第七話『白狐VS赤狐』
「おい、あいつもしかして、白狐の珠?」
「まさか……でも白狐なんて珠以外に……」
「珠だ! 修行に耐え切れずに逃げ出した、落ちこぼれの珠だ!」
珠が正体を現すと、広場に集まった狐達が騒ぎだした。珠は妖狐の国では有名だったらしい。ただし、悪い方向に……。
「どうしたんだよ根性無し! 普通の狐として生きることにしたんじゃねーのか?」
「いつの間にか人間のペットになってたのか? 落ちこぼれのお前にはお似合いだぜ!」
広場が笑いに包まれている。珠はそれを気にしない。
「五千年狐様! あなたは魔物に操られた動物の死体を、憐れに思ったことがありますか? 動物が森で死んでいるのを見たら、野ざらしになっているのが可哀そうだと思い、埋めてあげようなどと考えたことはありますか? ありませんよね? 五千年狐様だけではありません。ここにいる誰もが、下等な動物がたどる末路だと言って、見下していたではありませんか! 自分は高等な種族だから関係ない。魔物ごときに良い様に入れ物にされる動物は醜いと言って、笑っていたではありませんか!」
それまで騒がしかった広場が、珠の言葉によって静かになった。珠の言葉に感銘を受けたからではない。あいつは何を変なことを言うかと、訝しんで沈黙したのだ。
「クルトさんは違います。魔物に利用され、静かに死ぬこともできずに、動く死体と化してしまった動物を憐れに思って涙を流しました。それはクルトさんが優しいという証明です」
「なるほど、それがお主なりの弁護という訳だな。だが、やはり魔物に操られた動物の死体を憐れに思うのは筋違いだ。動物はすでに死に、魂は失われている。そこにいるのは魔物と、魔物が使っている肉の塊だけよ。よいか白狐。憐れだの、可哀そうだのという言葉は、生者に対して使う言葉だ。生者には感情がある。苦しい、辛い、悲しいといった感情がな。それに対して哀れに思うなら理解できる。だが、何の感情も持たない死体に対して、憐みの感情を浮かべるのはむしろ不自然なことではないか?」
五千年狐はそう言った。周りの狐達もその言葉に同意して頷く。だが珠は首を横に振る。
「それが私達の限界なのです。思いやりの心に関しては、私達はクルトさんより……人間より遥かに劣る」
「貴様ッ! あまりに無礼なことを口にすると!」
「やめよ……お主に発言は許していない」
側近の狐が前に出ようとするのを、五千年狐が睨みつけて止める。今にも殺しそうな表情に気押されて、周りの狐達も委縮する。
「さて白狐や。我々が人間に劣るとはどういうことなのだ? おっと、その前に人化してから発言するといい。その方が人間も混乱せずに済むだろう」
こくりと頷いて珠は人化する。
珠の表情が一瞬だけ曇った。さっきから珠は、一度もクルトのことを振り返って居ないのだ。
『珠は僕にとって、人間の初めての友達だよ』
(私は裏切り者だから、クルトさんに合わせる顔が無い……)
* * *
「クック……あはは! あははははは!」
珠が正体を現すと、フィルは笑い声をあげた。
「珠の奴、今頃どんな表情を浮かべているのかしら? 『私はひどい奴だ、完全に隠していた、騙した、裏切った……』とか、思ってるんでしょうねぇ! そうよ珠! あんたはクルトを裏切った! クルトにとって、人間の友達というのは特別な存在。自分が人間にも嫌われずに済むという希望。それをあんたは踏みにじった! 完膚なきまでに粉々にした! 今頃クルトはあんたに失望しているでしょうよ! その証拠に、クルトは何も言わないじゃない!」
そう、クルトは珠が正体を現してからまだ一言も言葉を発していない。それは、珠に失望したという証。珠を裏切り者として認定したということの証明!
「せいぜい必死に擁護してやると良いわ。もしうまく行ったら、その後クルトに罵倒されて絶望なさい。もしうまくいかずに処刑されることになったら、クルトと一緒に死ねる幸福を喜びなさい。あら? じゃあうまくいかない方が、あんたにとっては幸せなのかしら? クククク……あはははははは!」
フィルはこれから起こるだろう悲劇を笑った。
* * *
「我々森の動物は、死ねば誰に埋葬されること無く腐りはてるか、他の動物の餌になります」
「それが自然の摂理よ。腐った死体は土に帰り、他の動物に食べられるなら、その動物の空腹を満たす。何かおかしいことがあるか?」
「森に住む私達にとってはそれが常識です。ですが、人間達にとっては違います。野ざらしになっている動物を憐れに思い、それを埋めてあげようと考えるのです」
珠はいつだったかクルトに聞いたことがあった。人はなぜ死体を埋めるのでしょうと……。
『だって、腐ったまま放置されている姿を見られたくないでしょ? 手を合わせてくれなくてもいい。ただ作業的にしてくれるだけでもいい。僕だったらそれでも、土に埋めて隠してもらいたい。腐ったまま、見世物みたいに放置されてるはよりはきっといい』
もちろん、霊の安息を祈ったり、死者との別れを告げたりする儀礼的な意味もあるだろう。でもその前に、醜く腐って行く姿を見せたくない。それは他者に対してもそうだ。隠してあげたい。死者の名誉を守ろうとする思いが人間にはある。
「私達には理解できない思想かもしれません。でもそれは、人間に思いやりがある証ではありませんか?」
「ふむ……」
五千年狐は、顎に手を当てて考え込むしぐさをする。その表情は楽しんでいるように見えた。
「白狐や、お主はそもそもなぜ人間と一緒にいたのだ?」
「クルトさんは私が川に落ちて溺れているところを助けてくれたのです。その恩返しをするために人に化けて、一緒に森を旅していました」
「なるほど狐の恩返しという訳か。しかし先ほどの反応を見る限り、人間はお前が妖狐であるということを知らなかったようだな。お主が隠していたのだろうが、それはなぜだ? 四六時中人間に化けているのは辛いはず。初めから正体を明かして手助けをすればよかったではないか」
珠はどう答えるか悩んだが、他に答えようがないと考え、正直に話すことにした。
「人間として生きようとしたからです」
「それはなぜか? お主はただの狐として生きたいと言って飛び出したくらいではないか。なぜ人間として生きようなどという考えが生まれるのだ?」
「狐であることを明かせば、クルトさんは私のことを動物としてみることになります。私はそれが嫌だったのです。私も人間として扱って欲しい、対等の関係を築きたい。なぜなら……」
そこで珠は一度止めて、振り返ることなくその先を言う。
「私は、クルトさんを愛してしまったからです」
シン……という音が聞こえた気がした。その時だけは風すらも止まったかのように静かになった。
だがその次の瞬間、広場では大爆笑が起こった。
「アハハハ! あいつ今なんて言った? 愛してしまったといったのか?」
「狐が人間に恋愛感情を抱いたというのか? そんな話は聞いたことが無いぞ」
「仲間の中であいつだけ身体が白いのを気持ち悪いと思っていたけど、中身はそれ以上に気持ち悪かったのね! ククク……」
下位の妖狐も、上位の妖狐も関係ない。すべての狐が笑い転げていた。五千年狐すら、口を抑えて笑っている。
珠はその笑い声の中で、クルトのことを考えていた。
言ってしまった……。本当は最後まで狐であることを隠し、頃合いを見計らって告白するつもりだった。
はは……なんとずるい女。自分はクルトが周りの人間に嫌われているということを知っている。だから宝石を手に入れて、気分が高揚している時に告白すれば、断られることはないだろうという計算をしていた。
(これは、クルトさんの裁判なんかじゃない。だってクルトさんには罪が無い。罪があるのはこの私だけ……)
意識を失いそうな絶望を感じながらも、珠は必死に立っていた。とにかくクルトだけでも助けなければならない。
「ふふふ……面白い奴よの。人間に惚れる狐が居るとは思わなかった。お主に免じて、人間とお前のどちらかの命は助けてやろう」
五千年狐が笑いながらそう告げる。周りの妖狐達も異論はないようだった。それを許してしまうほど、珠の告白は妖狐達にとって面白いものだった。
「ではクルトさんを助けてください!」
珠は迷いことなくそう言った。
(五千年狐様の気が変わらないうちに……)
「ふむ、お主は当然そう答えるだろう。しかし、お主の愛した人間は薄情な奴だなァ。決定権が無いとは言え、それは駄目だと言って止める言葉の一つや二つあるだろうに、それを口にせずに沈黙しているのだから」
クルトは相変わらず沈黙している。珠はクルトを振り返りたいという気持ちに駆られたが、それはできなかった。怖いからだ……。
失望したような表情でこちらを見ているなら傷つくし、怒りの形相でこちらを見ていたとしたらさらに傷つく。なんとかクルトの命だけは助けられたのだから、少しは顔向けできるようにはなったが、クルトの沈黙が恐ろしくて振り返れなかった。
「しかしつまらぬな。あまりに予想通り過ぎて面白みのない無い答えだ。……どうだ? チャンスをやってもよいが?」
五千年狐がそう言って珠に提案をする。
「チャンス……ですか?」
「私を楽しませられればお前の命も助けてやろう」
とりあえず命さえ助かれば、クルトと仲直りする機会ができるかもしれない。クルトは優しいのだからきっと……。
「やります」
「ククク……訂正は聞かぬぞ? 赤狐」
五千年狐の声に、赤い狐が前に進み出て人化する。
「赤狐と戦え。それで私を楽しませればお前の命も助けてやろう」
「えッ!」
珠は驚いて前に進み出た赤狐を見つめる。
五千年狐の傍にいる妖狐は皆五千年狐に認められた者達だ。妖狐の中にも種族があり、その種族の中で一番だと認められた者が五千年狐の側近になることができる。つまり目の前の赤狐は『赤狐』一族の中で最強ということになる。そんな相手に落ちこぼれの珠が勝てるはずが無い。
「容赦はしない。お前の全力でかかってくるがいい」
人化した赤狐は、赤い髪の男になっていた。殺気立った表情で珠のことを睨みつけ、お前とは格が違うと暗に言っているように見えた。
珠と赤狐の周りから狐達が離れて行く。五千年狐は、二人の戦いがよく見下ろせる場所に座り、ひょうたんに詰めた酒を飲み始めた。
「始めよ」
五千年狐がそう合図すると、赤狐の身体が妖気に包まれる。その妖気は炎となり、まがまがしく赤狐の体を包み込みはじめた。
(と、とにかく武器を持たなくては……)
珠は近くに落ちていた木の枝を拾い、刀に変えようとする。だが、いくら念じてもその木の枝は刀に変わってはくれなかった。
「な……なぜ?」
「妖術が使えず焦っているのか? それは当然だ。貴様と俺の妖気に差がありすぎる。お前の妖気が私に怯えているのだ。人化の術だけはなんとか使えても、同時に他の術を使うことはできないだろう」
そう言って赤狐が腕を振る。すると、赤狐の体を取り巻いていた炎の妖気が珠に襲いかかり、珠は吹き飛ばされてしまう。
(このままでは……。ん、これは?)
転んだ拍子に、珠は自分の懐に何かが入っているのに気が付いた。それはクルトにもらった小刀だった。
何も武器が無いよりはましだと思い、珠は小刀を取り出して構える。
「そんな小さな刃で私に勝てると思っているのか?」
「大きさは強さに関係ありません。強大な乱暴者が、たった一匹のサソリに殺されることもあるのですから」
そう言って珠は走り出す。赤狐は珠に向かって何度も腕を振り、炎の帯で攻撃する。
「……クッ」
炎の帯を避けながら、フェイントを入れつつ赤狐に迫る。しかし切りつけようとするたびに、赤狐の瞳が珠をとらえ、なかなか切りかかることができない。
「その程度ならば人間にもできる。お前の刃は私の体に届かない」
「くッ! ……やぁあ!」
見切られてるのを承知で切りかかる。見切っているからこそ、切りかかってくるはずが無いという油断があるかもしれない。しかし、珠の攻撃はあっさりと見破られ、赤狐は珠のことを殴り飛ばしてしまった。
「きゃあ! ……ま、まだッ!」
珠は即座に立ちあがって、再び赤狐と向き合う。
「ふぅ……お前と戦うのに妖気を使うのはもったいないな。素手で十分だ」
そう言って赤狐は構えを取る。妖狐は妖術のほかに、格闘技も会得している。五千年狐の側近ともなれば、それはかなりの腕前のはず……。
だが、武器を持った相手に対して、丸腰の状態は間違いなく不利のはず。状況はさっきよりはマシになった。
「……行きます!」
そう言って珠が再び赤狐に向かって走り出した。
「ふふふ……愉快よな」
五千年狐は酒を飲みながら、試合を見ていた。そんな五千年狐のところに、一匹の妖狐が連れてこられた。その妖狐は人化しておらず、狐の姿のままやってきた。
「お呼びですか?」
「おお、きたか空弧よ。白狐はお前の弟子だったな」
「修行を逃げ出すような愚か者を、弟子に取った覚えはありません」
空弧と呼ばれた妖狐は、そう冷たく言い放つ。
「そう言うな。自分の教育の不行き届きを認めるのも重要なことだぞ? ところで、お前の目から見て、あの白狐はどう見える?」
「……刃物の使い方は多少マシになったようですな」
そう呟いて、空弧はかつての弟子を見つめた。
「ぐあぁ!」
戦況はあまりに一方的。何度切りかかっても、何度フェイントを入れても、何度後ろを取ろうとしても、あっさりと見破られて反撃される。そのたびに、珠の体には傷が一つ増えるのだ。
対して赤狐は無傷だった。力の差はあまりに歴然としている。
「どうした? 落ちこぼれにできるのは演説だけか? あのままお前だけ処刑されていればよかったものを……。少なくとも体中に傷を負い、恥をかくことなど無かったはずだ」
「恥をかくことで……成長することもあります。赤狐様だって、泥だらけになって修行していた時期があったのではありませんか?」
珠は懸命に立ち上がりながらそう呟く。
「そうだ。皆泥だらけになって修行していた。涙の味をした肉を食べたことの無い者などいないだろう。そして、今まで修行を逃げ出した者などいない。皆それを乗り越えて成長するか、それに耐えられなかった者は立派に死んでいった。それが妖狐の誇りであり、我らの強さの証だ。だがそれにお前は泥を塗った」
珠が話をしている赤狐に切りかかる。赤狐は話しながらそれを受け止め、胸倉を掴んで腹を殴る。
「ガハッ!」
「お前は五千年狐様に憧れて妖狐となり、空弧さ……空弧の下で修行していた。だがある日突然、ただの狐として暮らしたいと書置きを残して居なくなった」
「グッ! ガッ! ああ!」
赤狐は何度も珠の腹を殴る。そのどれもが重く、そのどれもが珠の急所をとらえて珠を苦しめる。
「お前が逃げ出した後の妖狐の国を見せてやりたいくらいだ。話題はお前が逃げ出したことで持ち切り、空弧は後ろ指を指されて笑い物になる始末。もちろん、お前と違ってそれで逃げ出したりはしなかったがな!」
赤狐は珠の体を空中に投げだして顔を殴り飛ばした。力いっぱい殴り飛ばされた珠は、クルトのところまで転がって行き。ちょうどクルトの膝元で止まった。
(これは……クルトさんの膝……。はは……クルトさん笑ってるんでしょうか? 自分を裏切った友達もどきが殴られているのを……。いや、クルトさんはそんなことしない。多分まっすぐと私のことを見ています)
裏切り者が制裁を受けているのを、ただ静かに見ている……。
珠はそう考えて、クルトの顔は見ないように立ち上がろうとする。その時珠は何か光るものが落ちるのを見た。
珠はまさかと思ってクルトの顔を見る。
「ク……クルトさん……その口にしているのは……」
クルトは猿ぐつわをされていた。
「おや、ばれてしまったな」
五千年狐が、小さな悪戯がばれた子供の様にそう呟いた。
実はさっき、珠がクルトのことを振り返らないのだと気付いた五千年狐が、クルトに周りにいた妖狐に指示を出し、クルトに猿ぐつわを付けさせたのだ。
「んー! んんー!」
クルトは必死に唸って首を振っていた。ずっと泣いていたのだろう。目は真っ赤に充血し、顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
* * *
「なーんだ。いくらなんでも何も言わなすぎるなとは思ってたけど、馬鹿口開けてるとこを何かで封じられたのか」
フィルは少しつまらなそうに座りなおした。さっきまで珠が殴られているのを楽しく鑑賞していたのに、その時の気分はどこかへ行ってしまった。
クルトには珠にかけたい言葉がいくつもあった。しかしそのどれもを言うことは許されず、ただ必死に唸っていた。しかしあの広場の喧騒に飲まれて、クルトの唸り声は珠には届かなかったのだ。
「確かにあいつが、騙されたくらいで怒るはず無いわよね……。鳥の時も騙されたことより、私のために怒ってたみたいだし……分かんない奴」
フィルは胸に、何か不愉快な炎が灯るをの感じた。
* * *
「クルトさん!」
珠はそう叫んでクルトに抱きつく。そして力強く抱きしめて涙した。
(見捨てられてなかった! クルトさんは今も私に思いやりのある目を向けてくれている! それだけで私は十分です! この上は立派に戦って死んで見せます! 藍京珠の最後の姿……どうぞご覧ください!)
最後にクルトの耳もとに、一言呟いてから離れる。手に握り締められているのはクルトからもらった小刀。それをしっかりと握りしめて赤狐を見据える。
「どうした落ちこぼれ。目が据わっているぞ?」
「勝つ必要はなくなりました。生き残ったら生涯をかけてクルトさんに謝り続けるつもりでしたが、クルトさんは最初から怒ってなどいなかった。それでも私はクルトさんを裏切ったことに変わりは無い。この上クルトさんの傍に居たいと願うのは迷惑でしょう。ならば私にできるのは、クルトさんが私を思い出してくれた時、藍京珠は立派な妖狐だったと懐かしんでもらえるように戦うことだけ……。勝てはしなくても、恥じは晒しません!」
「ならばかかってこい落ちこぼれが! 数千の妖狐の前で立派に死んで見せろ!」
「お相手願います赤狐様! いやぁあああああ!」
珠はそう叫んで赤狐に向かって行った。
「変わりましたね」
五千年狐の横にいる空弧がそう呟いた。
「ほう、変わったとは興味深い。私には先ほどと同じく、一方的にやられているようにしか見えぬがな」
決意を新たにしたところで、珠が五千年狐側近の赤狐にかなうはずが無い。相変わらず珠の攻撃は赤狐には届かない。
「赤狐様は最年少でここまで出世した実力者。珠ごときに負けることはありますまい」
「では何が変わったのか? 傷の数が増えたというなら、それは確かにその通りだがな」
五千年狐は酒を飲みながら、珠が殴られているのを眺める。
「変わったというのは、私があいつを教えていたころと比べての話です。あいつから恥を晒さないなどという言葉が出るとは思いませんでした。辛くなればすぐに這いつくばって泣き出すような狐だったのですから……」
「なんだ、お前と同じではないか。若い頃お前が私との戦いに敗れた時も、這いつくばって命乞いをしたと思ったが?」
そう言って五千年狐はクスクスと笑う。
「部下にしてくれと頼んだ覚えならありますが、命乞いをした覚えはありません」
空弧はそう言って珠を見つめた。
「本当に……変わった」
「偉そうなことを言っていたわりにあっけなかったな」
赤狐がそういって珠を見下ろす。珠はさっき以上にボロボロになっており、もはや虫の息だった。
(これで……いい。最初から勝ち目の無い戦いだったんですから、ここまで戦えただけで十分です。これで十分……か。少し前なら考えられなかったでしょうね……)
そう心の中で呟いて、珠はここを飛び出した日のことを思い起こす……。
* * *
「私には妖狐として暮らすのは無理です。これからは普通の狐として……。うーん、これだと正直に書き過ぎでしょうか?」
珠は紙を睨みつけながら必死に手紙を書いていた。これから妖狐の国を捨てて逃げ出すのだ。
珠は五千年狐に憧れてここに来た。なんとか妖狐になることはできたものの、修行の方は全く駄目だった。他の弟子たちがあっさりと乗り越えて行く所を、珠だけが躓いてしまう。人化の術だけは誰よりも早く会得することができたが、それ以外はまるで駄目だった。
炎を生み出す術も、風を呼ぶ術も、木の葉を金に変える術すら使えない。唯一中途半端にできるのが変刃の術だが、とても刀として使えるものではないし、剣術の腕も下の上程度しかないという落ちこぼれっぷりだった。
これでは妖狐としてやっていくことなどとてもできない。そう悟った珠は手紙を書き始めていた。
「はぁ……」
珠は一つため息をついて筆を取る。しばらく遠回しの文章を考えてみたが、結局正直に書くことにした。情けないが他に書きようが無い。最後に同胞たちには思いっきり笑ってもらうことにしよう……。
「でも、弥師匠にも迷惑がかかってしまうんですよね……」
弥師匠とは空弧のことだ。五千年狐は名前を呼ばないが、狐には一匹一匹ちゃんと名前がある。ただ、種族の長となるとなかなか名前で読んでもらえない。珠は空弧に弟子入りしているから名前で呼ぶが、それ以外からはやはり空弧と呼ばれている。
珠は手紙を書き終えると、目立つ所に置いて与えられた家を飛び出した。妖狐の国に逃げ出してはいけないという掟は無い。だが、そうは言っても修行が辛くて逃げ出すというのを見られるのは恥ずかしい。だから珠は、こっそりと国を抜け出した。
「自由だ! あははは!」
国から逃げ出してもう誰もいないところまでやってくると、珠はそう叫んだ。久しぶりの森の香り。もう明日から修行で負った傷の手当てをする必要はない。自由に生き、自由に死ぬ。普通の狐としての生活が始まったのだ。
だが、森で暮らすというのは辛かった。国にいた時は食事が出てきたが、野良になれば自分で餌を取らなくてはいけない。久しぶりに狩りをするというのは非常に大変だった。
しかも珠は、森に住む普通の狐達に印象が非常に悪かった。
妖狐はただの狐を自分達と同じように見たりしない。自分達を高等、ただの狐を下等な存在だと認識して、それを大っぴらに態度に表していた。だから、珠は狐達から嫌われていた。
「妖術がちゃんと使えれば、餌ぐらいは何とかなったのに……」
一人そう呟いてみたが、そもそも普通の狐として暮らそうと思って逃げ出したのだ。ただの狐が妖術を使うのはおかしい。なんとか自分一人で餌を取れるようにならなくては……。
そんな時、珠は川の音を聞いた。思えば腹もすいたが、のども渇いている。川辺に行けば小さな動物が水を飲んでいるかもしれないと考えて、珠は川に行くことにした。
「これは……大きな川」
はじめてくる場所だった。非常に幅の広い川に、勢いよく水が流れている。もしかしたら魚が取れるかとも思ったが、これだけ流れが速いとそうもいかない。
珠は水を飲むだけにしようと決めて、水面に顔を近づけた。
「……あッ!」
空腹が限界に達していたからだろう。珠は足を滑らせて川に落ちてしまった。
「キャン! キャン!」
人語を失って狐の鳴き声をあげる。声をあげるたびに、口の中に水が入ってきて苦しくなる。しかもだんだんと身体が川に沈んで行くのが分かった。
(もう……限……界……)
たいして時間がかからない内に、珠は力を失って流されるままになってしまった。
そして、意識が薄れる中で、誰かに抱かれた様な感覚を覚えた。
(水って……ずっともがいていると温かくなるの……?)
珠は温かいものの正体を見ようと目を開いた。
「見捨てるつもりなら最初から見捨てろ! 一度助ける仕草を見せて期待させておきながら、結局助けないで落胆させるのが一番残酷なんだ!」
(人……間……? 逃げ……なくちゃ)
ただの狐にとって、人間は天敵。だが、結局逃げることはできず、そのまま気を失った。
* * *
珠が再び気が付くと、目の前には焚火があった。
「あ、狐が目を覚ましたみたいよ?」
若い女の声……。
「気が付いた? 水を飲んだみたいだけど大丈夫かな?」
そして、優しい男の人の声。珠はその声の主を探して顔をあげる。そして、そこには優しい表情をした少年が居た。
その少年はパンを食べさせてくれた。味気ないパンだったが、空腹な珠には美味しく感じられた。
腹が膨れると、珠は自分を助けてくれた少年の顔を見る。口を開いてお礼の言葉を言おうとしたが、待てよと考え直して何も言わずに逃げ出した。
(お礼を言うよりは行動で返そう。優しそうな人だったし、人間に化けて現れれば友達にもなれるかもしれない)
珠はそう考えて逃げ出したのだ。
しかし、いざ一度離れてみるとなかなかきっかけがつかめなかった。たまに山菜を見つけて少年の傍に運んだりはしたのだが、その程度では恩返ししたことにはならない。
陰から少年のことを追いかけている間に、少年の名前はクルトというのだと分かった。そして、クルトのことを見ているうちに、自分の中にほのかな恋心が生まれていることに気が付いた。
クルトの言葉はひたすら優しく、表情も常に明るい。そんなクルトの様子が珠の心を惹き付けていたのだ。
「なんとかクルトさんと近づきたい……」
そう思っている頃、人化の術を練習しようとして入った洞窟で何かを踏んでしまった。それは巨大なコウモリだった。一匹二匹程度ならなんとかなる。だが数十という群れに囲まれたのではどうしようもない。珠は人化したまま助けを求めて悲鳴を上げた。
そして、そこにクルトがやってきた。クルトは珠を庇ってコウモリを追い払ってくれた。その時にはもう、珠の中の恋心ははっきり恋愛感情だと認識できるものに変わっていた。
「クルトさんと恋人になりたい……そのためには人間として暮らさなければ……」
そうして、珠のクルトを騙す日々が始まった。
* * *
たった一月ばかりの記憶。それでも大切な思い出。いま自分が戦っている理由。
(勝てない……)
珠はうつぶせに倒れて目を瞑る。
不思議と悲しくはなかった。クルトはどの道帰ることができるし、自分が居なくなってもフィルが居る。クルトの声が最後まで聞けないのは残念だが、それこそが贖罪。
(……さようなら、クルトさん。私は幸せでした)
珠の意識が静かに沈んで行く……。
「立てぇー! 珠ぁー!」
クルトの声が広場に響いた。
珠は目を見開いてクルトを見る。クルトは身を乗り出して叫んでいた。何かの拍子で、猿ぐつわが外れたらしい。
「クルトさん……でも私は……」
「良いんだよ! 人間じゃなくったって! 僕は珠が人間だから友達になったんじゃない。珠が僕を受け入れてくれたから友達になれたんだ。珠と一緒にいると楽しいから友達になった。僕だって魔女に育てられたことをしばらく言わなかっただろう? それで珠は怒ったりしなかった」
それとこれとはレベルが違う……。
「人間扱いして欲しいなら、人間として扱ってあげる! これまでだってそうしてきたんだ! 何も難しいことじゃない!」
妖狐と知ってしまった今、これまでと同じでいられますか?
「勝ってよ珠! 僕はまた珠と一緒に旅がしたいんだ!」
あなたがそれを望むなら、どうして私が断ったりするでしょう?
「く……ぐぅ……」
珠の手のひらが熱くなる。珠の体から妖気が溢れだし、珠の右腕に集まって炎が生まれた。
「ほう、妖術を使うか……」
五千年狐がそう呟いて酒をあおる。
「まさか、あいつは炎を生み出す術は使えなかったはず。それなのになぜ……」
空弧がそう言って少し驚く。
「なあ空弧よ。お前は最初から炎を出すことができたのか?」
「え……最初からはさすがに……それでも修行をして……」
「ではそういうことだろう? しかし赤狐に炎は効かぬ。あんな小さな炎で何をするつもりなのか」
そう言って五千年狐は成り行きを見守った。
「弱々しい炎だ。その程度の炎では私の体はおろか、服すら焼くことはできないぞ?」
赤狐がそう言って慌てもせずに歩いてくる。
「弱々しいかどうか……赤狐様の体で試してみてください!」
珠がそう叫ぶと、炎は一気に燃え上がり、巨大な炎の塊となって赤狐に襲いかかった。
「な、なに!」
予想外の炎の塊に、赤狐が少したじろぐ。赤狐は炎を避けることもできずに飲み込まれてしまった。
「赤狐様!」
「赤狐様が炎にのまれたぞ!」
周りの狐達が騒ぐ。
「大丈夫だ……赤狐様には……」
赤狐を包んだ炎は急激に縮まる。
「炎は効かない……」
赤狐は無傷だった。本当に服すら焼けていない。
「少々驚いたぞ。だが、それまでだったな……ん、居ない!」
赤狐が炎の中から出ると、そこには珠の姿が無かった。
「何処に……ぐわぁ!」
赤狐の腹を、後ろから刀が貫いた。鮮血が飛び散り、刀と地面を赤く染めている。
「あなたに炎が効かないのは百も承知しています。だから、炎はただ目くらましに使っただけ。本命はこの木の枝を変化させた刀」
珠は炎を放った瞬間に立ち上がり、皆が炎に気を取られている間に後ろに回ったのだ。
「な、なぜ? 変刃はできなかったはずでは……」
「失念していましたね。私が炎を出せたということは、あなたの妖力に圧倒されない程度の妖力にはなったということ。変刃の術が使えて当然です」
とはいっても、実際に木の枝を刀に変えられる自信は無かった。途中で木の枝を拾い、後ろに回りながら刀に変えたが、それが失敗したら珠に勝機は無かった。
「なんて綺麗な刃……」
クルトがそう呟いた。クルトが綺麗だといったのは珠が持っている刀。
その刀は何処までも研ぎ澄まされた名刀のように見えた。
「お前の……勝ちだ」
そう言って赤狐は倒れて狐に戻った。
「見事な勝利だ白狐」
五千年狐も珠にねぎらいの声をかける。だが、その顔には醜悪な笑みが浮かんでいる。
「ところで珠。私はお前になんと言ったかな?」
「……楽しませろと」
「そう、私は楽しませろといった。勝てたら助けるなどといった覚えは無い! そして……少々退屈な展開だったぞォ? 白狐ォ?」
珠は最初から気付いていた。勝ったとしても助けてもらえる保証はないと。いかにも五千年狐がしそうな言葉遊びだ。
五千年狐の言葉を聞き、広場にいた狐が珠に向かって殺到する。もう珠に戦う力など残っていない。後はなぶり殺しにされるだけ……。
「珠に近寄るな!」
縛られていたはずのクルトが、珠の前に飛び出し、腕を広げてそう叫んだ。その腕には、途中で拾い上げたクルトの剣が握られていた。
「貴様! 縛られていたはずだろう!」
クルトの脇にいた妖狐がそう叫んで、クルトを取り押さえようと走ってくる。
「ああ! クルトさん! 違います! 私はそんなつもりで縄を切ったんじゃありません!」
実はさっき珠がクルトに抱きついた時、こっそりとクルトの縄を切ったのだ。
『逃げてください』
離れる時小声でそう呟いた。
残酷な五千年狐のことだ。口では助けると言っていても、『人間はクルトのことを指して言ったのではない』とか難癖を付けて約束を反故にする可能性があった。だから珠は念のために縄を切っておいたのだ。
クルトはクルトで、縄を切られたのには気付いたが、珠が勝つのが一番二人で帰れる可能性が高かったため、飛び出すのを我慢していた。しかし五千年狐が約束を破った今、それを我慢する必要はない。
「少年よ。お前はこの妖狐の大群を前に、勝てるつもりでいるのか?」
五千年狐がニヤニヤと笑いながらそう告げる。
「逃げてくださいクルトさん。私が死ねば済むことです」
「珠……君は気絶していたから覚えていないかもしれないけど……。僕はあの時誓ったんだ」
そう言ってクルトは両手で剣を握る。それは決して逃げないという意思表示。
「見捨てるつもりなら最初から見捨てろ! 一度助ける仕草を見せて期待させておいて、結局助けないのが一番残酷なんだ! 僕はあの時珠を助けると誓った! だから見捨てない! 相手が妖狐数千だったとしても僕は逃げない!」
「クルトさん……」
私は……あなたが好きです。
その声はクルトに届いただろうか。周りの喧騒にかきけされてしまったかもしれない。だって、本当に広場中の妖狐が迫ってきていたから。
「傑作だな!」
五千年狐がそう言って拍手をする。
「妖狐と人間の友情! 愛情! 実に傑作ではないか! 妖狐にとって人間は騙し、化かし、恐怖を与える対象でしかない! それなのに共に生きたいなどと言い出す妖狐がいる。しかもこの少年はそれを認めた! これ以上面白いことがあるか?」
そう言って五千年狐は手を叩いて笑う。周りの狐達はどうすればいいか分からず、固まっている。
「すまぬ、数十年ぶりに大笑いしてしまった。ところで黒狐。私は『重罪人は死罪』と言ったが、そもそも重罪人などいなければ、あれは何の意味もない判決だと思うのだが?」
黒狐が静かに五千年狐の顔を見つめ、その意図を理解するとやれやれという風に首を振った。
「まったくその通りですね。この場に居るのは、修行を逃げ出した落ちこぼれと、命知らずな人間が一人だけ。この場で死罪になる者はいないかと思います」
五千年狐はにやりと笑ってクルトと珠に振り返った。
「そう言う訳だお前達。被告無き裁判に付き合ってもらって感謝するぞ。おい、誰かこの者達を国の外まで案内してやれ!」
「あ、ありがとうございます! 五千年狐様!」
珠がそう言って頭を下げる。クルトはしばらく何が起こったのか理解できず、目を白黒とさせていた。
* * *
「さて……」
五千年狐が傷ついた赤狐の傷口を指でなぞると、たちまち傷が塞がった。
「ありがとうございます。五千年狐様」
赤狐はあっさりと立ち上がって五千年狐に頭を下げる。
「なあ、赤狐。お前まだ戦えただろう?」
五千年狐が赤狐を睨みつけながらそう言った。
実は赤狐はまだ戦う力は残っていた。しかし、油断していて珠の攻撃を見破れなかったのは事実。赤狐は珠に感服し、あのまま倒れ込んだのだ。
「楽しませろと仰せでしたので、私なりに気を使ったつもりでしたが、そのせいで退屈させてしまったというなら申し訳ないことをしました。どうぞなんなりと処罰を」
「ふ、悪びれもせずに堂々とのたまう。このままお前を拷問にかけたとしても反省はすまい。そこが気に入っているのだがな」
そういって五千年狐が笑う。
「しかし……驚きましたね」
金狐がそう言った。
「私があの二人を捕えた時、私は本当に人間だと思い込んでしまいました。どれだけ修行しても、妖狐が化けているならそれなりの匂いがするはず。それをまるで感じさせないとは……」
「少年にばれたくない一心で、人化の術だけが磨かれて行ったのだろう。金狐をあざむくとはな。人化の術に限れば、あの白狐は私を凌ぐかもしれぬ」
五千年狐がそう呟いて、周りの狐達は『また御冗談を』と口々に言ったが。五千年狐がどれだけうまく人間に化けたとしても、並みの妖狐ならいざ知らず、金狐をあざむくことなどできないだろう。それだけ、珠のクルトを思う気持ちが強いということか……。
「それにしても、気になるのはあの少年の方……」
そう言って五千年狐は、クルト達が居なくなった方向をぼんやりと見やった。
「少年ですか? あの少年が何か?」
「私には白狐より、あの少年の方がよほど人間の気配がしなかったがな……」
その言葉の意味を、周りにいた妖狐達は理解できなかった。
* * *
フィルは妖狐達が解散した広場を、静かに眺めていた。
結局珠とクルトはどちらも死なずにことは終わった。それが喜ぶべきことなのか、つまらなく思うべきことなのか分からない……。
「つくづく……つくづく私の思うようにはなってくれないのね……」
フィルはそう呟いて、どこかへ消えた。
珠編?終了。もっとぱっぱと進むつもりだったのですが、実際に書くとどうしても長くなってしまいました。
次回以降の更新は、諸般の事情により遅れると思いますが、それでも目標である、夏までには終わらせるつもりです。