第二章:伝説
Hがしばらく世話になる宿は、とある老爺が一人で経営しているものだった。
月ヶ瀬島はレジャー施設が盛んな方ではなく、それゆえ宿に泊まりに来る者も少ない。
採算も合わずそろそろ閉めようかと思っていた矢先に、Hから電話がかかってきた。
「そういうわけで、あなたが最後の宿泊客になります」
宿主の山守はどこか寂しげではあったが、笑顔をたやさないでいる。
それは単に客をもてなす仕事の時に作る顔には思えなかった。
「それにしても、あなたは珍しいお方ですね。
この辺では見ない顔なので、島の外の人間とお見受けしますが、
どうしてこんな片田舎まで?」
大きい遊園地があるわけでもなく、有名な海水浴場もない月ヶ瀬島である。
わざわざこの島までやってくる若者など、ほとんどいない。
山守は最後の客となるHの来訪を疑問に思っていた。
「実は・・・・・・、この島に古くから伝わる『犬神伝説』について調べようと思いまして」
「犬神・・・・・・っ!」
山守の顔が引きつる。
それを見てHは、昼間の豹変した好々爺を思い出す。
そもそも人の願いを叶えるはずの犬神である。
どうして皆、ここまで恐れを抱くのか。
「・・・・・・」
山守は何かを考えるかのように目を瞑っていたが、
「・・・・・・教えることにしましょう。
そもそも、私は神など信じないで生きてきました。
だが勝手に信仰された挙句、勝手に幻滅されてしまっては、
犬神とやらも報われないでしょう・・・・・・」
(勝手に信仰された挙句、勝手に幻滅・・・・・・)
山守が何を言っているのか、この時のHには理解できなかった。
「15世紀も後半に差し掛かった矢先に、
当時都のあった京都で大きな戦がありました。
その戦は何年間にもおよび、京都の町を壊滅に追い込むほどのものでしたが・・・・・・。
その戦も終わりに近づいた頃、一人の兵がこの島に流れ着きました。
その兵は合戦で大きな傷を負って瀕死の状態でした。
それでも戦に恐れをなして京都から今でいう広島まで逃げ、
そこで船を盗んで、たまたま月ヶ瀬島に流れ着いたのです。
男は数日間何も食べておらず、空腹の状態で島の海岸を徘徊していましたが、
たまたまそこに一匹の犬が通りかかりました。
知っての通り、日本には犬を食べる文化などございません。
しかしこの兵にとっては、腹に入るものならば何でもよかったのでしょう。
最後の力を振り絞って犬に襲い掛かりましたが、
犬を捕まえるには、男はあまりにも弱りすぎていたのです。
追いかけることもままならなくなって、砂浜に倒れ伏してしまいます」
「その次の日、倒れた男のもとにあの犬が再びやってきました。
犬は自分が食べるためにもぎとった柑橘類のようなものを口に咥えていましたが、
何を思ったのでしょう、それを男の口元にそっとおいてやったのです。
しかし既に男の身体は、
ものを食べることはおろか口を開けることすらできない程に弱っていました。
そんなことを知らない犬はもう一つ柑橘類を持ってきて、男の口元に静かに置きましたが・・・・・・、
その時、既に男は死んでいました。
犬は男を哀れみ、せめて冥界ではこの男がたらふく何かを食べていられているようお祈りをしました。
その時、晴れ渡っているはずの空から雷が降り、犬を直撃したのです。
しかし犬は痛がる様子も見せずに、何事もなかったかのようにその場を去りました。
その夜、犬は、倒れていた男が天国で目いっぱいの料理を頬張っている夢を見ました。
目の前の料理は決して豪華なものではありませんでしたが、男は満足そうな顔でした」
「翌朝になって犬が起きると、
この犬が縄張りとしていた、島一番の高い山の中腹が神社となっていました。
そして犬が寝ていたまさにその場所が、神社の本殿になっていました。
目の前では多くの人間が、それぞれの願いを言ってこちらに向かってお祈りを捧げてきます。
うっとうしくなったので吠えようとしたところ、声が出ません。
もうどうしようもなくなり逃げようとしましたが、
その時犬は、自分の手足の感覚がなくなっていることに気がつきました。
まるで、目と耳だけが肉体から独立しているかのような感覚。
犬は逃げるのを諦めて、目の前にいる多くの人間の願いを叶えてやることにしました。
なかには反道徳的なものもありましたが、
他人に迷惑がかからない限り、どんな願いでも極力叶えてやったのです。
そうすれば、目と耳だけが独立している妙な感覚から解放されると思っての行動だったのですが、
いくら願いを叶えてやっても、自分の手足の感覚が戻ってくることはありませんでした。
また犬も、人の願いを叶えてやることに喜びを見出しはじめ、
もう身体などどうでもいいと思うようになり、人の願いを叶える『犬神』として祀られるようになりました」
ここまで話すと山守は、コップの水をグイと飲み干した。
「これが、この島にまつわる『犬神』伝説です。
もっとも私は、信じてはいませんがね」
そこまで聞いた時、Hは大きな欠伸が出てしまう。
「ごめんなさい・・・・・・今日はだいぶ疲れてしまいまして」
Hは自分の行為を恥じるかのように俯いたが、
山守はそれに腹を立てることはなかった。
「なに。
初日ですから色々あったんでしょう。
もう風呂は沸いていますから、どうぞ入ってください」
勝手に信仰、勝手に幻滅――この不可解な霧が晴れることはなかったが、
欠伸が出た途端に、激しい疲労とそれに伴う眠気がHの体にのしかかった。
(今日尋ねなくとも、明日からの調査で明らかになるだろう)
Hが風呂の扉を開けると、心地のよさそうな湯気がHの視界を覆った。