第三章:開放
「イタタ・・・・・・」
昨日は疲れ果てており、風呂からあがって部屋に戻るやいなや、
倒れこむように睡眠に落ちた。
その時変な体勢で倒れこんだのだろうか、Hは身体に痛みを感じた。
食堂へ行くと、まだ食事の準備が終わっていないようで、
山守は厨房でフライパンをかき混ぜていた。
「今日も調査に行かれるのですかな?」
「ええ。
そのために来たんですから」
「そうですか・・・・・・」
山守はかき混ぜていた手を止め、かき混ぜていたものを皿に盛り付ける。
何の変哲も無い野菜炒めだったが、鮮やかな色彩がHの腹を強く刺激した。
「聞き込みをやろうとするならば、それは無駄な徒労に終わってしまいます」
山守いわく、犬神の話は島内ではちょっとしたタブーになっているらしく、
誰も教えてはくれないだろうとのことだった。
「図書館に行けば、何かわかるかもしれません」
山守の話では、月ヶ瀬島の町役場近くに島一番の図書館があるそうである。
Hは朝食を胃の中に流し込むと、早速図書館へと出向くことにした。
図書館に行ってはみたが、図書館に置いてある書籍はどれも、
昨晩に山守が話してくれたことばかりであった。
(これでは何一つ新しい手がかりが見つからないで終わってしまう・・・・・・。
もう少し色々わからないことには、まともな論文が書けないな)
片っ端からそれっぽい本を探してはみたが、どれもこれも既知の事柄しか書かれていなかった。
「ハァ・・・・・・」
溜め息を交じらせながら席を立ち上がり、
6冊ほどの本を本棚に返そうと本を手に取った時のことだった。
「ウワッ!」
思わず足がふらつく。
すると持っていた6冊もの本も支えを失い、重力の法則に従って落下する。
しかも間の悪いことに、目の前を人が通ろうとしていたものだから、
その人も巻き添えにしてしまった。
「イタタ・・・・・・」
「ああ、ごめんなさい」
Hがぶつかった人は、OL風の女性だった。
「気をつけてくださ・・・・・・」
OL風の女性はHに向かって、穏やかではあるが若干強めの口調で注意を促そうとしていたが、
その声は途中で止まった。
「・・・・・・あなた、昨日の人、ですか?」
詫びの意を表すため俯きがちだったHは顔をあげる。
目の前にいた女性は、昨日この島に着いた時の白い帽子の女性とよく似た顔をしていた。
「あなたは・・・・・・」
昨日の初めて出会った頃を思い出すと、胸の鼓動の間隔が短くなるのをHは感じた。
「随分とドッシリした本を読んでいらっしゃるんですね・・・・・・」
女性は、Hが落とした幾多の本に目をやっていた。
「ええ、少し犬が・・・・・・」
言葉の途中で山守の忠告を思い出す。
この島では、犬神についての話はタブーである。
「犬が、どうかいたしましたの?」
「ああ、いえいえ、犬が好きでして・・・・・・」
うまく取り繕ったあとで、Hはまた思い出した。
(そういえばこの女性は、犬神を信じていると言っていたが・・・・・・)
「もしかして・・・・・・あれ、本気でしたの?」
女性も、この村でのタブーを知っているのか、小声でHに問いかける。
勿論、女性が何を言っているか、Hに理解できないはずがない。
「ええ」
女性にあわせて、Hも小声で頷いた。
すると女性は口元の端を微かに吊り上げてみせた。
「変わった方ね」
しかしその声に悪意はないようだった。
むしろ、安堵を感じているかのような声色だった。
「もし本気で犬神について調べたいのならば、
少々待っていてくださいな」
女性は踵を返して、出口へと向かっていった。
Hは女性の言動に不可解さを感じないではなかったが、
女性を待つことにした。
(どうせ、他に調べる手段は残っていないんだ)
腕に巻かれた時計の針を見る。
女性を見送った時には0を向いていた長針が、
今では6を指している。
早く来ないだろうか、そう思って出口の方を見ると、
先程のスーツの女性がこちらへ向かってくる姿を捉えた。
「ごめんなさい、少し手間取ってしまって」
女性はカギのようなものを持っていた。
「神社の建物のカギ一式ですわ」
「え・・・・・・」
事前にある程度月ヶ瀬島について調べたが、その下調べでは島に神社は一つしかないとのことだった。
その神社とは、今は何故かタブーとされている犬神神社である。
昨日神社の建物に入れなかったHにとっては、喉から手が出るほど欲しい物品である。
「で、でも、いいんですか?」
戸惑うHに、女性は微笑んで答えた。
「私、これでも役場の職員ですから。
わけありで、他の職員には内緒で持ち出してきましたが」
「ありがとうございます」
図書館の敷地内ということもあって、小声ではあるが、
Hは深く頭を下げた。
「いいえ。
二日後に、またこの図書館に来る用事があります。
そのカギは、その時にでも返しにいらしてくださいな」
「何時ごろに伺えば・・・・・・?」
「そうですね・・・・・・正午あたりに図書館前の玄関で落ち合いましょ?」
神社について更に詳しく調べることができ、美人と落ち合う約束もしたHは、
心の中で狂喜する自分を感じないではなかった。
「う~ん・・・・・・」
犬神神社の本殿は、きっと神主の住宅も兼ねていたのだろう。
三十年以上前に賞味期限を迎えたペットボトルのお茶、時代を感じる古時計。
そういった類のものは腐るほどあったが、
犬神そのものについての資料は見つけることができなかった。
本殿を出て、倉庫の鍵穴に三つあるうちの一つのカギを挿し込む。
重たい鉄の扉を引くと、錆付いた音が響いた。
黴のような匂いが倉庫の中から強烈に放たれると、
Hはマスクを持っていかなかったことを後悔した。
(後悔先に立たず、とはこのことか)
黴臭さを我慢して、倉庫内の本棚を調べる。
すると、早速Hの目を引く書籍が見つかった。
「『犬神神社系譜』、か・・・・・・」
中には昔の言い回しもあったが、Hは自分の読める限り解読した。
山守が昨晩してくれた話と重なる部分も多かったが、
この書籍には、犬神が信仰されてその後のことについても記述されていた。
『犬神は江戸時代を通じて月ヶ瀬島では普及しており、
幕府からも反国体的なものとはされず公認されていた。
犬公方と呼ばれた五代綱吉の頃には、外様大名の領地なのにも関わらず、
財政面やその他の面で色々優遇されたりもした。
しかし薩長連合、諸大名の不満、更には外国の圧力など、
様々な要因が複雑に絡み合い、やがて幕府を壊滅させる。
明治時代となり、徹底した天皇崇拝政策のもと、
国家神道を国民に信仰させるために廃仏毀釈令を出した。
犬神は神社ではあったが、祀られる対象が天皇家ではなく犬だった為に、
国家は神社破壊の命令を下す。
しかし月ヶ瀬島が強く反対したことを受け、
神社は壊さず、信仰の対象を天皇家に変えるということで和解した。
以後犬神信仰は消え去り、天皇家を崇拝する神社へと転換した。』
Hは大学受験のとき日本史を選択しており、
特に近代史は得意であると自負していた。
明治維新当時の実力者は優れた血統の持ち主ではなく、
それゆえ自分たちが奉じている天皇を最高権力者に持っていくことで、
自分たちの権力をも高めようとした。
これが本当かどうかなど知る由もないが、
そのような話を、Hは学校の先生から聞いたことがある。
(しかし・・・・・・)
どうしても引っかかる部分があった。
長年信仰されてきた犬神が、
実力者の身勝手でいとも容易く消え去るだろうか。
更に本棚をあさると、『犬神神社神主代理記録3』という書籍を見つけた。
3、とあるからには・・・・・・と考えたが、どんなに探しても1,2は見つからない。
Hは1,2を探すのを諦めて、『犬神神社神主記録3』を開いた。
『犬神神社は明治政府の横暴により、
神武天皇をはじめとする実在せぬ架空の天皇家を崇拝する神社に堕落してしまったが、
悪徳政府と言えど島民の心をも変えてしまうことなどできはしない。
事実として、犬神神社が天皇家を崇拝する神社になってからも、
島民は心の中では犬神を信仰していた。
ところが清国やロシヤとの戦争また国家主義の新聞などにも影響され、
島民は次第に天皇家を信仰するようになる。
天皇家への崇拝が広がる中で犬神は忘れ去られ、
日本が軍国主義に堕落し満州国を建国した頃には犬神信仰は跡形もなく消えていた。
戦争が終わると犬神信仰が回復するかに思えたがそのような兆しは見られなかった。
朝鮮やベトナムでの戦争を通して日本の景気が急上昇していくなかで、
島民は神に祈らずとも豊かな暮らしを送れるようになる。
犬神自体を知る者は依然として多いが、以前のような犬神信仰が見られることはもうないだろう。
これを書いている私も既に今年で96を迎える。
恐らく私が死ねばこの神主記録が語り継がれることもなくなってしまう。
歴史の流れとは時として残酷なものである。』
一番新しい記事は1974年に書かれたらしく、
左下に『1974年1月10日』と記載されている。
戦前の日本の状況を考えると、天皇家を崇拝する神社への転換を堕落とするあたり、
当時の神主がいかに犬神を信仰していたかがよくわかる。
(きっと、当時の警察からは目をつけられていたのかもしれない)
戦前の日付が記載されている日記は、二つしかない。
きっと、どこかで抑留でもされていたのかもしれない。
とにもかくにも、この神主の危言は不幸なことに的中してしまった。
そればかりか、現在では犬神は呪いの神とされている。
Hはやりきれない気持ちをどうにかこらえて、
持ってきたノートパソコンを起動させる。
興味深かった二つの資料の大まかな概要をワードに打ち出すためだ。
(念のためにと思ってノートパソコンを持ってきておいてよかった・・・・・・)
カギまでつけて大事に保管されていた資料を持ち出すことは、
Hにとって荷の重いことであった。