美空の暴力的な行動に理由を付けられないこともない。かなりのこじつけだが。

 だが、医学系の資料の棚をいくら見ても、DIDという単語に関係しそうなものは見つからなかった。高校生の頭脳では意味すら分からない題名の並んだ本棚を何度も往復したが、それらしいものは確認できない。

 そもそも、何かの略称である確立が高いならば、正式名称を知らなければ意味がないのではないかと最終的にあきらめた。

 棚の前で、数時間直立に耐え続けた足を労るために膝を折る。膝を着いて下の棚を見ていれば、探しているようにみえ、誰も咎めることはしないだろう。棚を見ると哲学の棚だった。近代の哲学者たち、神様を否定し、肯定し、人間の中に無根拠な真理を見いだす人間の戯れ言。

 その中から無造作に一つを取り出す。ショーペンハウアーだ。高校の授業では、ほとんど出てこない自殺論者。勿論和広も良く知らない。適当に紙をめくり、その中の一節に目を止める。


「すべての真理は三つの段階を経る。最初は嘲られ、次に猛烈に攻撃され、最後に自明なものと認められる。」


 なぜか、その一節が目を引いた。

 その後、藁にもすがる思いで学校の図書館に行ったが、そちらも全くの無駄に終わった。その後、自然と美術室へやってきた。図書館で見つからないものをどうして高校の埋蔵書の中から見つけることができようか。

 やはり、コンピュータールームを借りて調べるしかないのだろうか。しかし、こんな理由で許可が得られるか怪しい上に、夏休みというと十月にある文化祭の準備をもう始めている生徒会や、文化部が使っていて開いていない可能性が高い。

 そこまで考えていると、立て付けの悪い扉が耳障りな音を立てて開いた。夏休みに美術室に入るのは、美大を目指す受験生か、真面目な美術部員か、それを嫌々見に来る顧問ぐらいだろう。

「なんだ、谷川か」

「なんだ、不良教師か」

 やはり布施先生だった。別に嫌いというわけではないが、さすがに夏休み中顔を合わせていると、さすがに飽きたというか、うんざりした気分だった。それは向こうも同じだろう。

「もう少しこう、新鮮な出会いというのを求めているんだがな。俺は」

 そういって木を組み合わせただけのような椅子に座る。何故、美術室の椅子には背もたれは無いのかと思った。

「新鮮な出会いってどんなのですか」

 一応聞いてみる。

「道に迷っておろおろしてる教育実習生がここを訪ねてきて、道を教えてください。って言ってきたり、あ、もちろん女の人な。」

「そんなことだろうと思ってました」

 夏休みに教育実習生なんてこないだろう。

 この人の性格には毎回うんざりするが、今日だけは、昨日の一件以来気が張った状態が少し緩んだ気がした。同時に昨日の事件が遠い過去のような感覚だった。恐怖も、驚きも、手の震える感覚も残っている。だが、時間の密度が濃密すぎて、どこか夢のような、現実味のない出来事として記憶に残っていた。

 そういえば。昨日の通り魔事件のことはどのくらい広まっているのだろう。さすがに昨日の今日のことだから、それほど知れ渡っていないと思いたい。だが、もし広まっているなら、どのような話になっているのか、知っておく必要があると思った。

「布施先生」

「なんだ?」

「昨日の夜、なんか事件ありませんでしたか?」

「どうしたんだ?いきなり」

「いえ、昨日、パトカーの音が聞こえたような気がしたので」

「事件ねえ・・・・」

 そう言って布施先生は考え始めた。すぐに思い浮かべないということは、心当たりがないのだろう。和広は心の中で安堵した。

「たぶん何も無かったと思うが、どうした?いきなりお前から話題を振るなんて珍しいじゃないか」

「単なる好奇心です」

 まさか自分が、昨日女の子に殺されそうになりましたとは言えない。

「ま、なんか聞いたらまた伝えるよ」

「お願いします」

 昨日起こったばかりとはいえ、殺人未遂だ。口コミでもテレビでも事件の情報が広まるのは時間の問題だ。人というものは自分に被害がなければあること無いこと含め無責任に情報を流す、いずれ布施先生の耳にも入るだろう。そのとき和広が関わっていたことも伝わっているかもしれない。

「あと、好奇心ついでに聞きますけど。DIDって言葉、知りませんか」

 DIDの情報が図書館で入手できないのなら、手当たり次第、機会があれば調べた方がいい。そう考えた。

 布施先生はしばらく考えていた。教室内は、換気されているとは言え暑く。布施先生の頬にも汗が伝っている。

「お前、高三にもなってまだdоの過去形知らないのか」

「違います」

 本気で哀れみを込めた視線を向けられたので撤回した。

「大文字でDID、たぶん、何かの頭字語だと思うんですが。皆目見当がつかなくて」

 そういうと布施先生はうーんとうなりながら考え始めた。やはり分からないのだろう。

「それも知らん。インターネットで調べれば出てくるかもしれんが、どうする?」

「お願いしていいですか?」

「明日までにまでに調べておいてやるよ。昼頃には台風過ぎているだろうし」

「ありがとうございます」

「お前今日は何というか、積極的だな。また何でそんなことを調べてんだ?」

 解答に困った。和広はあまり会話をする方ではない。布施先生が疑問に思うのも無理のないことだ。しかし、和広は口がうまい方ではない。下手をしたら美空のことまで話してしまう恐れがあった。打ち明けても問題はないが、話すと色々やっかいなことになりそうな気もした。

 適当に流そうとしたそのとき、急に引き戸が開かれた。耳障りな音が美術室を一瞬満たした。

 入ってきたのは、長身の男子生徒だった。いかにもスポーツを言っているような日焼けした顔と、鍛えていることがよくわかる体をしている、スポーツマンという表現がぴったりの男だった。刈り上げられた頭、鋭い目つき、彼そのものが勝利を求めるだけの存在に思える。

 一組の岸だ。彼とは中学時代、同じ学校のサッカー部に入っていた。高校に進学し、和広は美術部に入った。

 一方岸は高校でもサッカーを続けレギュラーメンバーのフォワードを獲得していた。しかもそれまで二回戦止まりだったチームを地区予選の決勝戦まで導いたキャプテンでもある。

「布施さん、何さぼってるんだよ、早く来てくれよ」

「ん?何が?」

「面談だよ!今日は俺の番だろうが」

 ああっと布施先生は言った。というかこの人は面談をさぼってここに来たのか?

「どうせお前はスポーツ推薦だろう?面談なんかしても意味ないって」

 そういって布施先生は手のひらでしっしっと子犬を扱うようにあしらった。反面教師とはこの人のためにある言葉だとつくづく思う。

「俺、進路希望調査に就職って書いたんですけどねえ」

 丁寧な口調だったが明らかにとげのある口調だ。だが和広は驚いた。もちろん布施先生も驚いている。

「・・・・お前もったいなくないか?」

 布施先生は言った。その言葉も無理はない。岸の実力は、部内でも頭一つ抜けている。とてもこんな小さな町に収まりきる人間ではない。

「今更その言葉をかけてくるとは先生らしいと言うか何というか」

 岸は大袈裟に両手を広げ、やれやれと首を振る。ちなみに和広のクラスでは何度も進路希望調査が配られ、公募推薦、AO入試、センター利用などのありとあらゆる進学方法の資料が配られてる。恐らくこの教師はそれをこまめに確認していないのだろう。

「なんで大学に進まないんだ?」

「進路希望調査にも書いたけど、金がないんだよ。推薦でも厳しいのさ。それにサッカーはもう高校で十分やりきったしな」

 そうか、そういって布施先生は黙り込んでしまった。布施先生は、生徒に必要以上のことを強要する人間ではない。その人の能力だけを見て、人生のレールを敷こうとはしない。その生徒がしっかり進路を決めているなら、心から悩んで決断するなら。それをサポートするだけだろう。

 布施先生はしばらく考えた後机の上に置いていたファイルの中からプリントを取り出した。

「渡したかもしれんが、九月の十二日にある就職説明会のプリントだ。これ持ってないと説明会に出れないから忘れんなよ。

 ・・・・今日は親御さん来れないんだよな?」

「夏休みが一番忙しいからな。九月にある面談には必ず行くと言ってたぜ」

 彼の家は旅館を経営している。観光地なので夏は客が多いのだろう。しかし面談にこれないほど必死に働かなくては、生活を維持するのは難しいのだろうか。

「分かった。本格的な話はそのときだ。今日はこれだけでいいだろう。あと、進路指導室でパンフ取って見とけ。そこに就職の手順が書いてある。分からないことがあればまた聞きに来い」

「わかった。そうするよ。

 そういや風が強くなってきたぜ。本格的に暴風域にはいるのは深夜みたいだが、そろそろ帰った方がよくないか?」

 空を見上げると紫の色をした空を、重い色をした雲が、すさまじい早さで走っている。その先に必ず行かなくてはならないという意志が宿っている。その動きに迷いは見えない。

 なんとなく自分とは大違いだと、和広は思った。

「確かに、そろそろやばくなってきたな」

 そうは言っているが、布施先生の顔はほころんでいた。安全という根拠のない安心感は、ある程度の危険をスリルとしてプラスに捕らえてしまうらしい。

「なんていうかこう、台風が来るときって、なんか異様にわくわくするよな」

 窓越しに空を見上げながら、布施先生は言った。本当に楽しそうだった。小学生の無邪気な表情だ。風速十二メートルの空間に存在してみたい気持ちは分からないでもないが、三十八歳にもなってもそう思えることはもはや尊敬に値する。

「なんか風が強くなってきたら外に出たくなるよな。特にあの雨が降っていないときの風が轟々吹き荒れているときとか」

 岸も便乗する。この二人なら喜んで暴風の中に飛び込むだろう。子供心を忘れないのはいいことではあるが。

「二人ともいい年して、馬鹿するなよ」

 一応、釘を刺しておく。高校生と三十路後半の教師、はしゃぐには世界を知り過ぎているし。みていて耐えられない。

「ばーか。今のうちに馬鹿やっとかないでいつやるんだよ」

 そういうものかと思った。生まれてから馬鹿なことはしたことは無いと思っている。未熟さ故の失敗はともかく、若さ故の無鉄砲さは和広の中で無意味で不利益なこととして定義されている。

「馬鹿な奴なら、大人になってもやるだろ」

「違いないな。」

 和広は即座に、横に座っている美術教師をその例とした。恐らく岸もそうだろう。

「じゃあ、布施先生、失礼します」「行方不明になってんじゃねぇぞ、おっさん」

 和広と岸は美術室を出た。布施先生は仕事が残っているらしく、しばらく学校に閉じこめられる。それに和広は同情したが、岸はどちらかというと羨ましそうだった。

「カズ。進路指導室によるから付き合ってくれ」

「ああ」

 この学校は度重なる改装の末、迷路の様に廊下が入り組んだ複雑な造りになっている。初めてこの学校に来た者なら、間違いなく迷うだろう。実際、和広も入学式のとき、自分の教室に辿り付けず、四十人のうちの最後の一人として、自分のクラスに入った。

 A棟の三階にある美術室に対し、進路指導室は、B棟の二階にある。そこに至るまで、それほど複雑ではないが話をするのに不自由しない距離がある。だが、話をしないには不自然な距離だ。

「まさか、岸が就職とは思わなかったな」

 沈黙に耐えきられなかったのは、和広の方だった。誰かと話すことは苦手だったが、それ故に、誰かと二人きりで沈黙を保つこともまた苦手だった。

「まあ、しょうがないだろ。サッカーをしないと死ぬ訳じゃないしな」

 岸はさも当たり前のように言った。

 確かに死ぬわけではない。言ってしまえばクラブ活動というのは一種の趣味だ。それを職業にする人間なんて殆どいない。いるのは、類稀な才能をあらゆるものを犠牲にして研鑽した一握りの人間だけだ。

「そうだよな」

 相づちを打ち、そこで会話が途切れる。巧く話題を繋げることが出来ない。このようなとき、他人とのコミュニケーションが少ない自分が情けなくなる。もっと同級生と話していれば、今の流行の話題を出すことも出来るだろう。

「旅館を継ぐのか?」

 やっと出てきたのは、野暮な質問だった。継ぐつもりならわざわざ進路相談にきたりはしないだろう。

「兄貴が継ぐ。本人も継ぐ気満々だしな。俺もあんな重労働したくねえし。まあ都会にでもでるか、行きつけの飲食店に就職かするさ」

「そっか」

「おまえはどうするんだ?」

「えっ?」

 思わず。詰まってしまった。

「美大、受けるのか」

 岸はこっちをみていない。遠くを見ている。時間軸を通り越して未来のどこかをみているのかもしれない。

「まあ、そうするつもりなんだけどね。経済的に国立しかいけないからさ。落ちるかも」

 自信がない。それは受かるか受からないか、といった次元ではない。自分は本当にこの道を進んでいいのだろうか、という漠然とした不安すら拭えていないのだから。

「がんばれよ。自分が好きなことを一生の仕事にするなん格好良いじゃねえか」

 自分の好きなこと、本当にそうなのだろうか。確かに絵を描くのは好きだった。読書感想画を描くときも、キャンパスに向かっているときも、スケッチブックにデッサンを描いているときも、コンピューターゲームをするときのように、わくわくしたものだ。

 だが、それは今、岸が応援してくれているような、人生を懸けるべきことなのだろうか。何かを生み出す人間、何かの偉業を成し得る人間は、才能と、強い精神と信念を持っている。それを自分が持っているとは思えない。

 そもそも人生では何を成さなければならないのだろう。子孫を残すのか。この世界の謎を解明するのか。

 幸福を手にすることなのか。

 たった十七年か生きていない自分という子供。一年後、十年後、自分がどうなっているのか全く想像がつかない。この道を歩いて行っていいのだろうかと不安になる。

 俺はどうなるのだろう。

「・・・まあ、せいぜい頑張れや」

 そういうと岸は棚に掛けてあるパンフレットの一つを取った。表紙には、「就職手続きについて」と無駄に凝った字で書かれている。目の前の教室のプレートには「進路指導室」とかかれていた。岸は、興味なさそうにパンフレットの中をぱらぱらと確認する。

 一瞬、岸の目が悲哀に満ちているように見えた。しかしそれは一瞬で、すぐに自信に満ちたスポーツマンの顔つきに戻る。

「さて、帰るか」

 用は済んだようで、岸は玄関までの最短距離のルートの廊下に足を進めた。勿論、和広もついていく。

「そういえば、谷川。昨日の事件知ってるか?」

 どきっとした。確信に近いものが和広の心臓を鷲掴みにした。

「・・事件って?」

「何だ知らないのか」そう言いながら岸は教えたくてたまらないといった表情をしている。こちらの動揺が伝わっていないことを祈った。

「昨日、花道商店街でさ。傷害事件があったんだよ。まあ被害者は無事らしいけどよ。全治一週間の軽傷と、こけたときの打撲だけらしいし。だけど精神的ショックが大きいみたいだけどな」

「・・よく知っているんだな」

 布施先生が知らなかったのに、岸がここまで知っているのは少し妙だと思った。

「そら、被害者のおっさん、家の近所だし何より噂がすげーよ。なんでも犯人は十代の女性とかいう話だし。話題性十分だって」

 なるほど。しかし、一つ疑問が起こる。

「何で十代ってわかったんだ?」

 犯人の特徴のことは警察には話さなかったはずだ。和広は、語尾の強くなるのを押さえながら聞いた。

「被害者のおっさんの証言だよ。森川さんって言うんだけどな。仕事帰りの帰り道。途中でちょいと一杯ひっかけて、いい気分で帰っていたんだと。そしたら、白いワンピースを着た可愛らしい女性が商店街を一人で歩いていたもんだから、酔った勢いだろうな。ちょっかい出そうとしたらしい。

 最初はその女性、嫌がってたけど包丁出してでも逃げようって感じじゃなかったそうだが。だが急に人が変わったように暴れ出して、持ってたポーチから包丁を持ち出してきたそうだ。

 酔ってるから足下もおぼつかない。恐怖で足もすくむ。助けがこなかったらどうなっていたか。なんてバカみたいだよな。女の子襲うつもりが逆に殺されそうになったんだからよ」

 岸は笑いながら言った。その声に反射的に答えながら、彼からもたらされた情報をまとめる。

 美空は襲ったのではない。襲われたのだ。いや、襲われたという表現はおおげさだ。酔っぱらいに絡まれた。といった方がいい。

 最初は抵抗してはいたが実力行使には出なかった。彼女の性格的に何とか説得しようとしたのだろう。だが急に人が変わったように暴力的になり、包丁を取り出した。つまり和広に襲いかかってきた美空だ。和広は恐怖というものを思い出す。そのときの彼女の雰囲気は身に染みている。あれは人を傷つけることを楽しんでいるようにも見えた。

 人にはいくつもの顔があるという。普通の人のように見えてもなんらかのきっかけで大量殺人を犯すこともある。

 だがあのときの美空は、あの操り人形のような美空は、明らかに人としての本質がずれていた。

「どうした?」

 岸がこっちを向いている。自分はそんなに考え込んでしまっていたのだろうか。

「なんでもない。たださ。まだ、犯人捕まってないのかなって。」

「ああ」岸は顔を上げて笑った。「まだらしい。この国の警察は無能だな」

 本当にそうだろうか。国家権力はそんな優しいものじゃない。特に渡辺という警官。あの男を欺くのは難しそうだ。

 気づくと、玄関にきていた。ガラスの扉が風を叩きつけられ悲鳴を上げている。

「じゃあここでな」

 岸が言った。彼とは靴箱の位置も、帰る方向も違う。

「また今度ね」

 そう言ってはみたが、その今度、という場面を想像できなかった。今度、会うとき、自分はどのような立場に立っているのだろうか。

 岸が見えなくなると、和広も玄関をくぐった。思っていたよりも強い風が体を揺さぶる。一瞬しっかり立っていられない。しかし、なんとか体を安定させる。

 今から風は激しくなるだろう。そう考え、帰りを急いだ。まだ立っていられる内に。


「うぇー。おはよう。和広君。」 

 また朝ヶ丘に、彼女が来たとき、和広は心から安堵した。

 ママに呼ばれてから二日立った。彼女が一日朝ヶ丘に来なかっただけで和広の頭の中は、ママに警察に連れて行かれたとか、変な尋問されているんだろうかとか、ドラマの悪影響を受けた想像が懸け巡っていた。

「ママに何か言われた?」

 思わず聞いてしまう。見たところ彼女の表情にマイナスの要素はみれないが、大人というものは、顔という仮面の中に、人体の構造以上に複雑な思考が隠れているものだと和広は感じていた。

「別に、変なことは言われなかったわよ。逆に盛り上がっちゃってさあ。まだ二日酔いなのよ。」

 そう言って彼女は手に持っていたペットボトルから水をあおる。二日酔いというものを知識的には和広は知っていたが、実際にみたのは初めてだった。父は翌朝に響くような量のアルコールは摂取しないし、母に至っては全く酒が飲めない。

「二日酔いってどんな感じなの?」

「頭がんがんして、吐き気がして、くらくらする。」

 そう言って彼女は頭を支える。なんとなく彼女にも気楽な部分があると思う。和広は少し安心した。

「そういえばさ、何それ?」

 そう言って彼女は、和広が持ってきた絵の具とA3の画用紙を指さした。

「これ?絵の具だけど?」

「見ればわかるよ。どうしたの?」

「宿題の読書感想画。海が舞台なんだ」

 小学校の夏休み課題は、二つに分けることが出来る。日記や自由研究といった毎日、数日かけてしないと成立しないもの、ドリルや作文などの背水の陣で望めば一日でなんとかなるもの。

 読書感想画というのはどちらかと言えば後者に入るが。和広にとっては数日を費やさなければならない大物だった。本をしっかり読まなければならないと言う前提があるし、絵を描くのはその頃から好きだったから、画用紙が絵の具でへたってしまうくらい塗っていた。

「そんなの、最終日にあらすじだけ呼んでぱっぱーと書いてしまえばいいのに。」

 和広の説明を聞いた彼女はそう言った。どうやら宿題を最終日まで溜めてしまう質らしい。

「それに本なんて教科書に載ってるやつ使えばいいのに。」

 しかも、筋金入りのようだ。おそらく彼女は下書きの鉛筆の線を消していない「走れメロス」を提出していたに違いない。

 しかし自分も非難は出来ない。他の宿題に至っては落第生のそれだからだ。読書感想文はただ本のあらすじを書いていっているだけだし。ドリルもまともに計算せずに解答をみていた。

 ただ読書感想画は特別だった。本を読むのは好きだった(ナルニア国物語やハリーポッターシリーズのファンタジー系が特に好きだった)し、その中の場面を想像して頭の中で巡らすのも好きだった。

 だからしっかり絵にできる読書感想画は宿題というより遊びの心持ちでやっていた。

「どんなの描いてるの?」

「そんなうまいものじゃないよ」

 彼女がのぞき込んでいた。今回描いているのは、海を旅する皇子が、船で働いている少女と海で遊んでいる場面だ。物語は大河的だったが、圧倒的な自然の描写にうっとりしながら読んだ。海の波が上手く描けなかったので、この場所から海を見ようと思ったのだ。

「うまいじゃん!」

「そんなことないよ」

 今もそうだが、自分の絵を見られるというのは背徳的な喜びがある。例えるならば自慰行為の感覚に近いものだ。

 そのときも小学二年生のつたない絵が上手いわけがないのにほめ言葉に後ろめたい優越感を感じていた。

「下書きだけで、すごい綺麗だもん」

「そんなことないよ」

 恥ずかしながら答えた。しかし謙遜ではない。二人の登場人物は人の姿としてはアンバランスだし、波も幼稚な動きを表しているだけだった。

「いや綺麗だよ」彼女は続けた。「なんていうか。構図が凄く上手い。私、絵のことには詳しくないから上手くいえないけど。君、多分才能あるよ」

 少し驚いた。和広自身、図工の絵をほめられたことはある。しかし誉められた後、学校の階段の途中に貼ってあるバランスのとれた上級生の作品をみて、あの評価はお世辞なんだといつも思っていた。

 そういう意味では「才能がある」と言われたのは初めてだった。これまで子供の遊びとしてしかみてもらえなかった絵が自分の長所として、自慢してもいいこととして認められた気がした。なんとなくこそばゆかった。

 そのまま描いていても作業にならない気がしたので、中断した。彼女は「何でやめるの?」と聞いてきたが答えられなかった。恥ずかしさと嬉しさの中間にあるこの気持ちに和広はまだ慣れていなかった。

「ねえ」

 彼女は、口を開いた。

「何か話そうよ」

 そう言って彼女は、体育座りのように足を折り曲げ自分の膝に頭を置いた。

 その自然な、柔らかな仕草を横目にみる。直視するのははばかれたが、ああ、いつものお姉ちゃんだ。そう思った。

「つぐみのお話して」

 僕は頼んだ。つぐみは、もう僕の中で友人に近いイメージを持って、この世界に存在していた。可愛らしく弱虫なくせに、少し背伸びしていている女の子。

 またしばらくつぐみについての話をした。甘いものが好きらしく。特に羊羹がお気に入りであることや、運動会の徒競走で転んで拗ねて、途中で座り込んで居座ってしまったこと。

 毎日の一ページを、丁寧に切り取ったような思い出。彼女は本当に幸せそうに話していた。和広も幸せそうに語る彼女をみると幸福な気分になった。

 しかし、しばらく話を聞いていておかしいと思うことがあった。

 つぐみは和広の一つ上と、彼女が言っていた。ならばつぐみは十一歳ということになる。しかし、彼女は八歳以降のつぐみの話題を出さなかった。

 和広が聞いた中で一番最近のつぐみの出来事は八歳の誕生日にプレゼントのぬいぐるみに不満を漏らしたことだ。

「ねえ、お姉ちゃん」

「なに?」

「つぐみは、今、どこにいるの?」

 沈黙が空色の世界を包んだ。果てはどこまでも青く。空と海の境界は雲を飲み込みながら、曖昧にだがはっきりとあった。

 風は猛り、空は歌う。まるで悲鳴を上げているようだった。それは、果てがないのが苦しいのか。それとも高すぎる故に悲しいのか。泣くように、叫ぶように、透明な風は歌っていた。

 そこで、目が覚めた。

 汗がランニングを濡らしていた。それは夏の鬱陶しい暑さのせいだけではなかった。

 おそらく、この記憶が大切で、儚いものだからだろう。

「全く、ママの言うとおりだよ。弱々しいことこの上ない」

 和広は呟く、それは誰に向けたものでもない。意味のない言葉。

「ごめんよ。お姉ちゃん」

 それは、どうしようもない罪への懺悔。罪は消えない、だが人は忘れてしまう。だから、愚かにも思い出す。罰が無いのならなおさら、その無意味な行為を繰り返すのだ。

 嵐の音と共に、朝は来た。

 目覚まし時計の耳障りな音は、雨戸のがたがたと震える音にかき消されていた。

 雨戸を閉め切り、電気を消すと六畳の自室は、10センチ先も見えないほど真っ暗になる。基本的に和広は寝るときに常夜灯はつけないので、起きると完全な暗闇になる。

 目を開けた瞬間も暗闇というのはいつになっても慣れない。時刻が朝日で把握できないというのもあるし、なにより一瞬自分が今どこにいるのか分からない。

 自分が一瞬誰なのか、寝ぼけた頭ではどこにいるのかわからなくなる。

 一瞬混乱して、寝る前の、もしくはそこからずっと前の記憶を辿っていき、自分が谷川和広という人間であること、台風がきたので雨戸を閉めたことを思い出す。

 風は強い。樫の木でできた雨戸を揺さぶり、堅い音を出す。うるさいがそれほど耳障りではない。木材同士がぶつかる硬質な音にはまだ暖かみがあり、耳障りな目覚まし時計の機械音ほど、聞いていて不快にはならない。

 ガラスの扉を開け、その奥の雨戸をほんの少し開ける。轟々と音を立てて灰色の空と海の狭間で風が荒れ狂っていた。雨は降っていないようだ。

 この町は台風が直撃する事は少ない。日本海側にあるため、少し暴風域に入るのみで、家屋が飛んでしまったり、稲が全て倒れてしまうような生活に直結するような被害は少ない。

 あるとすれば、観光地である朝ヶ丘に来る客がいなくなることだが、毎年のことだ。確かに、出店でかき氷やイカ焼きなどの軽食を振る舞ったり、お土産を扱う和広の店のような家には影響はでるが、天気予報でも、家計簿の面でも予測と対策が立てられている。

 つまり、この町に住んでいる住民にとって台風は一時の妙な高揚、もしくは陰鬱な気持ちにさせる薬のようなものだった。

 過ぎれば僅かな、ほんの僅かな何かしらの被害。

 例えば、山の細杉が数本倒れただとか。

 暴風の音で深い眠りにつけなかったとか。

 朝ヶ丘の側面が、いつもの波よりも多く削られることとか。

 巨大な低気圧が過ぎた後は、必ず晴れる。そのときには、かすかに残された被害のことなど、誰も気に止めないのだろう。

 とはいえ、現在この町には激しい風が吹き荒れている。テレビを見たわけではないが、強風波浪注意報くらいは発令されていてもおかしくなさそうだ。今が夏休みじゃなければ、連絡網で休校の連絡が回ってくるに決まっている。

 今日は、美空は来ないだろう。

 来たら本当に死ぬかもしれない。足場の悪い崖、安全柵は一応あるが、景観を損なうという理由で大したものは立っていない。全くない場所もある。特に、約束したあの場所は柵どころか、道すら整備されていない。

 そこまで考え、部屋に電気をつける。時計は午前7時。約束の時間を決めていたわけではないが、少し寝過ごしている。

 これから、どのように美空にコンタクトを取るべきかを考える。思い出してみれば、昨日、一昨日と、すれ違い、または殺されかけと、世間一般の、知り合うことをまともに行っていない。

 今、和広にあるのは、彼女が殺人未遂を犯したこと、DIDと呼称される何かが関係していること、おそらく自分より年上であること、白いワンピースを着ていることくらいだ。

 美空がこの町の何処に滞在しているのか。そもそも警察から追われる身なのだから隠れ潜んでいるのかもしれない。

 つまり、現在、和広とあの少女との接点は、朝ヶ丘という場所しかない。

 また深夜に町に出歩いて、彼女を探すのはさすがに気が乗らない。そんなホラーゲームじみた真似をするほど、肝も据わっていない。

 布団に寝転がる。少しざらついているタオルケットの感触を確かめながら思案した。

 ふと、熊田さんに連絡をとってみようかと考えた。こちらにはDIDという有力かは定かではないが、貴重な情報がある。どうしてその情報を手にしたのかを話さなければならないが、そこは何とかでっち上げればいい。相手は詰問のプロだろうが、こっちは犯罪者ではない。逃げられるだけの「建前」があればいい。

 そう思い、携帯電話を手に取った。液晶画面が小さく、機能も充実していないが、根本的な存在意義である通話は可能だ。

 机の上に置きっぱなしの電話番号のメモをとろうと、窓際に移動する。

 風の音に混じり、石が雨戸を叩く堅く鈍い音がした。

 その犯人をを推測した和広は、立て付けの悪い雨戸を脱獄するようにこじ開ける。

 和広の店の前、正確には、和広の部屋である二階の窓が見える位置に、あの少女が立っていた。

 ワンピースではなくデニムを履いていた。上はシャツ一枚。随分と印象が違って見えた。強風なので麦藁帽子は被っていなかったが、代わりに綺麗な水色の傘をその手に持っている。どこか、閉じた朝顔のようだと和広は思った。

 彼女は少し怒ったような表情をしていた。眉はひそめられ、子供を思わせる変化豊かな唇は真っ直ぐに閉じられている。

 そこで、なぜか、和広は疑問を覚えた。別に何がと断定できるものではない。ただ、立つ姿勢。傘に添えられた手と腕の形、そしてその人としての印象に、何か違和感があった。

「おい、起きてんなら返事くらいしろ。もう少しでチャイムを押すことだったぞ」

 甲高い声が強風の中響く。一瞬、思考が止まってしまった。

「えっ?」

 素っ頓狂な声を和広は出す。今の美空の口調は、抑揚がなく、まるで男が発したかのようだったからだ。

 声の高さはさほど変わっていない。二日前の美空の声に間違いはない。それが余計、違和感を際だたせた。

「えっ?じゃない。心配してたのに、原因は寝坊かよ。美空と約束したんなら無理にでも起きろ、ナマケモノ」

 そう言って、さらに顔の皺を増やし、和広をみた。しかし和広は、ただ困惑するしかない。

「君は、美空、だよな?」

 ようやくその言葉だけ絞り出した。美空は大げさにため息を付く。

「お前、DID調べたんじゃねえのか?せっかくヒント出してやったのに」

 美空は語尾を強くして、船乗りのような威圧感のある声をこちらに叩きつけた。とても二日前と同じ人間とは思えなかったが、声音がその存在が同一であることが証明していた。

 和広は、元々強くでられるのが苦手な人格をしている為、少し尻込みした。

「調べても見つからなかったんだよ。うち、インターネットないし」

「どこの昭和時代だよ・・・」

 説明しないといけないのかよ。と美空は風に乱れた髪をぐしゃぐしゃと掻いた。

「わかったよ。和広。俺は先に朝ヶ丘に行っているから、さっさと用意して早めにこい。危ないから、なんて言い訳は無しだ。風は強いが、そんなに先端にはいかねえからな。

 そのときに説明してやるよ。だから逃げんじゃねえぞ」

 そう言い、美空は家の裏にある、朝ヶ丘に続く道へと向かった。一方の和広は狐に化かされたかのようにあっけに取られていた。

 実際に化かされた可能性も考えた。狐とまではいかなくても美空がこちらを困惑させる目的で、あのような乱暴な口調と態度を示したのかもしれない。

 だが、それにしては、あの口調は淀みないものであったし、それ故に美空との姿との不一致さが、海に浮かんだ発砲スチロールのように浮き上がっていた。

 美空は、説明してやると言った。ということは、DIDという問題を解けなかった和広に正解を提示する、という解釈で間違いないだろう。先ほどの様子を見る限り、激怒されそうだが。

 つまり、それは美空が抱える問題を見せるということになる。

 だが、彼女の口から考えてもその先があるはずだ。美空はこちらがDIDを調べたことを前提にここに来たはずだから。

 DIDという小問は、そこから発展させるであろう話、の予備知識として予習しておけ、という意味だったのだろう。その先にある発展問題を理解するために。

「考えても、わからないことだろうな・・・」

 和広は腹を決めた。。

 軽く深呼吸して、覚悟を決める。そもそも、昨日朝ヶ丘に赴いた時点で、逃げることはしないと決めていた。幼き日の記憶からか、それとも、単なる好奇心なのか。自分でも納得はしていない。だが、関わったからには途中で投げ出すことはしたくなかった。

 古びたタンスから、Tシャツと、ハーフパンツを取り出し、身につける。タンスには、シールを剥がされた跡があった。自分が付けたものに間違いはないが、何時付けたものかは思い出せなかった。


 朝ヶ丘までの道は、無秩序に吹く風と、飛び交う木の葉でまるで試練のようだった。

 元々、足場が不安定なこともあり、右へ左へ体を引っ張り、重心を安定させてくれなかった。

 しかし、なるべく急いだ。着替えている間に、美空は随分先に行ってしまった。そのうち追いつくと思っていたが、道の半分を過ぎても、姿すらみえないので、足を早めた。

 朝ヶ丘にでる。ごつごつとした岩場の先には生き物の様に崖に襲いかかる波があった。

 風には砂より少し大きい位の小さな石が混じり、たまに露出した肌に当たる。痛いというより痒い位の刺激。

 足場に気を付けて進む。岩場の歩き方にはこつがある。次に踏む足場を歩いている間に視認し、その足場になる岩が、どのような形か、どのくらいの傾斜か。不都合があれば修正し、なるべく足に負担のかからないようにする。

 下手をして足首を捻ることなどよくあることだ。誰かと一緒にいないと、捻挫したとき帰ることは出来ない。

 いや、違う。今日は一人ではない。視線を前方に向ける。

 手頃な大岩に座った美空の姿があった。あの事件以来の邂逅。もう少し互いに緊張をはらんだものになると覚悟していたが、先ほどの美空の言動のせいで出端を挫かれた気分だ。

「遅いぞ、和広。寝坊したのなら、もう少し位急いだらどうなんだ」

 強風の中、美空は言う。その端々まで、男性的な口調でありながら、声音は、女性らしく柔らかいものだ。若干声が低い印象がある。姿は美空の、起伏は少ないが女性らしい曲線がある。別人ということはあり得ない。

「君は、美空なのか?」

「じゃあ聞くが、お前は俺が美空だと思っているのか?」

 言葉に詰まる。判断が付かない。確かに、身体的な特徴は紛れもなく美空のものだ。それは疑いようがない。

 しかし、今の美空の言動や、性格は、まるっきり別人だ。まるで、美空という体に男性の幽霊が取り付いたかのように。

「・・・・わからない」

 二日前の美空は、殺人鬼のようだった。異様な気配なんて分かりやすいものではなかったが、躊躇いなく人に刃物をつきいれてしまえる自制心のなさがかいま見れた。だが、今は美空はそのような状態ではない。また、別の、不可解な異常。

 美空はいらついている、眉間に皺を寄せ、口は何か言いたげに、だが、口にすれば罵声に変わったしまうため自制して、和広をみている。

「さて、どこから、説明したらいいんだろうな」

 美空は大きくため息をついた。まるで、物わかりの悪い生徒に、どう教えるか悩む先生のようだった。

「まずは、君のことについて教えてくれよ。一昨日といい、今日といい。君には理解不能なことが多すぎる。君が美空でないならなんなのか。美空と、どんな関係があるのか。それを知らないとこっちもどう話してわからない」

 和広は言う。彼自身、これ以上わからないことだらけなのはたくさんだった。

 美空は、ふんと、鼻を鳴らした。若い世代の言葉に耳を貸さない、親世代のような態度だった。

 そして、白いワンピースを風に遊ばせながら、岩を降り、和広と相対する。

「なら、単刀直入に言おう。俺の名前は八雲。この体の中にいる十七の人格の中の一人だ」

 勿論、俺は男だ。と美空は付け加えた。

「・・・もう一つの人格?」

 和広は聞いた。まるで鸚鵡返しのように、言われたことをそのまま返す。

「そうだよ、何度も言わせんじゃねえよ」

 八雲と名乗った美空は、答えた。少しせっかちな性格なのか、和広が情報を消化する時間すらもどかしそうに話を進める。

「ということは、君は二重人格者、なのか?」

 そういうと、八雲は腕を組み顔をしかめた。

「おい、二人じゃねえよ、さっき十七の人格の一人って言っただろう?あまり言ってほしくねえが、多重人格って言った方が正しい」

「十七人・・・・」

 和広は呆然としていた。多重人格というものを知らないわけではない。だがそれは、小説や漫画、アニメーションやドラマ、創作物の中でしか存在しないものだと思っていた。

「信じていない顔だな」

「信じていないっていうか・・・」

 ついていけない。と思った。確かにそれが本当ならば、この男のような荒い言葉遣いにも説明が付く。だが、これまで多重人格の人間なんて会ったことなどない。そもそも和広自身そんなものは創作物の産物だと思っていたからだ。

「まっ、普通はそういう反応だろうな。だから美空の奴しっかり説明すりゃよかったんだ。あいつらも、何で俺に押しつけるんだよ。お前も会っておいた方がいいってどんな理屈だってんだ・・・・」

 ぶつぶつと、八雲、は毒を吐いていた。

「ちょっと待て、何で美空は多重人格者だってはっきり言わなかったんだ?」

 八雲に訊ねる。見た目は美空なので、美空本人にその人の行動の意味を他人事の様に訊ねるのは、妙な気持ちだった。

 八雲は首の後ろを掻く。風のせいで乱れた髪は直さず、そのまま絡み合い、風に踊らされている。和広は岩の上に腰を下ろした。

 DIDという単語で調べても、図書館では有力な本は見つからなかった。インターネットを使えば見つかるかもしれないが、それでも耳慣れない言葉には変わりない。

 だが多重人格と書けば、それだけでどのようなものかわかる。わざわざDIDなんて書く必要はない。

「じゃあ、和広。多重人格ってどんなイメージがある?」

 八雲は険しい表情のまま言った。

「イメージってどんな?」

「そのまんまだよ。楽しいとか、つらい、おもしろい、つまんない、そういうのでいい」

 和広はしばらく考えた。今まで多重人格者と知り合うことなんてなかった上、現実に存在することすら知らなかった。知識を得るにしても、大抵、ドラマや、漫画、アニメーションといったものでしか知らない。それらの物語の中では、大抵、人格同士がぶつかったりしていたが、最後には仲良くしていた。

「面白そう、かな。不謹慎かもしれないけど、自分の中に他人がいることって」

「ああ、とても不謹慎なんだよ。その考え」

 八雲はスカートを鬱陶しそうに整えながら、声を荒げた。

「お前は経験があるか?

 少し意識をなくしたと思ったら、自分が手に包丁を持っている。気づいたらリストカットの跡がある。起きたら病院のベットの上で拘束されている。昨日まで話していた友人の顔に青あざがあって、自分の拳には見慣れない傷がある。

 今まで普通に接していた友達や、家族でさえ、自分を怖がるように距離を置きながら、裏でこっちをキチガイ呼ばわりしている。

 そんな気持ちがわかるか?」

 八雲は、左手をこちらに向けるその手首には、いくつもの切り傷があった。今まで、長袖で近くでみたことがなかったから気づかなかった。幾重にも、まるで猫がひっかいたみたいな無秩序な格子状の傷。手首に対し真横に描かれたそれは、赤黒い血と毒々しい膿が残っていた。

「これは病気なんだよ。これでも死んでしまおうと考えたことだって何度もある。確かに珍しい病気だし、面白がるのもわかるが、そんな偏見まみれで見られたらいらつくし、迷惑なんだよ」

 嫌な偏見を持たれるのがいやだと、美空が言っていたことを思い出した。

 和広は言葉を探していた。八雲の話をどこまで信じていいかわからなかったからだ。

「信じるも何も、事実だよ。確かに心理学かじってないと納得できないかもしれないだろうけどな。だが、幽霊見つけてこれはいたずらだ。とか宣っても、オカルトは解明できねえだろ?

 もう一度いうが、俺は八雲だ。確かに俺には男性器なんてないし、胸も膨らんでて、今着てるデニムもサンダルも女物だ。だが、俺は男なんだよ。

 こんなの着たくねえし、履きたくもない。さっさとトランクスにはきかえて、さっさと寝ちまいたい。ま、俺以外のほとんどの人格は女だし、反対されるだろうけど」

 美しいソプラノを歌えそうな声で八雲は言う。

「まあ。証拠はない。俺が、美空ではなく八雲だって言う物質的な証拠はどこにもない。だって細胞の一つまで共有しているしな。

 でもな、お前も自分が自分だっていう証明はできるまであるのか?」

「なんだって?」

「怒っているときのお前、悲しんでいるときのお前。一分前のお前、一時間前のお前、十年前のお前。

 全部が今のお前と同一だったか?細胞ですら十年すれば全部入れ替わってしまうだぜ?自我なんて、信じるもの、求めているもの、生きる理由さえ数秒の間にどんどん変わる。そんなもの同じ人物なんて誰が断言できる?自我なんてものはただ、記憶が繋がっているだけに過ぎないんだ。もしそれが、記憶の連結が切断されたら、その記憶たちは同じ人間だと言えるか?

 ・・・俺たちは、そういう存在なんだよ」

 昨日美空が言ったことが繰り返される。だが、昨日よりも深く、その言葉が頭に染みこんでいった。

「・・・なあ、八雲さん。一つ聞いていいか?」

「八雲でいい。俺は十七歳、同い年だろ?確か」

「え?でも、美空は二十歳だって・・・」

「人格ごとに年齢も違う。俺らの中には三十過ぎのやつもいるからな」

 そういい。八雲は、自分の胸を叩く。

「で、なんだよ。美空に会いたいっていうのは無理だぜ?俺は人格の交代を自由自在にできる訳じゃないからな」

「あ、うん。じゃあ八雲、何で君、いや君たちは朝々丘に来たんだ?」

 八雲は、台風の潮風に髪を乱しながら、かすかな朝日の中、猛獣のように荒れ狂う波しぶきをみていた。

「・・・美空からはなんて聞いている?」

「確か、知り合いの自殺を止めるため・・みたいな感じで言っていた。だけど」

「まあ、確かにあいつにしてみればそうなのかもな、鬱陶しい。別に俺は来たいと思っていた訳じゃねえよ」

「自殺を考えている人格がいるのか?」

「ああ、それは確かだけど、あまり話題に出さない方がいいぜ。この会話が聞こえている場合もあるからな」

 和広は慌てて口を噤んだ。そして息を吐き、呼吸を整えてから問い返す。

「だけど、美空は他の皆が満足するまでって言っていた。なら、この場所にきた目的は一つじゃないはずだ。一体君たちの目的は何なんだ」

「俺はただ奴らに引きずられてきただけだよ。目的なんて知るか。俺は、他の人格とはあまり自由に意思疎通できないからな」

「そうなのか?」

 意外だ。人格同士、自由に意思疎通出来るものだと思っていた。現に先程、美空とやりとりしたとの言葉もあった。

「じゃあ君はどうやって美空と意思疎通しているんだ?」

「ああ、日記があるんだ。日記っていうべきかはわからないがな。自分が表に出ているって気づいたときに書くようにしている。それで、俺とあいつは、いくつか意見を交換している。それから夢の中会議みたいなことをするときもある、どんなのかは口では説明しずらいな。

 後起きているときも幻聴みたいなのを使って意見を交換することもあるけど。それ、結構難しいしな。

 つっても、日記に関して言えばまともなこと書いているのは俺と美空と後数人ぐらいだがな、他の奴らはもう、末期だありゃ、自分のことだがな

 まあ医者がいうには、美空はISHっていう奴らしいから、他の人格にしてみりゃ俺らが異常なんだろうよ」

「ISHってなんだ?」

「乱暴に言えば常識人、治療の協力者ってとこだ、説明面倒くさいから、自分で調べてくれ。そんな重要ではないし」

 DIDといい、耳慣れないアルファベットの羅列ばかりだ。何かの略称なのだろうが、聞いているこっちとしては理解が追いつかない。

「結局、DIDって正式名称はなんだよ。こっちもDIDじゃ、まともな情報えられなかったんだよ。正式名称とか、日本語名称を教えてくれよ」

 風が砂になりかけの石を運ぶ。ここに来たときよりも少し風が収まったように感じる。だが遙か上空の雲は、何かに急かされるように、海の向こう側を目指し、飛行を続けている。

「DIDの正式名称は Dissociative Identity Disorder 日本名では、解離性同一性障害。他にもMPDとか、色々呼び方はあるが、今ではそれが一番通りがいいんじゃないか?

 これでいいかよ。もうヒントはださねえよ。後は自分で調べろ。

 ああ疲れた。やっぱ喋るのは苦手だ。今日はもう疲れたし、また明日来るぜ。ゲーセンで憂さ晴らしでもしねえと気が晴れない」

 そのまま去っていきそうな八雲を、和広は慌てて引き留めた。

「待てよ、どうして君らはいつもさっさと帰っちまうんだよ。謎を残されたままどっか行かれても困る。せめて昼間どこにいるか位教えてくれてもいいだろう?」

 未だに、美空と同様の容姿をしたこの少女が、八雲という別人格であることには納得していない。

 八雲と呼ぶことにも違和感があり、男と喋っている感覚は全くないのだ。

「殺人未遂の容疑者に居場所を教えろってか。随分と大胆なんだな。和広」

 挑発するような口調、先程までの話を真実だとすると、一つ、考えが浮かぶ。

「・・・一昨日のは、八雲だったのか?」

「ちげえよ。いくら俺でも殺人なんてしないし、しても誰かに見られるなんてへまはしない。殺人鬼についてはまた美空にでも聞いてくれ、俺よりかは知ってるはずだ」

 そう言って、美空、ではなく八雲、は背を向けた。

「・・・あーあ、今日もだめだったか。全く、朝起きるのも面倒くさいのに、いつになったら出てくんのかねえ」

 そう、かすかに呟いた。

「おい、それはどういう意味だよ」

 和広がそう言うと、ワンピースを着た少女は、しまったという顔をした。しかし、つかみ所の無い性格を考えると、それが罠なのか真なのか、人付き合いが人より薄い和広には判断がつかなかった。

「独り言だよ、気にするな、他人の呟きにすら反応すると、小物と思われるぞ」

「話題をずらすな。あと大きなお世話だ。だいたい今日だってこんな阿呆みたいに風の強いときに出てくる必要なんて無かった。なんでわざわざ、強風吹きすさぶ朝に会おうと思ったんだ?昨日も、天気予報を見ていなくても、空をみればわかっただろうに」

「台風の風は楽しいだろう。それじゃ理由にならないか?」

「ならない」

 この八雲という人格、というべきかどうかは分からないが。妙に勝手なところがあると感じる。美空は、大事なところをたぶらかして、自分を見せないところがあったが、八雲は、面倒くさがりのくせに自分のことを積極的に話す。だが、そのかわり人の話を聞かない。

 そこまで言葉を紡ぐと、八雲は黙って、和広の横を通り過ぎようとした。

「・・・・明日、また来るのか?」

 和広は、やっとの思いで、その言葉を発した。

「たぶんな。次は誰かわからねえが、それは間違いない。もう少し予習しておけ。まさかこないとか言わねえよな。美空と約束したんだろうがよ」

 八雲は言葉を荒げた。美空のときよりわずかに低めの威圧声。

「来るよ」

「はっ。逃げるなよ?」

 八雲は、葉の音、風の音の激しい森の中を通っていった。その背中は追うことを拒絶していた。

 和広は、岩に腰掛けた。思えば、八雲の話を立ったまま聞いていたことに気づいた。

 思えば信じられないことだらけだ。いや、まだ完璧に先程の話を信用したわけではない。だいたい、多重人格などと言われても、口調、表情、仕草が変わったところで、肉体は同じなのだ。どうしても美空が他人の振りをしているようにしか見えない。

 とりあえず情報が欲しい、もう一度図書館に行き、今手に入れた情報を踏まえ、調べて見よう。布施先生も何か掴んだかもしれない。

 情報を手に入れてからでも、彼女の話の真偽を吟味することは遅くないだろう。

 それにしても何故、朝に会わなければならないのだろうと思った。和広は早起きが得意というわけでは無い。八雲、美空はどうなのか。そもそも多重人格者の睡眠がどういったものなのかわからないが、苦手なようなことをぼやいていた。

 朝の崖は、昔を思い出してしまうから苦手なのに、と和広は思った。

 風向きが変わる。台風は過ぎた。じっとしているのももう終わりだ。

 もう、昔のような思いはしたくない、と和広は思った。


 友達は大切なものだ。そんなことは知っている。だが、文明が進むにつれ、人間は一人で暮らしていくことが、欺瞞に満ちてはいるが可能になった。

 つまり、生きていく上で、友情、愛情というものは、自らの精神を守るための支えでしかない。

 だが、幼い子供にとって交友関係は自己を形成する上でとても重要なものである。だが、それが本当に重要かどうかは、心が未熟なときにはわからないものだ。

 その日和広は、夏休みだというのに学校に来ていた。学友たちが学校のグラウンドでサッカーをすることになっていたからだ。携帯電話もなく、いや、あったかもしれないが、小学生が持つには高価すぎた時代。家に置いてある手垢の付いた電話を伝い、それなりにボールに触りなれた同級生が集められる。幸か不幸か、和広はその中の一人に入っていた。

 サッカーはそれなりに好きだった。そこそこ運動も出来たし、両親が誕生日に買ってくれたボールは、一人でもドリブルをしたり、塀に向かってシュートをしたりできるので、一人っ子の和広にはぴったりだった。丁度その頃、和広の年代が読む漫画誌にサッカー選手の伝記漫画が特集を組まれ連載されていたので、サッカー少年が増えた時期でもあった。

 和広は、特に中村俊輔選手が好きだった。まだ、海外に移籍する前、横浜Fマリノスに所属していた頃だ。小学四年生でリフティング千回。黄金の左足。ファンタジスタ。チームプレーに頼りきらず、自らのテクニックとその左足でゴールを決める天才。孤独で、強い存在。

 和広はリフティングは四回しか出来なかったし、芸術的に曲がるフリーキックも出来なかったので、サッカー選手になるという小学生特権の夢は早々にあきらめた。だが、和広は、彼のスタイルをそれなりに必死に真似した。

 利き足は右だったが、シュートは中村選手と同じ左足で打った。インサイドで擦りあげ、わずかではあるが曲線を描くようにした。単独でもディフェンスを突破できるようにドリブルの練習は頻繁にやった。

 そのせいか、小学校のサッカーの時間は少し頼りにされていた。といっても和広自身引っ込み思案だったので、連れ出すのは、周りの友人だったのだが。

 その筆頭であったのが岸だった。小学校というのは、学力よりも身体能力で力の順列が決まる。そういう意味では、彼は和広のクラスの頂点だった。和広にとって幸運だったのは、普通なら高慢であってもおかしくない立場の岸が、スポーツマンの鑑ように、頼りがいのある同級生だったことだ。

 岸は和広に良く話しかけた。放課後、校庭でフリーキックの練習をしていた和広に付き合ってくれたり、引っ込み思案な和広を、よく自分のグループに入れ、遊んでくれた。

 よく二人で行ったのが、ミニゲームだ。グラウンドの小さなスペースや、公園のわずかな広場でも出来る。一対一のゲーム。

 どちらかがボールを持って、後ろに作った線や、壁のゴールまでボールを持って行けば一点、一点入るごとに、最初にボールを持つ役を交代し、ボールとゴールを奪い合う。

 三点差以上差をつけたら勝利だ。

 最初このゲームをやったときは岸に手も足も出なかった。岸の持ち味は、その圧倒的な運動量と力の強さだ。多少強引でも、和広を押しのけゴールを決めてしまえる。その能力は正にストライカーとして申し分ないもので、和広は一点も取れずに負けてしまうこともあった。

 だから和広は研究した。一番の効果があるドリブルのフェイントや、岸の強引なカットを回避できるボールコントロール。なんとか、勝率を三割程まで伸ばすことが出来た。

 その日も和広は、フォーワードのポジションにいた。シュートは並だが、ボールタッチが上手く、攻撃の中継点として優秀だった和広は、いわば岸のシュートをアシストする火薬のようなものだった。

 膝に手をつき、キックオフを待つ。いつものように、生物たちを滅ぼすような灼熱の太陽の下。蚊に噛まれかきむしった後が転々とする素足をさらし、和広は待機していた。

 ただ、一つ、違うことといえば。

「おいカズ。あの女の人誰だよ」

 岸がこっそり尋ねてきた。まるで、転校してきた女子生徒についてきくような遠慮と好機心の入り交じったものだった。

「知らないよ」

 和広は返した。なるべく素っ気なく、動揺をみせないように。

「嘘付け。お前があの人と一緒に学校に来るのを何人もの俺の下僕が目撃してんだぞ。ほらほらさっさと白状してしまえよ」

 岸は、小学生の頃、友達のことを家来だとか、下僕だとか言っていた。一応和広も、彼の家来だったらしい。さすがに中学生に上がってからは恥ずかしいのか使わなくなっていたが、心遣いができ人望もある岸が、仲間を下僕と呼んで調子に乗っているのは、不思議と嫌みではなかった。

「道聞かれただけだって」

「嘘付け、あんなに仲良さげだったじゃないか」

「ほら、ホイッスル鳴るよ」

 和広がそういうと、どこまでも青い空に、ホイッスルの音が響き渡った。

 お姉ちゃんが、試合をみたいといったのは今日の朝のことだった。

 ラジオ体操を終え、朝食も済ませ、後は、午後の試合への英気を養えばいいという状態で、和広は朝が丘に向かった。お姉ちゃんに今日がんばるよと言えば、本当にがんばれるような気がしたからだ。

「面白そう!見に行っていい?」

 しかし、こう返された。和広は他人とは関わりを持たなさそうな彼女が、小学校のサッカーの試合を見に来ることに驚いた。そもそもその日の試合は、公式のものでなく有志で行うものだった(勿論先生はついていたが)

 保護者で見に来るものもほとんどいないだろう。いたとしてもやる気のなさそうな、PTAのおばちゃんたちぐらいだ。

 しかし、お姉ちゃんの言葉には、否定を許さないものが込められていた。大人はよく否定が出来ないことを尋ねてくる。いつも和広は卑怯だと感じていた。

 和広は逃げるように朝々丘を去り、彼女が行きたいといったのは冗談だと思っておいた。しかしお昼に家を出ると、彼女が、どこから持ってきたのか水筒とレジャーシートを持って仁王像のように立っていたものだから、和広も観念するしかなかったのである

 今お姉ちゃんは、グラウンドの端っこ、丁度鉄棒あたりのところで、レジャーシートを広げていた。足を崩しリラックスした状態で、座っている。

 小学生たちが走り回り、乾燥したグラウンドに土埃巻き上げる。さっき先生が水を巻いたばかりなのに、やけどしかねない温度の土は、砂漠のように、乾燥していた。

 その中で、彼女は麦わら帽子を被り、観戦していた。ゴールが決まりそうになったりすると声こそ上げないが、悔しそうだったり、ほっとしたりと小学生の拙い試合を楽しんでいた。

「こら!カズ!」

 はっとする。気づいたときには、キープしていたボールを相手にカットされていた。

 攻撃のため、ディフェンスを除いた味方全員が前線に出ていた。小学生の、しかも本格的にクラブではない場合、攻撃も防御も選手が極端に移動する。拡散してパスを繋いで攻める方が有利なのは素人が見ても明らかだが、小学生は作戦の中に身を置くよりも、無心にボールを追っていた方が安心できるのだ。

「ごめん!」

 謝って、自分のゴールの方に戻ろうとして止まる。岸も、コートの半分あたりで止まっている。他の選手は相手チームのディフェンスを除き、ほとんど、ゴール前に集っている。まるで、砂糖菓子に群がる蟻のようだった。

 岸がこちらをみる。狩りをする前のハンターの目だった。考えていることは同じだと悟った。

 カウンターで必ず決める。

 ここまでチーム双方無得点、前半終了間際、チーム分けがよかったのか、実力は大体互角、ここで決めないと後がつらい。

「よそみしてんじゃねえよ。カズ」

「ごめん。ちょっと考えごとしてた」

「あの女の人のことか?」

 なにも言えなかった。

「まったく俺に隠し事なんていい度胸だな」

 そういって岸は笑った。ちょっとまずいなと思った。このように岸が笑うときはその対象に興味を持ったときだ。

「カズ、得点数で勝負しないか?」

「お断りするよ」

 どうせ、勝ったらお姉ちゃんと話させてくれとか、そう言ったものだろう。そしてその考えは当たっていたのか岸は、反論を許さない、協調性に満ちた声で続ける。

「俺が勝ったら、あの女の人、紹介してくれよな」

 乱戦を制したディフェンスが蹴り上げたボールが、こちらに向かって綺麗な放物線を描いた。 

 先程も述べたように、和広はストライカーのような銃弾ではなく、アシストの方が得意ないわば火薬だ。

 だが、この岸との勝負を征するためにはサポートでは駄目だった。自らゴールを決める必要がある。

 しかしここで、岸と和広の決定的な差がでる。和広にとってのゴールに至るプロセスは、詰め将棋に近いものだった。いかにキーパーから壁としての機能を奪い、ディフェンスをかわし、ゴールネットを揺らすかだ。

 だが、詰め将棋は、駒一つではなしえない。王手をかける駒に、王がその場から逃げてもしとめられる詰めの駒がいる。

 一方岸のゴールは、まさに狩りだった。雷管に電気が走り、ガスに押し出され音速を超える銃弾のように。また、獲物を見据えると、最短直線を生物最速で走り牙をむくチーターのように、ただ一人で、純粋にゴールを奪うのだ。

 その差は、単独でも為せるか否かということだ。

 互いにパスをしながら、ゴールを目指す。相手も対したもので、すぐに戻り、守りの体制を整えかけている。

 和広は、岸にパスをし、相手の一人をかわす。そしてすぐに、岸にとってパスのしやすそうな場所に走る。岸の周りには、何人ものディフェンスが取り囲んだ。

 岸といえどパスで交わすしかない。そう考え、取り囲んでいる選手の隙間の先に、和広は陣取る。

 その瞬間、岸が少し笑った気がした。

 相手の一人が押し退けられる。他の選手がボールに足を延ばし、カットしようとするが、岸は無理矢理ドリブルを続行し、他の足をボール越しに跳ね返した。

 岸を止められるものなどいなかった。

 メロスのように止まることを知らない彼は、一気にゴールまで距離を詰める。ゴールキーパーが止めるために体を精一杯使い、最後の猛獣の壁となる。

 しかし岸は冷静だった。キーパーが飛び出したのとは反対方向へ、いとも簡単にシュートを決めてしまったのだ。

 和広は、何も出来ず、ただ、岸の周りをパスをもらうために回っていただけだった。それが相手へのプレッシャーになっていたことも確かだが、岸にリードされたことには変わりない。

 ホイッスルがなる。

 前半が終了する。岸が一得点を挙げ、一対〇とリードしたところだ。

 結局和広がアシストする形になってしまった。いつもなら、岸と肩をたたき合いながら喜ぶところだが、そのような気分ではなかった。

 ハーフタイムに入り、選手たちは各々水分補給と疲労回復に勤しんでいる。

「キャプテン、これからどうせ立ち回る?」

 MFが声を上げる。このチームのキャプテンは岸だ。

「そうだな。普通なら、守りをマンツーマンとかにするべきだけど」

 岸は周りを仰ぎ見る。ここにいるのは、そんな後ろ向きの戦略をするような者たちではなかった。

「・・・・おうおうどいつもこいつもギラギラして。後半も攻めるぞ!」

 チームを鼓舞するように声を張り上げる。休憩をしているチームメイトも同調し、声を出す。この辺りが、いつも岸には敵わないなと思うところだ。岸は他人の意気を上げることが抜群にうまい。それがクラスでも頼りにされている理由の一つだろう。和広は他人と話をすることすら上手くいかない上に、他人を動かすことなど、梃子を使っても出来ないだろう。

 それが、かなり悔しい。

 無い物ねだりなのはわかってるし、人と関わる努力を怠っていた自分が一番駄目なことも分かっている。だが、この頃からもう、何をしても岸には勝てないという、劣等感を刻み込まれていた気がする。岸に非はないし、自覚も無いだろう。だが尚のことたちが悪い。勿論、それを表に出すことはないし、岸に嫌悪を抱けるはずがない。ただ自分が、誰よりもちっぽけで、何も出来ない、ただの役立たずで、いない方がましなど、極論じみたことを考えてしまう。

 ゲームが終わる。

 結局、試合には勝ったが、勝負には負けた。埋められない差というのは、漫画でもない限り、覆ることはない。

 和広は一得点も挙げられなかった。

「お疲れさま、和広君」

「ありがとう」

 お姉ちゃんが駆け寄ってきた。何もないなら彼女のねぎらいに身を固めて喜んだことだが、今はそうはいかない。

「はっはじめまして。」

 岸は珍しく緊張しながら、声を繋いだ。後で知ったことだったが、岸は年上が好みだったらしい。本人は頼りがいがあるから後輩にばかり慕われていたようだが、実際は年上とつき合いたかったと、中学校の頃に聞いた。

 あら、と、お姉ちゃんは岸の方をみた。恐らく彼女は本質的に子供が好きなのだと思う。

「初めまして、和広君の友達?」

「はい。岸健一っていいます。お姉さんは?」

 そこでふと、和広はお姉ちゃんの名前すら、自分は知らないことを思い出した。

「私はね。葵っていうの、長瀬葵、よろしくね」

「よろしくお願いします!」

 岸はうれしそうに頷いた。純粋な笑顔というのは今の岸のような顔を言うのだと思った。

 自分が歯を食いしばっていることに気づいた。何でだろう。お姉ちゃんの名前を知らなかったのは自分の落ち度だし、人当たりの良い岸が、お姉ちゃんと仲良く喋るのは当たり前のことだ。だとしたら何故、岸に勝負に負けたこと以上に、悔しいに近い思いを抱いているのだろうか。和広は理解できなかった。

 それが、嫉妬という感情だったと気が付いたのは、随分後のことだった。

 その後、和広は喋っている二人から離れて、グラウンドの片付けを手伝った。一応、気付いた岸が手伝おうとしてくれたが制した。

 彼は勝負に勝ったのだ。戦利品を味わう権利は敗者が与えるものだ。

 岸とお姉ちゃんが話しているのを横目で見ていた。作業に集中すればいいのに、そちらに気がいってしまい、手が着かなかった。

 二人が何を話しているのか気になった。不安ならば、作業を放り出して二人の会話に混ざればいいだけのはずだ。そんな勇気が無くても、素知らぬ顔で近くまで行って聞き耳を立てればいい。だがどちらも怖くてそれも出来なかった。自分はどうしようもなく臆病で、それでいて執着心が強いことに自己嫌悪する。

 二人は何を話しているのだろう。そればかり気になった。自分のことを話されていると考えると、身が強ばった。悪口を言うような人たちではないのは分かっている。相手が自分ばかり構ってくれるはずがないことも分かっている。

 だからこそ、これほど他人が気になる。他人なんて何を考えているのか分からないものだ。しかしそれを割り切るには和広は幼すぎたし、弱すぎた。

 いつの間にか、他のチームメイトたちが片づけをすべて終わらせていた。真夏の日差しで、汗が垂れることなく蒸発してしまうようなカラッとした熱さの中、和広は突っ立っていた。

 どうやらハケ掛けのブラシを持ってボーッとしていたらしい。悪いことをしたなと思った。それぞれ労いの言葉を掛け合いながら、帰りの準備をしている。和広にかけられる言葉は少ない気がした。

 クラスメイトたちがこの後誰の家でゲームをやろうか、などと話し合っている。その中誰とも話さず歩く。

 ブラシを日陰の置き場に立てかけ、二人の元へ向かう。別に勇気が出たというわけではない。一人だけ孤立しているのが耐えられなかっただけだ。

 二人はまだ話を続けていた。お姉ちゃんが微笑み、紅潮した顔の岸が笑う。

 和広と話しているときも、彼女はあのように笑っているだろうか。自信がなかった。岸の方が話していて面白いだろうし、口数も多く、退屈しないだろう。

「・・・・終わったよ」

 二人に声をかける。

「あっ悪いなカズ、手伝わなくてよ」

「別にいいって。岸が勝ったんだからさ」

 そういうと、岸は何言ってんだよ、と慌てた。どうやら勝負のことは話していなかったようだ。普段あまり見られない彼の焦った顔を見ることが出来て、心の奥で笑った。ついでに

「得点数で僕に勝ったら、お姉ちゃんを紹介するって勝負してたんだよ」

 こら、カズ!と真っ赤になりながら和広の頭を軽く叩く。後々彼は何人かの女性と思春期らしい交際をして、女性関係の問題にも強くなったが、今思えば、さすがの岸も小学生の頃は純情だったようだ。

 岸が真っ黒に焼けた顔にかすかに朱を添えながら抗議してくる。だが、してやったりのこちらにはダメージは全くなかった。

「じゃあ、岸君は私のためにがんばってくれたのかな」

 喧嘩のようなじゃれあいを彼女は近いけれど遠い隣からみていた。笑みを浮かべ、その姿は聖母を思わせたが、どこか寂しそうだと思った。

 彼女を横見る。なぜそんな印象を持ってしまったのか、そのときはわからなかった。見られる対象は、見られる目的を完全に理解することはない。

 簡単に言ってしまうと、彼女が母親だったからなのだが。

「は、はい!」

 岸が緊張した面もちでお姉ちゃんに振り返る。慣れない表彰式で初めて表彰されたかのような不自然さだった。

「ありがとね」

 何に対してのありがとうかはわからなかったが。岸は喜んだ。試合に勝ったことよりも誇らしげだったようだ。

 だが、その後岸がいくら聞いても、居場所とこの町にきた理由を話さなかった。

 しばらく、三人で当てもない話をした。その内五時を過ぎてしまっていた。

「それじゃ、和広君、帰ろっか?」

 岸は、その後もずっと、お姉ちゃんに付いていこうとしていたが、お姉ちゃんは諫めた。また会えるよと、岸にさよならをした。岸は悔しそうな顔をしていた。目が「また機会があれば連れてこい」と訴えていたが無視をした。

 和広は妙な優越感に浸っていることに気づく。それがやましい心だとわかっていたので、振り払い、お姉ちゃんに視線を向ける。

「健一と話して、楽しかった?」

 自分で言っておいてなんて情けない問いだと思った。

「うん、礼儀正しくて、元気そうで、しかも試合でも大活躍してたよね。お話も、こっちのペースに合わせてくれて、小学生であれは凄いなあ。いい子だね」

 お姉ちゃんが余りに岸を誉めるので、和広は悔しく思うよりも情けないという気持ちで一杯だった。やはり自分が岸に勝っているものなどないのだと悟った。

「お姉ちゃんは僕と、健一、どっちが好き?」

 自分で言って、とんでもないことを聞いてしまったと思った。嫉妬心丸だしな上に、聞いてしまえば、こちらが落胆するのは目に見えている。

「うーーん。和広君かな」

 しかしお姉ちゃんは和広の予想とは反対の回答をした。

「どうして?」

 和広は目を丸くした。

「うんとね。うまくいえないけれど。私たちは似ているんだ。だから、気が合うし、遠慮しなくて済むの」

 そういって彼女はこちらを向いてにっこり笑った。その表情が眩しかったから、すぐ目を反らした。その瞳に浮かぶ深い苦悩の色を察することが出来ないまま。ただ身を縮めてしまいそうな喜びを感じていた。

 夏は五時を過ぎてもまだ明るい。昼と夜の境目の中、坂道を二人歩いていった。


 彼女はどうして自分と、話をするのだろう。

 崖からの帰り道の林の中。台風が過ぎ去り、名残の風が木々を揺らしている。土と落ち葉を踏みしめる感触を確かめながら、シナプスを働かせた。

 手に入れた情報を整理してみる。

 まず美空は多重人格者であること。

 潜在人格の八雲が言うには「解離性同一性障害」という精神病の一種であり、DIDは、その英語名の略称。彼女は合計十七人の人格を内包しているそうだ。その内、今和広が把握している人格は三人。 

 まず、美空。初めて朝ヶ丘で会った人格。年齢は二十歳。性別は女性。会った印象は明るく、どこか動物を思わせる快活そうな女性だった。しかし一昨日の夜の彼女の様子や、八雲の口から聞く限り、少しネガティブな印象を受ける。また、重要なことを道化師のようにはぐらかす癖もある。

 次に、八雲。先程話した人格で、和広に自分が多重人格者だと教えてくれた。年齢は十七歳で和広と同い年。性別は男性。人格によって年齢と性別が違うことが和広にはうまく想像できなかった。怒りっぽい性格であり、和広が遅れたことに眉を潜ませていたところを見ると、少々せっかちな気性なのかもしれない。

 ・・・最後に、一昨日に遭遇した殺人者の人格。詳細は不明。性別から年齢に至るまで謎に包まれている。和広が覚えているのは、人形が殺人をしているかのような狂気と、薄汚れた蛍光灯に煌めく包丁だけ。この人格の起こした殺人未遂により、彼女たちは警察に追われている。

 これを事実とするには幾分信憑性に欠ける。事実未だに和広は半信半疑だ。美空が複数の人格を演じて自分や警察を混乱させる意図なのかもしれない。だが本当だと仮定すると、一昨日の殺人未遂や、美空の言葉に辻褄が合う。

 ここで和広は違和感を覚えた。別に矛盾があるわけではない。信憑性に欠けるとは言っても、彼女の言葉を戯れ言だと一蹴出来るほど和広は世慣れしていない。

 単純に和広は彼女という存在に違和感を覚えたのだ。一つの体に人間が十七人いる。それも奇形児のように物理的に体が繋がっているのではなく。精神が同居している不思議。

 単純に、彼女自身をなんと呼べばいいのか分からなかった。美空と呼ぶべきなのか、それとも八雲と呼ぶべきなのか。彼女という存在を定義する名前があやふやに思えた。

 ある人から見れば彼女は美空や八雲だし、警察から見れば彼女は殺人鬼という別の人間である。だが肉体は同じなのだ。肉体が存在を定義するのか、精神が存在を定義するのか、和広には分からなかった。

 手に入れた情報はこれくらいだろう。それを踏まえ、彼女たちの目的を推測してみる。

 目的については八雲も、美空も口を。だが、この場所のことを考えれば、多少想像が着く。

 数百年も前から多くの人間が身を投げてきた崖、朝ヶ丘。少なくとも彼女たちの内の一人は、ここで自殺する為にきたのだろう。そうでなくてはこんなところに一人で来た理由が分からない。

 人格が違えば自殺願望の有無も違うのだろう潜在人格の誰かは自殺を望んでいても、美空や、八雲はそれを阻止したいのかもしれない。

 和広は初めて会ったときの美空の反応を思い出した。あれは、美空ではなくまだ、会ったこともない五人目の人格だったのではないのだろうか。

 まるで親の仇でも見たような表情。恐怖と憎悪。人は言葉の他に、表情で会話する生き物だと聞いたことがある。観察眼のない和広は表情で人の気持ちなどわかるものかと一蹴していたが、彼女のあの歪んだ顔をみると嫌でも気付く。

 あれは、憎悪だ。人間の負の感情は、弱い人間程自らに向けられる。自らに自信がある人間は自分を正しいと信じ込むことができ、自分を非難する相手を糾弾することが出来る。苦悩がすぐ怒りに変わる人間は、良くも悪くも自身を確立しているのだ。

 反対に、心弱い人間が他人に負の感情を向けるのは自分の許容量を越えてしまったときだけ。その怒りや悲しみは蓄積された故に自分では制御できないことが殆どでたちが悪い。

 考えるに五人目の人格は、負の感情を外に向けてしまうほど感情が心の容量から溢れている。それは即ち内側、自分に対する負の感情も膨大だということだ。彼女は今にも自らの手首を切ってしまいそうな程、追いつめられている可能性がある。

 そこまで考えて、和広は不安になった。人間は心が追い詰められた程、視野は狭くなる。自らの精神とそれに付随する肉体が傷つかないよう、心が情報処理を内側に向けてしまう。果てのない自己肯定と自己否定に囚われてしまう。

 自分もそうだったから分かる。xが未知のまま方程式を単純化したところで、結局は未知数のままで解答にはならない。

 ため息が漏れた。そんな他人とのラインが希薄になっている人間相手に自分に何が出来るというのだ。こんなに他人との関わりが苦手な自分が。

 いつの間にか森を抜け、自宅の隣にある狭い道に出る。嫌になるほど青々しい雑草がやや強い風に揺られていた。

 ここまで来ると家はもう目の前だ。そのときふと家の店先に植えてある朝顔に目がいった。和広は小学校を過ぎると朝顔は育てなくなったが、今は母が育てている。観光名所のPRとして朝顔を育てようと観光委員会で言われているらしい。朝にしか咲かない花を昼にやってくる観光客は気付くのだろうかと疑問に思う。

 今日は台風の影響か花は殆ど開いていない。というよりもまだ蕾の花弁もいくつかあった。

 気まぐれに水をやろうと思い、店先の水道に立てかけてあったじょうろを手に取る。

 ふと、美空たちは朝顔のような奴らだなと思った。朝にしか会えず、他の時間帯では姿すら見せない。見せてもまるで花を閉じている。

 水を注ぐ。植木鉢に所々水たまりが出来、人工的に調整された腐葉土が水道水を吸収していく。

 自分は、彼女を止めたい。そう思った。年に何十人もこの崖で身を投げている。かつて自分もその内の一人を止めようと奮起したことがある。

 だが、その時の自分はあまりにも弱く、非力で、どうしようもなく愚かだった。

 そのときの罪滅ぼしだとは勿論思っていない。だが、彼女たちがその命を青の狭間に落とすのなら、拾い上げたいと思った。

 これからの行動をどうするか考える。

 とりあえず、毎朝朝ヶ丘にいかなくてはならないなと思った。

 美空たちは何故か朝にあの崖で会うことに拘っている。何の意図があるのかは分からないが、あちらのペースに合わさなければいけない予感がある。

 次に、美空たちを探すこと。

 どこにいるかが分かれば、こちらからもアプローチが出来るだろうし、また事件が起こっても対応しやすい。そもそも朝の短い時間では彼女との対話も限定的なものになってしまう。

 それから、多重人格障害についてもう少し調べること。

 八雲が大まかには教えてくれたが、もっと詳しく把握しておく必要があるだろう。前はヒントが少なかった為、行き詰まったが、今では輪郭が定まっているので調査しやすいだろう。布施先生にインターネットでの調査も頼んでいたはずだからそれも今日、学校に行ったときに回収できる。

 ふと、警察官といた医者を思いだした。大男のようだが、優しげでそれでいて全てを見透かしたような目をした精神科医。

 何故、彼は警察と一緒に行動していたのか。

 あの夜は混乱していて疑問に思わなかったが、いくら警察官と友人とはいえ、精神科医が捜査に加わっているのはいくら何でもおかしい。事件の関係者ならともかく、あの事件は警察としても突発的なものだったはずだ。関係者もクソもないだろう。

あの精神科医があの場にいたのは偶然だったのだろうか?

 熊田の携帯電話の十一桁の番号を頭の中で反芻する。多重人格障害という特殊すぎる精神病に関して専門家たる彼の協力が欲しい。でもそれで本当にいいのだろうか。

 美空は殺人未遂事件を犯している。責任能力の有無に関して法律に詳しくない和広では分からないが、少なくとも見つかれば問答無用で捕まってしまうだろう。

 空になったじょうろを、元あった場所に放り投げる。中で反響し小気味よい音を立て、青青とした草の上に転がる。プラスチックの容器は、余程ひどい扱いをしない限り割れたりしない。物質は頑丈なだけではいけない。ダイヤモンドが金槌の衝撃で意図も容易く粉砕されるように、頑丈と、柔軟さを持っていなければ人間の生活には耐えられない。

 熊田に協力を仰ぐのは後にしよう。彼を信用していないわけではない。ただ、彼に協力を仰ぐと、行動に大きな制限が与えられそうな気がしたからだ。大人というのは制限の中で生きている。それは、責任や信用がある故の束縛だが、子供が戯れるには少々邪魔なものだ。

 一段と強い風が吹く。置いていかれた台風の子供の鳴き声のようだ。近所迷惑な風の子の鳴き声は、家の側にある雑木林を大きく揺らしている。それは雲も同じ様で、上空の綿飴は、急かされるように海の向こうに移動している。これから数時間かけて、この町は蒼天に移ろっていくだろう。

 


 私は、娘の心を想うことが出来なかった。

 私だったら、あの母みたいにならず、良い母親になれる。そう考えていた。痛みを知っているからこそ、その痛みを子供に教えることは絶対にしないと確信していた。

 だけど、現実はそう甘くはなかった。身に染みた人生は、私自身をあの最悪な母親と同じ道に歩ませようとした。だから私は逃げ出した。あの子を最悪な場所に置いてきてしまった。いや、私にしては頑張った方なのかもしれない。あれ以上あの子とあの男の側にいたら、私は壊れ、なにもかも無茶苦茶にしていただろう。

 実は私はもう壊れている。そして娘も壊れてしまった。私はまるで古いブリキの人形のように転びかけながらも、死への道を真っ直ぐに歩いていた。

 朝顔の綺麗な町だった。死への道が鮮やかな花で彩られ、浅黄色の空気が町を包んでいる。

 その場所は死を望む者が最後を飾るためやってくる崖だった。遥か昔、悲恋の末とある姫が身を投げたという伝説の崖。多くの物語の舞台になった自殺名所。

 その空色と海の色が混じる空間。私が死ぬにはもったいなさ過ぎるくらいの、綺麗で雄大な死刑場。死人の怨念が潜むというよりも、天国への階段が奈落の底から延びているような気すらした。崖の上から海を除くと、遠くて近い死への扉が手招きしているように思えた。

 だけど、その青があまりにも遠すぎて、私は一歩を踏み出せないでいた。

「・・・・こんにちは」

 そこにあの子が現れた。

 それは、私にはあまりにも眩しく、可愛く、そして厳しい贖罪の使者だった。



「ほらよ。かなり量が多いから重いぞ」

 美術室に現れた布施先生は、まるで夏休み前のホームルームで配られるような大量の紙を持ってきた。それは勿論大勢に配られるものではなく、全て和広に当てられたものだ。

「・・・・よく、こんなにみつけましたね」

「台風の間暇だったからなぁ。職員室だからコピー代かからんし」

「それ職権乱用です」

 彼が言うには、和広と岸が去った後、ずっとDIDについて調べていたらしい。しかも職員室で。公務員的にそれが良いことなのかはわからない。だが、この青年のような中年は随分と熱心に調べたものだと感心すると共に感謝した。

 紙束の厚さは一センチほどはあり、研究の論文の様に見える。不思議と紙が黄ばんでいて古いような気がしたが、職員室の紙なのだから古い紙を優先して使っているのだろう。

 紙束の内容は、患者のブログの役に立ちそうな記述、ウィキペディアを始めとする辞典の項目、独自に調べた人間が発表しているサイトなど多岐に渡っている。

「なかなかそういうのも調べると面白いな。多重人格なんて本当にあるんだなあ。小説かドラマくらいだと思ってたぞ、俺」

 布施先生は美術室独特の背もたれの無い椅子に腰を下ろす。水道の付属している長机に頬杖を着いた。

 気が滅入っているときは頬杖をつくといい。というのはチャーリーブラウンの言だが、この男が気の滅入ったときなどあるのだろうかと思った。

「確かに、俺も知ったときは驚きましたよ」

 和広自身も存在は知っていても、実在は信じていなかった。というよりも、その存在を想像できなかったというのが正しいと言うべきなのかもしれない。肉体は変わらず、精神だけ入れ替わるという特異。そのような存在だとは知ってはいたが、知ることと実際に会うことには絶対的な隔たりがある。

「へえ、谷川。この前俺に頼んだときには「皆目見当が付かない」と言っていたのに、いつの間にDIDが多重人格だって知ったんだ?」

「・・・・・」

 しまったと思った。彼に調査を依頼したときには形振り構ってはいられない程情報に困窮していたからで、彼に深く突っ込まれたときのことを考えていなかったのだ。

「・・・・先生と別れた後、自分で調べたんですよ」

「嘘だな。お前、この前図書館で調べたが見つからないって言っていただろう。お前に図書館以上に情報を得られる場所はない」

「インターネットで調べたかも知れませんよ?」

「そういう言い方する事自体、調べて手に入れたものじゃない証拠だ。三年お前のこと見てんだ。その位はわかる」

 言い返せないところがつらかった。この人で口で逃れることは難しい。そして黙っていることはこちらの状況を不利に追い込む。

「お前は、冗談も嘘も苦手な朴念仁だ。何故こんなあるかどうか分からない精神病のこと調べろと俺に頼んだ?」

 これは質問ではない。尋問だ。和広は自分の迂闊さを呪った。あのときは藁にも縋る思いで情報を集めていた。布施先生に妙な関心を持たれることを予想できない程、先を見ることが出来なかった。

 美空たちのことは隠しておきたいと思った。この教師は不真面目だが信頼は置ける。だが、明らかに入り組んでいる事情に巻き込みたくなかったし。殺人未遂の件もある。不必要な情報漏洩は自身も、周りも混乱させることだけだ。

「本に出てきて、気になって調べただけです」

「嘘はもっとうまく突いた方がいいよ。ワトソン君」

 誰がワトソンだ。そしてホームズには役不足である。

「なんでですか。嘘なんて突いてませんよ」

「本で出てきたならその本に詳しく概要が書いてあるはずだよ。特に解離性同一性障害なんて誰も知らないような病名を、俗っぽく多重人格と書かずにDIDなんて正式な略称で表しているんだ。小説であれ専門書であれ中途半端な説明なんてしないだろう」

 布施先生が立ち上がる。和広はキャンパスではなく、書類に目をやった。記事の内容を読むというよりも、布施先生の視線から逃げるためのものだ。

 布施先生はこちらの情報を欲しがっている。先に交換条件を提案しなかったのは痛かった。「貸し」程価値の重いものはない。

「お前、何があった?」

 立ち上がり、和広を見下ろしながら布施先生尋ねてくる。その声音には多少の心配の色があった。だがそれ以上に、利己的な、個人的な知的欲求が感じられた。

「・・・・何もありませんよ」

 あくまでシラを切るつもりだった。生憎と人間には黙秘権がある。警察に対してさえ有効な、法律に守られた権利が存在している。

「俺の勘を言ってやろうか」

 だがそれをかいくぐるために尋問という手段が確立されている。権利をかいくぐり、目標を引き出すための誘導。それは不器用な人間に対して真価を発揮する。

「お前、多重人格者に会っただろう?」

「・・・・・・・」

 不器用な人間の損なところは嘘が苦手なことだ。嘘が苦手だという特性は他人から見れば微笑ましいが、本人からすれば、咄嗟に自分を隠すことが出来ない欠点に過ぎない。嘘というのは自分と他人を守る質量を持たない防御壁なのだ。

「多重人格者なんてそうそういるものじゃないでしょう。それは勘ぐりすぎです」

 不自然だ。嘘というのは真実との間に違和感なく紛れ込ませてこそ意味がある。川の流れにミネラルウォーターを垂らすように、限りなく自然な透明でなくてはならない。会話の流れと嘘の間に不自然な時間を置くことは最上級の愚行でしかない。

 だが。

「そうだよなあ。普通、そんな人間にはそうそう出会うことはないか」

 和広は心臓が止まるかと思った。何故、という疑問より先に、言いようのない恐怖を感じてしまったからだ。

 助かった?という安堵は不思議と無い。第一、何から助かったというのだろう。和広は彼に情報の捜査を依頼し、布施先生は、その内容について知りたがっている。何も恐怖を感じる要素はない。そもそも和広が彼に美空のことを秘匿する理由だって曖昧なのだ。

 だが、妙な違和感がある。まるで化石を発掘している考古学者が、化石を壊さないように慎重に石を削っているような、そんな印象。

 和広は、書類を用意していたクリアファイルにしまった。だが、その量が意外に多かったので、ファイルの許容量を越え、端を露出させてしまった。だがそれを和広は無理矢理鞄にしまった。

 布施先生は元の席に戻った。先程まであった妙な空気を微塵も感じさせず、学校に蔓延るゴシップをあることないこと話している。

 和広は、鞄の中から木炭を取り出し、キャンパスに向かう。周りにどんなことが起こっていても、将来への道は休むことを許されない。急行電車は止まることはなく、大人と子供の狭間の時間にとどまることは永遠に出来ない。迷いは環状線のように循環し、枝状に延びた未来への乗り換えをためらわせる。

 そんな未来への大事で疎ましい片道切符を手に入れるため、和広は石膏で出来た偉人に視線を送る。昔、何度か描いたことがある石膏像。いかめしい顔つきは変わっていないはずなのに、三次元の断面と、それに付随している空間を昔より正確にみれている気がした。それは積み上げた進歩なのか、それとも今日だけの好調なのか分からない。

 そのくっきりとした目鼻の特徴を前回描いたときとは全く違う感性でとらえながら、頭の中は全く別のことに支配されていた。

 空色と深い海と白い断崖に佇む、白いワンピースを着た少女のシルエットをずっと脳裏に描いていた。 

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