第十七話『再会』
森の中は非常に騒がしかった。百匹以上の妖精が飛び交い、魔力で作った玉を何かに向かって投げつけているのだ。
それを見た周りの動物達は、妖精達は一体何と戦っているのだろうと訝しんだ。妖精を喰らう魔物でも現れたのだろうか?
しかし妖精達が戦っているのは魔物ではない。妖精達が戦っている対象は一匹の妖精だった。
「これでも食らえ!」
「そんなんじゃフィルには当たらないわよ! 協力して追い込むの!」
妖精達が必死に攻撃をしているのに、フィルはクルリクルリと旋回しながらそれを避ける。表情には余裕があり、軽く微笑みながら妖精達のいる方を指さした。
「とにかく動きを止めるのッ! じゃなきゃ近づいて……ひッ!」
前戦で指示を飛ばしていた妖精の数センチ横を、強力な魔力球が通り過ぎていく。
「動きを止めているのはあんた達の方じゃない。そんなんじゃ的にしかならないわよ?」
フィルはゆっくりと旋回しながらあちこちに指先から魔力球を撃った。そのどれもが、隠れているつもりの妖精達の数センチ横を通り過ぎていく。フィルはわざと外しているのだ。お前達の隠れている場所などお見通しだと教えるために。
それをされた妖精達は戦意を喪失し、その場にへたり込んで行く。自分達は打ち取られたのだと言うことを自覚してその場に座り込む。
「三十番隊と四十番隊でフィルを正面から攻撃して! その間に五十番隊から七十番隊でフィルの後ろに回り込むの!」
司令官役になった妖精が、周りの妖精達に指示を飛ばす。
指示を出された妖精達は、互いに頷いて森の中に向かっていく。
「八十番隊……はやられたんだっけ? 九十番隊に今のフィルの位置を調べさせて。零番隊は引き続きこのあたりの警戒をお願い」
全員への指示を出し終えて、司令官妖精はその場に座って息をつく。すると、一匹の妖精が近づいてきた。
「ねえ、司令官。私は何番隊だったっけ?」
「……もう! あんたは余ったから番号フリーダム。自由に戦いなさいって言ったでしょ?」
「ああ……そうだったね。でも番号フリーダムだなんて、エースみたいでカッコいい!」
フリーダム番号の妖精が、そう言って照れたように頭をかく。
「馬鹿ッ! あんたは命令を理解できる脳味噌が無いから自由番号なのよ!」
「な、何だよそれー!」
「……楽しそうなことをやってるじゃない」
司令官妖精とフリーダム妖精が言い争いをしていると、森の中からフィルが現れて司令官妖精をにやりと見た。
「フィルッ! いつの間に!」
フリーダム妖精が慌ててフィルに攻撃をしようとすると、フィルはすかさずその妖精を蹴飛ばして、司令官妖精に迫る。
司令官妖精は狙いが自分に移ったことを理解して逃げ出そうとしたが、あっけなくフィルに突き飛ばされ、馬乗りに乗られてしまう。
「うわッ! ちょ、ちょっと待って!」
司令官妖精はなんとか抜け出そうともがくが、フィルはゆっくりと指を司令官妖精の額に向けて……。
「バーン!」
と言った。
フィルがその言葉を言った瞬間。司令官妖精の体から力が抜けた。
「……ちぇ! 完敗よフィル。トロフィーでもいる?」
負けたことを……祭りの終わりを悟った妖精は、つまらなそうにフィルの顔を見上げながらそう言った。
もうフィルが妖精達と乱戦を始めてから一ヶ月が経っていた。その間にフィルは、複数相手の戦いに慣れ、魔力も他の妖精に比べて圧倒的に強くなっていた。
「トロフィーはいらないわ。じゃ、私の王子様が待ってるからもう行くわね」
フィルはそう言って飛び立ち、途中で妖精達に振り返った。
「ありがとう! 帰ってきたら何かお礼するわー!」
最後にそう言い残して、今度こそフィルは森の中に消えていった。
「負けちゃったわねー」
しばらくすると、森の中から妖精達がぞろぞろとやってきた。
「しかし、最後の方は本当に百匹全員で戦ってたのに、倒せないなんて……」
「それだけあの人間のことが大事だったんでしょ。私達には理解できないけど」
妖精達はその場に座り、祭りの反省会と言う風に雑談を始めた。
「私達もフィルの修行に付き合わされて、だいぶ強くなったわよね。狼や狐みたいに一勢力として名乗りを上げてみる?」
「冗談でしょ? 狭い縄張り守るために命がけで戦うなんて御免よ。私達は適当に生きて、適当に死ぬのが一番似合ってるの」
「だって?」
「私達は?」
「「「祈りの森の妖精だから! キャハハハハ!」」」
最後に妖精達は声を合わせて爆笑し、森の中に消えていった。
* * *
珠は道場の中で木刀を構え、空弧と対峙していた。依然と全く同じ光景。しかし、珠は以前のように怯えたような表情はしていなかった。
「行きます」
「……来い」
二人は静かに言って、試合が始まった。
仕掛けたのは珠だった。数メートルの間合いを一気に詰め、空弧の頭を狙って木刀を振り下ろす。空弧は木刀で珠の攻撃を受け止めながら、珠の無防備になっている脇腹に蹴りを入れる。
珠は蹴られるままに吹き飛ばされるが、胸元から数枚の紙を取り出してそれに念を込めてクナイに変える。
「ハッ!」
クナイを空弧に向かって投げる。空弧はそれを器用に撃ち落とした。
「ん!」
珠はクナイを投げると同時に体勢を立て直し、すぐさま空弧に向かって切りかかった。
今度は大振りをせず、空弧と木刀で打ち合う。しかし剣術の腕はまだまだ空弧の方が上、このままではいずれ打ち負けてしまう。
「やぁああ!」
珠は空弧と間合いを取って床を拳で割って破片を巻き上げる。巻き上げられた破片は、全て手裏剣やクナイとなり、空弧に向かって飛んで行った。
空弧は後ろに下がりながら上着を脱ぎ、その上着を強く振った。すると今度は珠に向かって強い風が吹き、刃物は珠に向かって迫る。
「クッ!」
珠は少し焦ったが、すぐに右腕を刃物に向かってかざした。
「燃え尽きろッ!」
珠がそう叫ぶと、珠の手のひらから炎が放出され、刃物を焼きながら空弧に迫る。
「ふん」
空弧はその炎を、木刀を一振りしてかき消す。そしてすぐさま後ろを振り向いて木刀を振り下ろした。
「え? キャッ!」
空弧の振り下ろした木刀は、珠の肩に命中した。打たれた珠は手に持っていた木刀を取り落とし、その場にしゃがみこむ。
「炎を目くらましに使ってすぐさま後ろに回り込む素早さには感心するが、何度もやっていれば見破るのはたやすい」
空弧が木刀の切っ先を珠の喉元に付きつけてそう言った。もう何十回目の敗北か分からない。
「……結局最後まで一本取ることはできませんでしたね」
珠は落ち込んだ様にそう言って立ち上がる。
今日は修行の最終日。クルトと再会することができる日だ。この一ヶ月、珠は驚くほどのスピードで成長した。
剣を完全に変化させることはもちろん、炎を生み出す術や、風を操る術も使えるようになった。
しかし、結局空弧には及ばない。今のが最後の試合だった。せめて空弧から一本取ってからクルトに再会したかったが、それは結局叶わなかった。
「さあ、そろそろ行け。今日の正午に広場で集合する予定なのだろう?」
空弧はそう言って後ろを向き、片付けを始めた。そのそっけないそぶりを、珠は少し寂しく思いながら頭を下げる。
「……お世話になりました。弥師匠」
言いながら、結局『師匠』を外すことはできなかったなと珠は思った。それも仕方ないだろう。空弧は珠の数百倍の年月を生きているのだ。珠がそう簡単に倒せるはずが無い。
珠は道場の入口に向かってとぼとぼと歩いて行く。
「おい、ちょっと待て」
道場を出て行こうとすると、空弧が声をかけてきた。
「なんでしょうか?」
「これからお前がどうするつもりか知らんが、まだ修行をするつもりがあるというのなら、全てが終わった後でまたここに来い。今度は正式に弟子として迎え直してやる」
「……はい! ありがとうございます弥師匠!」
珠は飛びきりの笑顔でお辞儀をしてから、勢いよく道場を飛び出して行った。
「……ふ」
残された空弧は、珠が壊した床を直しながら、右腕に負った火傷を隠して微笑んだ。
* * *
ラルフは不敵に笑いながら周りの狼達を見渡す。どの狼も大きく、呻り声を洩らしながらラルフを睨みつけていた。
しかし、狼達はけっしてラルフに襲いかかってきたりはしない。ここは地面の上だからだ。ラルフに襲いかかってもいいのは、崖を登っている時だけだと命令を受けている。
ラルフはもちろんとして、周りの狼達も体中に傷を負っている。当然だ。かつては登ったことがある崖とはいえ、絶対に落ちることが無いという訳ではない。ラルフを崖から叩き落とす途中で、自らが落ちてしまうことだってもちろんある。
「もう一度お相手願おうか」
ラルフがそう言って崖を見上げる。その仕草を見て、周りの狼達も身構える。
ラルフは一呼吸置いてから崖を登り始めた。少し遅れて、他の狼達も崖を登り始める。
崖を登るルートは数多くある。全てのルートの数は軽く万を越える。
最初の足場から次の足場へ、その足場からまた次の足場へ、ラルフは巨大な体で次々と飛び移って行く。
周りの状況に気を配るのも忘れない。最短ルートは大体分かっている。しかし、それにこだわれば、足の速い狼に簡単に先回りをされてしまう。確実に……なるべく妨害を受けないルートを見抜き、隙なく飛び移る。
ある足場に飛び移った時、ラルフは足を止めた。迷ったのではない。今次の足場に飛び移れば、どの足場に飛んでも先回りされてしまい、振り落とされる。だから、この足場で他の狼達をある程度落とさなくてはいけない。
「落ちろォ!」
ラルフが足を止めると、すぐさまラルフの右側から登ってきていた狼が飛びかかってきた。
ラルフは冷静に構えてその狼を迎え撃つ。
飛んでいる側は力を一方こうにしかかけられない上に、自分の体を支えることができない。対して、地面に足が付いていれば踏ん張ることができるし、相手の力のかかっている方向を見極めて、反撃することもできる。
しかしそれを見極める時間は一瞬。判断を誤ったり、迷ったりすれば自分の方が落とされてしまう。そして、ラルフはこの一ヶ月の間に、それを瞬時に見極めることができるようになっていた。
「はぁあッ!」
ラルフは飛びかかってくる狼を顎で打ち落とした、そしてすぐに周りに意識を回す。一匹落として安心していてはだめだ、周りにはまだまだ狼が居るのだ。
ラルフが気配を感じて後ろを見ると、二匹の狼が飛びかかってきていた。
ラルフは一匹の狼を前足で突き飛ばし、二匹目の攻撃は次の足場に飛び移ってかわした。
「どうした? これで終わりか?」
ラルフがそう叫んでも周りの狼は襲いかかってこない。怯えているのではない、隙を窺っているのだ。今のラルフには何処から飛びかかっても攻撃を避けられてしまう。安っぽい挑発に乗って攻撃を仕掛ける方が、よほど小物のすることで馬鹿だ。
ラルフは周りの狼が挑発に乗らないことを理解すると、すぐさま崖を登り始めた。周りの狼達もそれに続いて崖を登って追撃する。
ラルフはそれからも狼達の攻撃を避けながら崖を登った。そしてやがて……。
「ハァハァ……どうだ長……。登りきってやったぞ……」
目の前には老いぼれた巨大な狼、現在の狼達の長が居た。ラルフの体は傷つき、血があちこちから流れている。後から登ってきた狼達も同様だった。どの狼も、自分の傷口を舐めて血を飲んでいる。
「フフ……ぎりぎり間に合わせたな。今日が最後の日だ。後ろを見てみろ」
長に言われて、ラルフは後ろを振り返った。するとそこには、広大な緑の森が地平線まで広がっており、涼しげな風が吹いてラルフの傷を優しく撫でた。
「歴代の幹部達が、この崖を登りきった時に最初に見る光景がこれだ。幹部になろうとする狼は、この 光景を見るために崖を登り、この光景を見て自分は登りきったのだと自覚する」
「俺は幹部になるつもりなどない。だが、この一ヶ月世話にはなった。何か礼ができるというならするつもりだ」
「礼など要らん。『来る者は拒まず』それが我々の掟だ。行け、お前が崖を登った理由は他の狼達とは違うのだろう? その力を存分に振るってこい! ……そして、いつでも帰ってくるといい」
ラルフはそれに「ふん!」と鼻を鳴らして歩きはじめる。とりあえず、クルトと珠が消えた妖狐の国への入口まで行ってみよう。
「ちょっと待て」
立ち去ろうとするラルフを、長が呼びとめた。
「なんだ?」
「今仲間のためにその力を貸そうとするお前に、一つ自信を与えてやろう」
「……自信?」
「幹部になるためにはこの崖を登りきることが条件だ。それ以外に条件はない。つまり、ただ登りきればいいということだ。他の狼達からの妨害をかいくぐる必要など本来ない」
ラルフは他の狼達を見回した。どの狼達も、ニヤニヤと笑っている。
「誇りに思うがいい。お前は他の狼達がやったこともないことを最後までやり遂げたのだ」
「………ちッ!」
ラルフは顔が熱くなることを感じて、その場から駈け出した。なんだか騙されて悔しい様な、嬉しい様な、良く分からない気分だった。
後に残った狼達は、ラルフが居なくなった方角を見つめていた。
「さて、怪我をした者達は湖に集めさせよ。治療しなければならん」
長はそう言って歩き出した。
「ラルフは……戻ってくるでしょうか?」
一匹の幹部狼がそう問いかけた。
「さてな? もう二度とここには来ないというなら、それもあいつの自由だ。我々の掟は『来る者は拒まず、去る者追わず』が原則だ。あいつは束縛されることを嫌うようだからな」
長は立ち止って空を見上げた。
「しかし、その束縛を嫌うラルフがあそこまでこだわるとはな。その人間にも一度会ってみたいものだ」
長はそう呟いてフッと笑い、今度こそ湖に向かって歩き始めた。
* * *
「ふむ、これなら森の中で無様に動けなくなるということもなかろう」
五千年狐はそう言って妖気の放出を止める。今部屋の中は三層のかなり深いところの魔力と同じか、それ以上の魔力で満たされた状態だ。その中でもクルトは気を失ったり、気分が悪くなったりすることはない。
「ありがとう五千年狐。……今更だけど、妖気を放出し続けて疲れたりしないの?」
五千年狐はクルトが部屋に居る間はずっと妖気を放出していた。クルトが苦しむ姿を見るのを楽しんでいるようだったから、今まで気にしたことはなかったが、かなり疲れてもいいはずだ。
「妖気だけは有り余っているのでな。使う機会もほとんどないゆえ、たまにこうして放出せねば勘も鈍る」
五千年狐は本当に疲れてはいないようだった。手を口に当ててクスクスと笑っている。
「しかし、お前は仲間に恵まれたな。どんなに親密な関係だったとしても、共に死んでくれと言って頷いてくれるものなどそうはおるまい」
「え、僕は共に死んでくれなんて言ってないよ? 仲間に恵まれたっていうのは僕もそう思うけど……」
クルトは、五千年狐が唐突に言った言葉に首をひねる。
「直接は言っておらぬな。お主には自覚もあるまい。だがお前は言っているのだ。『共に死んでくれ』とな。三層は森の中では一番危険な場所だ。お前は話に聞いて知っている程度だろうが、実際に森に住んでいたお主の仲間達はそれをよく知っている。死ぬことすらあり得る場所だということを」
「………」
確かに。自分は意識が朦朧としていたから良く覚えていないが、魔物や悪魔の出現率や力の強さは三層が群を抜いて高かった。前回は運よく逃げられたが、死んでいたとしてもおかしくはなかったのだ。
「呑気な奴め、今頃気付いたか? 少し遅すぎる気もするが、気付いたのなら覚えておいてやれ。お主は仲間達の命を借りて……又は犠牲にして、自分の願い事を叶えようとしているのだということをだ」
『犠牲』という言葉がクルトの胸を締め付けた。自分はエリザベートの命を助けるために宝石を求めている。しかし、そのための生贄として仲間達の命を借りているのだ。
命の重さは数ではないが、一つの命を……しかもある意味無くなって当然ともいえる命のために、三つの命を生贄に差し出しているのだ。
クルトは今まで『仲間がいてくれるのは寂しくなくていいな』程度にしか考えていなかったが、共に森の中を進むということは、仲間達の命も危険に晒すことになるのだと初めて気づいた。その事実は重く、クルトの心にのしかかった。
五千年狐は、そんなクルトを見てクスリと笑う。
「さて、卒業試験だ」
* * *
妖狐の国の中央広場。珠はそこでクルトのことを待っていた。
道場を飛び出して、一目散に駆け出して広場にやってきたが、少し時間が早かったのかクルトの姿はなかった。
仕方が無いので、その場にちょこんと座ってクルトがやってくるのを待つ。しかし、いつまで待ってもクルトはやってこない。空を見上げて太陽を見れば、とっくに正午は過ぎているようだった。
(遅すぎるのでは……?)
今までの厳しい修業のせいで忘れていたが、クルトは本当に無事なのだろうか? クルトは人間で、ここは妖狐の国だ。安全が保障されているはずが無い。
『もしもの時は、あんたがクルトのことを守りなさいよ』
フィルの言葉が珠の中で響いた。自分はクルトの護衛を任されていたはずじゃないか? 空弧の言葉ですっかり安心していたが、ここはクルトにとっては敵地と同じ。自分がしっかり守る必要があったはず。それなのに……。
「珠ぁー!」
「! クルトさん!?」
自分の名前を呼ぶ懐かしい声を聞き、珠は顔をあげて声の主を探す。すると、遠くの方から手を振りながらこちらにやってくるクルトの姿を見つけた。
「久しぶりー! 珠元気に……うわぁ!」
クルトの姿を見つけるなり、珠は涙を零しながら駈け出してクルトを抱きしめる。直前まで不安でいっぱいだったため、クルトの姿を見つけた時の喜びは非常に大きかった。
「ああ、良かった! クルトさんが無事で本当に……」
珠はクルトの頭を抱きしめて力いっぱい抱きしめる。
「た……ま……苦し……」
急に抱きつかれたクルトは、避けることもできずに珠に捕まった。いつもの通り口と鼻は珠の胸でふさがれて息ができない。あんまり嬉しそうな声を出しながら抱きしめてくるので、無理やり抜け出そうとするのも気が引けた。
「あ、ご、ごめんなさい! あんまり嬉しかったものですから……」
珠はようやく自分がクルトを強く抱きしめすぎていることに気付いて離れる。
そして、クルトのことをあらためて見てあることに気付いた。
「クルトさん! その両手の包帯はどうしたんですか!?」
クルトは両方の手のひらに包帯を巻いていた。その包帯の量から、かなりの怪我をしているように見えた。
「ああこれ? ちょっと火傷しちゃっただけだよ」
「火傷って……でもこんなに……」
クルトの両手に巻かれている包帯の量は、どう見ても『ちょっと』ではない。料理をしていてうっかり火傷をしてしまったにしても、両手を同時に火傷するなどそうそうあることでは……。
「大丈夫だって。それに、怪我の量で言ったら珠の方が多いよ」
珠は体中に火傷や切り傷を負っていた。クルトの目立った怪我と言えば両手くらいだが、細かい切り傷の数で言ったら珠の方が圧倒的に多い。
「この傷は大したことありません。どれも浅い傷ですし、薬草も塗ってありますからすぐにふさがります」
「そうなんだ。じゃあ大丈夫だね」
「あ、痕も残ったりしませんから! 綺麗に全部治りますから!」
「う、うん……そう?」
珠が詰め寄ってきたことに驚き、クルトは少したじろいだ。
「これ、白狐。怯えているではないか。男を靡かせたいなら、少しそっけないそぶりをするくらいがちょうどよいのだぞ?」
「あ、五千年狐」
「ご、五千年狐様!?」
いつの間に……と珠は思ったが、周りの狐を見ると皆跪いている。どうやらクルトと一緒に来ていたらしい。クルトばかり気にかけていたから気が付かなかった。
珠は慌てて他の狐と同じようにその場に跪く。
「私の存在に気付かぬほどに気を取られるとは、お主はよほど愛されていると見える」
五千年狐はクルトに向かってからかうようにそう言った。クルトは不思議そうに首を傾げるだけだが、跪いている珠の方は顔が真っ赤だった。
「さて、お主達はこの一月の間良く働いてくれた。褒美として、約束の話を教えてやろう」
いよいよ本題……ケーニッヒの弱点。それを知るために一ヶ月の間、妖狐の国で過ごしてきたのだ。
「白狐。お主はケーニッヒの体に刀を突き刺し、腹から心臓まで切り上げたと言っていたな」
「はい。確実に心臓がある場所まで切り上げました。ですが、すぐに傷が塞がってしまって……」
「フフ、そうだろうよ。何しろ、ケーニッヒの体の中には心臓はないのだから」
「心臓が……ない?」
クルトは口に出しながらどういうことかよく分からなかった。悪魔と言え心臓はあるはずだ。悪魔の場合心臓と言うよりは悪魔の核だが、これは悪魔の力の源であり、それを失えば死んでしまうはず。
「正確には身体の中にはない。奴は自分の体の中から核を取り出し、三層の中のある場所に隠した。その場所の周りには強力な魔物達に護衛をさせている。悪魔に護衛させると、裏切られる可能性もあるからな」
力を持った悪魔は魔物を従えることができるようになる。力が強くなればより強い魔物を従えることができ、他の悪魔に優先して魔物に命令できるようになる。そして、一度従った魔物は裏切ることはない。
「並みの悪魔ならば、心臓を砕かずともある程度身体を砕けば死んでしまうが、あそこまで力を付けた悪魔を殺すには心臓を砕くほかない」
「質問があります」
珠が顔をあげて五千年狐を見上げる。
「なんだ? 白狐」
「そこまで厳重に警備してあるというなら、他の悪魔もその存在に気付いているはずです。なのに、なぜその場所を襲わないのでしょうか?」
悪魔達はケーニッヒの存在を邪魔に思っている。だから隙あれば殺してやりたいと考えているはずだ。そこまで仰々しい護衛を配置しているというなら、『何かある』ということは簡単に想像がつく。なぜそこを襲撃しようとしないのか?
「良い質問だ。他の悪魔達が反乱を起こさないのは、そのように強力な魔物を配置して守らせている場所が複数あるからだ。そのうちのどれかに心臓があり、その他はすべてフェイク。その上、不定期に場所を移動させているらしい。だから他の悪魔達は手を出せないのだ」
ケーニッヒは非常に慎重だ。そこまで厳重な警備を敷けば、他の悪魔に感づかれることなど百も承知している。だから、そのような場所をいくつも作り、悪魔に目標を定められないようにしている。
しかも、他の悪魔達は、ケーニッヒが邪魔だという考えは一致しているものの、だからと言って協力したいとも思っていない。だから、怪しい場所を集団で襲うような作戦を取ることができない。
必ず裏切るものが出てくる……。そしてケーニッヒに処刑されるところを指さしながら見て笑うのだ。そういう思考に囚われてしまうから協力ができない。
「今心臓が隠されている場所は教えてやるが、お前達には必要ないかもしれぬな」
こんな森の中で、方角を言われたところで正確にその場所までたどり着くことは難しい。だがクルトにはコンパスがある。求める場所を指し示す魔道具が……。
「私がしてやるのはここまでよ。後はせいぜい踊るのだな」
クルトと珠は、その言葉にこくりと頷いて妖狐の国を後にした。
* * *
フィルとラルフに再開するには時間がかかると思っていたが、妖狐の国を出るとそこにはフィルとラルフが待っていて、クルト達は一カ月ぶりに再会した。
三層に入るのは明日にすることにして、今日は野宿できる場所を探すことにした。
そして、夜になり……。
「……えい!」
珠が良く燃えるように木の枝を組み、軽く腕を振ると木の枝に火が付いた。
「おお、便利じゃない。ただの天然ドジから随分と成長したものね」
フィルが勢いよく燃える焚火を見ながら、感心したようにそう言った。
珍しく褒められた珠は、照れたように頭をかく。
「いえ、ずっと修行していましたからこのくらいは……」
「これからは天然ドジじゃなくて、マッチ棒って呼んであげるわ」
「ま、マッチ……」
珠は結局落とされて、しゅんとしてしまう。
「ははは、フィルは相変わらずだね。この一ヶ月の間何をしてたの?」
クルトが鍋を焚火の上にのせながらそう言った。
「別にー? 適当にふらふらしながら過ごしてたわ。気の上で昼寝したり、花の蜜を集めて遊んだりしてね」
(嘘だな)
ラルフは、肘をつきながら適当に答えるフィルを見ながら心の中でそう呟いた。
(フィルから感じる魔力が数段強くなっている。この一ヶ月何をしていたのか知らんが、よほどの生活を 送っていたのだろう。珠にしても同じだ。フィルはさらりと流したが、あのように妖気を自在に操るなぞ、一か月前にはできなかったはず。あの体の無数の傷は修行の激しさを物語っている)
珠の体には傷がいくつもあった。どれも塞がりかけているが、かなり新しいと思われる傷もいくつかある。ぎりぎりまで修行をしていた証拠だ。
フィルの体には目立った傷はない。しかし、わざと見せつけているのか知らないが、その体から溢れ出る魔力の強さは、一月前とは比べ物にならないくらい強力だ。
(まあ、それは俺も同じことだがな……)
ラルフ自身もこの一ヶ月の間厳しい訓練を積んできていた。その体中に付いた痛々しい傷を見た時、クルトが心配して駆け寄ってきたくらいだ。
(この中で目立った変化が無いのはクルトか。変わったと言えば両手に巻いている包帯くらいだが、この一ヶ月妖狐の国で過ごしてきたというのだから、魔力の問題くらいは解決してきたのだろう)
クルトには魔力や妖気と言った分かりやすい力の変化を知るすべがない。しかし、三層に漂う魔力のことを話題にしないあたり、その問題は解決したということだろう。ならば後は無事に宝石まで辿りつけるかということが問題になる。
「森の中にある石像にねー。本当にそこにあの糞悪魔の心臓があるの?」
フィルが、クルトが五千年狐から聞いてきた話を胡散臭そうに値踏みする。
「僕は本当だと思うな。五千年狐は僕のことを殺そうと思えば簡単に殺せたわけだし……」
「いざ石像まで行ってみたら心臓なんてなくて、慌てふためいているところを殺されるのを鑑賞しようって魂胆じゃないの? その情報が間違ってたら私達全員死んじゃうのよ?」
「う……」
フィルは軽い冗談のつもりで言った言葉だった。しかし、クルトはその言葉を真剣に受け取って、俯いてしまう。
「だ、大丈夫ですよ! 五千年狐様は力を貸してくださる時はとことん協力してくださる方です! ……たぶん」
珠はクルトを元気づけようとしたが、自信を持っていうことはできなかった。五千年狐は残酷なことで有名。その現場を自分も見たことがある珠は、五千年狐が正しいと言いきることはできなかった。
「何、その情報が嘘だったなら徹底的に暴れればいいだけの話。奴の体を木っ端みじんに砕けば、本当に心臓が身体の中にないかは分かる。それが確実になれば、後はクルトのコンパスで探せばいい」
ラルフのその言葉に、クルトは腰にかけてあるコンパスを取りだした。国を出てから、ケーニッヒの心臓の方角を教えてくれと言ったら、コンパスはある方向を指し示した。コンパスは、三層の方角を指している。
「その針の刺す場所には鬼が出るか蛇が出るか……。楽しみね」
フィルはそう呟いて愉快そうに笑う。少し緊張して、厳しい表情を浮かべている珠とは正反対だ。だが珠の顔に怯えはない。クルトのために命がけで戦う覚悟はとうにできている。それは珠だけではなく、フィルとラルフも同じだろう。
しかし、クルトだけは少し不安そうな表情を浮かべて仲間達を見つめていた。
* * *
クルト達は食事を終え、明日の早朝出発するために早々と寝た。
仲間達が寝静まったのを確認してから、クルトだけがこっそりと起き上がった。この森に旅立った時、エリザベートを起こさないように行動したのと同じように……。
「……ごめん」
クルトは静かに身支度をして、消え入るような声で仲間達にそう呟いた。そして、一人森の中に消えていく……。
クルトは一人で行くことにしたのだ。
『お主は仲間達に、共に死んでくれと言っているのだ』
そんなつもりはなかった。皆と一緒に居ると楽しい。皆と一緒に居ると寂しくない。ただそれだけだったのだ。
しかし五千年狐に指摘されて、自分は仲間達の命を危険にさらしていることに初めて気づいた。
本来なら、仲間達はこんなことをする必要などない。ただクルトが願いを叶える宝石が欲しいだけなのだ。仲間達には何の利益もない。ならば命を危険にさらす必要などないではないか。
三層に行くのは自分一人でいい。死ぬなら自分一人だけで死ぬ。仲間達に共に死んでくれなどと言う必要はない。
「これで……良かったんだ……」
今日が最後の夜になるかもしれない。そんな夜に大切な仲間達と一緒に過ごせただけで満足だ。
「……暗いな」
クルトは立ち止ってコンパスを見ようとしたが、森の中があまりに暗くてよく見えない。気が御茂っているこの場所では月や星の明かりも届かない。森の中はこんなにも暗いものだったのか……?
「困っているみたいね。明かりが欲しい?」
「ああ、ありがとうフィル……。って、フィル!?」
唐突に目の前の木の枝からフィルに話しかけられて、クルトはその場でのけぞって驚き、尻もちをついてしまう。
「あははは、何その無様な格好? 私達のことを出し抜こうとなんてするからよ! バーカ!」
フィルは楽しそうに笑ってクルトを指さす。
「私達?」
「クルトさん!」
突然森の中から珠が現れ、クルトの体に飛びつくように抱きついた。
「珠! どうして……」
「クルトさん、私のことを見捨てないでくださいッ!」
珠は力強くクルトのことを抱きしめる。
「な、何言ってるのさ。僕が珠のことを見捨てるわけ……」
「今見捨てようとしています! 私はクルトさんがいなければ死んでいました。私が力を付けたのは皆クルトさんのためです。そのクルトさんに『お前はいらないと』言って置いて行かれたら、私はどうすればいいんですか? 生きる目的を失った私にどうしろと……?」
珠は半狂乱になってクルトの体を掴む。クルトが珠の肩に手を載せると、飼い主に捨てられそうになっている子犬のように震えていた。
「珠のことがいらないなんて、そんな訳ないでしょ?」
「なら置いていかないでください! 見捨てないでください! お願いですッ!」
珠はさらに力を込めてクルトの体を抱きしめた。
「ちょっと落ち着きなさいよ。話がちっとも進まないわ」
フィルが珠の頭に乗り、珠のことをたしなめる。珠はそれでようやく静かになった。
「はぁ……。あんたが一人で行こうとするんじゃないかっていうのは分かってたわ。夕飯の時も少し不安そうな表情をしていたし、五千年狐に何か吹き込まれたの?」
フィルの指摘は当たっていた。何もかも見透かされていたのだ。仲間の中では一番付き合いが長いせいかもしれない。だが……。
「……そうだよ。でも、吹き込まれたんじゃない。教えてもらったんだッ! 僕は皆の命を犠牲にして宝石を手に入れようとしているんだ。僕は……皆のことを利用したくなんてない……」
「……ハァ」
フィルがやれやれという風に首を横に振る。想像通りだという表情だ。
「あのさぁクルト、私達はあんたに『付いてきてください』って頼まれたから一緒に居るの?」
「え……?」
クルトはフィルの言葉に首を傾げる。
「私は勝手についてきただけだし、珠は『一緒に行かせて下さい』ってむしろ頼んだ側じゃない。そこの狼は自分探しのためだっけ?」
クルトが後ろを振り向くと、ラルフもこっちを見ながら微笑んでいる。
「誰もあんたに頼まれて一緒に居るわけじゃない。私達はあんたと一緒に居たいから付いてきたの。だからあんたが気に病む必要なんてないのよ」
きっかけは確かにそうだった。最初の理由なんてそんなもの……しかし……。
「でも……でも僕の願い事はすごく個人的なものなんだッ! 皆には全く関係ない願い事……。それのために皆を危険な目に合わせるなんて……」
「なあクルト……。願い事なんて皆自分のためにするものなんだぞ?」
黙って見ていたラルフが声をかけてくる。
「もしかしたら他の誰かの幸福を願うこともあるかもしれない。しかし、そう願うのは、それが叶えば自分が幸福な気持ちになれるからするのだろう? 俺達に全く関係の無い願い事……お前がそう言うなら確かにそうなのだろう。だが、それを分かった上で俺達はお前に付いてきたのだ」
ラルフがそう言いきった時、珠は抱きしめる力を強くした。珠も同じ気持ちなのだと伝えるために。
「だいたい。個人的じゃない願い事ってどんなものよ?」
フィルにそう指摘され、クルトは少し考えてから答えた。
「世界平和……とか?」
「ぷッ! ク……クク……ぷはははは! アハハハハッ!」
クルトの答えを聞いた瞬間、フィルは噴き出して笑い。腹を抑えながら転がりまわる。真剣に答えたつもりだったクルトは、顔を赤くして俯いた。
「クルトさん……。クルトさんはただのクルトさんなんです。伝説の勇者でも、宗教の神でもない。だから、他の人ではなく、自分のためだけの幸福を願ってもいいんですよ。世界の平和や、世界の幸福なんて言うものはそれを叶えることを義務付けられた人がやればいいんです」
少し落ち着いた珠が、優しい声でクルトにそう言った。
「ひー! ひー! ああ、おかしい! ありがとうクルト。私はその愉快な答えを聞けただけで満足よ。後は『身長を伸ばしてください』でも、『頭を良くしてください』でも好きに願い事を言いなさいよ」
一通り笑ったフィルが、必死に笑いを抑えながら、からかうようにそう言った。
「ま、また馬鹿にして! 僕はそんな願い事をするつもりは……」
「馬鹿ねー。私達はそんな馬鹿げた願い事だったとしても納得するって言ってるの」
フィルの表情が優しく諭すようなものに変わり、クルトは口を噤む。
「俺も同じだ。お前が何を願おうと好きにすればいい」
「私もです。クルトさんが望むままに……」
ラルフと珠も、クルトがどんな願い事をするとしてもそれに反対しないことに合意する。
「……ありがとう、みんな……」
クルトの瞳から一筋の涙がこぼれおち、運命の日の前夜は更けて行った……。
* * *
祈りの森ルール
宝石まで複数者でたどり着いた場合、その集団に付き一つの願い事しか叶えることはできない。
また、集団で願い事をする場合。その願い事を叶えることに、全員の合意が必要である。