第十六話『一ヶ月と言う時間』
クルトが妖狐の国で働き始めてから一週間ほどが過ぎていた。
クルトは昼の仕事を終え、夜の仕事をするまでの休憩時間を、五千年狐の部屋で過ごしていた。
この休憩時間を剣を振って過ごすこともあれば、五千年狐と雑談をしながら過ごすこともある。今日は、五千年狐と話をしながら過ごしていた。
「どうだ?」
五千年狐が楽しそうに微笑みながらクルトにそう問いかける。部屋の妖気の濃度をあげたのだ。
「う……ぐ……。気持ち悪い……」
クルトは顔を歪めてそう答える。だいぶこの妖気にも慣れてきたが、今でも夜は寝苦しいし、じっとしていても休んだ気があまりしない。
「だが耐えられないくらいではないようだな。少し苦しいくらいでなくては意味が無かろう。気を失うようなら介抱してやる」
五千年狐はクルトの受け答えを聞いて、このままの濃度を維持することに決めたようだ。
「……こんな調子で、魔力に耐性が本当につくのかな?」
「普通の人間なら無理だろうよ」
クルトの呟きに、五千年狐がそう答える。
「妖気が充満している部屋で一カ月過ごすくらいで耐性が付くなら誰も苦労せん。本来なら、数年をかけて訓練しなければならないはずだ」
「えッ!」
五千年狐の言葉にクルトは焦る。いま自分がやっていることを、すべて否定するようなものだったからだ。
「そう困った顔をするな。普通の人間はと言ったろう? お主は三層の中に入って数時間過ごした割には、後遺症が全くない。他の人間より素質はあるはずだ。今まで魔力の高い人間と過ごしてきたのではないか?」
「魔力の高い……あ、お婆ちゃんのことか」
クルトのその言葉に、五千年狐がピクリと反応する。
「心当たりがあるようだな。そのお婆ちゃんとやらは何者なのか?」
「魔女だよ。名前はエリザベート。八年前記憶をなくした僕を拾って、今まで育ててくれたんだ。魔道具を作ることもできる一流の魔女だったらしいよ」
「魔女か……魔道具を作れるということは、魔道錬金術の心得もある。ならば……」
五千年狐はその後考え込んでしまい、今日の夜の仕事はなかった。
* * *
フィルは息を潜め、木の陰に自分を隠して周りの様子をうかがっていた。自分は今敵に狙われている。
しかし身を隠してもあまり意味が無いかもしれない。敵の数は非常に多い。この森に散り散りになって行動し、常にこちらの場所や状況を把握している。
対してフィルはたった一匹だった。一対百の戦争。思いついたのも、実行に移したのも自分だが、少し無理があっただろうか?
と言っても、常に一対百で戦っているわけではない。最初は本当に百匹全員で襲ってきていたが、そのうち効率が悪いことに気が付いたようだ。
百匹全員で攻撃すれば、体力が尽きるのも百匹全員一緒だ。それに、百匹で襲いかかったとしても森の中は障害物が多いし、百匹の妖精が飛び交っている中では、仲間に当たってフィルに攻撃が届かない。
だから妖精達は、百匹の妖精を大体三十匹ずつに分けて、朝昼晩の三交代で攻撃を仕掛けてくるようになっていた。これによって断続的な攻撃が可能になり、数が減ったことによって連携も取りやすくなった。
だが、深夜はどうしても眠たいらしく、フィルは一日に三~四時間程度の睡眠を取ることができる。それ以上寝ていると、妖精達の魔力球のシャワーと言う激しい目覚まし時計に起こされることになるが。
(右の木陰に五匹。左の木陰に六匹。そしてこの木の上から見下ろしてるのが十匹。あたりを飛び回って撹乱しようとしてるのが五匹くらいかしら? 少し足りないわね……)
フィルが妖精達の魔力を頼りに、周りの妖精達の位置を把握しようとする。
数十対一の修行にしたのは、他の妖精達の力が弱いという理由もあるが、多数の敵と戦う訓練を積みたかったという理由もある。
次に三層に入れば、悪魔や魔物が大量に湧いて出てくるだろう。一匹に対して最強でも、数匹になったらあっさり負けてしまうようでは意味が無い。
「隙あり!」
右の方でこちらの様子をうかがっていた妖精が、そう叫んで魔力球を撃ってくる。場所は把握していたし、警戒もしていたから、フィルは危なげなくその攻撃をかわして、こちらも魔力球を撃ち返す。
「きゃーきゃー!」
攻撃を仕掛けた妖精も、攻撃が当たるとは思っていなかったらしい。フィルの打った攻撃を楽しそうに叫びながら避ける。
(痺れを切らして仕掛けてきただけ? もしそれ以外に攻撃を仕掛ける理由があるとするなら!)
フィルは後ろを振り返る。すると右の方に潜んでいた妖精達が、こちらに向かって一斉に魔力球を撃ってきていた。
「見切ったわッ! ……!?」
フィルはこちらに向かってくる魔力球の軌道を見て一瞬戸惑う。どの魔力球も直撃コースではない。このまま動かなければどの攻撃もぎりぎり当たらない。……妖精達の狙いはその戸惑いだった。
「!? しまッ! うぁあ!」
視界に入った魔力球にばかり気を取られ、さらに横から迫ってきていた魔力球に気付くのが遅れた。いくつかの魔力球は防御したものの、腹部と頭にそれぞれ一つ攻撃が当たる。
「やったぁー! クリーンヒットー! キャハハハ!」
「ちぇ、私のは外れちゃった」
遠くの方から妖精達の話し声が聞こえてくる。どうやら狙撃班がいたらしい。今までの攻撃はその狙撃に気付かせないようにするためのものだったのだ。
「……クソ!」
フィルは怒りにまかせて声の方に魔力球を打ち出す。相手の位置もよく分からず打ちだした攻撃は当然当たるはずが無く、フィルの魔力球は明後日の方向に飛んでいく。
「あはははは! 見たぁ? フィルの攻撃全然違う方に飛んでったわよ? ヘッタクソねぇ! その点私の攻撃は……うわぁ!」
大笑いしていた妖精の真横を、フィルの高威力の魔力球が通り過ぎる。軌道からいって、今のはわざと外した攻撃だ。
「あんまり同じ所で馬鹿口開けてると、その口の中に私の攻撃が命中して爆発するわよ。顔の無い死体 になりたくなかったら無様に逃げ回りなさい」
フィルは攻撃を受けても強がって微笑み、まだまだ余裕だという風に毒舌を吐く。
「ふ……ふん! どんなに強がったって、ボロボロになっているのはフィルの方なんだからね! あんまり減らず口叩いてると本当に殺しちゃうから!」
妖精は「ベー」と舌を出し、他の妖精達と共にそこを飛びさる。
「……ふふ、望むところよ。殺すくらいの気持ちできてもらった方がちょうどいいわ」
フィルはそう呟いて自分も飛び立った。
* * *
「五千年狐の本当の名前ってなんていうの?」
ある日、クルトは五千年狐にそうたずねた。
「おや、唐突だな。なぜそんなことを聞く?」
「だって『五千年狐』って、どう考えても本当の名前じゃないでしょ? なら本当の名前はなんていうのかな? って気になってたんだ」
五千年狐。その言葉はどう聞いても本当の名前ではない。名前と言うよりはむしろ、どういう存在かを説明しているだけにしか聞こえない。
五千年生きている狐だから五千年狐。それが真実だろうし、それ以外には考えられない。しかし周りの狐達は、五千年狐と言う。それが本当の名前であるかのように。
「ふむ、名前か……。確かに昔はいくつか持っていたこともある」
五千年狐は手を顎に当て、昔を懐かしむように天井を見上げる。
「いくつか? 一つじゃなくて?」
「長く生きていれば色々な状況に出くわす。そんな時、名前が複数あると便利なこともある。そうよな……本当の名前と言えるものは二つあるぞ。親につけてもらった名前と、人間につけてもらった名前だ」
「人間? どうして人間に?」
「フフ……。私は人間と共に暮らしていた時期があるのだよ」
「えッ!?」
クルトは驚いた。今の五千年狐は妖狐達の頂点だ。国を歩けば全ての妖狐が頭を下げ、他の妖狐達では絶対に敵わないほどの力を持つ、人間とはまるで関係が無さそうな五千年狐が、人間と共に暮らしていたことがあるというのか?
「それはいつの話?」
「私がまだ妖狐になりたての頃の話だ。ようやく火の玉一つ作ることができる程度の妖気しかなかった頃。当時私は、早く一人前になろうと躍起になっていた」
五千年狐は楽しそうに話し始める。
「ある時修行中の妖怪退治の男を見つけた。まだ妖怪退治になりたてで、私でも勝てるのではないかと思い襲いかかった。結果は惨敗。相手に火傷を負わせることすらできなかった」
妖怪退治に襲いかかり、勝負に負けたというなら、当然その妖怪退治は五千年狐を殺そうとするはず。
「死を覚悟した。しかし私は殺されることなく逃げだすことができた。そこまではよかったが、仲間達にはさんざん笑われて、『身の程知らず』と罵られてしまった」
そう話す五千年狐の口調は、相変わらず愉快そうだった。聞いていると、楽しそうな話ではないのだが、長く生きていると変わるものなのだろうか?
「身の程知らずと笑われた私は、その妖怪退治に何度も再戦を挑んだ。しかし結局一度も勝つことができず、いつの間にかその妖怪退治と共に暮らすようになった」
「え、何で自分を負かした妖怪退治と暮らすようになったの?」
「その妖怪退治も『身の程知らず』だったというだけの話だ」
五千年狐はそう煙に巻くように言って、クスクスと笑った。クルトはどこか納得できなかった。
「妖狐になりたての頃っていうと何年前?」
「さてな、五千年狐と名乗り始めてからも随分経つ。漠然とした年数もよく分からんな」
クルトは、その後千年狐の呟きに唖然とする。五千年狐と名乗り始めてからも随分たっているって?
「名乗り始めてから随分って……どのくらい?」
「数百年か数千年か……もしかしたら万単位で経っているかもしれん」
「………」
クルトは目の前の妖狐が一体何歳なのか想像すると気が遠くなり、結局五千年狐の名前を聞いていないことに気付くことはなかった。
* * *
珠はかつての道場の空気を懐かしむ暇もなく、道場につくとすぐに木刀を握らされた。
訳も分からず立ち尽くしていると、空弧も木刀を取っていきなり試合形式の修行が始まった。
……最初の一撃を体に受けた時、懐かしむことができるような思い出を作る暇などあの当時にはなかったということを、珠はまざまざと思い出した。
それから数日間はあの当時よりも激しい修業に明け暮れていた。ひたすら空弧の木刀を避け、受け止め、反撃もできないまま怪我をする毎日……。
珠もこの一ヶ月半ほどの間に、相当剣の腕をあげた。確かに、以前よりはマシに立ちまわれるようになっていた。しかし、空弧の守りを崩すことはおろか、攻撃をまともに止めることすら今だ難しい。
「はぁ……はぁ……」
珠は呼吸を荒くして木刀を握り締め、息一つ乱していない空弧と対峙していた。
今は試合形式の修行の最中。何処からでも打ち込んで来いと空弧が言ってから、十数分は膠着状態が続いていた。
何処に打ち込んだら空弧の隙を付ける? 何処に打ち込んだらまともに立ちまわれる? 何処に打ち込んだら反撃を防げる?
「どうした? そのまま休んでいるつもりか? 来ないなら私から攻撃してもいいんだぞ?」
「!? や、やぁあー!」
空弧の攻撃するという宣言に怯えて、珠は闇雲に木刀を空弧に向かって振り下ろした。
焦りと恐怖から、珠の攻撃にはまるで強さが無かった。
空弧との間合いを考えず、何処に打ち込もうとしているかも分からず、踏み込みは弱く、大振りの割に力も入っていない。
「……ふん」
空弧は木刀で軽く珠の攻撃の方向をずらす。すると珠は身体ごと前のめりになり、バランスを崩した。
「弱い」
空弧はすかさず珠の後ろに回り込み、木刀で珠の肩を打つ。
「―――い、痛いッ! ぐ……ぅ……」
珠は木刀を手放し、打たれた肩を抑えてしゃがみこむ。歯を食いしばって激痛に耐えるが、口からは呻き声が漏れていた。どうやら肩の骨にひびが入ってしまったらしい。
「お前の体から怯えが伝わってくる。そんなへっぴり腰ではいつまでたっても私に攻撃を当てることなどできんぞ」
空弧は言いながら珠の肩を撫で、妖気を使って珠の怪我を治療する。
「骨は直してやったぞ」
「ありがとう……ございます」
骨は確かに治った。治ると同時に痛みも引いた。しかし、痛みは消えても恐怖は消えない。木刀で叩かれれば骨くらい簡単に折れる。当たり所が悪ければ、最悪死ぬことさえあり得る。そのことを考えると身体がすくむ。
「昼食の時間だ」
「………」
空弧の言葉に珠は安堵した。これで午前の修行は終わり。しばらく休むことができる……。
しかし同時に、そんなことを考えている自分を情けなく思った。自分は強くなるためにここに来た。しかし、修行すればするほど弱くなっている錯覚に襲われる。こんな調子では……。
「う……うぅ……」
珠は涙を零しながら食事をした。ここで修行をしていた頃はよくあった光景だった。しかし、心の方はあの当時よりみじめな気分だった。
「……あ」
珠は食べ物の中に肉を見つけてそれを避ける。そして、肉を残して食事を終った。
「なぜ肉を食べない?」
空弧が珠のお膳に残された肉を見ながらそう言った。珠が肉を食べないのはこれが初めてではない。
「クルトさんは肉を食べないんです。クルトさんが食べないというなら、私も食べません」
「……くだらんな」
空弧はそう言って吐き捨てる。空弧にしてみれば実に馬鹿馬鹿しい話だろうから、珠は何も言わずに俯いた。
「いいのか? その肉料理はあの少年が作ったものだぞ?」
「えッ! ク、クルトさんが作ったんですか?」
空弧に言われて、珠は自分が残したものを見た。
肉のように見える野菜……と言う訳ではないらしい。正真正銘本物の肉だ。しかし、これをクルトが調理した?
「あの少年、動物を殺せないそうだな。それにもかかわらず、肉を平気で料理するので、不思議に思い、少年に『肉を料理するのは辛くないのか?』と聞いた妖狐が居たらしい」
「クルトさんは、なんて答えたんですか?」
『これは食材の形になってるからつらくないよ。殺したまんまの動物を捌くのはちょっと違うけど、食べるためだって思えばそんなにつらくはないかな? だってそれなら仕方ないもん』
クルトはそう言いながら鶏の肉を捌く。
『それに、この鳥はもう死んでるんだよね。僕が肉を食べなかったとしてもこの鳥は生き返ったりしない。なら肉を食べない方が間違ってるし、この鳥をただ殺しただけになるんだ。仕方なく殺したんじゃなく、ただ殺しただけになる。そっちの方が動物に失礼だよ』
クルトは捌いた肉に調味料で味付けする。
『僕は肉を食べる度に戻しちゃうから、今では肉を食べたいと思わなくなったけど、その体質が無ければ、たぶん僕は肉を食べたと思う。僕一人が肉を食べなかったとしても、肉の生産量は……殺される動物の数は変わらないしね』
味付けした肉を、金網に乗せて焼く。
『数千人規模でそういう運動をすれば少しは変わるかもね。でも、それを他人に強要する気にはなれないな。だって、動物だって他の動物や植物を食べるんだから』
「………」
珠は自分の前に置かれた肉を見つめた。自分はあまりに浅はかだったのではないか? クルトに気に入られたいがためだけに、動物をただ殺していたのではないか? あまりに……醜かったのではないか?
「いただきます……」
珠は箸を取って肉を食べる。
もう投げ出したりしない。絶対に強くなる。クルトに比べたら、自分はあまりに弱いから……。
強い決意と共に、ようやく珠の修行は始まった。
* * *
「お主の剣を見せてくれぬか?」
クルトが五千年狐の部屋で素振りをしていると、五千年狐がそう声をかけてきた。
「いいよ? はい」
しかし、クルトが剣を渡そうとすると、五千年狐は首を振って剣を受け取ろうとしない。
「剣は渡さなくてよい。ここはお主にとっては敵地も同じなのだぞ? 契約によって一時的に暮らしているだけ。我々は仲間になった訳ではない。いつ裏切られるとも限らないのだ。そんな場所で自分の武器を一時でも手放そうとはするな。ましてや誰かに渡そうとするなどあってはならないことだ」
クルトは「確かにそうだな」と考えて反省する。しかし、五千年狐だけではなく、他の妖狐とも話をすることも多くなってきているのに、それを信頼できないというのは少し寂しかった。
「ふむ……」
五千年狐は、クルトの持つ剣を真剣に眺めて何かを考えているようだった。
「……良い剣だ。かなり腕のいい鍛冶士に作られたものと見えるな」
「ありがとう。実はこの剣を作ったのもお婆ちゃんなんだよ」
「ほう、お主を育てた魔女は武器まで作るのか。ずいぶんと幅広い分野に明るい人物だな」
クルトはエリザベートのことを褒められて、自分が褒められたように照れる。町民からは、エリザベートを讃える言葉を聞いたことなどなかったから、こういうのは素直に嬉しい。
クルトが照れていると、五千年狐が真剣な顔をしてクルトのことを見た。
「……その剣はけっして手放してはならぬぞ?」
「? うん、分かった」
クルトは五千年狐が一体何を言い出すのかと不思議に思った。エリザベートの作ってくれた剣を手放すはずが無いのに……。
* * *
ラルフは、高さ七十mほどの崖の前で突っ伏していた。その体には無数の傷があり、この崖から落ちたことを想像させた。
確かに落ちた。しかし天辺から落ちたわけではない。この崖の途中から落ちたのだ。しかし落ちた数は一度ではない。すでに数十回は地面に叩きつけられ、体中血に染まっていない所はないほど傷ついていた。
なぜこんなことになったのか? それはラルフが狼の長に修行を申し入れた日までさかのぼる。
「ここが試練の崖だ」
長に連れられてやってきた場所には、目がくらむような高い崖がそびえたっていた。
「ここで何をするんだ?」
ラルフは周りを見渡しながらそう尋ねた。周りにはラルフと長だけではなく、他の妖狼達も集まってきていた。これからこの狼達と戦わされるのだろうか?
「登れ」
「……は? 何を登れって?」
ラルフは長の言った言葉の意味を理解できずにそう聞き返した。
「この崖を登るのだ。天辺までな」
この崖と言われれば、目の前にそびえたつ崖しかあり得ない。しかし、この崖は当然ながら垂直にそびえたっている。人間なら両手両足を使ってなんとか登れるかもしれないが、狼であるラルフにこんな垂直な崖が登れるはずが無い。
「登れって言っても、どうやって登ればいい? 数メートル登ればすぐに落ちてしまうぞ」
「崖をよく見ろ。所々出っ張っているところがあるだろう?」
言われてみれば、崖にはラルフ一匹くらいが乗ることができそうな出っ張りがいくつもあった。まさか……。
「……あれに飛び移りながら登れというのか?」
「そうだ。お前に今必要なのは脚力だ。お前はこの百年間、それでも一匹でずっと体を鍛え、戦い続けてきた。そんなお前に、今更他の狼達と戦わせてもあまり意味はないだろう。ならば、三層を圧倒的なスピードで駆け抜ける脚力を付けた方が良い。悪魔や魔物が追い付けないくらいのスピードで走れるような脚力をな」
なるほど、確かにあの出っ張りと飛び移りながら登るには脚力が必要だ。失敗すれば地面に叩きつけられる縛りがあるというなら、なおのこと必死になるだろう。しかし……。
「それは、無茶じゃないか?」
「なんだ、怖気づいたのか? 幹部の狼達なら全員この課題をクリアしているぞ。この崖を登りきることが幹部になるための試験になっているからな。しかし、お前には荷が重かったかな?」
長はそう言ってクスリと笑う。すると、それにつられて周りの妖狼達も嘲るように笑った。
「誰もやらないなどと言っていないだろうッ! 崖くらいいくらでも登ってやるわ!」
ラルフは笑われたことに逆上し、崖に向かって走って行った。そして、大きめの足場に飛び乗り、崖を登り始める。
最初の三つ目までは案外うまく行った。しかし、次に飛び乗ろうとする足場は少し遠く、足場もそんなに大きくない。
「……ハッ!」
ラルフは足に力を込めて、勢いよく飛びあがる。ラルフの体はなんとかその足場に届きそうに見えた。
しかし、ラルフの体はその足場に乗ることはなかった。ラルフが飛び乗ろうとした岩場に、他の狼が飛び乗り、ラルフの体を叩き落としたからだ。
ラルフの体は真っ逆さまに地面に落ちていき、巨大な音と激痛と共に地面に叩きつけられた。
「何をする!」
ラルフは顔をゆがめながら立ち上がり、自分を妨害した狼を見上げる。妨害した狼は、愉快そうにラルフを見下ろしてきた。
「お前こそ何を言っている」
ラルフに長が声をかけてくる。
「何を言っているだと? あいつが邪魔をしなければ、俺はあの岩場に足が届いていたはずだッ!」
「お前は、三層に居る魔物や悪魔にも同じことを言うつもりなのか?」
「……あ」
そう言われてラルフは沈黙した。確かに、三層では様々な妨害を受けるはずだ。そんな時、その妨害が無ければ先に進めたと叫ぶなどあり得ないことだ。
「……ふん、妨害結構。それをすべて退けて登りきって見せる!」
ラルフは不敵な笑みを見せて、また崖を登り始めた。
それから毎日の様に挑むが、なかなか半分まで登ることすらできない。しかも、高く登れば登るほど、その分落ちた時の衝撃が強くなる。
「どうだー? 降参するかー?」
崖のてっぺんから狼の長の声が降ってくる。長は修行が始まってから、ずっと崖の上からラルフを見下ろし、時々野次を飛ばした。長なりの激励らしい。
「ふざけるな……おいぼれ狼め……」
ラルフは気力で足り上がり、また崖に向かって行った。
* * *
「白き狐。その異端の狐は……」
「何? それ?」
クルトは素振りをしている途中、五千年狐の呟きを聞いて手を止めた。
「耳が良いな、聞こえたか。なに、この国に古くから伝わる言い伝えだ。文言はごちゃごちゃと 長いが、黒い狐は法律を作る。銀の狐は夜を支配する。と言う様に、妖狐の種類別で文言がある。この国はその言い伝えを元にして仕事が割り振られている」
「へー、そうなんだ。白い狐……珠は何をするの?」
狐の種類別に文言があるというなら、白狐である珠にも何かあるはずだ。一緒に行動しているものとして少し興味がある。
「実は過去この国に、白い狐が存在したことはないのだ」
「……そうなの? でも珠はそんなこと一言も……」
話すはずが無い。珠は自分を妖狐であるということはできる限り触れたくないと考えている。だからクルトも妖狐のことはあまり聞かなかったし、珠も話すことはなかった
「だが文言だけは白い狐にもちゃんとある。その文言を要約すると、白い狐は人間と妖狐の懸け橋となると伝えられている」
「えッ! それじゃあ珠が人間と妖狐の懸け橋に……」
「まあこの言い伝えは、私が若い頃暇つぶしに適当に考えたものなのだがな!」
クルトはその言葉を聞いてその場に転ぶ。真剣に聞いていたというのに、適当に考えたものだと言われれば力も抜ける。
五千年狐はそんなクルトを見て愉快そうに笑った。
「ははは! がっかりさせてしまったか? だが言い伝えと言うものはそんなものだ。誰かが言い出し、それが広まり、長く時間が経つにつれて信憑性と神秘性を帯びて、一つの伝説として完成する」
「そんなものなの? ……あれ? 白い狐はその時いなかったんでしょ? ならなんで白い狐の文言もあるの?」
「恐ろしく数は少ないが、白狐も確かに居るはずだという噂は聞いていた。何も世界中の妖狐がここに集まっているわけでもない」
五千年狐は少し顔を俯かせ、クルトには聞こえないくらいの声で最後に呟く。
「文言の内容については……私の願望みたいなものだな」
「え、最後何か言った?」
「なに、独り言だ。……伝説と言えば、お前が探している宝石も伝説だけがその存在の頼りだな。本当に存在しているか不安にならぬか?」
五千年狐は少し意地悪そうに笑う。しかし、クルトはそれで不安になったりはしない。
「大丈夫。宝石は絶対にあるよ」
(お婆ちゃんがそう言っていたんだから)
クルトは心の中で最後にそう呟き、再び素振りを再開した。