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美空の章

落選した作品です。

みるに耐えないものではありますが

改善点や感想など、頂けると幸いです。

 星空文庫より転載 


一章 美空の章


 いつのことだろう。夢が楽しくなくなったのは。

 どうしてなのだろう。自分のことが嫌いになったのは。


 瞼が開いていく。心の外の世界は柔らかい朝の光に包まれていた。だが気分は良くない。夏の暑さに浮き出た汗がじわりと不快を感じさせた。

 視界が広がっていき、汗の後はあるがそれなりに白いシーツが目に入った。少し認識を広げると、暑くて蹴り飛ばしたであろうタオルケットがねじれ横たわっている。その端は付けっぱなしの扇風機の風で力なく揺れていた。

 この季節はあらゆる布が憎くなる。頬に当たるシーツは体温を逃がさず。身に付けているシャツは汗で湿っていた。

 かの夏目漱石は夏を家では全裸に過ごしていたそうだが、成程、彼の文豪を非難することは出来そうにない。自分も一人暮らしだったら、そうするだろうからだ。

 時計を見る。午前五時三十四分を指していた。蝉の声はまだ浅く、どこかで鳥が鳴いていた。早起きをしたようだ。異常に健康的であるといえる。いやむしろ不健康だ。高校三年生の夏休みは、午後零時からはじまるというのに。

 上半身を起こし、何をしようかと考えた。机の上に転がっている「英単語1000」、「センター対策数学ⅠA」などの参考書や、書きかけのガラス製コップのデッサンなどは見たくないし、触りたくもない。拒否反応を克服するやる気も体力も、起き抜けの体にはなかった。そう思うと全ての受験生に尊敬の念を送りたくなる。受験を戦争に例えることはよくあるが、戦場に向かう勇敢な兵を見送る家族の気持ちが少しわかる気がした。いや、むしろ、兵役を拒否する臆病者の心持ちであろうか。

 もう布団に入っても眠れない段階にきていた。仕方がないので、近所を散歩しようと思った。心に鞭を打ち、立ち上がった。タンスの一番上にあったジャージに着替える。水色のジャージは、あまりよいデザインとは言えないが、近所を歩くだけならば、それほど問題はないだろう。

 無意識に机の上にある草臥れたスケッチブックを手に取ろうとして、やめた。最近散歩に行くときにスケッチブックを持って行かないと落ち着かない。だが、それでは心休まることなど決して無いだろう。

 空いた手で眠気眼をこすりながら、和広は階段を下りていった。

 

 


 投げた石は遙か下の岸壁に跳ね返り、海に落ちた。

 人間だったらこうはいかない。落ちた瞬間、トマトを落としたように潰れながら内容物をまき散らす。人間も石みたいに固かったらいいのにと思った。そうすれば不幸な発見者も吐き気はしないだろう。

 和広は深く息を吸い込み、チェーンを張っただけの安全柵を乗り越えた。景観を損なわないために落下防止の柵はガードレールより低い。こんなやる気のない警備だから自殺者もあとをたたないのだと思った。観光資源からの収入の方が、他人の自殺より重んじられるのだろうか。倫理に即すならば否定されるその意見が、日本でも、世界でもまかり通っていた。

 そこは潮騒の聞こえる岸壁だった。花崗岩を基調にした、海に立ち向かうようにしてそびえ立っている崖だ。風を含む波は、垂直に延びるその岩に己が全てを叩きつけている。まるで八つ当たりしているようだ。無規則で、気まぐれで、力強かった。

 ごつごつとした足場をさらに二歩進んで腰を下ろす。足先の数十センチ先は急傾斜だ。慣れているはずなのに少し恐怖で足が震えた。和広は壊れたロボットのように足を延ばす。小学生の時、足を滑らせ危うくトマトジュースになりかけたことがある。すり込まれた恐怖というものは何年たっても消えないものだ。

 午前六時快晴、周りには誰もいなかった。まるで世界中の人間が死に絶えてしまったかのようだった。風が低い笛を吹き、波は潮騒を運んでいる。汗ばんだ肌から不快感が吹き飛ばされていく。海独特の、潮の匂いが鼻をくすぐる。人が発する音は何もなかった。

 和広は少し脱力した。一人でいるとき特有の安心感があった。

 自覚していることだ。自分は、谷川和広という人間は、誰かと関わるのが下手であった。

 昔から喋るのは苦手だった。小さい頃から余り言葉を発しない方だったので、いざ喋るとなると上手く喋れない。大して早くないのに早口言葉を言っているようになってしまう。

 さらにいつも会話を反芻してしまう、自分の言葉が相手を傷つけてしまったのでは無いのか。相手の言葉には違う意味が含まれていたのでは無いのか。その度にどうしようもなく打ちのめされる。自分という存在がだんだん小さくなっていき、いっそ消えてしまいたくなる。

 だが、この世界はそんな煩わしい会話などしなくて良いのだ。和広は、潮風を深く肺に流し込んだ。

 夏といえど朝の光はまだ浅い。空を見上げる。海と空の境目の遙か上空に、真っ白い太陽が強く弱い光を放っていた。

 そこで思った。太陽も誰とも喋りたくなかったから空に一人で昇ったのかもしれない。夜空にいる沢山の星たちから逃げるように。

 しばらく波の音を聞いていた。挑むように、縋るように岩肌に叩きつけられる波の音は耳に心地よい。

 どれだけそうしていたのだろう。気が付くと日が少し高くなっていることに気付いた。あと三十分もすれば観光客がやってくる頃だ。見つかってしまえば通報されるかもしれない。十七歳の少年が自殺名所の柵を乗り越えて岩の上に寝転がっているのだ。自殺志願者と見られてもおかしくない。

 体勢を崩さないようにゆっくりと立った。前かがみになり、下をのぞき込む。花崗岩の岩場とその中で踊っている荒波は、猛獣のように荒々しく。年間三十人の死者を出している場所とは思えない程美しかった。

 覗いたことに特に意味はなかった。だが普段、視界に入らないもの程、人間は存在に気づくと確かめたくなるものだ。もしかしたら隠れているだけで、そこには異界への入り口があるかもしれない。誰かが潜んでいるかもしれない。そういった何も根拠のない思いこみ、人はあるはずのないものを見ようと、簡単に小さな危険を冒す。

 しかしここには何もない。ただ崖の上にいる自分と、荒々しさを体現した波と岩。それを繋ぐ無色透明の三次元空間、それ以外に確認できるものはない。

 和広は何もないことに安心した。そして一つの形に収束しない生き物のような海水を眺めていた。そのときふと砂利を踏む足音が聞こえた気がした。空耳ではないと判断するのに十分な程の音であり、その方向に視線を向けた。

 女性がいた。齢は十七、十八歳くらいであろうか。夢遊病者のようにおぼつかない足取りで、岩場を進んでいた。

 一目見た瞬間、おかしいと思った。少なくとも観光をしに来た出で立ちではない。彼女の服は、白いワンピースにこれまた白い長袖の上着を羽織っただけのものだった。しかし、旅行者が持っているはずの鞄類を彼女は一切持っていなかった。

 かといって、自殺志願者かと言われれば、それも違った。和広は過去に自殺に赴こうとした人を何度か見たことがある。彼らにとって自殺とは最後の手段だ。だが、絶望のただ中でも生への渇望は必ずあり、一歩一歩踏み出すのも躊躇いがちになる。その人間として当たり前の反応が彼女からは感じられない。

 そしてそれ以上に、こちらに全く気づいていないところが妙だった。その女性と和広とは五メートル程しか離れておらず、互いの姿を遮るものは何も無い。

 自殺する人間は周囲に気を配る。一見誰がいようと歩みを止めないように見えて、その実野生の鹿よりも周りに敏感なのだ。それは、誰かに見られたら、止められてしまうという恐怖と、誰かに見つけて救って欲しいという、離反し合う感情の表れでもある。

 その女性は、おぼつかないながらも躊躇いがなかった。なにも映っていないかのような瞳はただ前を向き、青が支配する空間を歩くのみ。自らにはその行為以外に可能なことはない。周りを気にする余裕はどこにもないかと言うように。

 彼女はどんどん先に進んでいく。乱雑で段差がある岩場の道を、足下に注意しながら上ったり、下ったり。後十六歩も行けば、それこそ先程和広が投げた石のように、どこまでも無慈悲に落ちていくことだろう。

 和広は動いた。柵を乗り越え、女性のそばに向かう。例え痴漢に間違われたとしても、勘違いだったとしても、最悪のケースだけは止めなければならないと判断した。

「おい」 

 声を上げた。もし、彼女が自殺を考えているのなら、近くに人間がいると認識することで、その行為を自粛するだろう。それでも歩みを止めないならば実力行使にでざるを得ない。

 ワンピースを海風にはためかせながら、彼女は振り向いた。鼻の輪郭がはっきりとしており、見る人をはっとさせるような整った顔立ちだった。その肌は色白で、纏っている白い衣装と色彩は大差ない。海風に遊ぶ黒髪は長く、どこか犬の尻尾を思わせた。

 しかしそれに感心する余裕はなかった。その顔には、どうしようない恐怖と、悲しみと、憎悪の色が張り付いていた。少女はこちらをまるで、殺人鬼でもみたように顔を歪ませていた。

 一瞬、和広の足が止まった。彼が感じたのは、恐怖とは似ても似付かない「おそれ」だった。

 彼女はこちらをまるで親の仇のように凝視した後、崖の先に向かい走った。狩人から逃げる兎の如く、足がくじけようが関係ないというように。先のない岬の先を踏み越えようとした。

「やめろ!」

 和広は叫びながら歩を詰め、彼女の腕を両手でグッと掴んだ。彼女はもう、足の先を虚空に踏み出そうとしていたところだった。掴んだ腕が万有引力の力を借りて前に向かう。そのまま掴んでいては和広も道連れになるだろう。だが、離すという選択肢は存在しなかった。

「くっ・・・あああ!」

 渾身の力を込めて引っ張る。均衡が保たれ、重心が後ろに傾くのを感じた。その瞬間を逃さず、和広は有らん限りの力を込めて少女を引っ張った。

 腕にかかる負担が急に軽くなるのを感じた。地に足が着いたまま、空中浮遊をしているかのような頼りなさだった。

 体重が完全に前方に乗っていたのを無理矢理引っ張ったので、和広と女性は勢い余って倒れてしまった。

 視線の先には青空、背中には激痛が走る。

 どうやら助かったようだ。

「いたたた・・・」

 女性は起き上がった。和広も、背中に、岩のごつごつした感触を感じながら起き上がった。

「なにやってんだ!死ぬ気かよ馬鹿野郎!」

 和広は怒鳴った。まだ言葉も交わしたこともなく、名前すら知らない女性に罵声を浴びせるのは気が引けた。だが、こうでも言わないと、再び止めてもまた飛び降りようとするだろう。

 和広は顔を上げ、女性の顔を正面から見据える。ちょうど、両手を着きのぞき込むような体勢の女性と、なんとか体を起こした和広は、互いを認識した。

「?」

 和広は少し疑念を抱いた。目の前にいる少女は、少し怯えているがこちらを正面から見据え、言葉を紡ごうとしていた。瞳は揺れていたが、確固たる落ち着きを感じさせている。先程和広を見て、犯罪者に会ったかのように顔を歪ませた人間だとは感じられなかった。

「・・・すみません。助けて頂きどうもありがとうございます」

 少女は、声音を振るわせながら、だが冷静に頭を下げた。しかし和広は怒りを覚えた。

「あんたが自分で死のうとしたんじゃないか!」

 さも自分は事故で死にそうになったとでもいうように言うな!

「・・・すいません。少し、ふらふらしてしまいました」

 確かに先程の彼女は、夢でも見ているかのように、おぼつかない足取りで進んでいた。しかし、段差のある岩をしっかり確認して超えていたし、何より、こちらを見て浮かべた表情、まるでこの世の絶望を垣間見てしまったような顔、あれには理性による狂気があった。

「・・・怪我はないか?」

 和広は身を起こし、彼女を立たせた。深く追求するのはやめておいた。それで錯乱されたらたまったものじゃない。

 朝とはいえ、猛暑まっただ中で、長袖の上着を着ていることに少し疑問を抱いたが、女性は日焼けをするのを熱中症で倒れるより嫌うので、それ以上気にしなかった。

「ありがとうございます」

 和広の手を借り、起き上がった少女は、丁重に頭を下げた。そこで、和広は、さらに疑念を募らせる。

 本当に、自殺しようとしていた人間なのか?

 先程までの彼女の行為、あれは間違いなく自死を招くものだった。和広が手を引き、肉体を岩場に引き戻さなければ、浅黄色と潮騒が満ちる崖と海の間を、重力加速度に比例して落下していただろう。そしてその行為は、彼女が望んだもののはずだ。

 だが、今目の前にいる無垢な白の少女は、命を引き上げられたことを素直に感謝している。自殺を望む人間が、本当は助けてくれる人を求めているのは和広でも分かる。しかしこうも簡単に助けた、言い換えれば邪魔をした人間に対して素直に、ありがとう、と言えるものだろうか。

 気づくと、彼女は、じっとこちらを見ていた。一見、何かを思い出すような顔に見えた。

「あなた、どちら様ですか?」

 数十秒前和広をみて血相変えて逃げたくせに、興味津々のように名前を訊ねてきた。益々妙だなと和広は思った。

 だが先程みたい叫んでは、この女の子が何をするか怖かった。

「谷川和広、さっきは怒鳴って悪かった。謝る」

「いえ、私も、危なかったですし」

 段々落ち着いてきたのだろうか。声に冷静さが出てきた。谷川和広・・。和広・・まるで咀嚼するかのように、和広の名前を呟いていた。

「君の名前は、なんていうんだ?」

 和広は聞いた。名前を聞かれたからには答えるのは礼儀だ。そしてその相手に名前を訊ねるのもまた礼儀だ。

「私は・・・美空といいます。演歌歌手みたいでしょ」

 彼女は苦笑する。確かに、死の間際まで歌い続けた大歌手を連想できるかもしれない。

 改めて彼女を観察する。麦わら帽子に白いワンピース。日焼けが怖いのかどうか知らないが、白色の上着を羽織っている。ワンピースと同じ色をしたサンダルを履いていたが、このような岩場では歩きにくそうだった。

 そしてなにより、その表情をみる。年は若く和広とあまり変わらない、一八歳前後といったところだろう。

「あなたはいくつですか?」

 美空が聞いてくる。彼女も和広と同じように、対面している人間の情報をみて、吟味していたのだろう。

「一七歳、高校三年生だ」

「あ、じゃあ、私より、年下なんだ?」

 急に彼女の口調が砕けた。どうやら、敬語を使うのが苦手な人間のようだ。

「私は二〇歳。これでも成人なの」と美空は続けた。

 美空は二〇歳には見えなかった。童顔な女性なのかなと思った。

「君は、どうしてここに来たんだ?」

 一番の問題に踏み込む。和広はこの辺りに住んでいたが、美空のような女の子はみたことがない。ならば、歩いては来られないようなところに住んでいた

はずだ。

「えっと、まあ、観光かな?」

 歯切れの悪い返事だ。

「その割には鞄とか持っていないよな」

「泊まっているところにおいて来ちゃったの」

 和広は、はぐらかされているような気がした。

「一人旅か?」

「うーん、まあそうかな」美空は少し頭をひねりながら答えた。

「ふらふらと崖から落ちそうになってしまう人間が、一人旅なんて危ないだろう」

「・・確かにね」美空は苦笑した。

 立っていたのが疲れてきたのか、美空は、手頃な岩に腰を下ろした。和広もそれに習った。

「まだ疑っている?」

 美空は、こちらをのぞき込みながら尋ねてきた。

「地元民の俺がここがどこだか知らないはずがないだろう」

 朝々丘。

 丘という文字が入っているが、何百人もの人間がここで命を絶ってきた断崖絶壁。全国的にも有名な自殺の名所。展望台や、お土産屋。それらに混じり、命の電話と呼ばれる無料で教会にかけられる公衆電話や、自殺を止める看板、今までこの場所から身を投げた哀れな人々を供養する慰霊碑。どれもが、和広が、物心付いたときからあった、馴染み深いものだった。

「そっか、和広くんはこのあたりに住んでいるんだ。崖に近いの?」

 美空は尋ねた。

「そこだよ」

 和広は、少し座っている岩場から離れたところにある展望台を指さした。実際には、展望台の少し後ろにある小さなお土産屋だ。

「へえ。お土産屋さんなんだ」

 と美空は納得した。

 自殺の名所として有名な朝ヶ丘だが、花崗岩の断崖絶壁は、県の数少ない観光資源の一つでもある。朝が丘に至るまでの道のりには、多くのお土産屋や、食べ物屋が立ち並んでいる。自殺しようとした人間に名物の善哉を振る舞うことも稀にある。

「これからも谷川商店をごひいきに」

 少し、手品を始める魔術師のように大げさに振りを付けて和広は言った。不景気の煽りなのか、売り上げは良くないのだ。

「考えておきます」

 わざと敬語で、笑顔の美空は答えた。

 美空はだいぶ落ち着いてきたと思った。今にも死ぬようには見えないが、話題を避けているところを見ると、完全にシロと断定は出来ない。

「頼むから、自殺はするなよ?」

 和広は言った。幼い頃、和広は身を投げた人を何度か見た。完全に海に入らず、それこそトマトのように赤いものをまき散らしながらバウンドして落ちたその姿を、まだ払拭できていなかった。

「大丈夫だよ。私は、でも、私たちはわからないけど」

「なんだ?近頃流行の集団自殺か?」

 和広は先週ニュースでみた、山中でワゴンにすし詰めにされた人たちを思い出す。車の中で練炭を焚いて、天国に行こうとしてどうなったか分からない。

「うーん。少し違うかな」

「どういうことだよ」

「説明しづらいんだよ」

 美空は困った顔をした。何が説明しずらいかはわからない。海風が、そっと彼女の細く柔らかそうな髪を遊ばせる。

「和広くん、あなたって毎朝ここにいるの?」

 と言った。

「・・・・まあ、いるかもな」

 もし彼女に自殺する願望があるのなら。嘘でもいると言っておけば、少なくともここで死のうとは思わないかもしれない。

 本当は早起きなんて苦手なのだが。

「そう、安心した」

 彼女は、心から、平穏を手に入れた顔をしていた。よく見ると、美空の顔には、疲労と苦悩が張り付いていた。

「なにが安心したんだ?」

「和広くんなら、死のうとしても止めてくれるでしょ?」

「あんたをか?」

 美空は、少しはにかんだ。

「さっきのは違うよ。確かに死んでしまうのも楽しそうだけど、私はもっと人生を謳歌したいしね」

 彼女の自殺願望の有無は、まだ疑念の内にあった。だってそうだろう?本当に自らの意思で、虚空に足を踏み出すように見えたのだから。だが、それよりも気になることがあった。

「じゃあ誰が死のうとするんだ?」

 美空の言葉を信じるなら、誰かが、ここで死のうとしていることになる。

「うーん、私の家族、かな?」

 少し、迷うようにして彼女は言った。

「あんたが止めろよ」

「身内だからって、何でも止められるわけじゃないでしょ?」

 まあ、確かにそうだ。和広の美術大学受験を、父親が反対している。それを和広が止められないように。

「だけど、だからって俺が止められるとは、限らないだろう」

 和広は、面倒ごとを押しつけられそうな予感がしていた。

「大丈夫だって」

 美空は立ち上がった。目で追うと、優しげな瞳をした彼女と、朝の色合いに染められられた空が目にまぶしかった。

「また来るよ。そのときはよろしくね」

 何をよろしくなのか。出来れば、別の場所を観光して欲しいと和広は思った。

「いつまでいるんだ?」

 美空は、観光に来たという。ならば宿を取っているはずだし、何日まで滞在するか決めているはずだ。

「うーん。みんなが満足するまで?」

 随分アバウトな回答だ。よっぽど無計画なのだろうか。人生は節制によって成り立つというのに。

「みんなって誰だよ」

 和広は疑問を口にした。先程、美空は一人旅といっていた。ならばみんなというのはおかしい。

「・・・私の大切な、家族だよ」

 美空は、呟くような口調で答えた。親戚の家にでも泊まっているのだろうか。

「じゃあ、またね」

「おう」

 美空は、きびすを返す。またねと言われたが、出来れば、ここでは会いたくないなと和広は思う。女性らしいヒールが高いサンダルを無秩序な岩の絨毯に捕られていて、足を挫かなければいいなとも思った。

 改めて海をみた。水平線と海の境目は、曖昧だがはっきりしていた。花崗岩の崖は、荒々しい波に噛みつかれていてもびくともしていなかった。 

 少し崖の大きさに遠近感がおかしくなって、和広は立ち上がった。高いところからみると、自分がどこにいるのか分からなくなる。それがこの崖が自殺名所たる所以なのかなと思った。

 慎重に柵を越え、入り組んだ平坦な道を歩き、背の低い木の林を抜け、展望台まで戻った。これから始まる一日の予定を反芻し、心が沈んでいくのを感じた。

 今日は、書きかけのデッサンを、顧問に見せる期日だ。それに、模試もある。模試は九時から三時までといったところだ。センター対策なので、自己採点時間もあるはずだが、そこまでするほど和広は勉強熱心でない。

 模試が終わってからはずっと美術室に籠もることになる。夏休みだというのに。すべきことが多すぎてうんざりした。しかし自分が選んでしまったものは仕方ない。

 和広はため息をつきながら両親が起きているはずの家へ歩いていった。何をしていたと怒られるかもしれない。

 空は優しい朝の色から激しい夏の色に変わっていた。夏の空は実は濁っている。空気の澄んでいる朝ならともかく、夏の昼の空は、どこか白ずんで汚れている。それは、文明社会の弊害なのかは知らなかったが、和広はこの空は嫌いだと思った。


 高校の汚れた階段を和広は下っていた。その顔には深い疲労の色が張り付いていた。三年間使い古した学ランはくたびれ、所々ボタンが取れかけている。もっともそれを直すほど、和広は几帳面ではない。

 高校三年生の夏休みは、部活の代わりに補習と模試で埋め尽くされる。青春時代の譜面は休みなく音符が書き込まれ、演奏者に休むことは許されない。

「こんなの夏休みじゃないよな」

 階段を下りながら囁くように和広はぼやいた。

 模試は勿論全く出来なかった。国語はともかく英語は長文を見た時点でやる気を無くしてしまった。なぜ米国の教育問題についての論文を原文で読まなくてはならないのだろうか。数学も似たようなものだ。専門的に学ぶ道に進まなければ使うことのないであろう記号や単語たちが、まだ頭の中で生存権を主張していた。

 少なくとも選択問題は埋めたのだから零点ということはないだろう。そう言い訳しながら廊下を歩いていく。

 和広のクラスは進学クラスで、比較的成績のよい生徒が揃っている。幼い頃からの夢に向かって難関校に立ち向かっている者もいれば、金銭的に無理のない国公立に滑り込もうとあがいている者もいた。彼らは鮮明に五年、十年先の未来を見据えている。

 そんな同年代たちに和広は隔たりを感じていた。まるで、皆の流れに正面から逆行するような頼りなさだった。

 自分だけ、まだはっきりと決まってない。美大を受けるか、一般的な大学に行くか、それとも進学せず家を継ぐか。もしかしたら全く違う未来もあるかもしれない。

 どの進路も厳しいのはわかる。そして夢だけでは食っていけないのもわかっている。

 一応夏休みの補講も受けているし、美術部の顧問に頼んで絵の勉強も続けている。しかし怠けていると言われても反論は出来ない。中途半端でどっちつかずのままだ。自分という存在が一つである以上、費やせる人生も一つしかない。

 結局、和広はずるずると、画家の夢にすがりつく形でこの人生の分岐点となる高校三年生を生きている。

 両親は絵の道に進むのを反対している。美大というのは何年も浪人して入れるかどうかという狭き門だ。私立に入るにしても、予備校に通うにしても、そのような金銭的余裕など家にはない。

 一発で国公立の美術大学に合格したなら金は出す。それが話し合った末見つけた妥協点だった。

 もし画家になるならばその道しかない。しかしその道を歩いていく自信はなかった。美術の専門クラスがある高校の生徒でも落ちるのだ。部活でしか技術を磨いていない自分が楽に合格できるわけがない。

 さらに、自分自身、そこまでして絵の勉強をする意味が、分からなくなっていた。

 室町時代の画家、雪舟は絵ばかり描いているところを住職に咎められ、柱に縛られながらも、自らの涙と足のみでさえ本物と見間違う鼠を絵描いた。一方アントニ・ガウディはサクラダファミリア建設にその半生を費やし、その情熱は現代の人々すら動かしている。

 果たして自分に、それ程の才能と情熱があるのだろうか。

 そもそもそのようなものがあるならさっきまで数式とにらめっこしているわけがない。

 夢をあきらめて大学、就職を選ぶか。しかしもう今の同級生は覚悟も偏差値も遙か上をいっている。

 いつも迷いは循環し、どうにもならない現実を突きつけられる。

 時間は三時四十分過ぎだ。試験中、問題を解く時間より惰眠をむさぼる時間の方が圧倒的に多かったが、体はとても疲れていた。

 同級生達は休みもせず自己採点をしている。センター試験のためにだそうだ。よくもまあ、そこまでスタミナが続くものだと思う。

 美術室に向かう。美術部の活動は基本自由で、作品を期日までに完成させればそれでいい。次の発表の場は文化祭だが、まだ二か月以上猶予がある。現在、美術部の部員は八名、内、幽霊部員は三人。誰も作品に取り掛かっている者はいない。

 管理室で借りてきた鍵を使う。上手くスライドしない扉を開けると、美術室特有の画材と黴の匂いが鼻についた。

 和広はこの匂いが嫌いではなかった。この場所が外界とは違う特別な場所のように感じさせてくれるからだ。

 美術室は他の教室と違い、様々な備品が剥き出しだった。机は塗装がなく、ざらざらした感触が露わになっている。イスは、背もたれがなく、太い木をそのまま組み上げましたというような、無骨でただ頑丈なものだ。

 一学期最後に使ったクラスはきちんと片づけをしていなかったらしく、長机に規定数ぴったり揃うはずの椅子は、クラスの人間関係を象徴するように、一カ所に固まっていた。だが、直すのも面倒なのでそのままにしていた。通路の邪魔になっているその椅子の集団を左右にどかしながら奥に進む。

 一番奥に置かれた石膏像とキャンパスの前に座る。ここが和広の特等席だった。

 いつものように無造作に鞄を机の上に放り投げ、デッサンに必要な道具を取り出す。

 木炭、パン、練り消しゴム、フィクサチーフ。無駄に使い古したそれらを綺麗に並べていく。

 どの大学でも美術系を志すならば、デッサンは避けては通れない。鉛筆でのデッサンは慣れていたが、木炭はまだ合格レベルとはいえなかった。

 一度深呼吸をして、ガーゼに包んだ木炭を握る。吐いた息と共に、意識を入れ替える。いつもする儀式のようなものだ。自分はこれから、二次元平面と三次元物体を繋ぐ存在になる。そんなイメージ。

 かすかな音と、キャンバスと木炭が摩擦する感触と共に、描きかけの絵に命を吹き込んでいく。目の前に映る映像をただ描くだけでは絵はぶれてしまう。特徴と本質を捉え逃さないように木炭を走らせる。

 昨日で殆ど絵は完成していた。しかしそれだけにミスも修復不可能な段階まで来ていた。影も、形も、本来あるはずのそれと微妙に異なっている、そして、それを見せつけられる度、その失敗作を力任せにぐちゃぐちゃに塗りつぶしたくなる。

 だが顧問にみせる期限は今日だ。出来映えがどうであれ完成はさせなければならない。例えそれが、自害したいほどひどいものであっても。

「谷川、いるか?」

 扉が、ぎぎぎ、という音を立てて開く。もし、この学校に金銭の余裕が少しでもあるのなら、野球部の備品よりもこの教室の扉を直した方がよいと思う。

 扉からは、眼鏡をかけた青年が現れた。青年というよりは、老けて見えるが、中年と呼ぶには幼いその人物に該当する言葉を和広は知らなかった。

「布施先生。まだ完成していませんよ」

「そうかい。でも昨日の段階でもう完成しかけてたじゃないか」

 模試だったのでと伝えると、そうか、と納得した様子で布施先生は近くの椅子に座った。

 布施崇久。三十八歳の美術教師。年齢を感じさせない肌に、幼い顔立ち、似合わない眼鏡。まるで大人社会に放り込まれたばかりの子供ような、どこか頼りない印象。

 この明らかに二十代に見える教師はその若さと子供っぽさから女子達の興味の的だった。

 本人は三十八歳と言っているがとてもそうは見えず、年齢詐称疑惑が常に付きまとっている。「威厳がでない」と本人も悩んでいるようだが。

「だがお前、美大志望だろ?それほど一般教養の試験は重要じゃないし。こっちに費やした方がよくないか?」

「まあ、クラスで俺だけ受けないのも変ですし」

 適当に流した。この後に及んで大学も考えているなんていえない。

「そんな調子だと合格できないぞ」

 無視して木炭を走らせる。やれやれと布施先生は溜息を吐いた。

「そんな素っ気ない態度だから彼女も出来ないんだ」

 はぁ?

「関係ないでしょ。なんでその話題になるんですか」

「高校教師というのもなかなか疲れるんだ。ラブロマンスの一つや二つないと面白くない」

「昼ドラでも見ていて下さい」

「あんな人間関係がどろどろしたものは嫌いだよ。心が汚れる。瑞々しい高校生の色恋沙汰のほうが単純に面白いというものだ。誰か紹介してやろうか」

 真面目に働け。

「上北と藤井の間取り持ったのも俺だし」

 教師がなにやってんだ。

「遠慮しておきます」

 意識を絵に戻す。この教師は口が上手いので、下手に続けたらこの人に言いくるめられるだろう。その後も布施先生は色々言ってきたが、全て無視し続けた。無言は力である。先生もあきらめたのか絵を見たり、外を見たりと目をせわしなく動かしている。それも飽きたのか、机にボールペンで落書きをし始めた。小学生か。三十歳後半の雰囲気など欠片もない。

 しばらく作業に没頭する。厳めしい顔の石膏像と作品を近くで見たり遠くから見たりしながら最善を模索する。だんだんと、二次元平面の偉人は生気を帯びてきた。

 最後の仕上げに首筋の辺りの影をはっきりさせていく。ふと、この石膏の哲学者は絵の中でも思索に耽ることが出来るのだろうかと思った。

「出来ました」

「どれどれ」

 難しい顔をしてキャンパスの上の哲学者を眺める。布施先生は美術教師だけあり、私立の美大を卒業している。デザイン科卒業で、絵のアドバイスや美大の後の進路について色々参考になることを話してくれる。大別すれば良い先生の部類に入るだろう。

「色気が足らん」

 性格以外は。

「分かった分かった。そんな目するな」

 和広が露骨に嫌な顔をしたせいか。舌を出して謝罪した。

 その後は真面目に絵の欠点を指摘していった。黒の置き方。構図のとり方、輪郭、影の付け方まで丁寧に。

 布施先生は絵が描き上がるまで絶対に口出しをしない。結局は自分で試行錯誤しなければ本当に上達しているとは言えない、というのが彼の持論だ。

 和広はそれがうれしかった。一度小学生のとき、図工の先生に自分の絵にアドバイスと称して描き足されてしまったことがある。賞は取ったがその作品を破り捨てた。描いている最中に自分の絵を注意されるとその絵自体を否定されたようで腹が立ってしまうのだ。

 一通り反省点を聞き終えると六時前になっていた。

 イーゼルや木炭など道具を片づける。早く帰らないと親父がうるさい。あの家に帰らなければならないと思うと気が重くなる。

「ああ、あと谷川」

 ふと思い出しように先生はこちらを向いた。

「お前、技術云々依然に構図を決めてからくよくよ迷うな。だからあんなどっちつかずの絵になるんだ」

 なるべく笑顔をそういって、美術教師は教室を後にした。

「そんなことくらい、わかってる」

 そんなことくらい、わかってる。


 父の若いときの話を聞いたことはない。ただこの町の人間ではないことは知っている。

 この町には色々な地域の人が暮らしている。勿論その人々は職を探しに来たわけでも、美しい自然に魅せられたわけでもない。元はこの町唯一の観光地であるこの崖、朝ヶ丘で人生に終止符を打つためだ。

 朝が丘というこの名称は、町の花に指定されている朝顔にもじってつけられたそうだ。またその昔、朝顔を愛した姫が、嫉妬と不幸によりこの崖から身を投げたという伝説があり、そこから朝ヶ丘と呼ばれるようになったという説もある。何の伝説であれ誇れるようなものではないが。

 そのせいか朝顔は町の象徴になっており、夏になると各家の軒先で朝顔が咲き誇り、自由研究のテーマの六割が朝顔の観察日記になる。実際和広も三年連続で朝顔の観察日記を提出した。同級生たちも似たようなものだった。

 さて、何百年も前から自殺の名所として、その名を轟かせている朝ヶ丘だが。現在でも年間約数十人が命を絶とうとしてやってくる。その為「自殺防止パトロール隊」なるものがボランティアで結成されるほどだ。毎日、町内の誰かが、朝、昼、夕と朝ヶ丘を巡回している。

 ほかにも、命の電話、といって無料で実家や教会に電話をかけられる公衆電話や、立て札を置いたりと、観光地としての景観を損なわない程度に対策が立てられている。

 とはいっても、本気で死んでしまう人は思いの他少ない。大抵の者は一歩踏み切れず、その辺りを彷徨いているところをパトロール隊や住民たちに保護され未遂に終わる。

 その内多くの者は自分の故郷に帰るが、身寄りの無い者、何らかの事情で帰ることが出来ない者は県の計らいで仕事と住居が提供され、ある程度自立できるまで援助してもらえる。

 父もそんな人たちの中の一人だったそうだ。だがこの町にどういう経緯で来たのか和広は聞いたことはない。なので、父方の親類には会ったこともない。また、そのことについて父から切り出すこともないし、聞くのもためらわれた。

 それは父の弱さであり父の強さだと思った。最近は進路の食い違いから喧嘩ばかりしている。だから、たった一人の人生の重さを再確認しておかないと、父に無神経な啖呵を切ってしまいそうで怖かった。


 谷川土産店と書かれた看板の下をくぐった。ガラス張りでの外装だが、今は準備中で、シャッターが閉められている。看板は潮風で錆びつき、匂いが鼻にまで突いてくるようだった。歴史のある店といえば聞こえはいいが、この店は老舗というより時代遅れの趣をしている。一体何十年前から、ここに居座っているのだろうと思った。

 引き戸を開けると、漬け物と塩の香りが漂ってくる。土産の匂いだ。美空に言ったように店の売り上げはよくない。老人にのみ受けの良い妙な色をした漬け物。駅でも売っていそうなキーホルダーや、お菓子。塵同然の流木で作られたアクセサリーなどの売れ残りの間を通り抜け住居に入る。

 自分の部屋に荷物を置く、一応財布は持っておいた。

 八畳ほどの居間に行くと、父がトランクスとTシャツ姿で野球中継を見ていた。ビールを飲んでいる姿がいかにも親父臭い。つまみは軽食の売れ残りの焼きイカだった。鼻につく醤油の匂いが食欲を誘っている。

「遅かったな和広。」

 とても不機嫌そうに言ってきた。出来るだけ目を合わせないようにした。

「今日は模試だっていってあったろ。」

 なるべく冷静に返した。見下されたような扱いに腹が立ったが、押さえた。

「模試なんて六時までやるもんじゃねえだろ。どうせまた絵でも描いていたんだろ。」

「それも伝えていただろ。それに高校生なんて友達とつるんで遊び惚けるもんで、七時に帰ってくればいい方だろうが。」

 正論に感情論で返してしまったらただの子供だ。しかし、そういった思考も子供の幼い意地だと思った。

 和広のクラスメイト達は最後の三年間といってよく友達同士で食事にいっている。和広自身思い出作りに興味はないが、この前午前一時まで町で遊んでいたという話も聞いたことがある。

「そういうのはいい経験になるからいいんだよ。一人で鬱屈しながら絵描いているなら友達と遊んだ方がよっぽど有意義だよ」

 親父は真っ直ぐな目でこっちを見てくる。まるで諭し、宣言するように。

 それが、とても忌まわしい。

「将来の夢のために努力してるんだ。悪いかよ?」

「別に悪いっていってねえよ。だがじゃあ何で模試なんて受ける?お前はどうせ落ちるかもしれないとか考えて平々凡々な学校に逃げようとしてるだけじゃないのか」 

「もしもの為に準備しちゃいけないのかよ?」

「そんなのもしもじゃねえよ。もしもだとしてもそんな弱気で人生上手くいくはずがねえ。そんな中途半端な奴の為に学費出すなんてまっぴらだ。そんなどっちつかずならあきらめて家継げ」

「やだね。こんなしみったれた土産屋なんて絶対ごめんだ」

「なんだと!」

 父が立ち上がった。この人が本気で手を出すことは少ないが威圧することはよくある。その程度で高校生を脅かすことが出来ると本気で思っているのだろうか。

「ちょっと二人ともそんくらいにしなさい」と母が割って入ってきた。

 食卓に料理をおいてこっちを睨みつける。会話の内容から和広に非がありと判断したのだろう。

「和広、謝りなさい」

 無条件に瞳で威圧してくる。この母は父の味方だ。この後二人掛かりで説教されるのは目に見えていた。

 逃げるが勝ちだ。そう思った。とっさに居間を飛び出し玄関で歩きやすいスニーカーを履いた。

「ちょっと散歩してくる」

 それだけいって家を出た。商品の間を通り抜け、歩道に出た。呼び止める声が聞こえたが気にしないことにした。舗装された道を歩く。

 外はまだ完全に夜になっていなかった。朱色と藍色が混じりあわない空は美しいが恐ろしい色彩だった。

 後ろを振り返ると土産屋が並んだ道の先に夕日に染まった展望台が見える。夕日がノスタルジーを呼び起こすのはやはり事実なのだなと思った。

 美しい風景にしばらく魅入っていたが、前を向き直した。

 体が空腹を訴えている。そういえば夕ご飯も食べずに飛び出してきてしまった。今日の夕飯は肉じゃがの匂いがしていただけにとてもとても残念だった。

 ここは曲がりなりにも観光地だ。二十分も歩けば飲食店はある。そこまで歩かなくても十分歩けばコンビニエンスストアもある。食事にありつく方法はいくらでもあった。文明社会万歳である。

 財布の中身を確認する。この前参考本を買ったので、心許なかった。十円玉の中から百円玉をかき集める。五百円もあれば行きつけのお好み焼き屋にいける。せっかくならコンビニの弁当は嫌だった。必死に小銭をかき分ける。

 夕焼けが世界を支配していた。こんな道の真ん中で、何をやっているのだろう俺は。

「あっ!」

 財布を派手にぶちまけてしまった。小銭が小石とぶつかり乾いた音をたてて八方に飛び散る。思ったより遠いところまでいってしまった。

 何をやっているのだろう俺は。

 小銭を拾い集める。植木鉢の近くに落ちた百円玉を拾い上げる。視線をあげると朝顔が植えられていた。

 花びらは出来ていた。きれいな水色だった。だが夕日に照らされていても花弁は閉じている。この時間はとても寂しい夏の風物詩だった。

 明日また早く起きれば、この花が開いたところをみることが出来るだろうかと思った。今朝会った美空という女性を思い出した。

 美空はまた来ると言っていた。未だに彼女がなにを考えているのかわからない。

 今どこにいるのだろう。朝の会話から推測すると、親類の家に泊まっているのだろうが、観光地で、ずっと家にこもっているとは思えなかった。

 この町には、朝が丘の他にも、海水浴場や、寺院などの観光名所も一応はあるのだ。

 夕ご飯ついでにふらりと探してみようと思った。会わなければそれでもいいし、ずっと気に掛けておくよりは早めに解決した方がいい。

 財布の中を再度確認した。ざっと五百七十九円、なんとかお好み焼きにありつけそうだった。


「じゃあその女の子を探しているってのかい?」

 熱せられた鉄板を挟んで、ママが尋ねてきた。

 ママと言っても、もちろん母親ではない。このお好み焼き屋の女主人のことだ。使い古されたシンプルなエプロンに、皺が出てきたが、表情筋が鍛えられた美しい顔をしている。

 ママは、なかなかの美人でがたいがよく腕っ節が強い。また性格も姉御肌であり、町中の人から好かれている。

 ツケを溜める者には問答無用で鉄拳制裁をし、良心的な客には心のこもったサービスを提供する、料理店の鑑だと思う。

 またママには数々の伝説がある。若い頃は不良グループのリーダーだった。暴走族の頭とタイマンで勝利した。騒音迷惑な不良の溜まり場に殴り込みをし全員を病院送りにした。素手でツキノワグマを倒したなどなど。これら以外に山とある。

 全て本当か分からなかったが、少なくとも、食い逃げしようとした不良三人を、惚れ惚れするようなワンツーでノックアウトしたところは、和広も見たことがある。親父には逆らっても、この人には逆らわないでおこうと本気で思ったものだ。

 つい先ほど店の様子をみてみると、客はほとんどいなかった。店の中にはいるとママは「そこのファミリーレストランで開店日サービスやってんのよ」と今にもその店に殴り込みそうな勢いで教えてくれた。

 客がないのはむしろ好都合だと思った。ママは顔が利く。もしかしたら美空の情報も何か知っているかもしれない。

 カウンターテーブルに座ると、ママはなにも聞かずに豚玉の用意を始めた。昔から豚玉ばかり頼んでいるので、注文という過程はすでに省略されていた。ママは「また家出したのかい、あんたらも飽きないねぇ」と呆れたように言った。

 そうしてママが豚玉を焼いている間、美空という少女のことを聞いてみたのだ。

 最初は、あんたも隅に置けないねぇ、とちゃかされたが、話をしていくにつれ、ママも真剣な表情になっていった。

「探しているってわけでもないんだけど、ただ目撃情報でもないかなって」

 ふーんと、うなりながらママは手を組んで考えている。

 しばらくママは考えていたがその表情は優れなかった。恐らくそんな話は聞いていないのだろう。

「そんな娘見たって話はないね、今日はパトロールの重野さん、店に休憩しにきたけど、近頃は平和だって呟いてたよ」

 やはりママも知らないようだった。ならばあの朝以降彼女はあの崖にいっていないということだろう。まあ、観光ならばどこもおかしいところはないのだが。

「でもまた妙な子だね。カズの話を聞く限り、いまいち真意が読めない、本当に観光じゃないのかい?」

 ママは複雑な表情をしてお好み焼きをひっくり返した。焼きあがったようでソースやアオノリをかけ食べやすい大きさに切り分けてくれる。

「それだったらいいんだけどな。あの娘のいうことを信じるなら、誰か死ぬかもしれないし」

 割り箸を割ってお好み焼きを皿に取った。焦げたソースとふっくらした生地が食欲を誘った。

「じゃあ今度、野谷さん寄ったときにでも話しておくよ」

 野谷さんというのはパトロール隊の一人で、普段は蕎麦屋をやっている。どうやらママに気があるらしく、この店にほぼ毎日寄ってきている。奥さんもいるが、夫婦仲はそんなによくないそうだ。

 しばらく食べているとママも空腹なのか、断りもせず和広の豚玉から一切れ取った。いつものことだと思った。

「ありがとう。でも俺も調べてみるよ。パトロールの人っていっても絶対止めれるとは限らないしさ」

 パトロールなんていっても見回らない時間も多い。引き留めたこともあったが、止められなかった例がたくさんあるのも事実だった。

 それを聞いてママはちゃかしていたときの表情に戻った。

「さてはカズ。その娘に気があるね?どんな娘だい?」

 ママは教えろ、といった詰問口調だった。

「なんでそうなるんだよ。一度しかあっていないんだぞ?」

 何でこのあたりの大人は思考が週刊誌なんだと思った。

「うるさいとっとと喋る。お前のお父さん呼ぶよ!」

 本気で脅しにかかってきた。ここまでくると観念するしかない。

「白いワンピースを着ていたな。顔は綺麗だけどなんか表情が子供っぽい感じだった。白いサンダルを履いていた、そのくらいか」

 しょうがないとあきらめ、思いつくかぎりの美空の特徴を並べていった。

 最初、ママはニヤニヤ顔で聞いていたが、途中からその色は失せていった。説明が終わるとママは深いため息をついた。

「あんた。まだあの人のこと引きずっているのかい?」

 その一言が眠らせていたはずの、眠らせようと努力していたはずのある人を思い起こさせた。その人は記憶の中で、白いワンピースを着て笑っていた。

 そして、その人物の記憶も忘却の中から再生された。

「違うよ、あれはもう十年前のことだ、もう吹っ切った」

 自分で言っておいて本当かどうか自信がなかった。その記憶があまりにも鮮明に蘇ってしまったからだ。

 そこで気がついた。確かあの人には娘がいたはずで、確か和広より一歳年上だったはずだ。もしかしたらと思った。だがそれを察したようにママは口を開いた。

「あんたが変なこと想像しないためにいっておくけど、あの人の娘の名前は美空じゃない。それはあんた自身がきいたことだろう」?」

 そうだ。あのひとの娘の名前は美空じゃない。美しい空じゃない。

 いつの間にか自分が席を立っていることに気づいた。ママはまたため息をついた。

「あんたがどうしようと自由だけど、あまり深追いしない方がいいよ。死にたい奴ってどんな行動を起こすか分からないからさ」

 その言葉は深く心に染み込み、昔の記憶でオーバーヒートしていた頭をゆっくり冷ましていった。

「ママ、あんたが言うとすっごいリアルに聞こえるよ」

 なんとか軽口を叩いて席に座る。すぐに話題を変え、あの思い出を遠ざけようとした。ママもそれを察してくれたのか自然に元の美空の話題に戻っていった。

「まっ、その美空ちゃんの家族とやらが暴走しないよう気をつけてね」

「気をつけるよ。つーかママ、やばいとき助けてよね」

 恐らく窮地に立たされたときこの人ほど頼りになる人はいまい。断言してもいい。暴力団に絡まれてもこの人なら何とか切り抜けてしまう気がする。

「あと一枚私の分注文してくれたら考えてあげてもいい」

「あと七十九円で注文できるお好み焼きがあるんなら」

 ちぇっ、ママはそういって自分の分を作り始めた。どうやら本当に食べたかったらしい。生地を食材をよく混ぜ鉄板の上に広げた。和広のより綺麗に仕上げ、おいしそうに食べている。

「そろそろ帰るよ」

 そういって和広はカウンターに五百円をおいた。これ以上話すとまたあの人のことを思い出しそうだった。

「そうかい。お父さんによろしくね」

 お好み焼きを食べながら、ママはそういった。お好み焼きを食べるのに集中しているようだった。

 店から出た。外は大三角を中心に銀砂を振りまいたような夜空だった。

 ウォークマンでも持ってくるべきだったなと思った。誰かと話したり、音楽をきいていれば気が紛れる。だが、静かすぎる町の音と、アスファルトを踏みしめる心地よいテンポの足音は、心を感傷に浸らせる。

 美空を少し探して帰ろう。指針を固め、どこともなく向かう。会えるとは思っていない。いや、むしろ会えない方が、今の和広には好都合かもしれない。

 



 その人とは和広が小学校四年生の時に出会った。その人も美空の様に白いワンピースを着た人だった。

 最初にあったのは商店街の中だった。母と一緒に来たが、玩具屋の店先に置いてある商品に目を奪われている間に母とはぐれてしまって途方に暮れていたのだ。

 商店街を行く社会人たちを見た。泣いても助けている身内は近くにいない。見知らぬ人たちの前で泣くなんて恥ずかしい思いをしたくなかった。ここで一人で待っていれば母親が探しに来てくれる。そう思って耐えた。だが知らない人が無視して通り過ぎていくいく中、一人孤独に耐える程強くなかった。

 涙が目の奥の方から染み出してくるのが分かった。無尽蔵な寂しさとともに押し寄せるそれを、幼い和広に止めることは出来なかった。それでも溢れ出さないよう必死にこらえた。

 通り過ぎていく人たちは、目に涙を浮かべ辺りをせわしなく見ている和広を、一瞬横目で見るが話しかけることはしなかった。まるで必死に見えないものとして扱っているようだった。ふと自分は一生このまま一人なのだと思った。母は面倒くさがりだ。探すのをあきらめて帰っていってしまったかもしれない。そう思うと悲しみが我慢できないほど瞼の奥を刺激してきた。もう涙をせき止めることは出来なかった。しゃっくりが止まらなくなり、喉が自分が意図しない情けない声をこぼす。

 そのとき彼女に出会った。出会ったというより助けられたという方が正しいのかもしてない。

 白いワンピースを着た人だった。その白はとても綺麗で、天使の服のように思えた。彼女はしゃがんで和広の顔を見た。

 お母さんは?彼女は聞いた。優しい声だった。

 はぐれたんだ。そう言おうとしたが涙としゃっくりでうまく言えなかった。それでも何度も何度も繰り返した。

 彼女は分かったみたいで頭を撫でてくれた。それだけで心の中にあった悲しみが薄れた気がした。

 じゃあここでお母さん待とうよ。彼女はそういって手を繋いでくれた。その手のひらが和広に安心感を与えた。

 でもお母さん帰っちゃったかもしれないよ。涙が少し収まった和広はそう言った。

 大丈夫、お母さんは君を必死に探してくれているはずよ。絶対の真理のように彼女は言った。

 しばらくそのまま手を繋いで待っていた。柔らかい手のひらから彼女の温かさが伝わってくる。その間少しだけ幸福を感じた。

 しばらくして息を切らした母が現れた。驚いた。こっちに気づくと名前を呼びながら走ってきた。

 ほらね?彼女は和広に向かって言った。お母さんにとって君は宝物なんだよ。とも言った。

 母は何をしていたんだと罵声を和広に浴びせた。とても怖かった。もう自分に振り向いてくれないのではないかと恐れた。

 一通り説教が終わると母は彼女の方を向いて礼を言った。かわいいお子さんですね。彼女は笑った。

 さっき自分が泣いていたことを思い出し、恥ずかしくなった。母の隣まで行き彼女の顔を見上げると、その視線に気づいたのか微笑み返してきた。

 急に気恥ずかしくなった。その微笑みをずっと見ていたかったが自分ではない自分がそれを拒んで目を逸らさせた。今まで感じたことのない気持ちだった。

 母は何度も頭を下げその人に礼を言った。彼女は観光でここに来たのだと言った。

 しばらく母と彼女は話していたが、母は腕時計をみて、すいません。そろそろ私たち行きますね。と言った。そして、お姉ちゃんにバイバイは?母はそう和広を促した。

 もう一度彼女を見た。手を振ると彼女も笑顔で手を振ってくれた。ずっと振っていたかった。彼女を目に焼き付けようと思った。しかしそれはのちに消せない記憶となって和広を苦しめることになった。


 次に彼女に会ったのはその数日後、和広がラジオ体操から戻ってきたときだった。

 朝は爽やかな色に包まれ自然に生きるもの全てが祝福されているような朝だった。

 この時間、両親は店の仕込みに追われていて和広の相手をする余裕などない。相手にされないか、邪魔者扱いにされるかのどちらかだ。

 いつもは自分の部屋に戻ってマンガを読んで時間を潰すのだが、今あるマンガはもう読み飽きてしまった。どうしようかと考え、その日は散歩をする事にした。家の横にある。小さな道に向かう。

 家の側に朝ヶ丘に続く道とは別の細い林道がある。途中で二つに分かれていて、片方には観光客も知らない朝ヶ丘の絶景スポットがある。家族で一度行ったことがあったが、一人では危ないから絶対行くなといいつけられていたのでそれ以来一度も行ったことがなかった。

 朝の木漏れ日が射す土道を歩く。足の下から葉っぱと土の強い匂いがした。カブトムシを売っている場所と同じ匂いだと思った。

 しばらく歩いていると耳元で蚊が飛んでいる音がした。虫よけスプレーはしていたが、効果が切れてきたらしい。潰してやろうと音のする方へ平手打ちをかましたが音は減るどころかますます大きくなってきた。

 キリがないと思い駆けだした。鬱陶しい吸血虫を振り払って走る。体に向かってくる風と、サンダルの裏の土の感触が心地よかった。

 朝ヶ丘に出た途端、急に潮風を体で感じた。眼下には白い岩のアートが並んでいる。上ることが困難な大きい岩もあれば、腰掛けられる小さい岩もあった。海に食い込む大小様々な岩で出来た橋は、自然のものとは思えないほど綺麗な曲線を描いていた。

 少し歩いて手頃な岩に腰掛ける。走って火照っていた体をしばらく冷ましていたが、熱が冷めると急に退屈になり、近くにあった石を投げてしばらく遊んだ。

「あれ?久しぶり」

 急に声を掛けられ、驚く。ここには自分以外誰もいないはずだ。声のふと上を見上げると、商店街で助けてくれた天使が、斜め後ろの白い岩の上に腰掛けていた。この前と同じ白い服が、朝日に輝いて眩しかった。

「・・・・こんにちは」

 何とか言葉を出した自分でも声が震えていると分かる。我ながら情けないなと思った。彼女は気にした様子もなく、和広に微笑むと視線を海に戻した。しかしその横顔がなぜかとても寂しく見えた。

「なにをしているんですか」

 迷った末に、そう話しかけた。あっちから話しかけてきたのに、声をかけてよかったのかと根拠もなく不安になった。

「海を見てるの」

 見れば分かった。そこで会話は途切れてしまう。仕方ないので彼女と同じように海を見た。

 ふとなんで彼女はここにいるのかと考える。ここは地元の人でもあまり知らない場所で、滅多に誰も来ない。この場所への道も和広は、通って来た道以外知らない。聞いてみようと思った。

「海、とても綺麗ね。世界のすべてがきらめいてる」

 ふいに彼女が口を開いて驚いた。口にしようとしていた言葉を必死で飲み込んだ。

「ねえ、海って何で青いと思う?」

 彼女は海を見たままそう言った。和広も海を見る、水平線の内側は砕けたガラスのように光を乱反射している。白と青色で作られた巨大な宝石は、一つの形に固定されることなく動き続けている。

「何でだろう」と和広は返した。今思えば小学生が答えられる問題だと思う。「それはね。」彼女はこちらに視線を移した。

「簡単に言えば、虹が海に映っているけど青色しかみれないからなの。」

 太陽光は一見白く見えるがそれは赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の色の光が混ざり合って白色光として見えているだけで純粋な白というわけではない。虹はその混ざった日光が水滴などにぶつかって七色に分離、角度的にちょうどいい位置にいると、観測者は七色の光として見ることが出来る。一方、海中に太陽光線が入ると、赤や黄といった長波長の光は吸収され、短波長の光の青のみが海中に浮遊する微粒子にぶつかり反射されるため、青色の光のみが見に入り、海は青く見える。 

 海は鮮やかな虹色を飲み込み、たべのこしの青色だけを返してくる。

「だから、海の青はこんなに綺麗なんだと思わない?」彼女は続けた。

「いろんな色と一緒にいて透明に見えるくらいなら、一人だけの孤独になってでも、誰かの目に映ろうとしているんだから。」

 彼女の言っていることは、たかが十歳の和広には、ほとんど理解できなかった。なぜこのような話題を出すのかもわからない。ただ、一人だけの孤独、という言葉が和広の胸にずっとしこりのように残った。

 しばらく和広は黙っていた。間違えば壊れてしまうであろう何かを必死に守った。

「お姉ちゃんは海のこと詳しいんだね」

 色々なことを聞こうと思っていたはずなのに、出てきたのはそんな言葉だった。

 彼女は「まあね」と少し上機嫌で答え「お姉ちゃん、お姉ちゃんかぁ」と呟いていた。どうやらお姉ちゃんと呼ばれて嬉しかったようだった。彼女はこちらに近づき、隣の岩に座った。

「君、名前は?」

「谷川和広」

「そっか何歳?」

「十歳。小学校四年生」

「あ、私の娘の一つ下だ」

 和広は驚いた。彼女に娘がいるような年齢には見えなかったからだ。

「お姉ちゃん何歳?」

「女性にそう簡単に年を聞くものじゃない」

 軽く頭を小突かれた。

「ご、ごめんなさい」

「かわいいから許す。でも五年経つ頃には直しとかないとほんとに失礼になるわよ。」

 かわいいと言われ少し嫌な気持ちになった。

「で、何歳なの?」

「企業秘密」

「このかわいさに免じて」

「私より可愛くないからだめ」

「今日の干支占いの運勢教えるから」

「その手には乗らないよ」

 やがてどちらからともなく笑いだした。やっと場の空気が柔らかくなった気がした。

「子供がいるんだね」

「うん、かわいいよ、私に似て」

 彼女は誇らしげにそう言った。

「どんな子?」

「ちょっと変わった子だけど、優しくて、我慢強い子かな」

 気のせいかそのとき、彼女は少しうつむいて涙を我慢しているように見えた。しかしそれは一瞬でいつもの顔に戻った。

「お姉ちゃんは、どうしてこんなところにいるの?」

 この場所は町の人も殆ど知らない。観光できたのであろうお姉ちゃんがこの場所にいることが不思議だった。

「ちょっと朝ヶ丘に行こうと思って歩いてたら、気になる裏道があったの。私、結構そういう裏道気になる人間だから」

 いいところ見つけてラッキーだったよ。と彼女は微笑んだ。

 その後、彼女はこの町のことについて色々聞いてきた。お勧めの観光名所や、歴史、地理、好機心が強い人だなと思った。和広は思い至る範囲で喋った。

 ふと気づくと、どのくらいこの場所にいたのか分からなかった。

「今、何時?」

「八時前くらいかな」

 彼女は腕時計をみて、そう言った。そんなに長居していたとは思わなかった。親は怒りを通り越して心配をしているかもしれない。

「ごめんなさい。僕もう帰るね」

「そう、また明日ね」

「明日も来てくれるの?」

「どうせ暇だしね」

「じゃあまた明日」

 そういって和広は岩場を歩いていった。そういえば何故彼女はこの場所に来たのか聞くのを忘れていたことを思い出した。また明日聞こうと思った。

 帰ると、父と母にこっぴどく叱られた。もう少し帰るのが遅れたら警察に捜索願を出すところだったらしい。そこまで心配かけたことを心から申し訳なく思った。しかし明日もあの場所に行くことは言わなかった。

 それから、毎日彼女に会いに行った。ラジオ体操の帰りに林道を通り、秘密の場所にいく。彼女はいつも岩の上に座り、海を見ていた。和広がそばに駆け寄り、座るといつも話をしてくれた。

 話の内容は他愛のないことばかりだった。

 彼女は別れるとき必ず言った。このことは絶対お父さんお母さんに言っちゃだめよ。その約束を破ったらもう会えないからね。

 なんで彼女はそんなことを言うのか分からなかった。和広はわくわくするような優越感に浸っていた。誰にもいえない秘密は和広の心に深い喜びを与えていた。

「君も私の子供みたいに思えてくるね」

 ある時、ビールを飲みながら彼女は言った。朝食を食べ終え、確か、朝の十時くらいだったと思う。その日は早朝から暑かったせいか彼女はビールを手にしていた。和広にはカルピスを買ってきてくれた。

「そう言えばお姉ちゃんの子供の名前ってなんて言うの?」

 ふと和広は訊ねた。彼女の娘についてたくさん教えてもらった。好きな食べ物、口癖、そのとき流行っていたキャラクターのぬいぐるみを寝るときも決して離さないこと。

和広はその女の子と知り合ってさえいないのに、まるで友達になった気分になった。そして名前さえ知らないことを思い出し、聞いたのだ。

「名前はね。つぐみって言うんだ」

「鳥の名前だっけ?」

 学校でみた鳥類図鑑の中にそのような名前があった気がする。

「ああ、鶫ね。残念ながらそっちじゃないの。月に海、『月海』と書いてつぐみっていうんだ」

 入れ替えるとクラゲだけどね。と彼女は苦笑いをした。

 そのときにはもう習っていた漢字だったので、すぐにその二文字を思い浮かべることが出来た。

 綺麗な名前だと思った。今ここにあるのは夏空と太陽だが日が沈めばそこにあるのは月と海だ。このあたりの空気は澄んでいる。町の灯りもこの崖までくるとあまり届かなくなり、夜になると、星と月とそして海の輝きでこの崖から見える景色は幻想的になる。危ないといわれ、そのころはあまり見る機会がなかったが、近所の夏祭りのあと、こっそりここにきてその景色を三十分くらい眺めていたことがあった。

「綺麗な名前だね」

 改めて口に出した。会ったことのなどないのに、その子はたぶん可愛いだろうなと勝手に思った。写真はないの?と彼女に尋ねたことがあるが、彼女は持っていなかった。

「つぐみはなんて呼ばれているの?」

 ちゃんをつけた方がいいかなと思ったが、顔も知らないのに馴々しいかなと思った。

「だいたいは、そのままつぐみちゃん、とかあとつぐみん、つーちゃんとかかな」

 つぐみん、には怒っていたけどねと付け足した。

「ぼくがお姉ちゃんの子供だったら、そのつぐみんがお姉ちゃんになるのか」

 あまり実感が沸かなかった。彼女が語るつぐみのイメージが子供らしい姿ばかりだったので無意識に年下のように考えていた。

「だからつぐみんは言ったら怒るよ?あの子以外と頑固だから。そういえば私はお母さんっぽく見える?」

 隣に座っている彼女を見た。母と言うには余りに若く、綺麗だった。

「見えない」

「ありがとう」

「綺麗だとは言ってない」

「けち」

 そういうと彼女は海を見た。すねているのか、ふりをしているのかわからないが、会話は途切れてしまった。

「そういえばお腹空いたね」

 いたたまれなくなりでてきたのはそんな言葉だった。

「そっか、もうお昼時なんだね。家に帰るの?」

「いや、今日母さんも父さんも用事でいないから、外で食べるんだ」

 彼女は怪訝な顔をした。今思えば当然だと思う。小学生が一人で外食するのは、あまり良いものとは思えない。しかしそのとき一人で食事をするのは、ちょっと大人になったようでわくわくしていた。

「どこで食べるの?」

「いつもお母さんと行ってるお好み焼き屋さんがあるんだ」

 とってもおいしいんだよ。そういうと彼女は少し悩んだ顔をした。恐らく一緒にいこうかと悩んでいるのだと思った。しばらく海を見た後彼女は結論を出した。

「私も行っていい?」

「うん。いいよ」

 異論はなかった。岩を降りた彼女と一緒に荒波の音を聞きながら、朝ヶ丘の上を歩いていった。


 色々と思い出しながら歩いていたら意外と時間が経っていたようだ。アスファルトを踏む音は、自分でたてているのだが心地よい。

 特に家に帰ろうとも考えず当てもなく歩いていたのだが、気づいたときにはあまり聞いたことのない商店街の中をいることに気づいた。夜ということもあり、開いている店はほとんどなかった。塗装が剥がれ溝が錆び付いたシャッターが、閉店を知らせる張り紙が、救いようのない寂しさを表していた。

 道にはゴミ一つ落ちておらず、良く言えば綺麗だが、それは過疎で人から忘れ去られてしまっている寂しさも内包している。

 この辺りは、観光客があまり通らない場所に位置する。一応観光バスの降り場が商店街の入り口にあるが、滅多に降りる物好きもいない。

 昼はまだ活気があるだろうが、九時を超えると、殆どの店が閉まり所々居酒屋の明かりが見えるくらいだ。そして閉まっているシャッターには、落書きや、無期休業の張り紙が、醜く浮かんでいた。

 黄ばんで穏やかな光を放つ蛍光灯の下、和広は帰り方を考え始めた。あちらこちらに道はあるが、どこがどう繋がっているのかまるで見当が着かない。本格的に迷ったようだ。来た道を戻れば良いのだろうが、無意識のうちに、何度も曲がっていたので、来た道の反復には自信がなかった。

 戻ることもせず、考えることも後回しにし、歩いて行く。こんな性格だから、目指すべき進路すらはっきりと決められないのかとも思った。

 ふと、足が止まった。ここは来たことがある。それも最近じゃない。もっと幼い頃のことだ。

 目の前にある閉店した玩具屋の看板を見て、思い出した。この商店街は確か初めてお姉ちゃんに会った、あの商店街だった。偶然なのか無意識に来てしまったのかは知らないが、また同じ場所で迷子になるとは自分も進歩していない。神様もまた妙な計らいをしてくれたものだと思った。

 あのときと同じにならないよう、来た道を戻ろうと思った。確実に帰れるかは疑問だったがここにいるよりはずっといい。ここで待っていても誰も迎えに来てくれないし、手を繋いで一緒にいてくれる親切な人もいない。

 ゴーストタウンのような道。美空の姿を探したが、浮浪者のような老人くらいしか見あたらない。自分の歩く音がやけに大きく聞こえた。

 あの玩具屋の前に立った。シャッターに張ってある張り紙には「無期休業」と書かれている。あの頃のように子供心を弾ませる玩具は、もう店先に並ぶことはない。

 しばらく、そのまま立っていた。疲れていたわけではない。どうしようもなくやるせなかった。

 悲しい思い出も、楽しい思い出も、それはただの記録にすぎない。例え写真や映像に残っていたところでそこにはないのだ。お姉ちゃんが死んでしまったときの記憶も段々と和広の心から色を失っているようにように。

 頭を振って、柄にもない考えを振り払う。昔のことを思い出したから、こんな感傷を抱いてしまったのだ。和広がいるのはこの時間以外にあり得ない。帰宅するために足を踏み出し、砂利の混じったアスファルトを踏みしめた。

「あああああああああああ!」

 突然、悲鳴が聞こえた。感傷的な気分はかき消され、五感の全てがそれに集中する。全身の筋肉が強ばり、腹のそこから理由のないおびえが沸いてくる。

 声のした方に意識を向けた。男性の声だった。低い声だったが明らかに恐怖の入り交じったもの。どうするか一瞬迷ったが、耳を頼りに走り出した。

 商店街の入り組んだ道の間を走り、何かから逃げているその音を頼りに、場所を目指す。もうどこを走ったかさえ覚えていない。和広にはそんな些細なことに意識を割る余裕はなかった。シャッターが走る自分の影を映している。息が乱れ、運動不足の体が悲鳴をあげ始めた頃、そこにたどり着いた。

 そこには二人の人間がいた。まるで絵に描いたような酔っ払い親父と、まるで絵に描いたような通り魔だった。

 通り魔は、シルエットから察するに女性だった。暗くてよく見えないが、刃物の切っ先を、ただ、真っ直ぐへたりこんだサラリーマンに向けてピタリと固定していた。

 中年で酔っ払っていたらしい彼ははへたりこんでいた。驚愕の表情で目の前に突きつけられた刃物と、女性を見ている。すでに切られているらしく、腕から赤いものが流れている。起きあがることを忘れているのか、それとも酔いが醒めていないのか、尻をアスファルトにつけたまま動かない。

 女性の方はまるで落ち着いていた、人間の命をあと二秒あれば奪えるその体勢が、彼女の自然体のようだった。

 彼女にその気があれば、目の前の酔っ払いはすぐにただの肉塊になってしまうだろう。止めなければならない。だが、体が動かなかった。

 彼女は間違いなく、人を殺めることに慣れていた。一見しただけでわかった。女性ということも、どれほど場数を踏んでいるかも関係ない。それを出来る心が、倫理が彼女にはある。

 状況は飲み込めた、だが、打開するすべが見当たらない。

 このような気持ちを恐怖というのだろう。それはお化けなどといったファンタジーのたぐいから来る戦慄ではない。

 狂気という説明不能な感情に対する恐怖だ。触れることすら躊躇わせるような人の形をした狂気は、見えない刃のように、生命のそこからの震えを呼び起こした。

「・・・おい、やめろよ」

 やっと出てきたのはそんな言葉だった。声がかすれているのが自分でもわかる。蛇に睨まれた蛙って今の俺のことだよなあと、和広はうっすら思った。現に和広は蛇に飲まれ、粘液に絡まれているように動けない。

 女は声に気づき、視線をこちらに向けた。まるで人形のような動きだった。夜の闇で顔は見えなかったが、暖かみは感じなかった。それがまた、恐怖を誘った。

 ゆっくりとこちらに向かってくるのがわかった。酔っ払い親父は傷を負った腕を掴みながら、必死の形相で逃げ出した。こちらの身の安否を気にする余裕はないようだ。

 逃げようと思った。意識も無意識も逃げろと足に命令している。だが指一本動かない。声も出ない。

 ああ、ここで殺されるなと思った。今にも途切れてしまいそうな電灯に血に汚れた包丁の刀身が煌めいている。

 彼女は、電灯の下をくぐる。そのシルエットが露わになる。白い素肌、白いワンピース、血に塗れた包丁には不釣り合いなその姿は、何故か聖なるものを思わせた。

 顔に光が当たり、輪郭が現れる。それは今朝会った、礼儀正しくどこか子供のような、美しい空と書く名前の人だった。

「美・・空・・・」

 今朝聞いた、彼女の名を呟いた。反応はない。

 顔は美空だった。だが、その目には、怒りや憎しみや哀しみやいろんなもので歪んでいる。あの穏やかな美空のものではなかった。

「美空!」

 もう一度名前を呼んだ。相手が美空と知ったせいか、体に力が入るようになってきた。切っ先を向けている彼女が、あの子供のように微笑む美空であることを願った。

 美空の表情は変わらない。ただ、こちらを虚ろな目で見ながら歩いてくる。もしかしたら彼女はただのマリオネットで、誰かが後ろで糸を引いて動かしているような錯覚さえ覚える。

 美空は、ためらいなど微塵もなく、凶器を向け和広の前に立った。

「なんだよ、美空!なんでこんなことをしてんだよ!」

 美空は動じない。何も喋らない。まるで自分は美空なんて知らないとでもいうように、有機物を切り裂くことを想定して作られた刃を真っ直ぐこちらに向けた。 

 もう、限界だった。

 美空が包丁をふりあげた瞬間、全身の力を込めて真横に跳ぶ。月の光を反射した刃がさっきまでいた場所を薙いだ。刃は途中で方向を変え真横に弧を描き、服をかすめる。数秒動くのが遅かったなら、その刃は肉を切り裂き、内蔵まで達していただろう。

 本能的に姿勢を低くして走る。なるべく離れなければならない。背後を確認したが、美空は追ってこなかった。角を曲がり、電信柱の影に隠れ、様子を見る。

 いつの間にか美空は、禿頭のサラリーマンの前に立っていた。彼は腰が抜けているのか、追いつめられた小動物のように、四足歩行で必死に逃げようとしている。しかし冷静な二本足のホモサピエンスには、その速度など無意味に等しかった。

 美空は冷たい瞳で酔っ払い親父を見下ろす。この後何をするのか、容易に想像がついた。

 彼女は、包丁を逆手に持ち変え、大きく振りあげた。切っ先を向けられている男は、声も出せず、ただ震えている。

空の形をしたそれは、ためらいもなくその刃を脳天に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・振り下ろさなかった。その刃は男の頭骸を砕くことはなく、直前で制止していた。

 その頭上、数センチで止まった刃の先は、震えていた。さっきまで幽霊のように何一つ音を立てなかった彼女は、今は荒々しく呼吸をし、自分を抱き締めていた。先までの彼女と様子が違う。

 呼吸が落ち着くと、彼女は周りを確認し始めた。まるで夜だということに今気づいたような挙動だった。きょろきょろと周りを見渡したあと、自分の持っているものに視線を落とし、ただ、

 やっちゃった、と呟いた。

 幸か不幸か、襲われた中年男性は恐怖から完全に気を失っていた。美空はそのことに安心した様子で、彼の体を慎重に歩道の端に寄せた。自分より大きな人間を運ぶのには時間がかかるようだった。

 今の彼女はどっちなのだろう。あの何もかもを憎んでいるような気配は発していない。大人でありながら、どこかに子供っぽさを捨て忘れてしまったような、今朝のものだ。

 彼女が今、美空に戻っているとするなら、今聞くしかないだろう。何であんなことをしたのか、君はいったい何者なのか。

 電信柱の影からわざと足跡を大きくたてて、彼女の前にでる。また刃物を向けられるかもしれなかったが、そうはないという確信があった。

 美空は驚いた顔をしていた。さっきまで切りかかってきたのに、まるでいたことを知らない様子だった。

「・・・まだいたの」

 彼女の声音は落ち着いていた。だが、それは平穏から来るものではない。絶望を悟った人間のそれだった。それはさっき痛い程感じた殺気とはかけ離れていた。舞台俳優がどんなになりきっても、ここまで変わることは出来ないだろう。表情すら違う。

 彼女は狂っているのだろうか。それとも、ただからかって遊んでいるだけなのだろうか。後者だとしたらたちの悪いことこの上ない。

「君は、いったい誰なんだ?」知らず声を上げた。

 今その手に包丁を持つ君は、いったい誰なんだ?

「私は、美空だよ。自己紹介したじゃない」

 そうじゃない。そうじゃないんだ。俺が知りたいのはそんなことではない。

 美空は、いや、君は誰なんだ。どれが本当なのか、美空があの狂気を演じたのか。それとも、さっき襲いかかってきたあれが今の美空の顔を被っているのか。わからない。

「さっきなにしようとした?」

「知らないよ」

 彼女はさも当たり前のように言った。

「しらばっくれるなよ。さっきまでそこの親父に包丁を突きつけていただろ」

「・・・人違いじゃないの?」

 苦しい言い訳だ。

「ふざけんなよ。あんなもの見せられて、そんな言い訳通用すると思ってんのか!」

 彼女は、答えず俯いた。怒られて涙を堪える小学生のようだった。彼女は本当にさっきまで人を殺そうとしていた人間なのだろうか。

「ごめんなさい。でも、人違いだよ。私にとってはね」

 囁くように、虫の鳴くように呟く。それは、祈りとも、懇願ともとれるものだった。

「・・・どういう意味だよ。それ」

 今の彼女は間違いなく美空だ。それはわかる。だから強く問いつめることは出来なかった。だがこの状況下でまだ「人違い」に逃げる美空を理解できなかった。

「仕方ないのよ。あの子が出てきたんだから、しょうがないんだよ」

 あの子?どういうことだよ。あれが美空じゃないならいったい誰だよ!

 それを聞こうとした瞬間、突然警報が鳴った。パトカーの音だ。ドップラー気味なシとソの音がここに事件があることを知らせてくれる。建物の隙間から赤色の光が断続的に漏れていた。

 美空に襲われた男性はまだ気絶している。彼じゃないならば、おそらく近所の住民が彼の悲鳴を聞き、通報したのだろう。

 彼女は、その正義の音に怯えていた。どこから来るのか、キョロキョロと視線を彷徨わせている。

 和広の背後から音は近づいてくる。正義の執行者が来る方向を彼女は認識した。

 その瞬間美空は、右側にある裏道に走り出した。サイレンが聞こえだしてからおよそ二秒、とても早い判断だった。

 和広はその道がどこに通じているのか知らない。追いかけたとしても入り組んだ裏通りの中迷わず走れる自信はどこにもない。

「待て、逃げるのかよ!」

 美空はこちらをみた。そこには、依存先を求める子犬ような頼りない色が浮かんでいた。

「ごめんなさい。本当にごめん。和広くん。嫌いにならないで。事情があるんだよ。今は時間ないけど明日、今度はあの森の向こうで待ってるから」

 耳障りなサイレンが響く中、涙声が耳に届いた。和広はその言葉を理解するのに数秒かかった。

 路地裏から三人の男が現れる、一人はこの辺りの警官のようで、先に降りた二人の後をへこへこついてきている。自殺者と、その支援が主のこの町の警官にとって傷害事件というのは慣れない事態なのだろう。

 一方、前を行く二人の男の内一人は、しっかりとしたプロらしく精錬された動きだった。その警官は小柄で、中性的な顔立ちをしていたが、まるで射抜くような眼差しが、底の深さを表している。海外ドラマで、諜報機関として出てきそうな男だった。

 もう片方は警官ではなかった。眼鏡に、ヨレヨレのスーツ、無精ひげ、曲がったネクタイという出で立ちで、推理ドラマの冴えない探偵役をもっと情けなくしたような印象の男だった。だがその瞳の奥には、優しげな輝きがあった。

 小柄な警官は、和広と腰の抜けた親父の姿を認めると、路地裏に逃げていった美空を目で追いながら被害者を保護するように間に入り、美空のいる方向にライトを向けた。それに感づいたのか、美空はその姿を光にさらす前に、闇の衣が張り巡らされている路地裏に完全に逃げ込んていた。

 ライトを向けた小柄な警官は、ついてきた田舎警官に包囲網を作るように檄を飛ばすと、自らも美空を追って路地裏を駆けていった。

「大丈夫かい?」

 思ったよりも大柄な、スーツの男が心配そうに話しかけてくる。今逃げた美空の影を見て、あちらが犯人だと判断したのだろう。この男の口調はなぜかとても安心できた。

「・・・俺は大丈夫です。それよりあっちを」

 そう言って和広は気を失っている男性を指さした。和広は無傷だったが彼は腕に傷を負っている。軽傷だが放っておくわけにはいかない。

 現場にあと何人か警官が到着し男性を保護し、さらにこの場の痕跡を調べ始めた。

 先ほどの小柄な男が近づいてきた。美空を見失って単独で探しても意味がないと踏んだのだろう、改めてみると屈強そうな体が服の上からもわかった。

「君、犯人の顔を見たかい」

 彼の声は先程他の警官に叫んだような、威圧に満ちたものではなかったが、鷹の目にように鋭いものを感じた。

「・・・いいえ、暗くてよく見えませんでした」

 和広はそう答えた。

 国家公務員たちが迅速かつ的確に行動する中、和広は身動きが取れなかった。犯人が和広ではないのは明確だったが質問責めにあった。犯人扱いされなかっただけましなのだがそれでもうんざりした。

 おおかた真実を話した。だがあの人影の人物とは無関係ということにしておいた。その顔も闇で見えなかったとして美空への手がかりを出来る限り消しておいた。

 「私を助けて」と彼女は言った。それが和広に向けられたものなのは明らかだ。だが、何から助ければいいか分からなかったし。そこまで考察できるほど、和広の心的疲労は軽くなかった。

 まだ、心臓が脈打っていた。死の顕現のような包丁の切っ先を思い出すだけで寒気がした。

 美空は何から助けて欲しいのだろう。人を殺してしまいそうな自分なのか。それとも今朝、誤魔化した自殺してしまいそうな自分なのか。

 彼女が警察に捕まってしまえば、それらが無意味に泡と消える気がしたのだ。

 そして、それとは別に疑問に思ったことがある。「森の向こう」その場所がどこなのか、覚えがあった。しかしそれはもう九年前のことであり、それはもう和広しか知らないことだ。もし彼女が偽名を使っていて、本名がつぐみだとしても知っているはずがない。

 様々な疑問に頭を抱える。人間一人分の処理能力では追いつきそうになかった。

 警察官に来てくれた礼と、有力な情報を提供できなかった詫びをした。警察官は通り魔事件とあって真剣な顔をしている。未遂であっても人の命が奪われかけたのだ。警察たちがピリピリするのも無理のないことだ。

 だが何となく、突然起こった事件にしては対応が迅速すぎると思った。

 彼らは丁寧に和広を扱ってくれた。真夜中、高校生が一人で夜道を歩いていたことはこってり怒られたが、極度に緊張している和広の体と心を気遣い、家まで送ってくれた。送ってくれたのはあの小柄な警官で、渡辺と名乗った。

「・・・災難だったな」

 送って貰っている車の中、渡辺は声をかけてきた。隣には、スーツ姿の男がいた。彼は自分は熊田と気さくに名乗った。

 和広はパトカーに初めて乗った。ハンドルの横には無線機が置いてあり、CDプレーヤーやラジオがついているはずのところに何に使うかわからない機械が並んでいる。どれも「一般人が手を触れるものではない」と無言のプレッシャーを放っていた。

「ありがとうございます。皆さんが来てくれなかったがらどうなっていたか」

「妙に落ち着いてるね」

 それまで黙っていた熊田が口を開いた。だがこちらを不快にさせるような響きは全くなく、むしろ発言しやすいような優しさに満ちていた。

 沈黙の中、妙に冷めた色をした青信号が何個か過ぎていった。それは重苦しいものではなく、和広に思いを言葉に変換する時間を与えてくれているようにも思えた。

「そうですか?」

 発言しなければならないという空気に押されて声を出した。渡辺はこっちを一瞬見た。疑っているのだろうか。そう思っている間に、彼は視線を車線に戻した。

「君はさ。さっき殺されかかったんだろう?怖くなかったのかい?」

 熊田さんが言葉を続ける。

「・・・・まあ、怖かったですけど」

「そうか。でもね。被害者、あのおじさんだけど、君の倍は長生きしている。そんな人でも死の恐怖の前には腰を抜かしてしまうんだ。それが程度は違えど同じ恐怖を味わった君は、どうしてそう冷静なんだい?」

 そこで言葉を切り。和広を見た。その瞳は決して和広から逸らされなかった。人間は瞳で会話する動物だという。彼の瞳に心の奥まで覗かれてしまいそうだった。

 この人は、言葉と間の使い方が上手い。と和広は思った。人に必要以上の不快感を持たせることなく、間を使い、必要な情報を引き出す話し方を心得ている。

 実際、和広は、この男とこれ以上会話をすると、美空の情報まで出してしまいそうだった。

「あなたは、警察官なんですか?」話題を変える。隣に座っている熊田に尋ねた。

 彼は、どうみても警察官に見えなかった。服装も、口調も違う。警察官というのは、心を奥底に鍵をかけ保管しているような堅さがあるが、彼にはそれがない。むしろある種の柔らかさがあった。

「違うよ。僕は医者だ。渡辺君とは友達でね。たまに一緒に仕事をした仲なんだ」

「おい熊田・・・・」

「いいじゃないか。別に隠しておくべきことでもないだろう?」

 恐らく、個人情報を晒すことを恐れているのだろう。警官という崩せない牙城を守るために。

「一緒に仕事って、解剖とか・・・?」

 刑事と医学を結びつけると、解剖くらいしか思いつかない。刑事ドラマでたまに出る霊安室を思い出した。なぜか解剖医は遺体をみて笑みを漏らすような人間として和広は認識していた。勿論そんなことはないだろうから世界中にいる解剖医に謝罪を申し上げる。

「ううん。僕はそういったグロテスクなのは苦手だな」

 ああやだやだ。というように手を振った。手術のビデオすらみることは出来ないよと、彼は付け足した。

「じゃあなんですか?」

「僕は、精神科医だよ」彼は、優しげな笑みを浮かべたまま答えた。

「精神科医・・・ですか?」和広はあまり合点がいっていなかった。

「精神鑑定の結果、被告には刑事上責任能力はあると判断され・・・とかニュースで聞いたことないかい?最近は嫌な世の中になったしねえ」

 聞いたことがある気がする。特に凶悪事件などがニュースのトップを飾ったときによく流れていた。昔、それで連続殺人事件の犯人が無罪になったことをうっすら思い出した。

「聞いたことある気がします。青少年の事件とかで」

 そういうと彼は満足そうに頷いた。

「うん。僕が大学病院に勤めていたときなんだけどね。そのとき渡辺くんが担当した事件の鑑定を何度か行ってから、ずっと腐れ縁なんだ」

 なっ、と熊田は運転している渡辺に同意を求めた。

「腐れ縁いうな」

 そういって渡辺は言葉を閉ざした。

「まったく。そういう態度だから全国の警察に対するイメージを悪くするんだ。先入観というのは前評判と第一印象で決まるものなんだから、もう少し愛想よくしなよ」

「愛想良くするのは他の奴の役目だ。大体俺にそういうの向いてないって他ならぬお前が言ったことだろう」

 あれ、そうだっけ?と熊田は頭を掻く。見た目は四十ほどだったが、その言動は少し子供っぽい。和広は精神年齢の低い美術部の顧問を思い出した。

「でさ、和広くん。あのときの犯人、本当に女性って以外わからなかったの?」

 声音は変わらなかった。取り巻く空気も、旧友と親交を深めている空気だった。和広も、本当のことを話しそうになる。それくらい自然な雰囲気の問いだった。

「・・・・・いえ、やっぱり思い出せません」

 和広は、その流れには釣られなかった。だが一瞬、ふいを付かれ、妙な間が開いてしまった。

「まあいいよ。でもね、和広くん。人の付く嘘には二つある。自分を守るための嘘と、他人を守るための嘘。でも嘘というのは本質として事実をねじ曲げてしまいたいという心から来るものだ。そして、それを悟られないほどナチュラルに使いこなすのはかなり難しいんだよ」

 あくまで雑学だけどね、と彼は付け足した。和広は何も言えない。今のは、お前の発言は嘘だろうと遠回しを超えてダイレクトに言っている。そして、それを言いくるめる程芸術的な話術を和広は持っていない。

 しばらく無言の時間が過ぎる。せまい、入り組んだ道を右へ左へ曲がりながら進んでいく。街灯は少なく明かりの点る家はさらに少ない。気づけばもう十一時を回っていたのだから当然だった。しばらくして海沿いの綺麗に整備された道路に出る。両側にはホテルが建ち並んでいる。今は海水浴客や観光客でそれなりに繁盛しているのだろう。

 しばらくそこを進み、朝が丘に至る道に折れさらに進むと我が家に付く。ホテルが建ち並ぶ大通りと比べて、古く、汚く、味のある店が連なっている中の一つに、谷川土産店はある。

 パトカーを降り、家に入ると、母が慌てて玄関にやってきた。家族と仲が悪いといっても、和広はそれまで十一時まで夜をほっつき歩くことなどなかったし、帰るのが遅くなるにしても連絡くらいはしていた。

 警察官に付き添われるところをみて、母は顔面が蒼白になっていた。最近まじめな十代が凶悪事件を起こすことが多いから、和広もそうなってしまったと思ったのかもしれない。

 渡辺たちの話を聞いて事情が飲み込めてきたときには今度は和広の体の心配をした。気が狂ったのではないかと思えるほど、激しい剣幕だった。和広は、改めて母に愛されていることを実感した。

 親父はもう寝てしまったらしい。母は起こしてくると言ったが、和広は制止した。ただでさえ疲れているのに、わざわざ父を起こしてくることはない。説明なら明日にでもする。

 渡辺と、熊田は帰っていった。帰り際に、熊田は、一枚の名刺を渡してきた。。熊田メンタルクリニック、と職場らしきものが書かれていた。裏返すと、個人の携帯電話らしき電話番号がボールペンで書かれていた。

「もしかしたら、助けになれるかもしれない。後、犯人について何かわかったことがあったら教えてね」

 そういって、よれよれの背広を着た男は、似合わないウィンクをした。

 恐らく、嘘を見破られているなと思った。自慢ではないが生まれてこの方嘘が最後まで露見しなかったことはない。宿題を忘れたことの言い訳も、友達との約束に遅刻したことも、取り繕うがすぐに看破されてしまうのだ。元々、根が不器用だと上手く嘘をつくこともできない。

 和広は疲れていた。母がお風呂を進めてくれた。えらく気を遣った言い方で、むしろ疲れた。最近のギクシャクした関係のままで接しては欲しくなかったが、腫れ物にでも触れるように接するのもいらつくし、疲れる。ならばどうしろというのだろうが、その問いの回答は和広は持ち合わせていなかった。

 そのまま自分の部屋のふすまを開き、出したままだった布団に着替えず倒れ込む。ドスンと、空気を含んだ音がして身体がゆっくり沈んでいくのが分かった。付けたままのベルトの金具が痛みと違和感を脱力した身体に与え、蒸れた靴下が鬱陶しさを脳髄に伝えていた。

 それらをそのままにし、ゆっくりと沈んでいく。もし、羊水の中にいるとしたらこのような感じだろうか。さらさらした、ゆったりとした何かに包まれふわふわ落ちながら浮いている。

 思考は途切れ途切れになっていく。体と心が思った以上に疲労していた。もう意識を保つことは出来ない。

 完全に途切れてしまう前に、目覚まし時計を朝の六時にセットする。五時間も経てば耳障りなアラーム音が聴覚を刺激し意識を覚醒させるだろう。

 だが、眠りは簡単には訪れなかった。心臓はまだ高鳴っていた。恐怖なのか、高揚なのか、今では判断が付かないほど純粋になった精神の高ぶりだった。

 和広は恐らく恐怖なのだと仮定した。悟りを得ようとする修験者のように心を静かにし、身体が眠りに付くのを待つ。

 しかし、その内、意識の何割かは美空についての考察を続けていた。彼女は一体なんなのか。彼女の行動には不可解で突発的な要素が多すぎる。自分本位にしては一貫性がないし、和広との関係も、拒絶を求めているのか、それとも逆を望んでいるのか区別が付かない。

 考察も段々と破綻していく。脳の回路は閉じられていき、過去か幻想かを写す夢の扉が開く。自分という確固とした認識が薄くなり、夢という物語を漂う存在になる。

 自分という存在が、どこかに消えていく。そこにいるはずなのに消えていくのがわかる。消えた果てに見る記憶、それが夢なのだと思った。

 和広は、深い深い夢の中に落ちていった。


 その日、和広はお姉ちゃんと一緒にママの店に行った。当時は商店街にも活気があり、なかなか混んでいた。道行く人々は未来のことなど考えず、今日を生きていくのに精一杯と言う顔をして進んでいる

 二人並んで歩いた。彼女は道がわからないので和広が半歩前を行く。人混みの中、離れてしまわないよう何度も振り返り、彼女が付いてきているのを確認する。今はぐれたらもう二度と会えなくなる、なぜかそんな恐怖を抱いていた。

 彼女は目があったら少し声を掛けてくれたりしたが、キョロキョロと辺りを気にしていた。誰かを捜しているのだろうか。落ち着かない様子だった。

 八本目の横道を通り過ぎると、目当ての場所に着いた。まだ新しい看板に「お好み焼き」と書かれている。ピンクを基調とした看板に黒の筆記体の文字が、夜の店を思わせた。ちなみに今はママが自重という言葉を知ったのか、至ってふつうの看板だったりする。

「ここ大丈夫なの?」

 彼女は戸惑ったように言った。今考えたら、明らかに周りから浮いている看板に戸惑うのに無理はなかったと思う。

 店にはいると焦げたソースのにおいが鼻をくすぐる。客は昼時と言うこともあってかそこそこいた。

「いらっしゃい。カズかい。豚玉でいいね」

 ママが調理をしながら言った。そのころはまだママも美しさの中にも若さを残していた。言い寄ってくる男性も少なくなかったらしい。それがまた武勇伝を増やす原因にもなっていたのは言うまでもない。

 なんども来ているせいかママは注文も聞かず目当てのものを準備し始めた。

「あれ、カズ、お姉さんいたっけ」

 和広の後ろから現れた人物をみてママは言った。この辺りをよく知っているママは、和広と姉のような彼女との関係を計りかねていた。

 一方彼女は、ここ本当に大丈夫?とまだいいながらこそこそと店内に入ることをためらっている。

「どうぞ。カズの知り合いかい」

 彼女はカウンターに座る。変わった外見と至って普通の内装の店内に驚いている様だった。

「イカ玉にネギ乗せてお願いします」

 彼女は遠慮がちに注文をした。

 ママが二人前のお好み焼きを焼いている間、彼女との出会いを簡単に説明をした。毎日、朝ヶ丘の先で会っていることを話すのはさすがにまずかったので、商店街で助けてもらったことだけを話した。

「さっき商店街で偶然あってね」

 カウンターの鉄板を挟んで、ママにはそう言ってごまかした。何も矛盾していることはないはずだ。ママは野次馬根性が旺盛で、自分に関係なくても問題に首を突っ込む性格なのは、そのころから知っていた。ただでさえ自分のことを話したがらない彼女にママが無遠慮な詮索をされたくなかった。

「この町に何しにきたの?観光?」

 ママは彼女をあからさまに観察しながら聞いた。和広自身も遠慮して聞かなかったことを、なんでこの人は簡単に聞いてしまうのだろうと思った。

「そんなところです。」

「いつまでいるつもりだい?」

「九月になるまではいるつもりですけど。」

「長いねぇ、宿代も高くなるんじゃないのかい?」

「一応貯めてましたし、この辺りの友達の家を渡り歩いたりしてますので。」

 和広は二人の会話を聞きながら完成した豚玉を食べていた。彼女はいつも和広と話しているより倍は饒舌だった。二人の年齢が近いということもあるのだろう。次々と枝分かれした話題が葉を広げていた。

 彼女のイカ玉はなかなか減らなかったが、和広の豚玉は一定のスピードで減っていった。

「ねえ私の半分食べてよ。」

 話の途中、彼女はネギのたっぷり乗ったイカ玉を半分に切り、こちらに寄せてきた。

 和広は困った。イカ玉は嫌いではなかったが上に乗っているものが問題だった。

 山に盛られたネギをじっと見つめる。焦げたソースの臭いでかなりごまかされていたが、青臭いような独特のにおいが嗅覚を刺激する。

 和広はネギが嫌いだった。日の通した太ネギはまだ食べられたが、生の細ネギなんか、なんであんなものを好んで食べ物にかけるのかわからない。

 仕方がないのでネギを避けることにした。半分のイカ玉の上に大量に盛られたネギをどさっと落としていく。ソースにくっついて残っていたネギも丁寧に取り除いた。

「あれ、和広君、ネギ食べないの」

 そう言って彼女はすっかり平たくなったお好み焼きと横にどっさりと盛られたネギを見た。

「うん。においがさ。どうもだめで」

 和広は半分のお好み焼きをさらに二つに分けた。

「だめ、食べないと。野菜は取れるうちにとっとかないと病気になるよ?」

「だから、苦手なんだ、いいじゃん別に苦手のものくらいあっても。」

 ネギは幼い頃から苦手だった。特に素麺の薬味として添えられているのがだめだった。あのネギの強烈なにおいは生理的に受け付けず、嗅ぐと頭が痛くなって吐き気がすることもある。香辛料が強くネギの臭いが気にならないものや、日を通した太ネギはなんとか食べることが出来たが、苦手なことには変わりない。もちろん家では和広のメニューには生のネギは出てこないし、外食でも出てこないメニューにしたり避けてもらったりしている。

「食べなさい。食べ物を粗末にすると罰が当たるんだから。」

 だんだんと、彼女の口調が厳しくなってきた。心なしか表情も堅くなってきている。ママはそれを口出しもせず見ていた。

「そんなに体にいいんならお姉ちゃん食べてよ。元々お姉ちゃんのなんだから。」

「そんな、和広君が育ち盛りで気を使ってあげたのになんで好き嫌いなんてするの?食べなさい。」

「いいじゃん!なんでそんなにしつこくいうの?お姉ちゃんにだって嫌いなものくらいあるでしょ?」

 むきになって言い返した。だんだんいつもの彼女じゃなくなって躾を押しつける母親のように感じ、苛立った。

「好き嫌いは直すものなの、そんなこと言っているからいつまでたっても食べられないんじゃないの?」

 嫌みっぽく言うと彼女は避けたネギと、残った彼女の分のイカ玉の上に乗っていた大量のネギを、和広のイカ玉の上に乗せて「これ食べ終わるまで帰らせないからね。」と言った。

 和広は理不尽だと怒った。なんで自分の分ではないお好み焼きを押しつけられ、大嫌いなネギを食べることを強要されるのか。彼女が言っていることもわかる。だがその言い方は動物に躾をするような高圧的で上下関係を絶対としたものだ。

 子供はそういったものに対し強く反抗するものだ。もちろん和広も例外ではない。そして一時の感情は相手が誰であろうと起こる。

「ふざけないでよ!なんでお姉ちゃんがそんなこと言うんだよ」

 なるべく強く怒鳴ったつもりだった。今にして思えば小学生が大声を上げたところで迫力などたかが知れている。だが彼女は衝撃を受けたようだった。そしていつもからは想像もつかないヒステリックな表情で手刀を振りかざし、そこで止まった。

 そのまま振り下ろせば和広の顔に大きな青あざが出来るだろう。彼女はそれを知っているのだろうか。

 彼女は耐えているようにも見えた。だから逃げることは出来なかった。多少の恐怖はあったが、これまで過ごした短い間の記憶は、和広と彼女をつなぎ止めているはずだと信じた。

「そうだよね、ごめんね。君は私の子じゃないもんね。私がやり過ぎなんだよね」

 彼女はそういって振りかざした手を下ろした。顔は俯いてて見えない。ただ何かに耐えるように震えていた。

 店内は静まり返っていた。といっても長話で一時間くらい居座った後だったので、客は和広たち以外には四人しかいない。中には和広が登校中に会ったことのある人もいる。皆こちらを注目していた。

 そのときはわからなかったが、とてもまずい状態だった。その子の親でもない女性が、体罰じみたことをしようとしたのだ、問題と思わないことがおかしい。またここは田舎だ。噂が広まるのが飛行機より早い。無責任な誇張が追加され、彼女は様々な意味で窮地に立たされるだろう。

「重さん、田中さん、友さん、畑野さん、ここでみたこと内緒にしといてくれないかい」

 急にママが口を開いた。いつも以上に冷静な口調に冷たい視線をしていた。名前を呼ばれた客たちは傍観していた立場から舞台に引っ張りあげられた。

「しかし鈴ちゃん、これはさすがにまずいだろう」

 客のうち一人が勇気を持って声を出した。鈴というのはママの名前だ。鈴と書いてりん、ママの昔を知っている客はママをこう呼ぶ。そして、その言葉は正論であって、間違っているはずがなかった。

「大丈夫。私がなんとかしとく」

 ママはそう言って胸を張った。彼女がそう言うのならなんとか出来るという気迫が漂っている。

「鈴ちゃんがそう言うのなら・・・大丈夫だろう」

 客のうちわりと若い者が口を開いた。そしてそう言うと勘定だけおいて店からでていった。

 他の三人は納得していないのか顔をしかめていた。しかしここにいても邪魔だと判断したのか、でていった一人と同じように勘定をおいて出ていった。また明日と言っていた。

 店内は昼の光を取り込んでいるのに暗かった。

「・・・ありがとうごさいます」

 人のいなくなった店内で彼女が、ぽつんと言った。

「どういたしまして、でも、あんなの気休めにしかならないよ。こういうことってこぼしたジュースみたいに広がるからね」

 しかも汚れがとりづらいし、とママはため息をついて言った。

「鈴さん、でしたね。どうして庇ってくれたんですか」

 ためらいがちに彼女は聞いた。

「庇ったつもりはないんだけどね。きまぐれって奴かな」

 和広は居づらい雰囲気を感じたが、抜けるわけにも行かないのでテーブルに座っていた。すると彼女が目に涙を貯めながらただ、ごめんね。と謝ってきた。

 別に彼女を責めようとは思わなかった。手を出そうとした彼女は悪いが、ネギを食べなかった自分も悪いと思った

し、なによりこの自分のしたことにおそれ怯えている彼女が本当の彼女だと思った。

 彼女に帰ろうといい。レジで豚玉代五百円を払った。彼女も同じようにイカ玉ネギ乗せの代金を払う。

「あなた、今夜うちにきなさい」

 ママは彼女に向けて言った。彼女の顔に怯えの色が表れる。

「大丈夫、とって食ったりはしないって、ちょっと話したいだけ。今日泊まるところもまだ決めてないみたいだし、今あなたには心を落ち着かせる時間が必要でしょ?夜十時には客もほとんど来ないし、そのときに来な」

 彼女は少し考え、小さく首を縦に振った。

 帰り道彼女とはなにも話さず歩いた。商店街の喧噪が、耳に障る。道行く人たちが、帰り道を塞いで歩いている。

 ただ黙々と歩いた。歩くことだけに集中しているはずなのにどうしてこんなに家までが遠く感じるのだろう。

 やがて和広の家の前についた。そういえば彼女が自分の家をみるのは初めてだと思った。たくさん話して、隠し事はあるがお互いのことをよく知っていると思っていたが、根本的なことはまだ何も知っていなかった。

「ここが和広くんの家?」

 視線の先に「谷川土産店」と書かれた看板がある。だが一応彼女は聞いた。

「うん。お土産屋なんだ。潰れそうなね。」

 この頃から店の売り上げはよくなかった。それくらい小学生の自分でもわかった。両親は収入を上げるため苦心している。みていてただの穀潰しである自分はいらない存在であるかのように思ってしまうこともあった。 

 一度、新聞配達のアルバイトをやる。と両親に申し出たことがあった。自分の食い扶持くらい、自分で稼ごうと考えていた。それが義務であるようにも思った。

 だが、父は猛烈に怒った。なんでそんなに怒ったのか、家族のために働けると思っていた和広にはわからなかった。父は理由も言わず、ただアルバイトなど小学生のうちにするもんじゃないとだけ言った。

「そんなことない。立派な店だよ。」

 彼女は錆びてぼろぼろになった商品台を、張り紙を張った後で汚くなったガラス戸を、商品で見えなくなった表札を見て言った。

「じゃあ、いっぱい買っていってよ」

「また今度、絶対買うよ」

「絶対だよ」

 彼女はまだ悲しそうな顔をしていた。あのことはもう気にしていないと何度も言った。でもその顔にあの笑みは戻らなかった。それが一番つらかった。

「私ね。怖いんだ」

 ふと、彼女はそう言った。

「この世の中に、私がいていい場所はないんじゃないかって、誰も私を許してくれないんじゃないかって、だって私は許されないだけのことをしたんだもの。私は人殺しよりひどいのかも知れない。そのくせ、償うこともせず逃げてきた卑怯ものに、いていい場所なんてないんだ」

 そういって彼女は振り向き、無理矢理笑顔を作った。

「ごめんね。こんなこと、君に言ってもしょうがないのに」

 彼女は背を向けて商店街の方向に歩いていった。

 夜、ママのところに行く時間まで、暇つぶしでもするのだろう。朝が丘には行かない、そのことだけで和広は少し安心した。彼女の背中を見送り、九年離れず過ごした家を見る。

 ふと、自分のいていい場所もないかもしれないと思った。自分がいていいと思っていないのだから、どこにいてもいけないのかもしれない。それは、弱い自分だけの情けない感傷なのだろうか。

 和広は、その思いを振り払えないまま、誰もいない家の中に入っていった。


 耳障りなアラームがなり、意識を覚醒させる。久しぶりに彼女の夢を見た。過去と夢が混じりあった感触が、今も心の中に残っている。

 夢を見た理由はわかっている。まとめて言うと、美空のせいだ。昨日会ったばかりだが、その行動、言動から九年前のあの人を思い出させる。

 しかし美空は、あの人とは無関係だと自分に言い聞かせる。ママが言ったように彼女の名前は美空であってつぐみではない。もし美空という名前が偽名で、彼女の名前がつぐみだったと仮定しても、その理由がわからない。わざわざ名前を偽る理由がない。それにあの人と自分との交流を知っているのは、和広が知っている限りではママと、両親と、岸だけだ。美空があの人と繋がりを持っていたとしても自分との接点がわかるはずがない。

 そこまで考えてまた睡魔が襲ってきた。ここで寝てしまうのはまずいと思った。美空との約束に遅れてしまうのもあるが、夢の続きを見たくなかった。

 昔は、夢は楽しいものだった。昔からよくファンタジーを題材にした物語をよく読んでいたせいか、夢もどこか幻想的な、例えばトトロと森で遊ぶといった夢が多かった。夢を見ている時はいつも幸せで、起きた後も名残惜しく。もう一度布団をかぶり、夢の続きを辿っていた。

 だから荒涼とした夢をよく見る今も、二度寝すると夢の続きを見てしまう。

 タオルケットをはねのけ一気に起きあがる。回しっぱなしだった扇風機が低いうなり声をあげていた。

 スイッチを切り、回転を止める。物心ついたときからあるこの扇風機は、錆びだらけながら現役でエアコンの進出を許さない。

 今日はまだ昨日に比べれれば涼しく静かだった。夏の殺人的な光が朝の空気に和らげられているせいもあるし、台風が近く風が少し強いせいもある

 布団からでると、自分が昨日の服装のままであることに気づいた。汗ばんだ感触は不快だったが、着替えるのも面倒だったので、そのまま部屋を出た。

 和広の部屋は二階にある。一階の殆どは土産屋としてのスペースとして占有されており、居間とキッチン、後風呂くらいしか、住人の生活空間はない。それも電気やガス等の関係で配置されたにすぎず、もし二階に全てを移せるのなら、父は移動させているだろう。

 和広の父とはそういう人物だった。生活的余裕の拡大よりも、営業利益を優先する。それは大局的にみれば家族に笑顔をもたらすものかもしれない。

 売り手として妥協しない。その父の姿勢は息子である和広自身も尊敬している。今も父は店の奥で軽食の下拵えをしているのだろう。昨日、息子が殺人未遂にあったはずなのに。

 いや、それは商売とは何の関係ないことだ。店の息子が事件に巻き込まれ、殺されそうになったとしても、無傷だったのだ。そんな事実は客には関係ない。息子が死んで、喪に伏すか、犯人を捜すために行動するのならともかく。事件に巻き込まれただけで、店を閉めるなんてことはしないだろう。

 両親に気付かれないように外に向かった。もしも、気付かれたら確実に止められるだろう。昨日の今日であるし、何より和広には前科がある。九年も前のことだが、あのときのことは、両親も思うところがあるようで口には出さないが心配しているようだった。

 木製の引き戸を開けた瞬間。風の壁が体に当たった。家の前の雑木林も低い声を上げ揺れていた。そういえば台風が近くなっていることを思い出した。

 家の裏手の道に入る。いつ以来だろう。小学二年の夏以来、あの場所には行かなかった。あそこは美しい場所だ。柵がない分少し危険だが、気を付ければ落ちることはない。数分の徒歩の時間を省みても、行く価値のある場所だった。

 ただ、和広にとって嫌な思い出があるというだけだ。

 道は鬱蒼と草が茂っていた。その様子はあの頃と同じだった。いや、あの頃よりも非道いかも知れない、昔はあの場所に行く道とは違う道を選ぶと、段々畑にでた。誰が何を育てていたかは記憶にないが、たまに利用されていた。

 だが、今はその段々畑も背の高い草が茂り、わずかにその名残があるだけだ。

 段々と風が強くなっていくのを感じた。海が近づいているのだろう。なんとなく、心が逃げ出そうとしていた。落ち着きがなくなる思考をぐっと抑える。

 森の出口は狭い。両脇には背の低い木が茂っていて、その木々の間も草に隙間なく埋め尽くされている。これらは岩場でもわずかな養分から育つらしく。崖にも点在している。

 視界が開ける。それまで生命力がにじみ出ていた緑がいっさいなくなり、果てしない青と、白色じみた岩のある世界に変わった。

 そこは十年前と変わっていなかった。岩の場所や崖の形は変わっていた。お姉ちゃんが座っていた手頃な岩はなくなっていたし、大きな岩はぱっくりと割れていた。地球はゆっくりとその形を変えるものだと思った。

 だが、空気はまったく変わっていなかった。激しい波音がずっと聞こえているのに、どこか静謐で、涼やかな世界だった。

  美空はまだ来ていなかった。この場所は和広の腰より高い岩はない。どこかに隠れているのならともかく、人の姿があるのならすぐに気付くはずだ。

 大きく息を吐く。安心と、緊張が吐息に漏れる。美空はまだ来ていない。昨日の恐怖が脳裏に過ぎった。

 果たして彼女と会ったとき、安全なのだろうか。

 美空は自分を嫌ってほしくないと言っていた。その言葉は本心なのか。それはわからない。だが、和広を騙す理由も見あたらない。凶行により、和広との繋がりを放棄したくないからこそ、あの台詞が出たのだろう。

 では、彼女にとって和広との繋がりを保持するメリットとは何なのか。殺人未遂を見られ信用も何もない。それでも関係をつなぎ止めようとする意図はなんなのか。明らかに情報が足りないものを和広は悶々と考えていた。

「・・・おはよう。和広君」

 そのとき、背後から透き通った声が聞こえた。その鳥の歌のような澄んだ音は、響くもののない崖によく響いた。だがその声音には、隠しきれない躊躇いが含まれていた。

「・・・こないかと思ったよ」

 振り返りながら言う。先ほどよりも、緊張は和らいだ。少なくとも話は通じる。

 そこには美空がいた。昨日と同じような、真っ白なワンピースだった。それがお気に入りなのだろうか。それともお洒落にまったく興味がないのだろうか。汚れのない白は、よく考えると薄気味悪い。汚染を恐れているというのだろうか。全てを拒絶する無垢を想起させる。イメージ的には病院に近い。傷ついたものを癒すために、外界から隔離する色彩。汚れがなさ過ぎて人間性がない。

「・・・まさか、本当に来てくれるとは思わなかった」

 美空は驚いたように言う。

「ああ、自分でも吃驚している」

 本音である。元々自分は約束をあまり守らない人間だ。不器用が正直というのは嘘だ。不器用は約束という束縛から逃げたくて必死なのだ。

「どうして?」あんな目にあったのに、と美空は問いかける。

 なぜかと言われると、答えられない。答えられる程自分のことを知っているわけではない。

「さあね。でも、大丈夫なんだろう。今は」

 不用心に背後をさらした人間ほど、殺しやすい対象はない、なんて刑事ドラマで聞いたことがあるが。隙だらけのに対し、会話を望んだということは、殺害対象ではなく、生きている人として交流を望んでいるということだ。

「うん。ありがとう。来てくれて嬉しいよ。和広君」

「とりあえず安心したよ、殺人鬼さんじゃなくてさ・・・一体どういうことなのか、教えてくれるよな。美空」

 この世にはいない誰かの悲しみが眠る地。いささか落ち着かない潮風の中、二人は再び出会った。


 美空は和広の隣の、少し背の高い岩に座った。足が地に着かず、ぶらぶらと揺れていた。まるで天使が雲の端に乗り風を愛でているようだった。かすかに憂いを帯びた瞳を、前方の朝日の満ちる水平線に向けていた。

 先ほどの言葉に対し、互いに口火を切ることはできなかった。喋りたくないわけではない。きっかけがなかっただけだ。ただ、登りゆく朝日を一緒に見ていた。

 和広は美空を横見た。彼女の表情は浮かない。親の前で自らの失敗をどう言い訳するか悩んでいる子供・・・・のようにも見えた。

「昨日のあれ、いったい何なんだ?」

 先手を打ったのは和広だった。

「何で、あんなことをした。どうして途中で中断した。どうして・・・・」

 この場所のことを知っているのか。

 疑問が矢継ぎ早に口から発せられる。思えば分からないことだらけだ。彼女の存在も出来事もだ。だから一刻も早く答えが欲しかった。

 美空はまだ考えていた。視線は海に向いていたが、意識はこちらに向いていた。

「和広君はさ。人の意識って、どこにあると思う?」

 突然の質問に和広は面食らった。全く脈絡のない。意図すらつかめない問い。

「・・・・脳か?」

 人間の思考は脳で行われる。意識、すなわち自我は脳に存在するということだ。

「普通はそう答えるよね。でも「意識」を司る器官なんて脳のどこにもないんだよ」

「え?」

「霊長類の脳は、大脳、小脳、脳幹に大別されて、さらに大脳旧皮質、大脳新皮質、って分類されていくけど、ただ、生存のための指令を出したり、判断したり、記憶を貯蔵したりするだけ。意識なんてものは。実際にはないの」

「だけど現に今、俺たちは考えて話しているだろう。意識はあるはずだ」

「でも、実際、意識を司る器官なんてものは発見されていないわ。いままでも、そしてたぶんこれからもね。

 デカルトは松果体に魂が宿るって考えていたわ。他の哲学者たちも同じように形而上学的な理論で脳の機能としての魂を証明しようとした。

 だけどね。結局はそれも間違い、松果体は性機能の発展、繁殖に大きな役割を果たしてるって最近では言われているの。

 だから、脳にあるのは、生きるための本能と、生まれてきてから培ってきた記憶だけ。意識、自我っていうものは、脳や体にある記憶と本能と、外部への接点である肉体が見せている単なる「錯覚」が連続している状態なのよ」

「・・・・・」

 意識が錯覚。そんなことは考えたこともなかった。そもそもそう考える自分自身が、存在していない錯覚だという考えなのだ。どうしようもない袋小路に似ていた。

「だから人間の自我っていうのは、案外あやふやなものなの。一分前の自分。一時間前の自分。一年前の自分。十年前の自分。それは全く同一の個体だと思う?細胞だって十年立てば入れ替わるのよ。信念も、性格も同じなわけがない。それは確かに連続したものでしょうけど、それは本当にあなただったの?」

「・・・哲学だな。そういう問題はよくわからないし、答えなんてないだろう。自分を自分でみることなんてできない。証明できないものを永遠と言い合うようなものだ」

 自分自身の証明は全ての問いの果てにあるものだ。「我思う故に我あり」とは言うが、自分自身が絶対的に確かな観測者ではなく単なる「錯覚」と仮定されている以上。自身の存在を証明することなどできない。

「それが、昨日の出来事と、どんな関係があるんだ?」

 少なくとも、今の哲学の講義が、昨日の美空の行動に直接結びつくとは思えない。意識は錯覚に過ぎない。例えそうだとしても意志はあるのだ。

「大ありなのよ。私たちにとってはね」

 彼女ははにかんだ。お気に入りの秘密を打ち明けたかのような顔だった。

「どういうことだよ」

 一方の和広はまるで訳が分からなかった。美空は普通の人間とは違い自我があやふやだから、あのような行動を起こしたのか?いや、今話している限り、彼女に可笑しいところは見あたらない。彼女にはどこか精神に異常があるのだろうか。初めて会ったときや、昨日の事件。あれらを省みると精神の異常の可能性もあるが、今の彼女は健常者のそれだ。ますます、和広は分からなくなった。だから、美空の言葉を待つしかない。

「うーん。ちょっと皆と話したんだけど。今、和広君にネタばらしするのは、やめておきたいんだ」

「なんでだよ。というか皆って誰だ」

 先ほど、美空は「私たち」と言った。彼女が指す皆というのは一体何のことなのだろう。

「私の大切な、家族だよ」

 美空は微笑を浮かべ、答えた。初めて会ったときも同じようなことを言っていた。皆、家族が満足するまで、この街を離れることはできないと。

 家族規模での異常が、美空をおかしくしているのだろうか。

「家族ってのは誰のことだ。両親か?兄弟か?それと、昨日のあんたの行動とどんな関係があるんだよ」

 疑問は尽きない。何が異常で何が正常なのかが分からない。考えようにも情報が少なすぎる。モチーフのないまま絵を描いているようなものだ。それに、一番の疑問がまだ残っていた。

「・・・・何で、この場所のことを知っているんだよ」

 これが極めつけだ。この場所は街の住人でも殆ど知らない。そして和広の過去と縁のある場所だと知っているのは、ママと和広の家族くらいだ。

「・・・・・DID」

 美空が、小さく口を動かした。あまりに脈絡のない単語だったので、聞き間違いかと思ってしまった。

「・・何?」

「DIDって単語を調べて。そうすれば、和広君が私に抱いている疑問の殆どを解決できると思う」

 DID。動詞doの過去形。ではないだろう。そんなものが答えだったら探偵などいらない。だがそれ以外に連想できる意味が和広には思い浮かばなかった。

「ちなみにdoの過去形じゃないよ」と美空は苦笑した。

「そんなことは分かってるよ」

 心外だ。と和広は返した。

「だけど、なんでこんな謎かけじみたことするんだ。全部説明すればいいじゃないか」

「うん。皆もそう言ってる。だけど、私は怖いんだ」

「何が?」

「間違った偏見を持たれることが。まあ正しい偏見なんてものもないんだけどね」

 人が見るからには偏見は発生せざるを得ない。主観的であるからこそ。人間足り得るのだ。だから偏見を捨てるのではなく、その偏りを問題のない方向へ修正するべきなのだ。

「わかったよ。それで、全部分かるのなら調べてみる」

 図書館に行けば調べられるだろうか。和広の家にはパソコンはないし。携帯電話もインターネットに繋げない仕様だった。

「お願いね」

 彼女はそう言って立ち上がった。

「それからありがとね、来てくれて。嫌われちゃったと思ってた」彼女は続けた。

「来て欲しいと言われたからな。昨日の最期のあんたも危険じゃなさそうだったし」

「・・・思ったんだけどさ。和広君って、自分で決断せずに周りにずるずる引きずられる人の典型じゃない?」

 その言葉に、うっと和広はたじろいだ。その通りだったからだ。

「自分で言うのも何だけど、私は結構危ない。昨日和広君がみたのは夢で幻でもドッペルゲンガーでもない。あの事件は本当に起こったことよ。最期にまともに話したからって。リスクも考えずに来るのは危ないと思うよ。賢い人なら、ここにこない」

 遠回しに馬鹿にされている気がしたが、反論できなかった。和広の行動は勇敢な判断ではなく。状況的に引きずられたものだからだ。

「だから、逃げるべきときには逃げて。私はそれを恨まないから」

 手を引くことに躊躇するなと、美空は釘を差したのだ。危険に関わり続けることは勇猛ではない。ただの惰性に過ぎないのだから。

「あ、それと、警察に連絡はしないで欲しい」

「なんでだよ。殺人未遂容疑者」

 和広は茶化したつもりだったが、美空の表情は暗くなった。

「まだ、私たちにはやらなきゃいけないことがあるから」

「・・・死んだりはしないだろうな」

 和広は不安になった。

「するかもね」

 こともなげにそう言った。続けて、

「だけど、和広君だったら止めてくれるでしょう」

 昨日の朝と同じように彼女は言った。

 まるで、自分の全てを和広に預けるような、全幅の信頼がそこにはあった。

「分かったよ。警察には伝えない。それでいいか」

 和広は折れた。彼女の事情はまだ分からない。だが、手を引くような決断は彼には出来なかった。

「物わかりが早くて助かるわ」

 美空は振り返った。今日の話は終わりらしい。

「もう帰るのか」

「人通りが多くなる前にね。これでもお尋ね者だろうし」

 昨日の今日だから用心しているのだろう。

「また明日ね」と美空が言った。

「明日は台風だから、やめておいた方がいいぞ」

「あれ?そうだっけ。でも大丈夫でしょう。確か直撃は深夜だったはずだし。翌朝だったら明け方より少し風が強い程度だろうし」

 だといいのだが、今回の台風は強力な上、暴風域が微妙に重なるか重ならないかというところを通過するので過ぎた後でも危ないだろう。

「わかった。でも、やばそうだったら来ない方がいいぞ。俺も怒らないし。命には代えられない」

「わかった。善処はするわ」

 崖から落ちようとした人間の台詞では説得力もなかった。言葉もお役所仕事の口上のようだ。この手の言葉は信用できない。だが当日になればわかることだ。

「じゃあね」

 美空は、帰り道を歩いていった。まるで妖精のように森の中に消えていった。

 和広はそのまま海を見続けていた。だが、潮騒も遠近感がおかしくなる景色も頭に入ってこなかった。

 彼女の背景が全く読めない。とても昨日殺人未遂を怒した人間だとはとても思えなかった。体が覚えている恐怖と、彼女の物腰が一致しないのだ。

 DID、頭の中で三つのアルファベットを反芻する。何を指しているのか検討も付かないし、予想も出来ない。

 今何時くらいであろうか。携帯電話は持っていなかったが、反射的にポケットの中に手を伸ばす。すると、堅い紙の感触があった。

 名刺だった。昨日、熊田がくれたものだった。

 しばらくその薄い紙切れを見つめていた。そこには熊田の個人用の携帯電話の番号が走り書きされていた。社会常識的に考えたなら、ここで連絡するべきなのだろう。

 ポケットに戻す。今は別にいいだろう。警察に介入されてしまい、途中で終わってしまってはむしろ後味が悪い。もう少し様子をみてもおかしくないはずだ。

 心の中で言い訳し、和広は立ち上がった。今日は走り回らなくてならない。午後は、布施先生にデッサンを見て貰う予定だから、図書館で調べるのは午前にしなくてはならない。

 少し歩調を早めながら、崖を後にした。

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