第十五話『それぞれの方法で…』
「変わった気配がすると思ったら、人間が居るじゃないか。それも、つい最近見たことがある顔だ」
「落ちこぼれの珠もいるぞ。五千年狐様を訪ねてきたらしい」
ある者はひそひそと、ある者は指をさして、ある者はクスクスと笑いながらクルトと珠のことを話していた。
五千年狐はクルト達をこの広場まで連れてきた後、『少し待て』と言って居なくなってしまった。側近の妖狐に指示を出しに行くのだという。
クルト達が今待たされているのは、あの日審判が行われた広場。正直あまりいい思い出のある場所ではない。
珠は、たくさんの妖狐に囲まれて噂話をされるのが、居心地が悪いようだった。先ほどからずっと落ち着かなそうに俯いている。
対してクルトは冷静だった。自分のことをひそひそと話されるのには慣れている。それに、妖狐達はクルトと珠のことを、蔑むのではなく好奇の瞳で見ている。一度は助かったくせに、わざわざ帰ってきた行動が理解できず、興味深げに見ているのだ。それならば何も委縮する必要などない。
突然ざわついたかと思うと、周りにいた狐がその場にしゃがみ始めた。五千年狐が帰ってきたのだ。
「待たせたな。お前に相応しい仕事を考えるのに時間がかかってしまってな」
五千年狐は歩きながら話しかけてくる。周りにはあの時の側近の妖狐達がいた。その側近の妖狐達を除けば、頭をあげているのはクルトだけだ。
「さて、まずその少年の仕事についてだが……。料理はできるか?」
「家ではお婆ちゃんと交代で作っていたからできます」
料理だけではなく、ある程度の家事は教えられている。
「そうか、では朝食と昼食を手伝え。見て分かるだろうが妖狐の数はかなり多い。朝は早く起き、昼は大量の食材を捌かなければならない。お主が思っている以上に重労働だぞ」
「……頑張ります」
クルトは周りにいる数百匹の妖狐をちらりと見てから頷いた。
「よし。飯を作ったら周りの妖狐の指示に従って働け。できるだけつらい仕事をお前に回すように言っておいた。一カ月の間に身体をなまらせることはない。存分に自分の体をイジメると良い」
「はい。ありがとうございます」
クルトは、五千年狐が本当にクルトのためを思い、そう指示を出してくれたのだと解釈して礼を言った。すると五千年狐は満足そうに笑う。
「昼食を終えて一刻ほど働いたら、仕事を切り上げさせるように指示を出している。それから夜までは自由時間とする。休むなり、剣の練習をするなりして好きに過ごせ。そして夜になったら……」
「あの……」
五千年狐が来てからずっと黙っていた珠が、おずおずと顔をあげる。
「何か疑問でもあるのか? 白狐」
「先ほどからの話を聞いていますと、私とクルトさんは別々の仕事をするのでしょうか?」
「そうだ。お前達はこれから一ヶ月間別々に暮らし、会うことも禁止する」
「えッ!? 会うことも許されないのですか!?」
珠が驚いて思わず顔をあげる。一緒に働くことができないのだろうということは、話を聞いていて薄々分かっていた。しかし、会うこともできないというのは厳しすぎる。
「当然だ。お前達を一緒にしておいて、何か企まれては困る」
五千年狐の言葉に周りの狐達も頷く。確かにその主張は正しい。しかし、珠とクルトにはそんなことをするメリットはないし、クルトと珠程度では妖狐の国でいくら暴れようともたかが知れている。
「しかし……会うこともできないというのは……」
「不服……か?」
五千年狐が少しきつい表情をして珠を睨む。
「!? い、いえ! そんなことは……」
珠は慌てて顔を伏せながら後悔していた。
もしや自分達ははめられたのではないか? これから一ヶ月間、お互いの無事を確認することもできずに過ごすことになる。一月後にクルトと会うことを許された時、人の形をした骨を見せられでもしたら……。
しかし、元々ずうずうしい申し出なのだから、それをされても仕方ないと言えば仕方ない。ここまで話を進めてしまったのだから、今更やめると言っても許されないだろう。抜け出す算段をしておいた方が……。
「さて、話の途中だったな」
珠が考えを巡らせているのには構わず、五千年狐は再び視線をクルトに移す。
「夜になり、自由時間が終わったら私の部屋に来い。そこで私の夜伽をしてもらう」
その言葉に、あたりが一瞬静まり返った。
「よとぎ……?」
「よ、夜伽ッ!?」
五千年狐に睨まれて、すっかり委縮したはずの珠が再び顔をあげて叫ぶ。
「五千年狐様! 一体何を言っているのです! よ、よよよ夜伽だなんて! クルトさんダメです! ダメダメダメダメ! 絶対夜伽なんてダメですッ!」
珠が半狂乱になりながらクルトに詰め寄る。そんな様子を五千年狐は愉快そうに眺めていた。
当の本人のクルトはポカンとしながら一言……。
「よとぎって……何をするの?」
と呟いた。
「え、あの……それは……」
珠は説明を求められて顔を赤くして顔を背ける。クルトは不思議そうに顔を傾げながらまた呟いた。
「よとぎ……よとぎ……とぎ……? 身体でも洗えばいいのかなぁ?」
クルトのその呟きに、周り妖狐達が声を押し殺すように笑う。
「ふふ……似たようなものだ。要は私のことを気持ちよくさせてくれればよい」
「気持よく……?」
(マッサージでもすればいいのかな?)
クルトはいまだ言葉の意味が分からず首を傾げる。
「さて、とりあえず初仕事をしてもらおう。誰か調理場に案内してやれ」
五千年狐は最後にそう指示を出して立ち去る。
指示された妖狐がクルトに近づいて、ついてこいと言う風に顎でしゃくって歩き始めた。クルトは頷いてその妖狐の後ろをついて行く。
「ああ、駄目ですクルトさん!」
「大丈夫だよ珠。ちゃんと一カ月働き抜いて見せるから」
珠の呼びとめる声にそう答えて、クルトは立ち去って行く。
「待ってくださいッ! うわ!」
慌てて追いかけようとする珠の髪を誰かが掴み、そのまま後ろに引っ張って珠のことを倒した。
「イタタ……。一体何が……え?」
珠は自分のことを倒した者の姿を確認しようと後ろを見た。するとそこには、男の年寄りの姿をした妖狐が一匹、珠のことを睨んでいた。
「わ……弥師匠……」
その妖狐の正体は珠の師匠……空弧だった。一番初めに珠に剣術を教え、人化のや変刃の術を教えた妖狐。そして……珠が逃げ出したことにより、恥をかかせてしまった相手でもある。
「師匠……? 今のお前にそれを言う資格があるのか? 修行が辛いと逃げ出した分際で……」
「も、申し訳ありません! えっと……空弧様!」
初めの頃はそう呼んでいた。落ちこぼれの珠にとって、他の妖狐はみんな雲の上の様な存在。様を付けるのは当然のことだった。しかし……。
『これから教えを請う人間に対して、『様』を付けていては修行に身が入らないだろう。しかし呼び捨てにするようでは締まりもない……『師匠』を付けて私の名前を呼べ。独り立ちした時は師匠を付けるのもやめろ。その時は対等な存在となるのだから』
空弧がそう言ったから、珠は空弧のことを師匠と呼んでいた。そして、その敬称が取れる前に珠は逃げ出した。
「ふん……」
空弧は鼻を鳴らして後ろを向き。数歩歩いて呟いた。
「ついてこい。その軟弱な根性ごと鍛え直してやる」
珠は空弧の言った言葉の意味が理解できず、数秒呆けた。
「鍛え直すということは、修行ですか? あの、私の仕事は……?」
珠にはクルトと同じように仕事があるはず。それを条件に、ケーニッヒの弱点を教えてもらうことになっているのだから。
「お前は本気で働くことを見返りに、五千年狐様が悪魔の弱点を教えてくれると考えているのか? 数百と言う妖狐がいるこの国で?」
それを言われれば確かにその通りだった。妖狐の国には優れた力を持つ妖狐がたくさんいる。そんな中で、ただの人間と落ちこぼれの妖狐に、どんな仕事をさせようというのだろう? しかもたったの一カ月。誰もやりたがらない溝さらいを永遠にやらせるというならともかく、一カ月ではあまり働かせる意味が……。
「五千年狐様から、お前のことを鍛え直してやれと命令を受けた」
「え、あの……それはどういう……?」
珠はいまだ五千年狐の真意が見えず、首を傾げてしまう。空弧は呆れたように珠に振り返った。
「五千年狐様は気まぐれな方だ。今のお前達に弱点を教えたとしても役に立つまい。悪魔の国と化した三層から生きて帰ってこれただけでも幸運なのだ。今度は運ではなく実力で三層を抜けられるように、一月をかけてお前とあの人間を鍛えてやるおつもりなのだ」
珠はその言葉でようやくすべてを理解し、五千年狐が消えていった方角を見た。
「五千年狐様……」
珠は頭を下げて目を瞑る。
「ついてこい」
空弧はそう言って再び歩きはじめる。珠は慌ててその後ろをついて行こうとしたが、空弧が再び立ち止って珠を見た。
「今度逃げ出した時は容赦せんぞ。何処へ逃げようとも、お前を見つけ出して殺してやる」
さっきと共に空弧はそう言った。周りにいた妖狐達がぞくりとして沈黙する。そんな空弧に対し、珠は顔をそむけなかった。
「逃げません。私はクルトさんをもう裏切ったりできませんから」
空弧はしばらく珠を睨み、やがて納得したのか、再び歩き始めた。
「今度こそ……『師匠』を外して見せろ」
「……はい! 弥師匠!」
珠がそう返事をして、二匹の妖狐はかつての修行場に戻って行った。
* * *
森のとある場所。多くの場所が静寂に包まれている。だが、その場所には小さなたくさんの光が灯り、ガヤガヤとざわめく様な話声がしていた。
「さて、お久しぶり会う奴と、そうでない奴とがいるけど、大体集まったかしらね」
そのざわめきの中心にフィルがいた。ざわめきの正体は妖精達の話声。クルトを陥れようとした時と同様に、その場所には妖精達が集まって談笑している。
その数は前回の数倍……およそ百匹の妖精達が集まってきていた。
今の時間は夜。このあたりの妖精を集めるのに時間がかかって、日はすっかり沈んでしまっていた。妖精達は、手の上に自分のわずかな魔力を集めて球を作り、その球の光によってあたりを照らしていた。
「ねぇフィル。私達のことを集めてどうするつもり? 前回はそれなりに楽しかったけど、結局私達いいように使われただけだったしー」
ある妖精がそう言うと、周りの妖精の何匹かがそれに同調する。
「面白いおもちゃがいる。それをみんなで壊して遊びましょうって話だったのに、結果を見ればフィルとその人間の男の子をくっつけるように利用されただけ」
「納得いかないのよねー。下手をすれば私たち殺されてたかもしれないのに、結末があのメロドラマじゃねー」
妖精達はそう不満を口にするものの、その表情は明るく、別に怒っている様子はない。なんだかんだ言ってもそれなりに楽しめたからだろう。しかし、妖精達の中には別の意見を持つ者もいる。
「あんた達はいいわよ。結果がどうあれ祭りには参加できたんだから。その祭りにすら参加できずに、ずっと眠らされていた私達はどうなるのよ」
「ホントよねー。私達がぐっすり寝ている時を狙ってそんなことされたんじゃ、私達に対するあてつけみたいに考えちゃうじゃない」
そう不満を漏らした妖精達は、本気で怒っているようだった。この妖精達は冬眠から起きたと同時に、あの作戦に参加した妖精達から自慢話をさんざん聞かされたのだ。妖精達は常に退屈している。だからそんなイベントを逃したというのは、妖精達にとっては悔しいことなのだ。
それにあの時は特に召集がかけられた訳でもない。偶然その場に居合わせた妖精達だけで実行された作戦だ。だから、すでに起きていたのに、それに参加できなかった妖精もかなりいる。一番悔しがっているのはそういう妖精達だ。
だからフィルから召集がかかり、妖精達は期待しているのだ。また何面白いことが起きるのではないかと……。
フィルは大体不満を聞き終えると、周りを見渡しながら話し始めた。
「皆が知っての通り、私は今人間の男と一緒に行動しているわ。残念だけどもうその人間……クルトを壊して遊ぶことはしないの。クルトは私の大事な恋人だから」
珠が聞いたら、顔を真っ赤にして反論してきそうなことを平気で言う。妖精達も口笛を吹いたりしてからかうが、フィルにはそれが心地いいようだった。
「祝福の声をありがとう。さて、そのクルトなんだけど、前も話したようにこの森に入ってきた目的は宝石を手に入れること。皆もよく知っている、あの願い事を叶えてくれる宝石よ」
森に住むものならその存在を知らぬ者はいない。しかしそれを手に入れようとする者もまた少なかった。三層を抜けねばならないからだ。
「私達は一度三層を抜けようとした。でも困ったことに、三層は統制者が現れて小さな国の様になってしまっていたの。今のままじゃとても三層を抜けられないわ」
「……もしかして私達にその手伝いをしろっていうの?」
話を聞いていたその妖精の言葉に、フィルは首を横に振って否定する。
「あんた達に直接三層を抜ける手伝いをしてもらうつもりはないわ。私がクルトを宝石の場所まで連れていく。でも今のままじゃ圧倒的にその力が足りない」
一度は逃げ切れた。しかし次はそうはいかないはずだ。なんとか今以上の力を手に入れなくてはならない。
「幸い一ヶ月時間があるわ。その間、あなた達には私の修行に付き合ってもらいたいのよ」
フィルの言葉に妖精達がざわめく。そんな様子を見てフィルはくすりと笑った。
「百対一よ……。あなた達全員対私一匹。これから一ヶ月間それを続ける」
ひんやりとした風が吹き、あたりの空気が変わった。妖精達の表情は明るいものから、少し陰りのある怪しいものに変わる。
「……ねえフィル。私達だって魔力を持っているのよ?」
「ええそうね」
フィルはさらりと答える。
「フィルほどでなくたって、魔力球を作り出すことなら私達にだってできる」
「あら? その手にあるのは蝋燭だったの? 私には魔力球に見えていたわ」
フィルは小馬鹿にしたようにそう言った。
「フィルは確かに強い力を持っているわ。でも私達は百匹もいるのよ? その百匹の妖精すべてが魔力球を作り出せば……」
「私一匹の力なら余裕で越えるでしょうね」
フィルは落ち着いたままそう呟き、立ち上がって周りを見渡した。
「祭りっていうのは騒がしいものだわ。ほんの百一匹程度じゃたかが知れてるけど、それでも十分盛り上がるはず」
「いいの? 私達は手加減できるほど戦い慣れてないんだから、ひょっとしたらあんたを殺してしまうかもしれないわよ?」
フィルはそう言った妖精のことを、見下すように見て言い放つ。
「妖精が死を恐れるなんて滑稽だわ。そんなに死ぬのが怖いなら、永遠に冬眠してればいいのよ。このねぼすけ妖精」
「……永遠の眠りにつくのはフィルの方よ。あんたの泣きっ面……一度見てみたいと思っていたのよッ!」
その言葉を合図に、妖精の集まっていた広場には魔力の球が飛び交って爆発音が響いた。
* * *
妖精達とは別の場所で、今度はラルフの周りに狼が集まってきていた。しかし、ラルフの場合、ラルフ自身がこの狼達を集めたわけではない。ラルフがこの狼達の群れの中にやってきたのだ。
ここは狼達の縄張りだ。ラルフもかつてはこの群れの中の一匹として暮らしていた。だが、父親がむざむざと人間に殺されてからは群れを離れ、絶対的な強さを求めてたった一匹で過ごしてきた。
ラルフはそんな場所を久しぶりに訪れてきていた。周りの狼達もラルフの存在くらいは知っている。今更何をしに来たのかと訝しんでみていた。
そして、ラルフ自身は落ち着いてそんな狼たちの視線を浴びていた。用があるのは長だ。
「珍しい客がきたと聞いたが、どのような用事かな?」
老いぼれた声が森の奥から聞こえてきた。最後にあった時と同様、長は老衰し、弱々しい姿をしていた。
「今すぐに力が必要になった。鍛えてもらいたい」
ラルフは単刀直入にそう告げた。これから一カ月をかけて強くならねばならない。もちろん一人で修行することもできる。しかし、ラルフはこの百年間ずっと一人で修行してきた。たかだか一カ月それを繰り返した所で大した効果はないだろう。
間違っていたとは思わない。これまでの修行によって、自分は妖怪と化し、森の中でもそれなりの力を手に入れることができたと考えている。しかし、その百年間の修行で手に入れた強さは、あのケーニッヒという悪魔の前にあっさりと沈黙した。
もうなりふり構ってはいられない。かつて自分が捨てた集団。ラルフは自分が強くなる方法はこれ以外にはないと考えたのだ。
「ほう、ずいぶんと都合が良い話だな」
長がそう言うと、周りの狼達が呻る。長の命令があればすぐにでもこの狼達は襲いかかってくるだろう。ラルフは少し緊張して周りの狼達を睨み返す。
「だが、狼ならばくる者は拒まないのが我々の掟だ。お前を群れに一匹として迎えてやってもよい」
別に群れに戻りたい訳ではない。しかし、今は荒波を立てても仕方が無いから黙っていた。
「しかし、お前を鍛えてやるか否かはまた別問題。せっかく鍛えてやっても、それに食い殺されるのではたまらないからな」
「……何か条件でもあるのか?」
鍛えてもらえないというのではここに来た意味が無い。もしそうなら今すぐにでも立ち去ってやる。
「答えを聞かせてもらおう」
「答え?」
長と話したことなどそんなに多くはない。数日前にあったが、それを指して答えを聞きたいというのなら……。
「お前の、強さを求める目的は見つかったのか?」
想像通り。だが、あの時と答えは変わらない。
「目的などはない。そんなものは強さを手に入れてから考えればいいだけの話だ」
「そうか……」
長はそう呟いて立ち去ろうとする。しかしラルフはまだ話し続ける。
「強さは手段? 果たしてそうだろうか? 強さに憧れ、強さを手に入れたいと願うことの何がいけない?」
その言葉に長は立ち止った。
「目的が無ければ、強さを手に入れた時に残るのは虚しい強さだけ……あんたはそう言った。しかし、この世には強さがあっても叶えることのできない目的などいくらでもある。生きる目的は果てしなくあるのだ」
この世には、自分の夢を叶えるために必要ないものを、無理やり身につけさせられることがいくつもある。だがそれは無駄にはならない。夢を叶えた時、持っているものが多ければ多いほど、その者はより幸せと言えるはずだ。
「当面の目的は強さを手に入れることだ。それを手に入れた時は、また別の目的を探せばいい。俺が強さを手に入れた時に虚しくなることなど、あるはずが無い。生きる目的は尽きることなどないのだから」
長はラルフの顔を見て再び口を開く。
「ならば、強さを手に入れるのは急がないだろう? なぜ今になって私を訪ねてきた?」
「俺は強さを求めることが目的であり、生きる糧だ。だから、確かに強さを手に入れることを急ぎはしない……自分なりの答えも見つけたいしな」
強さとは何なのか? それもいまだ迷ったままだ。だが、ラルフにはその答えを出す前にやらなくてはならないことがある。
「今は……手を貸したいと思う奴がいる。そのためにとりあえずの強さが必要だ。だから……」
ラルフは頭を下げる。
「強さを手に入れるために協力して欲しい」
しばらくの沈黙。そして長は後ろを向いて呟いた。
「とりあえずは及第点だな。ついてくるがいい……」
ラルフが顔をあげた時、長は満足そうに微笑んでいた。
* * *
妖狐の国の中でもひときわ立派な建物の中にクルトは居た。
一日目の仕事を終え、さっきまで剣を振っていたが、夜の仕事だと言われてここに連れてこられた。
クルトの目の前にはドアがある。このドアの向こうが五千年狐の部屋で、五千年狐はそこに居るらしい。
クルトは少し緊張しながらドアをノックした。
「来たか。鍵はかかってない、入れ」
中から五千年狐の声が聞こえてきた。クルトはゆっくりとドアを開いて中に入る。
「失礼しま……うッ!?」
部屋に入った瞬間、クルトの体中を嫌な感覚が襲った。ぞわぞわと虫が自分の体を這いまわるような不快感。そして、頭が割れるように痛くなり、何か悪いものでも食べたかのような嘔吐感を覚えた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
クルトがその声に顔をあげると、五千年狐は布団の上でクスクスと笑いながらこちらを見ていた。その後千年狐の声に返事をしようと口を開けるが、どうしても声を出すことができない。無理に声を出そうとすれば、そのまま別のものを吐き出してしまいそうだ。
「ふむ、やはりそうか」
五千年狐は、何か納得が言ったかのようにそう呟いた。すると、さっきまで襲っていたあの不快感がフッと楽になった。まだ身体を不快感が襲っているが、耐えられないほどではない。
「今のは一体……?」
クルトは自分の体を触りながらそう呟く。
「お主には魔力に耐性が無いのではないかと思って試したが、予想通りだったな。今のは私が妖気を放出していたのだ。妖気と魔力は似たようなもの。この部屋を密閉して妖気を放出すれば、三層と似たような空間を作ることなど造作もない」
「何でそんなことをしたんですか?」
「敬語は使わずとも好いぞ。お前は妖狐ではないのだから」
五千年狐はそう言ってにやりと笑う。
「私は大抵この部屋に居る。これからお前は仕事をしている時以外はこの部屋で過ごせ。寝起きをするのもこの部屋だ。寝ている時が人間は最も成長する。徐々に妖気の密度も上げていく。一月をかけてこの妖気の充満した部屋で過ごせば、ある程度耐性が付くだろう。せっかく弱点を教えても、満足に動けず殺されたのではつまらぬからな」
言われてクルトは部屋を見渡す。部屋の広さは十分すぎるほどある。五千年狐は昼の仕事が終わって、夜の仕事が始まるまでは休憩するなり剣の修業をするなり好きに過ごせと言った。つまりこの部屋の中で剣を振るってもいいということか。
「ありがとうございま……ありがとう! えっと……五千年狐?」
敬語を使わなくていいと言われても、どの程度ため口にすればいいのか分からない。打開策を教えてもらうためにここにきているのだから、ある程度の礼義は払うべき? だが、本人が敬語を使わなくていいというのだから気にしなくてもいいのか?
「ふむ、敬称無しで呼ばれるのは心地いいな。たまには敬語なしの会話も楽しいものだ」
どうやら、タメ口で話せる相手が欲しかっただけのようだ。
「さて、それでは早速お前に夜の仕事を始めてもらおうか」
そう言って五千年狐は、着ている着物を器用に着崩して肩だけを露出させる。少し触れれば上半身がすべて露出するくらいまで着物を着崩し、少し顔を赤らめながらクルトを見る。
「さぁ……お主のしたいようにしてくれ……。私はお前が来てくれるのをずっと待っていたのだぞ……?」
いつもの尊大な口調とは変わって、甘えるような声でクルトにねだる。さらに右手を左の肩に乗せ、豊満な胸を強調してさらにクルトを誘った。
「………」
誘われたクルトがゆっくりと五千年狐の傍に近づく。
手を伸ばせば触れることができるくらいまで近づいてくると、五千年狐は少し顔を逸らし、上目遣いでクルトを見る。
「はようしてくれ……私にあまり恥をかかせるなぁ……」
クルトは少し前かがみになって、五千年狐に顔を近づけ……。
「えっと……肩でも揉めばいいの?」
と言った。
言われた五千年狐はポカンとしてクルトを見返す。
「……なぜそう思った?」
「だって肩を出してこっちに向けているから。でも、それにしては言い方が変だったし……妖狐はああやって肩もみを頼むものなの?」
その言葉に五千年狐は少々傷ついたらしい。
「う……うむ、数千年のうちに男の誘い方が鈍ってしまったらしいな。やはり恥じらいが薄れたからか……?」
そう言ってから五千年狐はブツブツとつぶやく。「私に魅力が無いわけでは……」などと言ってベッドの上で指を使い、のの字を書いて落ち込む。
「五千年狐……?」
「ふん、まあよいわ。では肩でも揉んでもらおう」
五千年狐はそう言って再度肩をクルトに向ける。クルトは顔を傾げながら五千年狐の肩に触れる。
「……!? い、痛ッ!」
クルトの指先が五千年狐の肩に触れた瞬間、鋭い痛みが走り、クルトは反射的に指を離す。
「どうかしたか?」
五千年狐がクスリと笑ってクルトを見た。
「い、いや……」
気のせいか? クルトはそう考えて、今度は手のひらを五千年狐の肩に乗せる。
「今度こそ……!? うわぁあ!」
今度は気のせいなんかではない。手のひら全体で、非常に熱いものを掴んだような痛みが走り、思わずクルトは手を離す。手のひらを見ると小さな傷が一つできていて、そこから血が出ていた。
「ふふふ、その傷は私に恥をかかせた罰だ」
慌てるクルトを見て、小さな悪戯が成功したことを喜ぶ子供の様な表情をして五千年狐が笑った。
「五千年狐……?」
「私の体は、攻撃的な妖気で繭の様に包まれている。それに触れればお前の様にダメージを負ってしまう」
五千年狐はクルトの顔を見て再び尊大に言う。
「妖気で包まれた私の体を、平気で撫でまわせるくらいにまで慣れろ。そうすれば、三層で自由に行動するだけでなく、ある程度の魔法攻撃を受け止めることができるようになる」
それこそが、夜の仕事という名の修行の最大の目的だ。三層で自由に動くことができるようなり、悪魔の攻撃に耐えることができる体を作ること。それだけ身につければ、ケーニッヒと同等に戦うことができるようになるだろう。後は死のうが生きようが五千年狐は関係ない。クルトの結末を遠くから鑑賞して楽しむだけの話。
「……お前の血は赤いのだな」
五千年狐は、クルトの手のひらから零れおちる赤い血を見てそう呟いた。
「? 当たり前だよ。人間の血は赤いのが普通でしょ?」
「それもそうだな。私が満足したらその手の傷は治療してやる。安心して怪我をするといい」
五千年狐はそう言ってまた後ろを向いた。
クルトは心を決めて五千年狐の肩に手を伸ばす。だが、その手は触れる前に一度止まった。
「何か布の上からの方が良くない? 僕の血で肩が汚れちゃうよ?」
「ふふ……それは気にしなくていい。血なら浴び慣れている」
そう呟いて怪しく笑った五千年狐に、クルトは初めて戦慄した。