第四章:信仰
「わたしたち、おおきくなったらけっこんしようね!」
「うん! ぼくぜったいうわきなんかしないからね!」
Hの目の前には、幼い男女が結婚を約束していた。
(こんなマセたことを・・・・・・一体誰なんだ・・・・・・)
疑問に思っているHの目に、突然光が差し込んだ。
それは直視するには、あまりに眩しすぎるものだった。
「ウワッ!」
「ハッ?!」
目の前には、無機質な壁。
右を見ると、澄み切った空。
窓が東側についていることもあって、
朝の時間帯は太陽が直接部屋に入ってくる。
「朝食の用意ができましたよ、Hさん」
扉の奥からは、すっかり聞きなれた山守の声。
と同時に、Hは腹の虫を興奮させる匂いを感じ取った。
この日は朝から神社の倉庫へ行った。
倉庫に納められた本をあらかた調べ、気がつくと時計の短針は4を指していた。
犬神の信仰に纏わる、山守が話してくれたものとは異なる説、
江戸時代における犬神のモデルとなった犬の種類など、多種多様な事柄について知ることはできた。
(まあ、これだけ調べれば合格点をもらえる論文は書けるだろう)
満足げな表情を浮かべてワードに重要事項を打ち込み、
さあ帰ろう、とした時だった。
「あ・・・・・・」
ポケットに入れていたガムを落としてしまった。
それを拾おうとHが身をかがめるとした時だった。
「・・・・・・ん?」
本棚の一番下には、木製の棚が横に敷かれていた。
その敷かれた棚の下に、一冊、薄めの本らしきものを見つけたのだ。
Hは疑問に思い、下敷きになっていた本を引っ張り出す。
『忘れ去られた犬神伝説』。
題名からして、既知の事柄しか載っていないだろうと思いパラパラとめくってみる。
しかしそこに書かれていたことは、
これまでHが調べた資料の史実を覆しかねないものだった。
『私は昔から犬神様を信じています。
表では犬神神社は天皇家の神社ですが、
犬神神社は紛うことなき犬神様を祀る場所です。
今はもう亡くなってしまいましたが、私には夫がいました。
夫は日露戦争の時兵隊に駆り出されました。
私は戦争で勝つことよりも、
夫がただ無事に帰ってきてくれることを、毎日犬神様に祈っていました。
当時露西亜はバルチック艦隊という世界でも名高い海軍を持つ国であり、
夫はそのバルチック艦隊との戦いに兵隊として派遣されることになったのです。
夫の乗っていた船が沈没したとの知らせを受けたとき、私は絶望しました。
しかし夫は、無傷で帰ってきたのです。
なんでも、戦いに出向く直前になって急に配置が変わったらしく、
夫は沈没した船には乗っていなかったとのこと。
私はこの時ほど、犬神様の恩恵を感じたことはございません。』
『私は犬神様のおかげで太平洋戦争の時戦争に駆り出されるのを免れました。
戦争も末期になった頃の44年12月のこと、私は赤紙を受け取りました。
当時私は母と二人暮しでしたが、
年なうえに肺炎を拗らせた母親に一人暮らしができましょうか。
私は赤紙を受け取った日から毎日のように犬神様にお祈り申し上げてきました。
無謀なことだと思いましたがそうせずにはいられなかったのです。
しかし犬神様は私に慈悲を与えてくださいました。
徴兵検査で引っかかり、
兵として不適であるとされた私は兵役を逃れることができたのです。
犬神様にはどれだけ感謝しても足らないくらいです。』
昨日調べた神主記録によれば、大戦期以降は犬神の信仰は廃れたとのことだが、
今手に取っている書籍には、26もの逸話が記載されている。
もっとも、この26の逸話はどれも戦前や戦時中までの頃の話であり、
戦後どのように犬神信仰が廃れたかまではわからずじまいである。
しかし昭和初期における月ヶ瀬島の人口が100人弱だったようで、
それを考慮して考えると、犬神が大戦期~昭和前期の頃にもだいぶ信仰されていたことが伺える。
当時は印刷機など贅沢品だったのだろうか、全て手書きで、
当たり前のことながら、全て筆跡が異なっている。
(わかりにくい所においてあったのは、弾圧から逃れるためだろうか・・・・・・)
国の弾圧を回避しつつ、こうして犬神への信仰を書き綴る当時の村民の苦労の賜物。
その賜物も、今となってはすっかり古臭い外見となってしまったようだ。
Hは再びノートパソコンを起動させ、この26通りの中でもいくつかの逸話を厳選してまとめる。
カギは明日の正午に返す約束となっており、実質今日が神社の建物に入れる最後の日である。
「犬神様。二日間の無礼、どうかお赦しください」
犬神に対する信仰心が生まれたわけではないが、
Hはカギを閉めた倉庫に向かって敬礼した。
「とうきょうに、ひっこすの?」
「うん、ほんとうは・・・・・・およめさんになる・・・・・・つもりだったのに・・・・・・」
Hの目の前には、昨日も出てきた少年と少女。
少女は泣きじゃくって引っ越す旨を少年に伝える。
少年は少女に、絶対に大きくなったら彼女のもとへ行って迎えに行く、といった。
少女は泣くのをやめ、微笑んだ・・・・・・。
(最近の子どもは皆、あんな感じなのか・・・・・・)
瞬間、再び強い光がHの目を襲撃した。